第3話
王都・王城地区から二筋下った通りは、昼の光が差し、石畳の継ぎ目が一本おきに白く息をする。露台の鉢植えが風に鳴り、風の女神の機嫌はまずまず。通りの先、装飾品の店「銀環亭」の看板が陽にきらめいている。
その一本裏、赤瓦の屋根裏に身を潜める三つの影。粗末な作業着に小麦粉を飛ばしたパン職人ふうの少年――に見える影の局員、雑多な布を肩に巻いた行商の娘――に見えるアーラ、荷車の陰で縄を直す若い荷運び――に見えるダリウス。帝国産の望遠鏡は今日も優秀、刻印の鷲が陽を弾いた。
「本当に――文句は一切無いのですよね」
局員が双眼具を少し下げ、しみじみと呟いた。軽口の裏で、声の芯は真面目だ。
「セイリオス殿下もロシュフォール侯爵令嬢も、人格、品性、能力、人望……全てにおいて非の打ち所がない。我々の影の局からしても、お二人の婚姻は賛成しかありません。あのような優れた者にこそ、国の上に立っていただきたい。これは本心です」
暗部だって木石ではない。どうせ仕えるなら、上に立つ者は、できれば優れていてほしい――心の動きは極めて人間的だ。
影の局が協力しているのは、冗談ではなく本当に国の未来に関わるからだ。ただの恋愛相談では終わらない。王族の、特に第一王子の「問題の無い婚姻」は国の安定に直結してしまう。馬鹿々々しい作戦だが、本質は何処までも国の一大事。
故に、アーラは小さく拳を握る。
「だからこそ、今のままじゃアカンのよ。このままだと、兄様とアメリ―の、あの定規で測ったみたいな恋愛模様を他国に見られる……普通、良い感情は抱かれないわ」
「それどころか“不仲”を疑われる……帝国や魔法国が兄上に“別の婚約者”を宛がおうとする口実にもなりかねない。外交儀礼の場で、温度は武器だ。見せるべき温度は、見せねばならん」
ダリウスの同意は切実だ。
王族の“仲睦まじさ”は、時に義務だ。国の安泰を、言葉で、そして所作で示す。そこに甘い余白が一滴も無ければ、安心は生まれない。
「では――投入します」
局員が猫籠の留め具を外す。小さな影が、毛玉のように飛び出した。片耳が白、片耳が灰、瞳は青と金のオッドアイ。名はモザイク。影の局・小動物部隊のエース。そんな部隊名、本当にあるのかはさておき、運用実績は抜群らしい。
ちなみにアーラは完全に同意。今もモザイクちゃんの仕草に、口元がプルプル震えている。
冷徹に「使用」するのは影の局員。
「可愛いは正義、は作戦原則です。異議は受け付けません」
「……原則に文句はないけど、言い方に情けがないのよね、あなたたち」
「情けがあったら暗部にいません」
モザイクは、尻尾を旗のように立てて路地裏を抜け、陽の斜面へ滑り出た。タイミングは完璧。ちょうどそのとき、主路の向こう端では――
ザッ、ザッ、ザッ。
一糸乱れぬ所作が近づいてくる。セイリオスとアメリ―。背筋は二本の鋼線、歩幅は七十センチでぴたり一致、呼吸の上下は胸元のわずかな影で同期。惚れ惚れするほど理想的。軍の礼式に出せば即日教本、明日には全軍で模倣可。……ただし、恋の手本としては満点から程遠い。はっきり言えば赤点だ。
二人は歩きながら“雑談”している。ただしそれは恋人たちの甘い囁きではなく、王族と侯爵令嬢の、完璧に機能する実務会話だ。
「帝国が先月、標準計測具の規格を改訂した。工具と金床の公差が一段階厳しくなる。ヴァルクスの造船所に通知を」
