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第一王子殿下と侯爵令嬢の不器用な「愛」の行方  作者: 初音の歌


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最終話


 王都の聖堂の鐘は、一度だけ鳴った。

 金でも銀でもなく、灰の音。祝祭日の澄明を避け、喪の濃色にも沈まない、王都の石畳と同じ色合いの響きが、通りの角から角へ、ゆっくりと流れていった。


 葬列は静かだった。喪の衣は家の色でなく、王都の灰色に統一され、旗は巻かれ、槍の先には布が結ばれ、靴の音は革の底で吸われた。弔辞は短く、肩書と血統は並ばない。司祭が読み上げたのは“働き”の名――街渠の改修。孤児院の帳簿整理。王立文庫の目録整備。どれも、民の足裏と手の届くところに残った仕事ばかり。名誉は大書されず、結果だけが小さく、確かに記された。


 レオニス国王は自ら葬列に立ち、マルサ王妃は白百合を棺に納めた。王族の手で答える礼に、私語は消え、風の音まで遠慮深くなる。王家縁者のための墓所――柊と柏に囲まれた白石の長廊――に、アメリーの棺は納められた。


 王家の席で、セイリオスは最後まで立ち上がらなかった。立てば王子の姿になる。座れば、ただの男になれる。彼は終始、ただの男として彼女を見送った。背筋は落とさず、しかし視線は棺の高さに置いたまま。片手は膝に、もう一方の手は無意識に懐へ――そこには薄瑠璃の小さな髪留め。あの日、彼が静かに預かったままの、細い光。


 葬儀の夜、アーラは寝所で枯れ果てるほど泣き崩れた。泣くまいと決めていた強情は、枕の縫い目のところでほどけて、初めて知る「心の空洞」を、涙でなぞるしかなかった。蜂蜜色のショールは冷え、灯は小さく、窓の外では王都の犬が一声も吠えない。アーラは胸に空いた穴を掌で押さえ、声にならぬ声で「ごめんね」と繰り返した。強く、まっすぐで、時々天然な親友。あの白い扇の閉じる小さな音が、もう二度と、どこにも響かない。


 王都はしばし黙に伏した。軍部の者は、蜂蜜飴の包み紙を見るたび顔を背けた。甘い砂糖の匂いに、白い指先の記憶がまつわりつく。差し入れの時の、遠慮がちな微笑と短い言葉――「労っています」――それを誰も忘れられない。飴を口に放り込んだ若い兵は、咀嚼の音を隠すように拳で口元を覆い、飲み込んでから訓練場へ走った。


 アメリー=ド=ロシュフォール、享年十七歳。思い出に変わるには、王都にも王家にも、少しばかり時間が必要だった。




◇ ◇ ◇




 それから少しの時が流れ、セイリオス=アルヴァン二十歳の年。

 侵攻の報が、乾いた紙の匂いとともに王城へ届いた。西境の関塔が狼煙を三度上げ、次いで使令が四騎、交代で駆け込み、最後の一騎は鞍上で気を失った。隣国軍、国境線を越境。塁壁の錠が破られ、村落二つが立て続けに退去。先鋒の旗に見慣れぬ標。術式の残滓に、異質な法の痕も混じる――首謀の影は、まだ掴めない。

 知らせが城内に広まった時、セイリオスはもう城にいなかった。

 総大将としての出立は、報の半刻後。軍号は簡明、布陣は正格、補給線は二筋で重ね、連絡点は三。彼はいつものように「最短の正着」を選んだ。だが今回、それは王都の息を奪うほど早かった。


