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第一王子殿下と侯爵令嬢の不器用な「愛」の行方  作者: 初音の歌


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第10話


 王城の舞踏練習室は、磨き込まれた床に白い粉線で円と菱が重ねられ、長壁一面の鏡が昼光を返していた。窓辺では仕立屋と侍女たちが待機し、裾の仮止め糸と予備のピン、チョーク、柔らかなブラシを盆に整える。片隅では楽師が調弦を終え、低く三拍子の前奏を試す。空気が少し甘い——布に焚き込めた蜂蜜香のせいか、あるいは誰かの緊張が糖に変わって漂ってくるのか。

 扉が開き、第一王子と第二王子が入る。黒のタキシードは同じ仕立てだが、纏う印象が違う。セイリオスは精悍そのもの。肩線は剣士のそれで、立つだけで余計な言葉が要らない。ダリウスは秀麗、糸一本の乱れもない結び目と、手袋の指先に至るまで“整っている”。侍女の何人かが、礼儀の範囲で視線を泳がせ、慌てて足元に目を落とした。セイリオスが「精悍」ならダリウスは「秀麗」。どちらも王国が誇る美男子。侍女の目が奪われても致し方ない。

 続いて、二輪の色が咲く。アメリーは薄藤と氷青のグラデーション。灰金の髪は低い位置で滑らかにまとめ、耳の後ろに銀の線細工の飾りが一条。冬の硝子をまとって歩くように、廊下の白が彼女の裾に淡く映る。アーラは藍を主に、朱金を一筋差したドレス。蜂蜜色の髪を実用的に編み上げ、今日は舞踏用にほんの少しだけ金糸を混ぜてある。晴れた空の下に太陽の縁がのぞくような、温い明るさ。


 四人が揃って立つだけで絵になる、と誰もが思った。実際、仕立屋の最年長が「今夜絵師を呼んだ方が良い」と、ごく小声で隣に囁き、隣は「いや、今は夜会のため」と唇で制した。


 舞踏の講師を名乗る男が、前へ進み出る。三十代半ば、ほどよく陽を浴びた肌、眼差しがよく動く。貴族名鑑にも名のある、地方小貴族の二男という触れ込み――もちろん、影の局が織った皮だ。ダリウスとアーラだけが、その背後を知っている。貴族籍に添えられた系譜、寄進記録、知己の名。どこまで用意してあるのか。王国の闇の精度に、二人は自然と背筋を伸ばした。


「皆々様、本日は衣装合わせと歩様、そして舞踏の“余白”の稽古を致します。殿下、よろしければお手本を。お相手にアルビトリウム嬢を」


 講師は軽く礼をし、目だけで四人を測ると、まずダリウスに向けて微笑んだ。ここまでは事前に立てた予定通り。夜会でダリウスがエスコートするのはアーラである。こちらも、誰からも文句が出ない組み合わせ。

 ダリウスはわずかに顎を引き、視線の高さを半寸落として右手を差し出す。指の角度は真っ直ぐではなく、弧。言葉が滑る。


「今宵の星は、あなたのドレスの縁に降りたようだ。足元、ひとつ私に預けていただけますか」

「いつでも――ただし、出口で結論を置くのは私よ」


 アーラは肩の力を抜いて冗談めいて笑う。蜂蜜が光を受けたみたいに、室内が少し明るくなる。

 侍女たちの息が、ハッと同時に漏れた。二人は滑り出す。足は定石に、目線は半拍遅れて絡み、視線のほどけ方も緩急がある。三拍目におどけた空白が入り、四拍目で指先が弧を描く。その“無駄”が、いちいち美しい。

 講師は満足げに手を打った。


「これが“仲睦まじい無駄”です。礼を守りながらも、直線でなく緩い弧を——遠回りが人を安心させる」


 次が本題。セイリオスとアメリーが向き合う。互いの礼は満点、背筋は弓の骨。左右の距離は規範的、手の高さは写真のよう。仕立屋が裾の釣り合いを直し、侍女が胸元の布の流れを整える。鏡の中の二人は、画題のように整然だ。間違いなく完璧な作法。

