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第一王子殿下と侯爵令嬢の不器用な「愛」の行方  作者: 初音の歌


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第6話


 王都大劇場の天井は夜空を模していた。星を埋めた藍の天蓋が、客席のざわめきに合わせてかすかに脈打つ。灯りは魔法国製の照明宝珠、舞台機構の昇降は帝国式の標準歯車と滑車。客席に配られた飲み物は王国産の新麦エールと白星米の甘酒、つまみは蜂蜜菓子。三国の取引がひとつの館で静かに握手し、その真ん中で、神話の幕が上がる。

 最初の一響。太鼓が土を打つ音で始まった。幕が開くと、舞台上は「始まりの盆地」。黒い湖、若木、柔らかい土の斜面。火舎に見立てた赤い輪が落ち、天井の星が一列だけ明滅する。四柱の登場は重ね掛けの早替わりで、衣裳の色と音がそれぞれの領分を牽引する。火の赤は鍛冶の槌音。水の藍は滴と波紋の打楽。風の銀は鈴と風切り。土の褐は低音のうねり。


「燃やす。未熟を焼く。ここで器を打つ」


 イグナリア役の女優が袖を翻すと、舞台前縁の炎帯が赤から白へ瞬時に温度を上げ、若木の影が壁に揺れた。すぐさまナイアディス役の長衣が湖から歩み出る。手首の角度ひとつで降り出す線雨、焦げ跡に沁みる音。風役の少女が笑ってリボンを投げると、照明宝珠に目に見えない白線が走り、客席の天井にまで「まだない小径」が影を結んだ。最後にアルドナ役が舞台奥から歩み出て、床面がほんのわずか沈む。大地の呼吸が、観客の座面を通して伝わる。


「守る。根を張れ。家を置け」


 アーラは息を吐いた。横顔は舞台に向いたまま、独り言のように小さく。隣でダリウスが短く頷く。


「四柱ですら最初は完璧ではなかった。やり過ぎて、落とし、刻み直して、ようやく“秩序”になった」

「過剰の後の運用。王都の倉税と同じ道理だ。基準を定め、やり過ぎを自覚して、負荷を下げる。法はいつも運用で完成する」


 見守り隊の影の局員は、それ以上は語らない。ただ「基準ですね」とだけ囁き、別の層で動く仲間からの報告に耳を傾けた。袖口の微細な結晶に、劇場内の囁きが集約される。魔法と職人の合わせ技、影の局の盗聴糸。

 舞台上、四柱は分掌の契りへと移る。アルドナが根の輪を刻み、ナイアディスが細流を渡し、ヴェントゥラが風の筋を通し、イグナリアが火舎を起こす。観客の鼓動が芝居のテンポと重なっていき、アーラは肩の力がほどけるのを感じた。基本に立ち返るのは悪くない。恋愛劇には不向きでも、国の屋台骨はこういう基礎で立つのだ。


「四祭の郷だわ」


 アーラは舞台袖の小道具棚に視線を滑らせ、畦道の旗、灯籠流しの舟、麦芽窯の模型、星の秤の意匠……王都の行事ひとつひとつの原点が並べられていることに気づく。王国の米と麦が正しく扱われるわけ。水利権の署名板、アストラヴェル印の升の模型。公爵家アルビトリウムに生まれた彼女の学びは、まさにそれらを運用することに直結していた。


「我々の税改正の説明、ここでやれば早いのでは」

「芝居の場は民の心に直で入ります。殿下が大法廷より劇場を好むなら、私の残業は確実に増えますが」


 ダリウスが冗談半分に言うと、影の局員が小声で笑った。

 舞台が暗転し、境の座へと場面が変わる。天井の星が急に数を増し、中央の方形が白く燃える。アストラヴェル役が金髪を高く結い上げ、群青に星を含む長剣を抜いた。その刃が空を切るたび、遅れて流星の尾が灯る。対座するヴェスペリオン役は黒衣に金糸、頬に浅い裂傷。銀灰の柄を持つ槍の穂先に、色を持たない影炎が揺蕩う。


「告げる。正ではない」


 光の女神の宣言。客席の空気がいっせいに揃う。神剣の流星が一閃すると、舞台奥の黒布が花弁のように裂け、闇へ光の杭が打ち込まれる。続く星火降臨では、宝珠の光が段階的に降り、ひと筋ひと筋が法条の音読のように響いた。対するヴェスペリオンの槍は、突きのフォームがほとんど見えない。穂先が虚空に“点”を置くだけで、舞台のどこかが一拍、確かに沈む。終わりの印は遅れて届く、と劇は教える。


「名の焼却は無効」


 アストラヴェルの台詞に、アーラはふと自分の扇の骨を半節だけ締めた。公文の起草で何百回も見てきた言葉。けれど舞台上で聞くと、血の通い方が違う。ダリウスは膝上の指先を一度だけ緩め、再び組む。二人とも、言葉でなく身体の微動で「わかる」と示した。

