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第一王子殿下と侯爵令嬢の不器用な「愛」の行方  作者: 初音の歌


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18/18

番外編・軍部の兵と冬の姫君



 それは侯爵令嬢アメリーが、第一王子の婚約者になった初年度の話。

 机の上で、軍務の事務室で、書類の不備を容赦なく指摘していた、平和だった頃の話である。





◇ ◇ ◇





「その書類……私に見せてください」



 そんな、アメリーの静かな声から事は始まった。

 薄藤と氷青の差し色を控えめに帯びた装い。灰金の髪は低い位置でまとめられ、白蝶貝の小さな扇が卓の端に伏せられる。冬景色の美貌が、紙の上の乱れにだけ冷たく光を宿す。

 気のせいか、眼が怖い。

 婚約者であるセイリオスが、微妙に及び腰になりながら報告の束を差し出す。


「現場の概況は口頭でも伝えるが、まず数字から――」

「数字で十分です」


 スパっと言い切り、アメリーは椅子に腰かけ報告書に視線を落とす。

 細い指が帳面をめくるたび、紙が均一の音で鳴る。速記用の細筆が走り、欄外に小さな記号が次々と並んでいく。

 同席している兵の誰かが、ごくりと唾を呑み込んだ、


「矢、消費16束。捕獲確認、59体。……矢は1束30本、2束単位。端数の記載はどこに?」

「え、端数……いや、そいつはこう、霧の朝で手がかじかんでだな……」


 古参の兵站係が曖昧に笑う。

 アメリーは視線を上げず、扇の先で欄外を示した。


「端数は端数として記録。『未回収』は印、理由、氏名。三つ、必要です」

「し、氏名……そ、そんなこと戦場でしている暇が――」

「では戦場に赴く前に、矢の本数管理を密にしておくべきです。そうすれば逆算で在庫確認ができます」


 欄外に筆が走る。新たな印を押す枠を書く。

 難しい事は要求しない。端数を含めた本数管理をしっかりせよと、ただそれだけの書き込み。

 

「責の所在は、罰の所在ではありません。安心してください。罰を探していません。後で矢を請求する時、あなたが困らないために必要です」

「……はい」


 兵站係の肩が静かに落ちる。

 アメリーは目もくれず、次の帳へ。


「薬。出庫、痛み止め8箱。負傷者数21。……一人当たりの配薬が多い。『持ち出し保管』の欄、空白です。現場に一箱置いたまま?」

「まあ、その、使いやすいからよ、隊長の鞍袋に――」

「記録がない保管は、紛失と同義です。ここに『臨時保管・鞍袋』、隊長名、日付、印。三つ、お願いします。今日」

「……はい」


 扇がまた一つ、欄外を叩く。


「糧食。乾麺4樽、乾肉2樽。残、ゼロ。にも関わらず返却印がついている。誰の印?」

「えっと、わ、私の……」

「なぜ?」

「へ、返却印を押せば書類が終わるので……それに誰も困りませんし、皆がやってることなので……」

「印は魔法ではありません。空を満たしません。印は事実の影です。影だけ増やすと、足を滑らせます」

「す、すみません……」


 室内の空気が、少しずつ『直立不動』に近づいていく。

 最初は気前よく笑っていた槍無双の老将も、若干冷や汗。思わず、隣のセイリオスに小声で耳打ち。


「……のう、若。若の婚約者殿、少し厳しすぎやしないかのう?」

「う、うむ。元々規律正しい女性であるのだが、今日は一段と――」

「殿下、将軍」

「「はい」」


 突然、アメリーから声を掛けられて、背筋を正して返事をする二人。

 冬景色の瞳が、冷気を伴って見つめてくる。


「御二人が居られながら、何故こうまで軍の書類が『なぁなぁ』なのですか? 御二人とも規律には厳しいでしょうに」

「む、むぅ……何と言うか若い頃からこれで慣れてしまっとるからの。実戦は兎も角、書類に関しては昔からこんなだったし」

「俺も最初はどうかと思ったが、皆これで運用していたのでな。それに慣れれば、この書類から兵の空気が読み取れて――」

「慣れないでください。読み取らないでください。書類に必要なのは正確さです。そして、この書類で正しく運用できるのは将軍や殿下の『能力』ありきだという事を忘れないでください」

