第12話
星潮の水面は、夜のはじめを浅く映していた。川沿いの欄干には潤紙と竹骨の灯が段を成し、王城からは律壇の白布が風に鳴る。王都灯籠祭――過去を水へ、未来を空へ。三夜のうち、本祭の中夜。
第一王子と婚約者は、護衛を幾人か従え、さながら教範の挿絵のように歩いていた……本当に、教範の挿絵のように。セイリオスは小声で号令を切る。
「右、左、今だ――」
「承知しました。歩幅二尺五寸、維持」
護衛の若者が肩を震わせ、隣の古参が咳払いで笑いを呑む。二人は真剣そのものだ。不仲では到底できない、しかし恋の甘さからは見事に遠い、あの“規律の愛”。
行程表には十五分刻みの難行が並ぶ。歩幅合わせ十五分、会釈角度の復習五分、手袋脱着の所作確認十分。香具師の口上よりも細やかな段取りだ。だが、その行程の合間に、今は確かな“余白”が忍び込む。
川の脇、家ごとの系譜布が卓に敷かれ、僧侶が小祓を施す列に並びながら、アメリーがささやいた。灯の声に紛れる音量で、しかし迷いは隠さない。
「……私は、ちゃんと出来ているでしょうか、殿下。侍女の恋愛話も聞いて勉強はしているのですが……私には、よく判らなくて」
不安げなアメリ―の声。婚約当初では決して表に出さなかった弱音の色。その色をセイリオスの前に出した意味を、アメリ―はまだ気付いていない。
セイリオスが頷く。その真っ直ぐな横顔に、戦場でも見せぬ種類の不安が差した。
「それは俺も同じだ、婚約者殿。剣や軍の率い方は教わったが、『婚約者と仲を深める』兵法はどこにも載ってない。君を不快にさせていないか、いつも悩む」
互いの弱さが、初霜のように言葉の表に降りた。二人は気づかない。いま口にしたその迷い自体が、すでに距離を縮める“余白”だということに。
順番が来る。川灯――浅皿の木枠に潤紙、潮柑の皮の灯芯。系譜布を卓にかけ、二人はそれぞれの“過去”を記す。アメリーの筆先は静謐だ。『議場での言、過ぎた一度』。セイリオスは短く『若気の慢心』と記す。虚偽は禁忌、隠せば水は濁る。僧侶がうなずき、二人は指先で聖泉を掬った。ほんの一滴。アメリーは一瞬だけ瞳を伏せ、まつ毛の先が濡れた。
「流るるは悔い、残るは教え」
唱和が響く。十二の石壇から扇状に灯が放たれ、藍と白の小舟が星潮の面を滑っていく。二人の灯も、その群れの一つになった。水面は受け入れ、過ぎたものを運ぶ。アメリーは川に向かって、息ほどの声でさようならを言い、セイリオスは無言で掌に剣指を作って敬礼した。
続いて鍛灯――小さな熾を納めた鋼盃に、各々“焼き捨て”を投ずる儀。セイリオスは革巻きの小片を取り出した。『過剰な稽古計画案・第七稿』と極小の字がある。アメリーは薄紙に、『余白なき議事録の癖』と一行。二人は目を合わせ、同時に火へ落とした。熾きが柔らかく口を開け、紙は無音に赤くなって消える。
「未完成を炉に返す。明朝、より鋭い刃を」
合せて口上を置くと、近くの鍛冶師の老女が、満足げに顎を引いた。
城門前広場へ移る。追風柱が立ち、ヴェントゥラの司が短笛で四方の風を招く。風灯――薄骨の竹に風布、下に小灯。帯紐には“手放す約束”を結ぶ。セイリオスは短文で書くのに迷い、やがて苦笑をひとひら。
「……『手順表の角を丸める』」
「良い誓いです」
アメリーは真顔で頷き、自分の帯紐に『恐れを一つ手放す』と記した。二人は紐を一本、場で断ち、風布に結び替える。合図の笛。数千の凧が一斉に上がり、夜空に金と灰の粒が散る。切った紐が足元に落ち、誰かの子供がそれを拾って笑った。
「殿下、あの子……」
「俺が行く」
アメリーが視線で示す。幼い手が結び目に苦戦している。護衛が一歩出かけたのを、セイリオスが手で制し、自ら歩む。
二人は列を離れ、子の傍へ屈む。セイリオスは結びを手早く、しかし子の手を導くように教える。アメリーは結んだ先端を指で押さえ、風布がよく風を拾う角度を、子にもわかる言葉で伝えた。
「うまい――飛んだぞ」
風灯がひとつ、遅れて空へ昇った。子の顔がぱっと明るくなり、母親が深く礼をとる。アメリーは礼を受けるときだけ、少しだけ会釈の角度を崩した。教本にはない“無駄”――それを人は、柔らかさと言う。
律壇では光誓の列が進む。新任の騎士と官吏たちが柱灯の前に立ち、光の女神アストラヴェルの司祭が問いを重ねる。