 影の局員の袖口が震え、ささやきが伝わってくる。


「本席、異常なし。第一王子殿下と侯爵令嬢、体勢変えずに視聴継続。配菓の蜂蜜菓子にて、双方、口角上昇を確認」

「蜂蜜は強いわ。風走りの日の約束みたいに、余計な荷を一つ置いて軽くして、甘さを入れるの」

「ただいまの比喩、記録する価値はありません」


 アーラがにやりと笑い、影の局員が淡々と返す。けれど口調の端は、どこか楽しげだ。

 芝居は最高潮へ達し、やがて静止へ向かう。アストラヴェルが刃を収め、ヴェスペリオンが一礼して闇へ退く。引き分けの均衡が舞台に残り、観客の胸の内に余韻を作る。幕が落ちる直前、照明がほんの一瞬だけ揺れた。遠い鐘がひとつ鳴った気がした。未来に送られた“滅”の年輪が、観客の無意識を撫でたのだ。

 幕が下りる。拍手が広がり、やがて波がひくように収まる。その隙間を縫って、別働の影の局員が見守り隊の席のわきにすっと現れ、低く報告した。


「続報。重要」


 アーラとダリウスが同時に顔を向ける。影の局員は短く、しかしはっきりと告げた。


「お二人、終幕まで——手を重ねておられました」


 一拍、意味が落ちてくるまでの沈黙。次の瞬間、アーラの頬がぱっと明るく染まった。


「やった」


 言葉はそれだけ。ダリウスは少しだけ肩を落とし、微笑みに変える。策の成功や計略の勝利ではない。もっと小さく、もっと確かな「進捗」。無機質な予定表の行間に、やっと出来た余白。

 影の局員が、淡々と付け足す。


「私語なし。動作の乱れなし。肘掛に置いた手を自然に。どちらからともなく、もう一方の手を包む所作。抵抗、逡巡の徴候なし。甘味提供時と、アストラヴェルの“名”の台詞の直後に、握りが気持ち強くなる傾向を確認」


 アーラは目を細めた。舞台の「秤」が、客席のどこかの秤も揺らしたのだ。ダリウスが、細い声でこぼす。


「兄上は、やはり人だ。良かった」


 こういう時のダリウスは、策士ではなく、弟の顔に戻る。影の局員は背筋を伸ばし、視線を舞台に戻した。


「余白は育てるものです。火舎の火を“赤子を温める程度”に落としたように」

「やるわね、暗部」

「可愛い小動物を兵器にする組織ですから。火加減ぐらいは心得ています」


 アーラが茶化すと、影の局員は肩をすくめた。

 休憩の鐘が鳴る。客席は廊下へ流れ、王城前庭の新嘗星宴で見慣れた顔もちらほら。王都はまるごと芝居の観客であり、同時に芝居の出演者でもある。ロビーには展示が出されている。アストラヴェル印の升、ナイアディスの水口灯の模型、ヴェントゥラの輪、イグナリアの窯の扉。アルドナの新芽。子どもたちが木製の秤に穀粒を載せ、皿が釣り合うたびに歓声を上げる。


「殿下方、二階の星の回廊へ移動」


 影の局員の報告に、アーラとダリウスは自然体のまま立ち上がる。二階の回廊からは、劇場の中庭が見下ろせる。中央に小さな噴水、周りに四本の柱。火・水・風・土の紋。アーラは階段を上がりながら、まだ熱の残る頬を抑えた。


「二人で話すだろうか」


 ダリウスが呟く。影の局員は答えない。答えなくても、わかる。さっきの手の温度は、言葉より先に届く類のものだ。正しい、だけでは足りない。足りないを埋めるのは、二人の仕事だ。舞台が教えたように、やり過ぎたら落とし、また刻み直せばいい。

 回廊の陰で、三人は立ち止まる。遠目に、白い衣装と薄藤のドレスが並ぶのが見えた。セイリオスとアメリ―。欄干に寄りすぎず、距離を取りすぎず。王族と貴族の品位を保ったまま、しかし確かに“近い”。ふたりとも、劇場の庭の星灯りに指先を置いた。アーラには、その指先が、四祭の郷で女神たちが出力を落とした瞬間の静けさに似て見えた。

 ダリウスが息を整え、言うでもなく呟く。


「火は試す。水は癒す。風は運ぶ。土は支える。……では、私たちは?」


 アーラは小さく笑って、彼の横顔を一瞥する。


「選ぶ。名を護るために。――そして、甘さは忘れない。蜂蜜は重要」

「最後だけ台無しですよ」


 影の局員が無表情で突っ込んだ。アーラは肩をすくめて、蜂蜜菓子の包み紙をひらりと指先で回す。紙には小さく、王都の風見堂の刻印。ヴェントゥラの輪が、軽やかに回っていた。

 やがて休憩が終わる鐘。再開の灯りがともる。見守り隊は再び席へ戻った。劇の第二部は、四祭の郷の年中行事へと続くらしい。火見、水口灯、風走り、根祝ぎ。街の子供が小さな旗を掲げ、畦道を走る役者が笑いながら舞台を横切る。王都に生きる者として、見過ごせない景色が続く。

 そのあいだ、二階の回廊では――ふたりの指が、まだ離れていなかった。話す言葉は少ない。けれど、それで充分だ。余白は確かに生まれ、温度を持ちはじめている。鍛え過ぎの鋼の間に、初めて差し込まれた一片の柔らかい布のように。

 見守り隊の三人は、互いに何も言わなかった。ただそれぞれ、胸の内で同じ言葉を反芻した。


 これで良い。少しずつで良い。世界は、そうやって回るのだ。



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