第16話
病室の窓は東を向いていた。セイリオスは毎朝、その角度に合わせて椅子を二指ぶんだけ斜めに置き直す。朝の光がアメリーの顔を直撃しないよう、枕元の潤布を軽くしめし、午後は風抜けを弱めるためにカーテンの結び目を半幅ずらす。それは決まりごとになり、王都の鐘が一つ鳴るより先に彼の指先は布を整え、香炉の白梅香が淡く満ち、砂時計の細い砂が最初の筋を描いた。
書類の一角は、いつしかこの部屋に移っていた。公務と私事の線を引く男が、その線を“座る位置”だけで融かした。印の要る決裁は書記官を呼び、音の出る討議は廊下の先で済ませる。椅子の脚がきしむ音ひとつ、咳の合間に重ならぬように。
軍部は静かに黙った。書類嫌いだった大男が、粗末な字をひと月で整えてきた。冬景色の美貌で不備を見つけてくれる「姫」は、もう机間を回らない。だから彼らは誤字ひとつを許さず、端書の端まで正しく書いた。「殿下の分の時間を空ける」――口にはせず、各自が自分の一日から余白を切り出した。酒場の笑いが一度だけ低くなり、鍛錬場の掛け声はいつも通り高く、涙はどこにも見えなかった。セイリオスが泣かない以上、兵の誰にそれが許されるだろうか。誰が言い出すでもなく、王国の背筋は自然に伸びた。皮肉にも軍の結束は過去最高、だが誰もそれを喜ばない。
アーラは三日に一度の割合で訪れた。笑顔を携え、派手すぎない蜂蜜色のショールで室内の光に温度を足す。学舎の思い出を軽く語り、最近の街の面白い意匠を見せ、噂話の体裁で文官の流行語を二つ三つ。アメリーは枕元でうなずき、短く言葉を返す。「その旗の意匠は好き」「灯芯の編み方は直すべき」。彼女らしく、実用的な、美しい判断。
けれど、ある日、アーラの笑顔は途中で崩れた。薄い咳がふたつ続き、間を置いて三つ目が出たとき、アーラの目尻から音もなく涙が落ちた。自分で驚いたように目を瞬き、慌てて手の甲で拭う。「ごめん、違うの、花粉が……」「うん」とアメリーは微笑む。「花粉は、厄介」。細くなった指が、アーラの手を撫でた。「アーラ、泣かないで」――言葉は小さいのに、慰めの手の置き方はこれまでと少しも変わらない。アーラは堪えきれず、肩を震わせた。「ごめんね、ごめんね」と子どもみたいに。セイリオスが静かに水盃を傾け、侍女が潤布を取り替え、香炉の香を一匙だけ足した。泣き顔の友に、アメリーは微笑で礼をした。「来てくれて、ありがとう」。
宮廷の評議は冷えていた。一度、王府の机に「合理」の衣を着た提案が並ぶ。「殿下、王国の将来を思えば――」「妃の地位は早めに置き換えるべきかと」――紙の上の言葉は冷たく乾いている。セイリオスは短く遮った。「王冠は人の上にある。だが、人から離れてはいない。ロシュフォール侯爵家の令嬢は、王国の婚約者だ。最後まで」。そして記録官へ命じる。「この決定は議事録に残せ。『病を理由とした解除要求は王命により却下』と」。その場にいた老将――蒼き槍無双は、後で兵舎で語った。「あの時の若は、戦場に立つ大将の覇気を纏っていた。法服の者らが勝てるものか」と。
ダリウスは静かに火消しを続けた。上がってくる異論の九割は、彼とその配下の文官で消えた。不要な書状は回覧で眠らせ、必要な稟議は道筋を最短に、噂は論で、陰口は秩序で圧し潰した。兄の時間に他人の“瑣末”を割かせない――それが彼の戦場だった。
アメリーは起居の礼を崩さなかった。枕元から短冊を取り、文言の誤りを赤で囲む。印章の押し方が浅い書類には朱を添え、差し戻しの理由を端的に記す。「小見出しは右寄せ」「条番号の重複」。彼女の線はいつも均整が取れている。だが、体力は落ちる。短冊を五枚直した日は、次の二日は枕元で目を閉じて過ごすようになった。咳が出るたび、胸の奥で見えない玻璃が軋み、潤布は新しいものに替えられ、白磁の瓶の水位が少しずつ下がる。
季節は容赦なく進む。秋、王都の並木道が金に染まり、子どもたちが落葉を蹴って笑った。その報告にアメリーは目を細め、「掃除の手配は増やして」と小さく言った。冬、城門の上に薄雪が掛かり、兵の外套に新しい裏地が支給された。セイリオスは報告書を読み上げる合間に、外の匂いを言葉で運んだ。青麦の出来、サン=リヴィエールの検疫所新設、王立学院の若い学者が古い灌漑法を発見したこと。「良いわ」とアメリーは言った。「洪水の時の迂回路が増える」。そして、ひとつだけ私情を口にした。「セイリオス様、いつか……王都の広場に公共の読書館を。誰でも来られる場所を」。彼は頷いた。「約束しよう。君の“歩き方”が、そこで続くように」――余白を学んだ二人の約束は、法の紙に書かれない代わりに、胸へ深く刻まれた。