「正か否か」
「正」
「誰のためか」
「民と法のため」
「代償は何か」
「私心」
司祭が剣の柄で灯を一度叩く。微かな焼印が誓条板に刻まれ、若者の背筋が伸びた。セイリオスはその光景に、自然と立ち姿が正されるのを感じる。隣のアメリーも、誓条の響きに目を細めた。二人はいつものように正が好きだ。だが今夜は、その正の周りに薄く“余白”が描かれている。
屋台の一角では的当てを子らが競い、影芝居小屋からは、過剰な美化を避けた等価交換の寓話がくぐもって流れる。河畔舞の白衣が水際で三拍子を踏み、潮の匂いと蜂蜜と焼き串の匂いが混ざる。護衛がさりげなく道を拓き、二人は灯市の屋台の一つで足を止めた。
「蜂蜜菓子を二つ」
セイリオスが告げる。夜会より緩い声色だった。渡された紙包みから、温い甘香が立つ。アメリーがひとかけ齧り、目を瞬く。
「……美味しい」
それだけ言って、黙って二口目を待つ自分に気づき、彼女はすこしだけ頬を染めた。いつもなら「産地」「価格」「普及策」と話が跳ねるところだ。今夜は、それをしない。しないことを、二人とも選んだ。セイリオスは安堵の笑みを紙包みに落とし、指先が偶然に彼女の手袋の縁に触れる。彼女は引っ込めなかった。
ふと、アメリーが囁く。その囁きにセイリオスは正直に答える。
「……アーラと第二王子殿下が、私たちを『見守って』いるらしいのです。そんなに、おかしいでしょうか」
「わからぬ。俺も婚約者殿も、正しく過ごしているつもりだ……ただ、あの『余白』というやつが難敵でな。正着が見えていて、敢えて遠回りを選ぶのは、どうにも落ち着かない」
「解ります。確かな正解に手を伸ばさないのは、不安になるので」
「うむ」
似た者同士が、似た調子でうなずく……それは婚約当初には決して起こらなかった、遠回りの会話だ。
人波の上手に、黒布の小灯をそっと守る影のテラスが見える。影の局の監視下で、影契が交わされる場所だ。そこへ向かう人影は少なく、道の先に見え隠れするだけ。セイリオスもアメリーも視線を留めない。彼らの夜は、法の光の側にある。けれど、そこに闇の窓がある事実もまた、王都の均衡だ。
復讐・禁断の願い・秘匿保護など。“対価”を明記し力を得る。正道だけでは得られぬ救いがある事を、二人は知っている。だからこそ視線も向けない。
影契りの契約破りは暗黒神ヴェスペリオンの禁忌。影契りを求めた者が以後、王都出入りに制約が付けられない事を祈るだけ。
灯の波は下り、合唱が始まった。《星の結び》。王立図書院の合唱隊のハーモニーに合わせ、水面の小灯が拍を刻むように揺らぐ。歌の後、黙祈。人々が胸中で亡き人の名を呼ぶ時間。セイリオスは心の中で二つの名を呼んだ。戦場で救えなかった名。アメリーは一度だけ目を閉じ、扇の骨を一つだけ握り直した。
黙祈がほどけると、王が律壇に立ち、短い言葉で締める。王国は過去を敬い、明日へ進む。表の締めは明快だ。裏では、影の局が等価交換の記録を鍵庫へ封じる。二つが揃って、王都の灯籠祭は“調和”を名乗る。
喧噪が戻り、人の輪がやや崩れる瞬間、アメリーが微笑して言った。
「では本日も、余白に手を伸ばしてみましょう……予定から外れて、違う順路で巡ってみましょう――セイリオス様」
呼び名が、ほんの指先だけ柔らかくなる。セイリオスはわずかに驚いた顔をして、それから小さく笑う。
「ああ、そうしてみよう、アメリー」
行程表にない曲がり角へ、二人は歩を向ける。護衛が目で合図を交わし、無言で配置を組み替える。蜂蜜菓子の紙包みがごみ籠へ落ちる乾いた音。風布の灯が遠くで鳴り、潮の匂いに煙の匂いが混ざる。
恋の色は、まだない。あるのは王族と貴族の誇り。責務の足取り。だが、その足取りの横に、相手の歩幅を測る癖が、もう自然に根付いている。
相手の心を受け入れ、その想いに手を差し伸べる――それを、人は「愛」と呼ぶ。二人はまだ名前を与えない。ただ、同じ方向を見て、同じ速度で曲がる。直線でなく、弧を描いて。
星潮の灯が遠ざかり、風灯の粒が頭上で小さくなっていく。祭の夜はまだ長い。二人は予定外の角をもう一つ曲がり、誰とも衝突せず、誰の邪魔もせず、しかし確かに互いの“余白”を増やしていった。