「承りました。魔法国からの医薬・照明・救難具の輸入量は安定。王都は穀物・野菜の集荷が捌けていますわ。次回の港湾会議で、救難具の倉庫配置を東埠頭側へ再配分したいです」
「良い。魔法国の風は強い。読んだ上で受ける必要がある……宮廷の腐敗対策、文書回覧の鈍さは、影の局ではなく庁舎の導線も問題だ。筆の通りの棚割り変更を提案する」
「同意します。閲覧権限の層を一段薄く」
正しい。すべて正しい。けれど甘さが欠片もない。今まさに向かっている「銀環亭」では、セイリオスがアメリ―にネックレスを贈ることまで“予定”されている。準備周到、過不足なし。違う、求めているのは完璧な兵站ではなく、予定表には載らない息の綻びだ。
「来ます」
屋根裏で局員が指を上げた。モザイクが、タイミングを計ったかのように、二人の足元に出る。にゃ、と短く鳴く。光の粒が瞳に跳ね、白と灰の耳がふるり。
その瞬間の顔を、見守り隊だけが見た。ほんの一瞬、石畳にぽちゃんと落ちる雫みたいに。
セイリオス――きょとん。アメリ―――きょとん。そして、アメリ―の頬に、初めて見る種類の柔らかさ。
「……野良猫か?」
セイリオスは膝を折り、視線を落とす。“見下ろす”をやめる所作。猫の警戒心に合わせて目線を低く。自然、手のひらは下向き。軍で教わる“民の子に接する姿勢”が、そのまま猫にも効く。
「いや、毛並みが整っている。人に慣れているな。飼い猫が迷い込んだか」
見定め、速い。影の局の回し者だとは、もちろん思いもしない。だが“誰かの猫”であることは、一瞬で掴む。
アメリ―も裾をたくし、同じ高さまで落ちる。瞳と瞳が、透明の距離で結ばれた。
「顔に汚れはありません。眼に飢えもありません。……この整い方ですと、王都の上街、貴族区の飼い猫でしょうか。首輪は――ないのですね」
猫は二人の周りを半円に歩き、靴の先で尻尾をふに、と触れる。アメリ―の口元が緩んだ。ふ、と、口の形が小さな月になる。セイリオスも自然と微笑みを浮かべている。規律正しい二人の間に産まれた、僅かな余白。
そんな余白を携えたまま、セイリオスが結論を出していた。
「警邏に届けよう。これだけ手入れされた猫なら、飼い主は必ず探している。衛兵詰所で情報を集めれば、すぐに見つかる」
「そうですわね。怪我も病も見当たりませんし……安心なさい。すぐに、あなたの主人の元へ帰れますよ」
セイリオスがそっと抱き上げる。アメリ―の指が、毛並みを一度だけ撫でる。二人の顔に――とても優しい微笑が落ちた。愛おしいものを見る、穏やかな顔。
初めて見る表情だった。ダリウスとアーラの望遠鏡のレンズが、一瞬曇った気がした。
アーラは息を呑み、頬に手を当てる。顔は、一目で解る程、赤く染まっている。
「やっば……あたしがドキドキしちゃう。兄様の笑顔も反則だけど、アメリ―、あんな顔するんだ……」
「君が絆されてどうする。兄上とアメリ―嬢が互いに絆されなければ意味がないだろう。……ただ、感情は、情緒は確かにある。問題は、なぜデート運用だけが無機質になるのか、だ」
ダリウスは軽く咎め苦笑し、しかし目の端は笑っている。
どうにも不器用な第一王子と侯爵令嬢を見て、今の笑顔を常に出せれば、何も心配しないのにと。そんな想いを抱いてしまう。
影の局員も、その感情には同意なようで……セイリオスとアメリ―の様子を見ながら、作戦の進展を確信していた。
「――入った。“余白”が、一滴」
