第11話
王城の大広間は、天井から吊るされた水晶の燭台が幾層にも灯りを返し、壁面の鏡が星図のように光を敷き延べていた。床は磨き上げられ、白亜の粉線で舞踏の円が幾重にも重ねられている。柱の影では給仕が静かに待機し、琥珀大麦のエールと白星米の小菓子、海風小麦の薄焼きを銀盆に整え、楽師は調弦を終えたリュートを肩に当てる。香は穏やかな白梅、そこに蜂蜜の甘い尾がかすかに混ざる。どれもこれも、王国の名産を使用した料理の数々だ。
噂と笑顔の波は、入口から最奥の王族席に向けて絶え間ない。口上はにこやかだが、言葉の下では肘で相手の脇腹を突くような牽制が続く。
「今年は風がよく、海風小麦の出来が殊のほかでしてな――追風祭の旗が一晩で三度回りましたぞ」
「それはおめでたい。帝国の金床を新調した我が領の鍛冶場も負けませぬ。新兵の槍先、火度が違うと評判で」
「ほう……ではその槍、量はどれほど。王都の倉税はご存知でしょうね?」
利害の探り合いは、やがて“良縁”探しの声色に変わる。帯の色が似合う娘、背筋の伸びた息子。父母はさりげない仕草で人垣を縫い、頬に笑みを貼り付けながら、目だけは鋭い。王族が入る前の空白は、挨拶と牽制のために用意された短い狩場でもある。
やがて、小さな合図が響いた。扉番が槍の石突で床を二度打つ。音が波紋を作り、人々の視線が扉へ流れる。
第一王子、第二王子の入場である。
二条の扉が開き、先に現れたのは精悍な黒の礼装。セイリオスが、斜め半歩の角度で敷線の上に立つ。直線ではない――弧の入口、門の角度。彼の半歩後ろ、冬の光が寄り添う。アメリーの灰金の髪に薄瑠璃の飾りが一片、氷の結晶のように光を拾う。薄藤と氷青のドレスが歩むたび、ごく細い波を裾に作る。
一拍置いて、秀麗な面差しのダリウスが続く。腕を預けるのは、蜂蜜色の公爵令嬢アーラ。藍を基調に朱金を差したドレスは、場の温度を半度上げる。日輪と雪華。対極は互いを引き立て、四人の立ち姿は一枚の絵のように広間の空気を支配した。
挨拶へ。セイリオスは胸に手を当て、正道に沿いながらも、言葉の置き場所に“余白”を仕込む。
「諸卿、本夜の光に感謝する。王都は穀倉の安寧を重んじ、辺境の防を怠らず、正しきを正しく量る――新穀の季、皆が飢えぬよう、我らは門であり続けよう」
直線ではない文構え。硬く過ぎず、柔らか過ぎず。続いてアメリーが半歩前に出て、王子の言葉を受け止め、流す。
「侯爵家ロシュフォール、アメリー=ド=ロシュフォールでございます。第一王子殿下の婚約者として、本夜のご厚意に礼を。私たちは、法と礼の秤を忘れません。どうか皆さまと、穏やかな曲線で歩ませてください」
曲線で歩む。ほんの短いその言は、礼の中に伏せられた宣言だった。場の幾人かが肩の力を抜き、屈託のない拍手が広がる。
周囲で出足を計っていた宮廷の子爵が、娘の背を軽く押す。娘は可憐で聡明そうだ。だが、アーラが横目でそれを捉え、わずかに顎を上げる。視線は笑っているが、そこに境界線を引く明るさがある。彼女の立ち方は、アメリーの“門”の線を乱さないように、しかし不用意な直線の侵入を許さない角度だった。
ダリウスが極小声で囁く。アーラの言葉は軽やかだが、刃の角は丁寧に鞘に収めてある。
「今、近づこうとしたのは宮廷子爵……娘の年は?」
「十五。舞踏は小鹿。知略は兎。可愛いけど、狼の前には出さない方がいいわね」
「行儀が悪いぞ。狩人ではなく令嬢の口で語れ」
「ごめーん」
目だけがウインクになり、次の瞬間には貴族の微笑みに戻っていた。
音楽が流れ、空気が舞踏の拍を刻み始める。第一曲――王都標準の三拍子。セイリオスはアメリーに手を差し出す。親指の力は“四分の一”。手の重さは“少し重い空気”。入場の角度と同じく、並びは直線ではなく“門”。
「お手を――婚約者殿」
「はい、第一王子殿下」
呼称は変わらない。だが、掌の上を渡る重みは、訓練室で学んだ“無駄”の温度を持っている。三歩目にわずかな弧。四拍目に微笑。五拍目に言葉。二人は稽古どおりに、正解の遠回りを歩む。
「緊張は」
「適量です」
五拍目、セイリオス。同じく五拍目、アメリー。返事が拍にぴたりと乗り、肩線がふっと軽くなった。
鏡壁に映る二人の動線は、粉線からはずれ、広く緩い曲線を描く。直線は壁、弧は門。門をすり抜ける風のように、視線もまた二人の間を抜けていく。人は壁に当たると身構えるが、門を見れば歩幅を整える。広間の空気が、音もなく和らいだ。
侍女の装いに身を包んだ影の局員は、銀盆を片手に列の端をするりと移動し、要所に視線を送る。出入口の兵の立ち位置、窓外の影、楽師の背中、酒に早く手を伸ばす男の指先。職業的な習慣が欠点を数え上げ、同時に安堵が胸を撫でた。