「「はい」」


 王国最強の将軍と、王国最優の王子の背筋が、事務室の隅で寸分の狂いもなく並ぶ。

 見本のような直立不動。

 アメリーは筆を置き、顔を上げた。


「これは誰かを責めるためではありません。『なぁなぁ』で済ませて困るのは、現場です。そして入ったばかりの新兵です。矢がない。薬がない。乾麺の数が足りない。あなた方が困る。兵の教育に遅れが出る。だから、最初に形を作ります」


 アメリーは卓上の空白紙を四枚引き寄せ、迷いなく線を引く。


「王国式標準補給目録――暫定試案。三色。白は審計控え、薄青は補給所控え、薄灰は部隊控え。各頁に頁番号、部隊印、受け渡し印、小印(受)、大印(責)」


 兵たちの眉が、次々と跳ね上がる。


「印は二つ? そんなに……」

「小印は受け取った者の『現場の責』。大印は隊長の『管理の責』。責は分けます。混ぜると、誰も責を持てません」

「責を分ける……」

「はい。上には上の責。下には下の責を負わせます」


 アメリーは、にこりともせず続ける。

 先程まで空白だった紙の上に、次々に書き込まれる改善案。


「受渡は『場所』『時刻』『数量』『状態』の四点。状態には、破損や湿りを記載。加えて、『差異理由欄』をここに。『雨湿』『敵奪』など、符号を決めます」

「ふ、符号……」

「覚えられなくて大丈夫です。紙の端に、毎回印字しておきます。覚えるのは印の場所だけ」

「そ、それなら……」

「押せます」


 アメリーは横の黒板へ歩み、粉筆で簡易の図を描いた。矢束を二束単位で枠取りし、端数に『水女神の紋』の小印を置く。乾麺は樽印、乾肉は切り口印。薬は箱ごと番号。どれも、見れば誰でも理解できる図形に還元する。


「この『水女神の紋』――『水紋』の小印は、補給庫の印璽。ただの絵です。火の番人が嫉妬しないように、炎の女神の小印も作りましょう。窯物資はこっち。色は赤」

「印に女神の色を……これなら覚えやすく、不正は良心が咎める、か」


 老将が目を細める。

 アメリーは会釈だけで流した。


「最後に、提出期限。三日で一枚。遠征の場合は帰還当日。遅延の理由はここ。『戦闘』『負傷』『水害』など。『忙しい』は理由ではありません」

「ひ、人の心がない言葉だ……!」

「書類に人の心は要りません。必要なのは形です。形が人を助けます」


 アメリーは首を傾げながら言う。

 必要な『直線』を紙の上に刻む。それが結果的に人を救うのだと。

 彼女は扇を開き、ひらりと風を送る。


「では、今から『手本』を作ります。私が書きます。あなた方は見るだけ。次に、あなた方が書きます。私は見るだけ」

「え、今から……?」

「今から」


 細筆が走る。項目が揃い、線が揃い、文字が揃う。

 王国式標準補給目録(暫定)・第零号案(案の案)の題が、端正に上にのる。老将が思わず唸るほどの速さで、しかし一字も乱れない帳票が、三枚、四枚、五枚と。


「はい、殿下。こちらにお名前を」


 突然、セイリオスに扇の先が向いた。王国第一王子、無意識に踵を打ち鳴らす。

 筆を持ち、乱れぬ筆跡で名が記される。


「字、綺麗。流石ですセイリオス様」

「……」


 思わぬ、自然な賛辞と『呼び名』に息が止まる第一王子。

 不意打ちのようにくる、アメリーの言葉は、セイリオスの急所を打つ。


「では次、あなた。矢の受払。端数は『水紋』」

「水紋……こう、ですか?」

「丸が歪んでいます。水は歪みません。もう一度」

「も、もう一度……はい」

「次、あなた。薬の保管。鞍袋の欄に隊長名。印。大印は、隊長」

「た、隊長! 印を!」


 隊長が慌てて前へ出る。

 アメリーは、朱肉を押す角度まで、やさしく手で直した。


「強すぎます。角が潰れます。はい、そっと」

「……はい」


 やがて、紙の束は『山』から『列』へ変わる。

 混乱は、段取りになる。

 反論は、質問になる。

 現場の勘は、勘のまま尊重され、帳簿は帳簿のまま整えられる。

 最後にアメリーは扇を伏せ、短く告げた。


「この手順をマニュアル化します。図解つき。読み書きが不得手な者にも届くように。明日、暫定版を。三日後、正式版を。あなた方は――印を押すだけでいい。『それすら出来ない』とは言わせません」