 アーラは王城の廊下を走り、女官長に叱られながらもそのままダリウスの執務室に飛び込んだ。息は上がり、蜂蜜色の髪の編み目がほどけかけている。


「どういうことなの……兄様が総大将になって最前線? 巡回や討伐とは訳が違うのよ!」

「勘違いするな、アーラ。私たちとて止めた。だが今の兄上は止まらん。これを見ろ。直近の“討伐結果”だ」


 ダリウスは机上の書類を束ね、アーラへ差し出す。

 アーラは目を走らせ、すぐに走るのをやめた。背筋が冷え、指先が紙の端で止まる。


 ――第六週・北街道賊徒掃討/拠点三、捕縛二百七十一、戦死者ゼロ、負傷者四。

 ――第五週・黒沼の亡者鎮定/上級ワイト核四、散逸魂三十二体解放、戦死者ゼロ。

 ――第四週・ワイバーン小群迎撃/撃墜十二、落下被害ゼロ、家畜損耗なし。

 ――第三週・商隊連続襲撃犯一網打尽/首魁名未詳、拠点二、漏れなし。

 ――第二週・辺境匪賊の根絶/追跡七刻、包囲四刻、投降一二四、死者ゼロ。

 ――第一週……


 数字は冷徹に整列し、余白はすべて結果で埋まっていた。

 常軌を逸した戦績。敵は全て殲滅か捕縛。自軍の被害は負傷者が微少に、死傷者がゼロ。

 アーラとて公爵家の人間。討伐の際に出る被害は何度も目にした。そんな彼女でもこんなものは――生まれて初めて見る。


「なに、これ……人が出せる戦果なの、こんなの」

「今の兄上なら出せる。出してしまう」


 ダリウスは短く言い、窓の外に目をやる。


「“あの日”から、兄上の冴えは尋常ではない。人の動きも魔物の癖も、すべて一歩先で絡め取っている。『槍無双』ですら敵わぬと言った。――最強の手で迎え撃つ。陛下も承認された」

「……だから行かせたの? 一番危険で、一番死が近い最前線に」


 沈黙が一枚、机の上に置かれる。


「結果で黙らされた、というのが正確だ。王国は危機にある。敵の背後には“怯え”が見える。誰かが彼らを押し出している。首謀はまだ霧の向こうだ。逐次投入は愚。だから――最短で最強を置く。それが今の王国の選択だ」


 確かに、時に誰よりも前に出て戦うのは「王族」の役目だろう。ただの神輿ならいざ知らず、セイリオスは破格の軍才を持った第一王子殿下だ。前線に立てば、士気も戦力も万全の状態で敵を迎撃できる。理屈だけならアーラにも解る。

 けれど――アーラの目に涙が溜まり、溢れた。


「兄様は……自棄になってる。“あの日”から、ずっと前しか見てない。全部“数式”染みた行動。この討伐結果見れば解るでしょ?……こんなの、アメリーと一緒に歩いてた兄様じゃ、ないよ……」


 ダリウスは立ち上がり、アーラの肩に手を置いた。慰めの言葉は言わない。代わりに、窓を半分だけ開ける。冬の手前の風が、紙の端を一枚だけ持ち上げて、すぐに落とした。


 誰か、助けて。兄様を助けて。

 アメリー。あなたが死んだあの日から、兄様の「タガ」が外れた。何か大事な部分が「壊れた」。あんなに大事して、アメリーと護っていた「余白」が何処か遠くに消えてしまった。

 お願い。誰でも良いから――兄様を助けて。


 アーラは胸の奥で、言葉にならない祈りを繰り返した。天へでも地へでもなく、ただ、あの冬景色の親友に向かって。









 王家の墓所。柊が風を弾き、柏が低く鳴る。白い石棺が列をなし、名を刻む文字は深すぎず浅すぎず、均整が取れている。昼前の光はまだ冷たく、石の肌に薄く銀が走る。


 セイリオスは鎧を着ていた。肩当ては光を抑えた鋼、胸の鍛板は王家の紋を最小限で、革紐は新しく締め直されている。腰に佩くのは王家伝来の長剣である《レイディアントブレード》。精錬度の高い鋼鉄と銀を組み合わせた合金。刃の芯には細く光脈が流れ、柄巻は黒革で巻かれ手に馴染む硬さ、鍔は八芒星を象った形。王家の紋章を刻み込み、金象嵌で縁取られている。鍛造の最終に用いるという聖水による“焼き入れ塩水”の癖が、刃文に微細な波を残していた。これは王国を護る者の象徴、最前の線に立つ者への委任状でもある。


