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第一王子殿下と侯爵令嬢の不器用な「愛」の行方  作者: 初音の歌


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第15話


 病室は静かだった。窓には薄く霜の気配、白いカーテンが吸い込むように光を和らげる。壁際の香炉には冷やした白梅香がわずかに焚かれ、湿りを保つための潤布が水盆の縁で滴りをつくる。呼吸数を見守る砂時計は、細い砂の線で時間を刻み、医師と侍女は結界札を確かめると「合図を」と一礼し、そっと退いた。


 椅子に腰を掛けたセイリオスは、両手を膝に置いたまま動かなかった。剣を帯びていないことに気づく。初陣以来、彼の傍らに長剣がない時間は数えるほどしかない。今日、それを外した。ここに剣の用はない。あるのは、ただ片手。

 寝台のアメリーは、穏やかな寝息で胸を上下させている……ように見えるが、よく聴けば息は浅い。吸うたび胸骨の奥で、目に見えない玻璃の欠片が擦れ合う。睫毛に冷香がかかり、灰金の髪が枕元で薄い光を受けていた。

 セイリオスはわかっていた。医師の言葉も、学びも、戦場で鍛えた判断も、すべてが一つの結論に収束していることを。正着――国家の第一王子が選ぶべき最短の合理。だが、彼はその“線”に足をのせない。遠回りですらない。ふと、指が動いて、寝台の端の白布の皺を伸ばす。意味はない。意味がないからこそ、今は必要な無駄だった。


 まぶたが震え、アメリーがゆっくり目を開いた。薄群青の瞳が焦点を探り、最初に映したのは窓の光、次に砂時計、そして椅子の上の彼。セイリオスはすぐ前へ寄り、声を落とす。


「じっとしているんだ。身体を起こさなくていい。喋る必要もない。今は安静にしていてくれ」


 言いながら、胸の上の潤布の位置を整え、枕の角度をわずかに下げる。手際は軍務に似ているが、手付きは戦場のそれとは別のものだ。アメリーはその指を見て、短く微笑した。


「……ここは、病室ですね」


 頷き、彼はそれ以上を言わない。告げるべきか、黙すべきか――理ならば前者、心ならば後者。彼は“心”で沈黙を選んだ。

 アメリーは視線を天井へ流し、呼吸の浅さと胸の痛みを数える。自分の体内で、何がどうなっているか。これまで拾ってきた知、文、記録、噂。王都の医局の最新報。魔法国の論考の摘要。帝国式の理学療法。彼女はそれらを順に並べ、ゆるく目を閉じて、そっと結論に触れた。

 残酷なまでに鋭すぎる、アメリーの頭脳。


「セイリオス様……私の病名は、《玻璃肺》、ですか?」


 砂が一粒、落ちる音が聴こえた気がした。セイリオスは、一瞬、何も言えない。喉の奥で幾つもの言葉が出陣を待って整列し、しかし彼は号令をかけ損ねた。沈黙。その一秒が、何より雄弁だった。

 そしてのそ一瞬の沈黙が、アメリーの推測を確信に変える。自分の置かれた状況を正しく理解した澄んだ瞳が、セイリオスの目に映る。

 アメリーはその澄み切った瞳で、セイリオスを見た。彼女は才媛だ。だから、次の言葉もまた、揺るぎない理から引き出された。

 悲しくなるほどに優秀だからこそ、出る言葉。



「セイリオス様。私を――解いてください」



 寝台の上の声は、驚くほど静かだった。泣き声でも嘆きでもない。王都で最も美しい公文書の一行のように、正しく、端正で、取り消し線のない決断。



「わたくしは、もう妃の務めを果たせません。子も、たぶん授からない。王国のために、次の婚約を」



 言葉は、正しい。国家という大きな器の勘定では、最短で、最善。セイリオスも知っている。脳裏では、その答えに到達していた。……だからこそ、彼は別の“線”を引いた。剣の柄を握る手が、そっと寝台の縁に置かれた手を包む。彼の掌は鍛えた硬さ、彼女の手は白磁のようなひんやりとした細さ。二つの温度が、真ん中で和らぐ。

 口が、考えるより先に動いた。




「たとえ君が明日死ぬ命なのだとしても――それまでは、俺の『婚約者』だ。誰にも文句は言わせない。君の献身に、最後まで応える」




 自分でも驚くほど、言葉は迷いなく出た。理の秤に乗せたら軽いのかもしれない。けれど、今この瞬間、彼は秤を置いた。光の女神のような法の刃ではなく、人の指で、彼女の手を握った。