(余白がある。直線ではない。これでは指の差し込みようがない)
見守り隊の三人が作った合図は、今夜、二人の肩と掌に宿っていた。半足分、近づく勇気。半拍、遅らせる視線。五拍目に置く言葉。幼いが、しかし精巧な門。
二曲目に入る。テンポが少し上がる。セイリオスは導きの位置を半足分だけ詰める。アメリーはそれを“許す”表情に乗せ、わずかに睫毛を下げてから上げた。袖口の銀線が小さく灯り、薄瑠璃の髪飾りが一点、水面に落ちた小石のように光を跳ねさせる。
「殿下、歩幅が広いです」
「了解――半足、内へ」
三拍目の空白で、アメリーが囁く。言い方は柔らかい。注意ではなく、共有。セイリオスは口角をわずかに上げ、歩幅を縮める。直後に起こる軸の変化を読み、アメリーの踵が床をさらう気配を、指先で先回りして支える。稽古場の講師の言葉が、脳裏で短く点灯した。
――隣を守る道が、弧だ。
三曲目、場がほどけ、他の貴族も輪に入る。アーラはダリウスの手を取り、舞台の稽古で見せた軽やかな冗談を、拍と拍の間に流し込む。
「ダリウス、出口に結論、覚えてる?」
「もちろん。入口で冗談、出口で結論だ――今夜の結論は“門”。壁は要らない」
二人の軌跡は、雪華と日輪とはまた別の、軽い風の弧。見守る侍女と従者が、ほんの一瞬、仕事を忘れて見とれる。だが見守りは続く。影の局員は、銀盆を捧げた姿勢で、宮廷子爵の新たな試みを横合いから見る。子爵は娘を別の輪へ、第二王子へと寄せようとしている。局員の足が半歩、無音で道へ入る。銀盆の角度が、自然に子爵の前進を遅らせる導線を作った。無礼ではない。だが、道は狭まった。
「申し訳ございません、こちらの盆が通ります」
侍女の声は柔らかく、拍に乗って遠ざかる。子爵は立ち止まり、機会を一つ逃す。アーラは正面からは見ていない。だが、反射で状況の輪郭を読み取り、足の運びで二人の門を広げ、余所の直線の侵入を避けさせた。
王都の古参の伯爵夫人が、扇で口を隠して隣の若い夫人に囁く。
「見なさい。あれが“仲睦まじい無駄”よ」
「無駄、ですの?」
「ええ。礼に従いながら、遠回りに寄り添う。あの遠回りが、周囲の胃を楽にするの。壁は胃酸を出すけれど、門は食欲を戻すのよ」
「食欲……なるほど」
笑いが小さくこぼれ、銀盆の上の星餅が少し早く減り始める。場が食べ始めるのは、安心の徴。影の局員は盆の重さで、それを測った。
曲が終わり、礼。掌が離れる寸前、指先が一瞬だけ名残る。五拍目。言葉ではなく、空気の合意。
「見事だ」
影の局員は、侍女の顔のまま、ほんの少しだけ目元を和らげた。これならば、外から差す楔は弾かれる。国の暗部に差し込んだ安堵の息。
見守り隊の解散は、遠くない。だが、解散は任務の終わりではない。任務の「形」が変わるだけだ。闇は、いつだって居る。だが、門を正しく開け閉めできる者の側に闇があれば、やすやすと吹き込むことはない。
楽師が小休止の合図を送る。人の輪が少し緩み、談笑の島ができる。セイリオスとアメリーは、門の角度を保ったまま、数歩だけ後ろへ下がる。銀器の光が二人の肩で交差し、蜂蜜水のグラスが手に渡る。
「お疲れでは」
「いいえ――殿下こそ」
五拍目、セイリオス。五拍目、アメリー。口に含んだ蜂蜜水の甘さが、言葉の最後をやわらげた。
近くでそれを聞いた若い貴族が、肩の力を抜く。
「……だめだ。割って入る隙がない」
「隙が“余白”で埋まってるんだよ。直線じゃ、入れない」
隣の青年が同意する。僅かに考えていた策謀が消えていく。夜会に招待される貴族達の多くは、攻め時だけでなく引き際も心得ている。無駄な戦いはしない。
遠目に全体を見渡しながら、ダリウスが目だけでアーラと合図する。視線が、あの“舞踏講師”――今夜は別の顔のどこかに居るはずの影の局の存在を探す。侍女の列の端で、銀盆を支える手がほんのわずかに揺れ、光が点滅した。それは“すべて順調”の短い合図だった。
夜会は続く。琥珀大麦の泡が静かに立ち、白星米の甘味が皿でほどけ、海風小麦の薄焼きが軽い塩を運ぶ。言葉は踊り、踊りは言葉を休ませる。直線は壁、弧は門。今夜の王都は、門であった。門の内と外に、風がやわらかく通っていく。
影の局員は最後にもう一度だけ、広間の四隅を掃き、銀盆を軽く持ち直した。胸の内で、短く結ぶ。
(これでよい。これなら、人に見せて恥じない。正しく“見せる”愛だ)
楽が再び上がり、第二の輪が広がる。セイリオスとアメリーは門として立ち、弧として歩く。余白は、もはや稽古の産物ではない。二人の間に、静かに根を伸ばし始めていた。