 彼は一輪の白百合を、アメリーの石棺に手向けた。

 顔には僅かな微笑――生前によく浮かべていた、礼と余白を両立させる、あの薄い弧。


「アメリー。俺はこれから、大きな戦に赴く」


 声は低く、石に吸われる前に、緑に染みた。


「……“あの時”君が望んだ“歩き方”が出来ているか、正直わからない」


 自嘲が、ほんの少し混じる。

 アメリーを失ってから、彼の内に空いたものは大きすぎた。苦しみから目を逸らすように、戦へ傾く日々。数式で塗り固められた行程。結果の列が余白を追い出し、最短の道が唯一の道へと変質していく。彼自身、それを客観視できなくなっていた。


 懐の薄瑠璃の髪留めに、外から触れない指が触れる。

 胸板の内側――鎧の裏、心臓の上、革紐で留めた小さな袋の中に、それはある。戦に赴くとき、守りの護符は誰もが持つ。セイリオスにとっては、これがそれだった。


「――恥じないように立っているつもりだ。……そうでありたい」


 言葉は続かず、代わりに沈黙が続いた。沈黙は礼だ。アメリーはいつも、言葉より先に行為を置いた。彼も今は、言葉より先に立ち方を選ぶ。


 王都の風が、墓所の丈の低い草を撫で、白百合の花弁を一枚だけ揺らす。

 セイリオスは一礼し、石棺に掌を置いて、短く祈った。

 勝利を、守護を、そして――かつての「愛」に恥じぬ姿を。


「公共の読書館は――名を『開かれた頁』とする。君の歩き方が、そこに続くように」


 約束の行を、声にして刻む。

 彼は踵を返した。振り返らない。騎士の靴音は石の上で控えめに響き、《レイディアントブレード》の鞘は一度だけ鎧に触れて小さく鳴った。


 墓所の門までの道は、真っ直ぐに見えて、わずかに曲がっている。石の敷き方の癖か、造園師の美学か――あるいは、王都の“余白”の作法か。

 セイリオスの歩幅は一定、呼吸も一定。けれど、その歩みの底には、彼とアメリーが学び合った曲線の感覚が、細く、確かに残っていた。


 墓所の門の外には、戦のために用意された馬が二十、使令が五、旗手が三。老将は片手で槍を持ち、片手を胸に当てて敬礼する。彼の顔に浮かぶのは誇りと哀しみ、そして、ただ一つの了解――「若」を最前に立たせることが、今は最も多くを救う。


 王国の城壁の外には、既に数多の軍馬と兵が並んでいる。これより出陣の時。


 セイリオスは頷き、鞍に足を掛ける。

 《レイディアントブレード》の柄へ、手が一度だけ触れる。

 薄瑠璃の小さな髪留めは、胸板の裏で音もなく眠る。


「それじゃあ行ってくる」


 いつかの約束のように、出立のひと言だけ。

 “どうか御無事で”――もう永遠に返ってこない、その返句を胸の空洞で受け止め、彼は手綱を引いた。


 馬の首が上がり、蹄が石を蹴り、旗が風を掴む。

 城門の外へ出れば、道はすぐに土になる。土の匂い、遠い麦の匂い、寒さの匂い。すべてが戦の匂いへ混ざっていく。

 先導の角笛が一度鳴り、王都の空気が一瞬だけ固まり、すぐに流れ出す。


 振り返らない。

 名を求めず、記録を恐れず、ただ、誓いの通りに。


 墓に手向けられた白百合が、風に揺れた。

 最初の揺れは寂しげに、次の揺れは少し大きく、その次はまた小さく。

 花弁は落ちない。茎は細いが、根は深い。


 王都の鐘は鳴らない。

 代わりに、遠くで鍛冶の火が割れる音がした。

 明日も誰かが働き、誰かが誓い、誰かが希望を掲げる――その音。


 セイリオスは前だけを見ていた。

 剣と心で、国境へ。







 彼の影は長く、地に真っ直ぐ落ちて、やがて、陽の向こうへ溶けていった。








最後までお読み下さり、ありがとうございました。

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