第14話
季節はひとつ巡り、王都の空は透きとおるように高かった。婚約から一年余。二人の歩みは、礼と法を外さぬまま、指先の触れ合いと呼び名の柔らかさを覚え、周囲の評判は「微笑ましく、誇らしい」に落ち着いていた。軍務、文務、そして私務。行程表は相変わらず隙がないが、行と行の間に、自然に手が重なる余白が宿っている。軍部の人間は、デートの前日になれば「殿下! ちゃんと楽しませてあげなきゃ駄目ですよ!」「男の甲斐性みせてこそデートです!」「漢気、見せてこい」と笑い、セイリオスは「ああ、任せておけ」と真正面からうなずいた。ロシュフォール侯爵令嬢は、彼らの“姫”だった。冬の冷たさと、蜂蜜飴の甘さが、彼らの安らぎになっていた。
その日も、いつもと同じに見えた。文机の上には灰銀の扇と、起草中の議定案。アメリーは端正な字で注記を入れ、咳をひとつ、袖口へ落とした。わずかに眉が曇る。乾いた空気のせいだと、換気の窓を開け閉めするよう侍女に指示を出し、蜂蜜湯を一口。セイリオスは外気が冷えると見るや、黙って上着を肩に掛け、アメリーは「ありがとうございます」といつもの調子で頭を下げた。そこまで、いつも通りだった。
その時は、誰も気付かなかった。ただ風邪の類かと思っただけ。アメリ―自身も、体調に気を付けなければと思い、部屋の換気などに注意したくらい。食生活も常に気を使っている。何せ、このままいけばアメリ―はいずれ「王妃」となるのが確定。政務の合間に王妃教育も受けており、正しく政略婚を美しい形で実現しようと努力している。食生活の乱れなど、最初から無い。セイリオスだって、そんなアメリ―に気を使っている。外気が冷える時は、当然のように外套を羽織らせる。その度にアメリ―が「ありがとうございます」と微笑み、セイリオスが「当然のことだ」と微笑み返す。余白の笑顔を絶やさずに、婚約者の体調を崩さないよう振舞ってきた。
だが、咳は止まらなかった。翌日、翌々日と、回数は増え、咳の後に胸の奥で細い針が散るような表情が、ふと一瞬だけ浮かぶようになった。誰もが“疲れ”と呼んだ。本人もそう呼んだ。呼び続けていたいと願った。
転機は唐突に来た。正午すぎ、政務卓に広げた流通統計の上で、アメリーは肩を震わせ、膝へ落ちるように座した。袖口に小さな紅が走った。吐く息が浅く、胸の奥で玻璃片が擦れるような音が、彼女自身だけに聴こえていた。侍女の叫びとともに医師が呼ばれ、廊下の足音が重なって、扉は内側から閉ざされた。
報せは、いつもの小間――いつしか「見守り隊総本部」と囁かれる部屋に届いた。茶は温いまま忘れられ、机上の王都地図はその上から何かを指示されるのを待っているのに、誰も指を伸ばさなかった。
「どういうこと!?」
アーラは椅子を蹴るように立ち上がり、侍女姿の影の局員へ詰め寄った。彼女の琥珀色の瞳はこれまで見せたことのないほど荒い波で揺れ、声は擦れている。
「まさか暗殺? 誰――誰が今のアメリーに手を掛けられるっていうの? 言って、早く!」
「落ち着いてください。刺客の手ではありません。病です。誰の悪意でもない。病の手が、ロシュフォール侯爵令嬢を傷つけました」
影の局員は低く、均した声で言った。そこにデートの報告の度に見せていた、冗談めいた茶目っ気は一切無い。冷静な、冷静過ぎる態度で言葉を発する。
ダリウスは椅子の背に手を置いたまま、唇だけで息を吸う。面会は禁じられている。第二王子の権限をもってしても退けられたという事実が、容赦ない答えを先に示していた。彼は大声を飲み込み、影の局員に視線を固定した。
「報告を。正確に、端的に」
影の局員は一拍置いてから、言葉を選ぶように舌を動かした。前置きは長いようでいて実際は二語だけだった。
「どうか、落ち着いて」
そして、刃渡りの短い刃物のように、病名を置いた。
「ロシュフォール侯爵令嬢の病名は――《玻璃肺》です」
音が消えた。比喩ではなく、部屋から音という音がいったん抜け落ちた。アーラの瞳が大きく開いて、何も掴めないまま空気を求める。ダリウスは手の力を強め、背もたれがきしむ音を無理に立てて、世界に音を戻した。
その名は知っている。珍しい病で、滅多に発症することはない。それこそ国で何十年に一人の割合でしか罹らない稀有な症状だ。