 室内の全員が、反射的に背筋を伸ばした。

 槍無双の老将も、セイリオスも、直立不動のまま「はい」と答える。誰が合図をしたわけでもないのに、声は綺麗に揃った。


 廊下の向こう、開け放した窓から、王都の鐘が微かに時を告げる。

 事務室には、まだ紙の匂いと、朱肉の匂いと、冬の気配が混じっていた。

 アメリーは扇を一度だけ開いて、空気を冷やし、ほんの少し温めた。


「――以上です。次回からは、私が居なくても、できます」


 誰も、反論しない。

 そして誰も、彼女の言葉を冷たいとは思わなかった。

 寒気に似た凛とした空気の奥に、自分たちの腹と背中を守る『仕組み』が、確かに灯ったのを、全員が感じていた。









 ……とは言えだ。軍の人間、全てが納得した訳ではない。

 腕っぷしの強い、気性の荒めな兵は、口々に文句を言っていたりする。

 特に、討伐任務の前日あたりで。準備をしながら、仲間内で自然と文句が溢れてくる。


「殿下の婚約者が作った『紙の束』だぁ? 戦を知らねえ令嬢が何をぬかすかよ」

「印を二つ? 三つ? そんなに押したら朱肉が先に枯れるわ」

「この程度で戦が楽になるなら、俺はとっくに腰痛が治ってる」


 各々が愚痴を言い合いつつ、討伐準備は整っていく。面倒な手間が増えた書類に、印を押しながら。

 槍無双の老将が苦笑しながら、石突きで土を軽く叩いた。


「まあ愚痴は行軍の糧じゃ。終わって戻ってから、また言え」


 兵たちは「へいへい」と肩をすくめ、いつものように出ていった。





 で、その三日後、討伐隊帰還。夕刻。

 討伐報告の鐘が鳴ると同時に、軍務に奇妙な静けさが落ちた。

 事後処理が――楽過ぎるのだ。





「矢束、部隊7の返納。端数『水紋』で24本。未回収2」


 若い兵が口上を唱え、帳場の兵が頷く。薄青の控えに小印(受)、薄灰の控えに大印(責)がぴたりと重なって、紙束が『列』になって吸い込まれていく。

 いつもなら、誰がどれを持っていったのか、誰が返したのか、誰が忘れたのか――声が交錯し、喧嘩腰の押し問答が始まる時間だ。ところが今日は違う。


「痛み止め、箱番三、鞍袋保管から戻し。状態、角潰れなし。補足、行軍中1回のみ使用。差異なし」


 薬箱は番号が箱面に刻まれている。昔は「角が丸い箱」「蓋が固い箱」と呼んで途端に揉めたが、今は『数字』が先に立つ。


「乾麺、樽印を照合。封蝋の継ぎ目良し。残存、目方四分の一樽。返却印ここ」


 台秤がぎしりと鳴る。目盛りが言い、紙が記す。誰の声も要らない。

 列にいた古参がぽかんと口を開けた。


「……なんだ、もう終わったのか」

「終わった。今日、怒鳴り声ゼロだとよ」

「ゼロだぁ?」


 試しに、昔から口うるさい倉庫番の爺がいる小屋を覗く。

 小屋内を見た兵が叫んだ。


「爺、寝てる!」

「死んでねえだろうな!」

「いや、幸せそうに船こいでる!」


 倉庫番は暇すぎて眠っていた。帳場が静かなのは、初めてだった。

 兵の一人が気付く。準備さえ整っていれば――印を押すだけで後始末が終わると。