 だが、婚約者同士のダンスは完璧なだけではいけない。直線以外の線を引いて欲しい。

 講師は、待ってましたと言わんばかりの柔らかい笑みを浮かべる。


「では、ここから余白の話を。夜会での振る舞いも舞踏も、直線は不可。正解へ直行しない。“遠回りの正解”を歩いてください。礼をしながら隣に微笑み、足を運びながら相手に安らぎを渡す。拍と拍の間に息を置く。それが余白です」

「拍と拍の間の……息、か」


 セイリオスが復唱する。戦場の号令や行軍に馴染んだ声が、わずかに柔らかくなる。

 アメリーは真剣な薄群青の目で講師を見る。


「正道の外形を崩さず、内側の呼吸を……承知しました」


 まるで戦場に赴くような真剣な顔。今までの夜会では「完璧」でも通用した。けれど婚約が成された今は、「完璧」では通らない。

 恋人の、夫婦の、柔らかな線が必要になってくる。セイリオスもアメリ―も、理屈は解っているのだ。ただその方法が分からず、常に手探りになっているだけ。

 自然とその方法が「直線」になる。なってしまう……ならばそれを正すのは先駆者の役目。

 影の局員は夜会に「潜入」することも多々ある。柔らかな線の刻み方は、骨身で知っていた。 


「手始めに、二つ。手の重さを“少し重い空気”に。視線を“半拍遅れ”に」


 講師はセイリオスの右手の甲を軽く叩く。「乗せるのではなく、預ける。殿下、あなたの力は強すぎるので、親指の力を四分の一に」

 次にアメリーの左肩に触れ、肩甲骨の間に指先で小さな円を描く。「嬢、肩が防具を着ておられる。礼法は守ったまま鎧を解きましょう。今だけは」


「鎧……はい」


 アメリーの耳にほんの少し熱が差す。彼女は吸った息を、三拍かけて吐いた。内心では、ちゃんと解っている。親友であるアーラに心配されてしまう程、今の自分達が強固な法で動いている事に。だから脱ぐ。完璧という鎧を、今は少しだけ。

 音が始まる。三拍子。床が光を飲み、靴が光を返す。

 最初の八小節、二人は教本どおりに滑る。正確、清廉、非の打ち所がない。講師が指を立てる。


「直線です。いけません。殿下、三歩目でわずかに円。嬢、四歩目でまつ毛を下げてから上げる。視線は地ではなく“相手の声”へ」


 セイリオスは指示を飲み、三歩目で床に浅い弧を撫でる。剣の踏み込みを矯めたような、静かな曲線。アメリーは一拍、視線を落として呼吸を合わせ、次の拍で目を上げた。その瞬間だけ、薄群青の光がやわらぎ、室内の空気が綻ぶ。


「いいです、今の一呼吸、二十点加算」


 講師が愉快そうに言う。傍目で見守るアーラが小さく吹き出し、ダリウスも肩で笑ってしまった。


「点数制なの?」

「分かりやすくて良いじゃないか」


 さらに講師は攻める。


「殿下、導きが直線的。半足分だけ近づいて。嬢、その半足分を“許す”という表情を」


 半足分。戦場では詰める距離。社交では、許されて初めて成り立つ距離。セイリオスは慎重に一歩分の半分、近づいた。アメリーは視線と呼吸で、拒まず、委ねすぎず——許す。

 そこへ、音が少し速くなる。楽師の悪戯ではない。講師が顎で合図を送ったのだ。余白の中での緩急。

 セイリオスは対応した。剣の試合で見せるあの柔らかい前傾を、舞踏の骨格に変換し、アメリーの軸足を守る位置へと導く。アメリーもついていく。礼舞で鍛えた軸の強さが、弧の中で生きる。