だがそうではない。それは病の本質は――知っている筈なのに、ダリウスの脳が理解を拒む。
「待て。待ってくれ、その名は、その病は」
「三国でも稀有な病、玻璃肺。肺胞が硝子片状に硬化し、呼吸運動のたび裂傷を生じます。疼痛より、息の浅さと微出血が主です。魔法資質の異常成長が原因と言われていますが、詳細は未だ不明。進行は緩慢。ただし不可逆。根治は――現行の学と術では、どの国にも手がありません」
言葉は淡々としていた。だからこそ、重かった。
アーラの指が、侍女衣を掴んだ。指の震えが、手の震えが……心底から溢れる恐怖が止まらない。
感情のまま、言葉だけが口に出る。
「そんなはず、ない。ないの。だって、これから、兄様と――」
声は自分の重さに耐えきれず折れ、泣き声に変わった。局員の胸倉を掴んで、叫び声が発せられる。
瞳から流れる涙は、降り注ぐ豪雨のようだった。
「ねぇ! 貴方、王国の情報局なんでしょ! 何か知ってるんじゃないの!? 教えてよ! 王国に無いなら帝国、魔法国は? 交易はあるじゃない。医術もある。どこかに、どこかに――!」
ダリウスが動いた。抱きしめるというより、倒れそうな体を支える。その腕は細いのに、揺るがない。彼の胸元に、アーラの涙が吸い込まれていく。彼はアーラを押さえる手で、もう一方の手を影の局員に向けてわずかに上げた。まだ話を、と合図する。
影の局員は、胸倉を掴まれた痛みを無視した。反撃の言葉も、慰めの常套句も、すべて選び取らなかった。ただ、記録として保存するように事実だけを重ねた。
「三国とも延命は試みています。湿潤管理、体位の規則運用、鎮痛、負荷の軽減。水の僧侶の補助療法も、呼吸の安寧を確保する程度には効きます。けれど……根本的な治療法は、まだ何処の国でも見つかっていません。影の局が保証します。現状《玻璃肺》を治す方法は、世界の何処にも存在しません」
アーラの手が、じわりと力を失い、布から滑り落ちた。彼女は顔を覆い、その隙間から、砕けた声を絞り出す。
「保証しないでよ……そんな、保証なんて、要らない……!」
泣く。泣き方がわからない幼い日のように。肩を震わせ、息を詰まらせ、それでも泣く。ダリウスは何も言わない。言わないことで守れるものがあると知っている。背を支え、手を握り、呼吸を整えるペースだけ一緒に刻む。彼の胸の内では、別の計算が無言で転がっていた。王都の風聞を封じる網、文官局への連絡、ロシュフォール家の保護、王家医局の舵取り――すべて情に背を向けずにやり遂げる順番を、最短距離ではなく“確実な弧”で引く。
影の局員は、ただ立っていた。表情は動かない。けれど言葉の端にだけ、薄く、冷えた無念が滲んだ。
「残念です、本当に。……私も、あの殿下と侯爵令嬢のやり取りを、もっと長く見ていたかった」
それは職務外の、個としての一言だった。局員は礼を浅くして挨拶し、静かに扉へ向かう。足音は軽い。扉が閉じる時も、音は立たなかった。
小間には、泣き続ける音と、呼吸の数を数える音と、湯気の消えた茶の匂いだけが残った。壁の地図には、王都から伸びる街道が相変わらずまっすぐ引かれている。そこに寄り添うべき“弧”を、今この場の誰も描けず、ただ時間だけが流れた。
やがて、アーラは泣き止んだ。赤い目のまま、かすかに笑おうとする。いつもの癖で、冗談を探す。けれど今日の彼女は、それを口に出さなかった。代わりに、ハンカチを丁寧に畳み、ダリウスの手に返した。
「……ありがとう」
「当然だ」
二人は椅子に座り直し、しばし沈黙を分けあった。外では王都の鐘が遠く、時刻を告げる。いつもの音だ。いつもの音なのに、今日だけはやけに遠い。ダリウスは最後にひとつ息を整え、従者に命を下す。王族としての冷静な判断が飛ぶ。
「文官局へ。情報封鎖と、必要な通知の順。……誤りを出すな」
返事の声が走り去る。小間の空気は再び職務に戻ろうとしていた。涙の跡は消えない。それでも、人は動く。動くしかない。
玻璃の欠片のように痛む現実の上で、彼らは自分の持ち場を確かめ直す。誰かの不幸を“物語”にしないために。誰かの愛を“噂”に落とさないために。
扉の向こうには、閉ざされた部屋がある。そこにいる誰かは、きっと手を握っている。握られた手の温もりが、玻璃の奥まで届くことを願いながら。