「直線……ああ、成程な。書類に心はいらねぇ。必要なのは正確な線だけか」

「温度は人の会話で繋げばいい。紙は真っ直ぐでいいんだな。間違いのない直線で」


 周りの兵も、うんうんと頷く。

 ちなみに副次効果も凄かった。

 まず、修繕所──矢羽の補充がぴったりで、余りが出ない。

 炊き出し──乾麺の目方と人数が一致、鍋の量で喧嘩が無い。

 衛生隊──薬の再発注が早い。箱番で呼べば、一度で届く。

 会計──討伐手当の計算が、前より早く出る。兵達は大歓喜。


「なあ、なんで今まで、あんな『勘』で回してたんだ?」

「『勘』は現場で使えばいい。紙でやるなってことだ」

「誰が言ったんだっけ、それ」

「……殿下の婚約者どの」

「すげぇなあの人……」


 あまりに凄すぎて、事後処理がスムーズに行き過ぎて……帰還したその日の夜、酒場に繰り出す余裕があった。

 今までなら、事務室で喧々轟々の書類仕事が待っていた。今日はそれが無い。

 ゆっくり休める。


 実際、兵達が今居るのは王都の酒場だ……泡の立つエールを前に、皆感心したように頷いている。


「すげぇすげぇ」

「俺の隊で揉めがゼロだったんだぞ。いつもは乾肉の厚みで喧嘩するのに」

「隊長の大印が綺麗でさ。角が潰れてないと、なんか……飯もうまくなる気がする」

「そりゃ気のせいだ」

「気のせいでも良いんだよ! うまいんだから!」


 古参がジョッキを置いて言う。


「『冬の姫』って呼ばれてるらしいな、侯爵令嬢どの」


 思い出されるのは、年若い令嬢の容姿だ。

 灰金の髪に、澄んだ瞳。男所帯の軍務に咲いた、一輪の冬の花。

 若い兵が身を乗り出す。


「『氷の姫君』の方が格好よくないっすか? ほら、あの目つき……」

「お前、書類の不備が見つかった時のあの目を、真正面で食らってから言え」

「ああ、ありゃすげぇ。思わず震えちまったぜ」


 一同、背筋に冷たさを感じながら笑う。


「“これ、書いたの誰ですか?”」


 酒場のざわめきの中、全員がなぜか小声で復唱し、ゾクリとした。


「あの温度、零下だよな」

「冬景色にも程があんだろ。早朝の寒空より凍えたぞアレは」


 小娘、と言っても差し支えない年頃の少女。

 そんな少女の目と声に怯える、手練れの兵達。

 だが怯えながらも皆、笑みを浮かべている。理由は単純で――兵を護る為の冷気だと解っているからだ。


「凍らせてんのは『無駄』と『嘘』だけだ。冷たさは、あの人の『外套』。あれで風邪ひかないようにしてくれてんだ」

「誰がうまいこと言えと」


 笑いながら、焼かれた腸詰に齧り付く。熱い肉汁がエールに良く合った。

 その中で、蜂蜜飴を取り出す兵が一人。


「お前、それまだ食ってなかったのか?」

「え、ええ。なんか驚いて、あの時は思わず仕舞ってしまって……」


 兵が取り出した蜂蜜飴。それは帰還した討伐隊に配られた飴だ。

 帰還を出迎えたアメリ―が渡してくれた、甘い蜂蜜飴。


「甘くてうめぇぞ。だが残念だな、お前は一番美味い食い時を逃した」

「え?」

「帰還直後の疲れたあの時が、令嬢から渡された瞬間のあの時が、間違いなく一番美味い」