「このまま一曲……最後まで踊って貰えるか、アメリー」



 言葉が、無意識に零れた。室内の空気が一瞬だけ止まる。ダリウスもアーラも、仕立屋も侍女も、講師も、誰もが息を止める。アメリーの睫毛が震え、薄く微笑んだ。



「……はい、セイリオス様」



 その二語は、すぐに礼儀の呼称へ戻っていく。二人自身は、たぶん気づいていない。けれど鏡の中で、ほんのわずか、肩の高さが下がった。鎧の継ぎ目が、ひとつ外れた。

 講師は何も言わない。言葉を置かないことも、教育だ。楽師が気を利かせ、二人の歩幅に合わせてテンポを半拍落とす。床の粉線に沿っていた直線は、やがて線を外れ、広い弧になった。窓からの光がドレスの裾に波を作り、手の甲にかかる重みが“少し重い空気”を保つ。

 アーラは、横目で仕立屋に合図する。


「裾、右後ろ、二指短く。回転で床をさらうから」

「了解しました」


 年長の仕立屋が素早く仮止め。アメリーが回れば、氷青の裾が床を撫で、薄藤が遅れて追いかける。美しい“無駄”だ。

 ダリウスは講師のそばへ歩み寄り、声の高さを半音落として問う。


「兄上は、曲線に慣れると思うか」

「慣れますとも。殿下は本質的に“守る”方です。直線は敵に向かう道、弧は隣を守る道。役割が分かれば、身体はすぐ覚えます」

「隣を守る、か」


 ダリウスが鏡越しに兄を見た。導かれて弧の中に立つアメリーの表情が、きめ細かな雪解けのように緩む。

 曲が終わる。最後の決めの一拍で、二人の手がほどける前、指先が一瞬だけ名残る。その一瞬の“無駄”に、侍女の誰かが小さく短く息を呑んだ。

 講師が拍手した。今の踊りには、確かな“無駄”が、必要な遠回りが見られた。


「よろしい……礼を。——本番では、今の“半足分”をもう半分。視線は三拍目に。笑みは四拍目に。言葉は五拍目に置く。直後に言ってしまうと“直線”に戻ります」

「五拍目……覚えます」

「導きの力加減、親指を四分の一。半足分の距離。三拍目の円。五拍目の言葉。了解した」


 アメリーが速記するように頷く。セイリオスは胸に手を当て、呼吸を整える。


「殿下、最後に小さな課題を。入場のとき、列の正面ではなく“半歩だけ斜め”に立つ。お二人の間に“光が抜ける”角度を作ってください。見物人はそこで安心します。直線に並ぶ二人は壁に見えるが、弧で並ぶ二人は門に見える」

「門であること。心得た」


 セイリオスは目を細めた。戦場の門と壁。比喩は彼に通じる。

 衣装合わせに戻る。裾の長さは軽い回転で床をかすらせる程度に。アメリーの首もとには、極細の銀鎖と小さな白蝶貝のペンダント――扇と呼応する形。セイリオスの襟には、星の意匠のタイピン。二人の金具の“白と星”は、新嘗の祭祀で掲げる器と秤を暗く連想させるが、今日は言葉にしない。

 休憩の蜂蜜水が配られた。アーラはグラスを傾け、舌の先に甘さを乗せる。


「ねえ、ダリウス。さっきの一瞬、聞こえた?」

「もちろん。私は忘れない。名は、記録より先に耳が覚えるものだ」

「詩人みたいなこと言うわね……でも、いいわ。風は、こっちに吹いてる」


 講師が手帳を閉じ、貴族の微笑みに戻る。満足げな、合格の証。


「本番まで、あと少し。直線は壁、弧は門。無駄は贅ではなく安心。忘れないでください」


 稽古は散じ、仕立屋たちは最後の縫いを整え、楽師は拍の数を数え直す。侍女は目録にチェックを入れながら、紙片の余白に小さな花を描いた。練習室を出る直前、セイリオスとアメリーが互いに微かに会釈し、礼装の裾と裾がかすかに触れて離れた。音はしない。けれど、その“無駄”は、確かに見えた。

 夜会は近い。直線は、いま少しずつ、弧に変わりつつあった。



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