◇ ◇ ◇
最後の一週間は、薄氷の上を歩くようだった。水を一口含むだけで、胸の奥の傷がひりつき、侍女が濡らした布で唇を湿らせる。食事はもう香のような存在に過ぎず、香炉から白梅香が淡く立ち上る時間のほうが、むしろ栄養らしかった。視界は霞み、光は柔らかい布越しのように鈍る。アメリーは、しかし、礼だけを落とさなかった。侍女が入れば目を向け、医師が脈を取れば短く頷き、セイリオスが椅子を動かすと、その音のほうへ微笑んだ。
セイリオスは詩集を開いた。恋の炎を歌う詩ではない。約束と誇り、歩くこと、立つことをうたう古い詩。規律正しい王道の調べ――不器用な選び。だが、彼の声はよく響き、部屋の隅々まで温度を配った。アメリーは眉の形をやわらげ、静かに聴いていた。恋の煌めきは無い。二人の間に、最後まで恋の形は無かった。
けれど――セイリオスの口から紡がれる詩を聴いて、アメリーは幸せそうに笑っていた。一生分の幸福を受け取ったような顔で、微笑んでいた。
「……公共の読書館、名前を考えました」
「……どんな名前だい?」
彼が問うと、アメリーは答えた
「誰のものでもない名――『開かれた頁』、等どうでしょう」
「良い名だ」
夜は深まった。窓の外、雪は今は降らない。香炉の火が落ち着く。砂時計が最後の砂を落とすと、侍女が新しいものと取り換える。その仕草すら、儀礼の一節のように整っていた。セイリオスは椅子の背を少し前に倒し、彼女の呼吸に合わせて言葉を減らす。詩集を閉じ、代わりに灯籠祭の合唱《星の結び》の旋律を低く口ずさむ。声は歌うほどには強くないが、語りよりは柔らかい。アメリーの指が、ほんのわずかに答えた気がした。
「セイリオス様……貴方の歩む道に、光がいつでもありますように。貴方は頼られぬ王ではなく、頼られてもなお“自分の足で立つ”王子。私は――そんな貴方様が好きでした」
言葉が落ちる前に、静かに咳が一つ。セイリオスは彼女の髪に挿した薄瑠璃の小さなピンをそっと外し、懐に納めた。「預かる」とだけ言い、白い指を両手で包み込む。枯れ枝のように細いその手は、それでも彼の掌で温まった。
「ありがとう。君の献身を、未来永劫忘れない」
涙は流れない。流してしまえば、何かが決壊してしまうのがわかっていたからではない。彼らの愛は最初から“泣くこと”より“在ること”を選んできた。礼と法の上に、余白を足して、一つの聖域を築いてきた。その形は、最後の瞬間まで崩れない。
ふたりの会話は、そこで切れ切れになった。言葉は薄くなり、代わりに手の温度が言葉の役目を引き受ける。侍女が一度だけ入室し、燈を低くし、潤布を加え、無言で出て行った。扉は音を立てない。
夜明け前は、世界が最も静かになる。窓の硝子の向こう、空の色が黒から紺へ、紺からごく薄い青へ移るその刹那。鳥はまだ鳴かず、川も息をひそめる。アメリーの呼吸は細く、間は少しずつ長く、けれど乱れはない。セイリオスは握る手の脈に合わせ、深く息を一度吸い、吐く。彼の胸の内で、何かが解け、何かが結ばれる感覚があった。
翌朝、アメリー=ド=ロシュフォールは静かに眠った。
呼吸の最後は音を立てず、香炉の煙は細く真っ直ぐに天井へ昇り、窓辺のカーテンがわずかに揺れ、それきり止まった。セイリオスは彼女の手を少しの間握り続け、それからそっと寝具の上へ戻し、薄い布で指先を包み、胸元の薄瑠璃のピンに軽く触れた。侍女が入ってきて深く頭を垂れ、医師が脈を確かめ、白い帳が半歩だけ引かれる。老将はその朝、鍛錬場で無言の敬礼をひとつだけ掲げ、兵たちは誰に命じられるでもなく足音を静かにした。
王都はいつもの朝を迎える。パン窯が火を入れ、井戸の水が桶に落ち、遠くで鐘が二つ鳴る。セイリオスは椅子を元の位置に戻し、窓の角度を一度だけ確かめた。そこに座るべき人はもう戻らない。だが、彼はゆっくりと立ち上がり、整った寝台を見つめ、かすかに頭を下げる。
「約束は、続ける」
言葉は小さい。けれど、彼の背はまっすぐで、歩みは静かで、部屋を出る足音は、世界のどこにもぶつからなかった。白梅の香はまだ薄く残り、砂時計はうつ伏せのまま、二度と返ることは無かった。