 直線でも曲線でもない言葉だった。図では引けない、秤の外の言葉。……二人で育てた「愛の余白」。

 アメリーの睫毛が、かすかに震えた。瞳の底に淡い光が滲み、白梅の香の上に、塩のきらめきが一粒だけ落ちる。

 薄群青の瞳に涙が流れたのを、セイリオスは今日初めて見た。


「……セイリオス様は、きっと良い王になられます」

「俺は王になる前に、人でありたい。君と一緒に余白を作る、人でありたい」


 彼の声は低く、しかし遠くまで届くような芯があった。夜会で学んだ“弧”の歩き方を、いま二人の間に引き直すかのように。

 アメリーは目を細める。あの日、灯籠祭で並んで立ち、予定外の道を選んだ時の呼吸を思い出す。正着を外れる勇気を、彼が隣で分けてくれた夜。


「それが“王”ですわ。今なら解ります。セイリオス様は人の余白を知る、優れた“王”に、きっとなる」


 彼女は言い切り、軽く息をついた。胸の奥で玻璃が擦れる。それでも、微笑みは崩れない。セイリオスは椅子をさらに近づけ、握った手の下にもう片方の手を添え、指先で脈を確かめる。一定だ。浅いが、一定。彼は安堵を声にしなかった。かわりに、穏やかに尋ねる。


「痛みは」

「……少し。でも、耐えられます」

「水を少し飲もう。喋るのは――最小限でいい。……いや、俺が話す。君は、聴いていてくれ」


 彼はゆっくりと、最近の訓練場の話をした。槍無双の老将が、遠乗りの提案をし、護衛を揃え、風の良い丘を選んだ日のこと。訓練後の兵の笑顔。蜂蜜飴の話。アメリーの扇が王都の議場でどんな音もしないで閉じること。取るに足らない、けれど二人の間では大切になった小石たちを、ひとつずつ掌で温め直すように。

 アメリーは頷き、時折、短く返す。


「……護衛の方々は、飴で買収されましたわね」

「完全に。彼らは君の党だ。俺の党より、たぶん大きい」

「それは困りました……いえ、心強い、の間違いですわ」


 二人の間に、静かな笑いが走る。笑いは長続きしない。息が浅い。だが、それで十分だった。笑いがここに届いたという事実だけで、十分だった。

 窓の外で、昼の光が少し傾く。砂時計はひとつ、砂を落とし切って、侍女が新しい砂時計に手を伸ばし、彼の視線に気づくと小さく会釈し、また退く。セイリオスは握る手にほんの少し力を足す。


「……アメリー」


 呼び捨てが自然に出た。それ以外の呼び方が存在しないような、そんな呼びかけ。

 彼女は目を細め、その名の呼ばれ方を、ゆっくり胸にしまう。


「はい」

「君が望むことを、言ってほしい。できる限り――いや、できることは全部する」


 アメリーは考え、短く首を振る。


「大それたことは、何も。……ただ、王妃教育の記録を整えさせてください。次代のために、手順と書式を、抜け漏れなく。あとは、城門の前で――いつものように、出立の時に、ひと言だけ。『行ってくる』って、聞かせてください」

「約束する」

「ありがとう、ございます」


 彼女はゆっくりと目を閉じ、呼吸を整える。そして、まぶたの裏で、小さな灯が揺れた。川へ送り、空へ掲げた夜の灯りが、ふいに戻ってきたみたいに。


「セイリオス様」

「ここにいる」

「……わたくし、怖いのは“死ぬこと”ではないのです。怖いのは置いていくこと。貴方を。王都を。王国を。だから、最後まで、正しくありたい。正着を――」


 言いかけた言葉を、彼は穏やかに遮った。


「最後まで、一緒に“遠回り”しよう。正着は逃げない。待っている。だから、今は……俺たちの歩幅で」


 アメリーは目を開ける。薄群青が、光を吸い、彼の姿を真っ直ぐに映した。涙がまた一筋、白い頬を伝う。彼女はもう片方の手で、彼の手を包み返し、ほんの少し、指を絡める。


「……はい」


 二人は微笑み合った。結末の影は確かに見えている。だが、その影の縁に、彼らは自分たちの“余白”を描いた。直線ではなく、穏やかな弧で。誰にも侵せない、二人だけの聖域で。


 白梅の香がかすかに強くなり、砂の音がまた細く落ち始める。窓辺の光はゆるやかに色を変え、病室は薄く金に染まる。セイリオスはその光の中で、彼女の脈をもう一度確かめ、握った手の温もりに頷き、ただ、そばにいた。



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