局員が口笛を短く一つ。観測継続の合図。猫班が“偶然の回収”に移る。通りの角から、衛兵が“たまたま”現れ、飼い猫捜索の掲示について言及する。その間に、モザイクは影の手にするりと返る。完璧な“偶然劇”。
アーラがひそひそ声で問う。
「次、行ける?」
「行けます。予定表が一度崩れた。ここからは、予備プランを薄く重ねましょう」
局員が指で短く段取りを刻む。
「候補一、蜂蜜菓子の露店“無料試食”。指先が触れる機会を作る。候補二、布飾りを風で舞わせ、髪に絡める。“近接距離四十五センチ訓練”。候補三、欠け石の転び。倒れそうな令嬢を支えるのは貴公子の務め。ただし過剰演出は厳禁……蜂蜜から行きましょう。甘さは正義」
「良いわね。あのお堅い二人に、糖度を足すの。やりすぎない、ほんの少し」
「了解。露店はすでに配置済み。王都の正規業者です。王国の合法貿易で入った“蜂蜜救難食”(魔法国の救難具と一括で入る物資)という名目も立つ」
「名目が強いのは良いことだ。ついでに、商談の会話に乗せられる。帝国からの標準計測具の規格話、魔法国の照明具の改良、我が王国の穀物の歩留まり――先ほど二人が話していた題材とも自然に繋がる」
「実務に甘さを混ぜる、が今日のテーマです」
望遠鏡の向こうでは、セイリオスが衛兵と短く言葉を交わし、猫を引き渡している。アメリ―は掲示板の“迷子の猫”の紙を、ふむ、と読み、覚えた。実務能力が高すぎる。だから好きだ。だから難しい。
その様子を視界に納めながら、アーラがぽつりと呟いた。
「……それにしても、今の兄様の微笑、久しぶりに見た」
「君は最近、公務以外では顔を合わせる機会が減ったからな……だが何も変わらぬよ。兄上は、民の顔を見た時と、守るものを腕に抱いた時、ああいう顔をする」
「じゃあ今日は、蜂蜜と風で、その顔をもう一回」
ダリウスの柔らかい声にアーラがいたずらっぽく笑う。
局員が短く口笛を二つ――“猫”終了、“甘味投入”。路地の角で、露店の看板がくるりと裏返り、「本日試食あり」の札が出た。帝国製の“標準計測匙”が吊られ、蜂蜜の粘度を示す小さなガラス筒。並ぶ瓶は、王国の麦と果実から煮詰めた新作だ。魔法国の小型照明具が瓶底を温かく灯している。交易の線が一本、通りに見える。
「よし、位置移動。観測点を右上から左下へ。殿下、庶民の歩幅で」
「了解……踏む、だな?」
「踏む。石畳の継ぎ目は、今日は踏んでください」
三人は屋根裏から体を引き、梯子を音もなく下りた。通りに紛れ、風に紛れ、匂いに紛れる。見守り隊の足取りは軽い。狙いは一つ、甘さの“偶然”を、あと二滴。
背後で、衛兵が猫を抱き直し、「この子、モザイクって名が似合いそうだな」と何気なく言った。局員は小さく肩をすくめる。名が広まるのは、尾行の事故防止にもなる。偶然に見える“管理”。
セイリオスとアメリ―は、予定表にない寄り道を、初めて辿ろうとしていた。足取りは相変わらず端正。けれど、ほんの半歩、柔らかい。
「さあ――第二波。蜂蜜、風。そして、三秒の沈黙」
局員が指先で数を刻む。アーラが頷き、ダリウスが呼吸を合わせる。
キャッキャウフフ大作戦は、まだ始まったばかりだ。いいや、ようやく“始まれた”のかもしれない。予定表の余白に、最初の手書きの文字が乗ったのだから。
通りの先で、蜂蜜の琥珀色が、二人の進路に小さな灯を点した。風が、布飾りを一枚だけ、いたずらにゆらす。ここから先は――見守る番の、本領発揮である。