 周囲の者達も同意を示し、うんうん頷き合っている。

 思い出される光景。疲れ果てた兵達に「お疲れ様です」と一声かけながら渡された蜂蜜飴。

 両腕に小箱を抱え、侍女と共に、ひとりひとりに飴が配られる。金色の飴が、夕日に照らされて輝いていた。


『おひとりずつ、どうぞ』


 声は静かだったが、柔らかい。

 ひとつ、またひとつ。掌に落ちた飴の温みが指に伝わる。

 同時に見えた、令嬢の僅かな微笑み。冬景色に日が差し込むような顔。


 懐に仕舞っておいた飴を舐める兵。

 舌にのせれば、蜂蜜がふわりと広がる。優しい甘さが喉を通り、自然と顔が緩められる。


「甘ぇ……」

「だろ? 戦の終わりに、こんな甘さがあるなんて、今まで思いもしなかった」

「俺も俺も。あの甘さは反則だぜ……あー、それにしても王子の婚約者か。そりゃそうだよなぁ」

「何だ? 惚れたか? 駄目だぞそれは。不敬罪で牢屋行きだ」

「解ってるよ。酒の席の軽口だ。本気にすんじゃねぇって!」


 酒を飲み交わしながら、わいわい騒ぐ兵達。

 準備を整えれば書類は手早く終わる。

 手早く終われば時間が生まれる。

 時間が生まれればこうして――酒を楽しめる。喧嘩もせずに笑い合える。

 全てはあの、冬景色の美貌が形作ってくれた。


「殿下、良い嫁さんもらったな」

「王国の嫁さんでもあるけどな」

「そうだな。俺らの『冬の姫』だ」

「いーや『氷の姫君』の方が格好いいぜ」

「『白梅の監査官』って呼ぶ奴もいるぞ?」

「なんだそりゃ。センスあるじゃねぇか」


 どっと笑いが酒場に広がる。

 紙は直線、心は曲線。事務の机は正確に、酒の机は緩やかに。

 冬の姫が守るのは、兵の背中と、王国の在庫と、そして――ささやかな温度だった。





◇ ◇ ◇





 兵達は、そんな記憶を、思い出す。



 軍務局の事務室は、いつもより静かだった。

 朝一番の光が、窓枠の白い塗りに細く当たり、紙と朱肉の匂いが埃と混じって薄く漂う。長机の端は、いまも三列の受理台に仕切られ、薄青・薄灰・白の控え紙が束ごと角を揃えて置かれている。朱肉は新しく、水紋の小印は布で拭かれ、光を吸うように鈍く黒い。

 兵達は出立命令の号鐘が鳴る前に、ひとり、またひとりと戸口を覗かせた。

 視線が、自然と同じ場所を探す。窓から三歩、南壁寄り。薄藤のインク吸い取り紙、白蝶貝の小箱、定規の縁でできた細い筋。



 かつて『冬の姫』が腰を下ろしていた席。

 もう、誰も座らない席だ。椅子は机の下に収まっている。


 今朝も、昨日も、ずっと。帰りを待つように、ずっと。



 係の書記が、兵達の様子に気づかぬふりで帳簿をめくった。


「装備点検済、印はこちら。矢束の端数は水紋で。返納記録は欄外記号を忘れないように」


 兵は黙って従い、朱肉に小印をそっと落とす。角は潰さない。印影はまっすぐ。指は覚えている。彼女に教わった押し方を。

 書類は滞らない。列は淀まず流れ、数字だけが静かに積まれていく。紙の上の直線は、今日も乱れない。彼女の冷たさ――無駄を凍らせるあの冷気――は、たしかにこの書式の中に生きている。

 机の陰、小箱が一つある。

 日にかざすと金色に光る、蜂蜜飴の小箱だ。

 誰かが、置いたのだろう。よく磨かれた小箱に、蜜色の丸い影が幾つも並ぶ。あまり触られていないのがわかる。包み紙の折り目が、少しだけ乾いて硬くなっていた。


 古参の兵が、その小箱に手を伸ばしかけて――やめる。

 書記が僅かに視線を移して、静かに問うた。


「自由に持って行って構いませんよ。……ゲン担ぎも兼ねてますから」

「そうか……だが悪い。俺はもう、蜂蜜飴が食えなくなっちまったんだ」


 古参の男は、視線を飴から外さないまま笑う。

 歪んだ笑み。泣き笑いの顔――溢さないのは涙だけ。心は今も泣いていた。


「娘と同じ歳だったんだ、あの嬢ちゃんは。……舐めると、喉の奥で甘さがひっかかる。泣くには歳を取りすぎた」


 誰も笑わない。笑える筈が、ない。

 若い槍兵は、包みを一つ取り、解かずに胸の内ポケットへ滑らせた。


「未開封で持っていく。勝ったら、帰り道に舐めるよ」

「縁起は良いな」

「縁起でいいさ。理屈はいらん」


 小柄な弓兵も、手を伸ばし蜂蜜飴をひとつ。そして、取った飴を布に包んだ

 布には水紋の小印が。今も続く、軍部の印。


「お守りにする。……紙の直線、戦場にも続けてくれるかな」

「続くさ。俺たちの姫さまの、お守りだぞ」

「そりゃそうだ――紙がまっすぐな限り、帰る道だって見失わねえ」


 遠くで角笛が三度鳴る。召集の合図だ。

 扉の外、廊下を早足で過ぎていく影の中に、濃蒼の外套の老将が一瞬だけ映る。槍の石突が床にひとつ、乾いた音を置いた。


「敵は北西。国境を攻めている。到着次第、すぐに戦闘に入るぞ」


 言葉は短く正確に。隣国からの侵略戦争。今解っているのはそれだけ。

 兵たちは、短くうなずいて応じる。

 出立点呼の前に、もう一度だけ事務室の空気を吸う。

 朱肉の匂い、紙の匂い、冬の朝のように冷たい整然。冷えは骨に入らない。背筋だけを伸ばす。

 彼女がいた頃と同じ角度で立つ椅子を横目に、槍兵がぽつりと呟く。


「なぁ、『冬の姫』って、怒らなかったよな」

「怒ってたさ。静かに」

「そうだな……静かに、怒ってた」

「だから、怖かった。……だから、守られた」


 誰かが息をのみ、誰かが咳払いで誤魔化す。

 小箱の蜂蜜飴が、光で少し金色を深くする。書記が布を被せる。塵よけだ。ひどく丁寧な手つきだった。

 中庭に出ると、空は澄んで、風は乾いていた。


 そして集まる防衛軍。軍部の者達が、一つの目的の為に意志を同じにして。

 隊旗が二本、真っ直ぐに立ち、帆布の音が短く鳴る。甲冑の継ぎ目に差し込む光が、刃の輪郭を薄く縁取る。

 将旗のもとに立つのは、第一王子セイリオス。黒革の帯に王家の長剣――《レイディアントブレード》。剣の鍔が、ほんのわずかに青く光を返す。顔は硬くない。柔らかくもない。命令は簡潔で、間は短く、無駄はない。


「歩速は三。間隔は一。指揮は前方。――戦場に行き、そして帰るぞ」


 その一言に、兵の肩が一斉に揺れた。

 帰る。

 待つ者はいない。門で蜂蜜飴を配る姫もいない。けれど『帰るぞ』は命令になった。迷いのない命令に。


「帰るぞ」


 誰がともなく復唱する。

 腰の小袋では、未開封の飴が包み紙を擦って、衣擦れとは違う小さな音を出す。

 古参は胸の前で手を組んだ。祈りというほど大げさではない。ただ、ひとつだけ言葉を落とす。


「嬢ちゃん。見てろよ。無駄はしねぇ。お前さんが示してくれた『直線』で――この国を護ってみせる」


 列が門へ向かって動き出す。

 足音は揃い、呼吸は揃い、視線は前を向く。街の石畳が、革靴の底で短く鳴く。露店の娘が手を振り、パン屋の親父が粉だらけの拳を上げる。誰も口に出して「姫」の名は呼ばない。けれど、門塔の上の旗の影、洗いざらしの白い布のゆらぎ、どれもが薄藤の色に見えた。

 最後尾の弓兵がふと振り返る。

 軍務局の窓は此処からではとても見えない。だけど確かに在る。

 窓際にある机、そこに揃えられた三色の控え紙、布を被せられた小さな小箱。

 正確な書類は在り続ける。彼女が残した寒気は、紙の上で息をして。


 兵たちは前へ進む。

 剣を、槍を、弓を携え、国境へ。

 あの冬の冷たさに護られたまま、蜂蜜の甘さを胸に仕舞い、戻るべき場所を胸の内側に描きながら。

 帰りを待つ姫は、どこにもいない。

 それでも前へ進む――せめて、彼女が愛したこの国だけは護り抜こうと。


 門が背後でゆっくり閉じる。

 軍務局の事務室では、書記が布を持ち上げ、小箱を少しだけ窓辺へ寄せた。日差しで包み紙が温まる。甘い匂いが、ほんの少しだけ部屋に広がった。


 誰も舐めない。

 誰も捨てない。

 冬の冷たさと一緒に、そこに置いておく。


 風が変わり、旗がひとつ、強く靡いた。

 行軍の足音が遠ざかる。

 空は高く、雲は薄く、陽は冷たい。







 軍は前線へ。彼らの直線は、今日も真っ直ぐに引かれていった。







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