第1話
都の春は、石畳の温度が一度だけ上がる合図から始まる。王城の外庭、噴水が細く高く立ち上がり、楽士が調弦を止めるその日――アルヴァン王国の第一王子セイリオスは、婚約者候補の令嬢と初めてきちんと対面した。
彼女の名は、アメリー=ド=ロシュフォール。年齢15歳。
王都でも名高い文官名門、ロシュフォール侯爵家の長女。灰金の髪を後ろでまとめ、薄瑠璃の小さなピンで留めている。姿勢は常に水準器で測ったように美しく、薄群青の瞳は相手の言葉が嘘か真かを問うより先に、意味を拾い上げようとする誠実さを宿していた。冬景色のような美貌の侯爵令嬢。
二人の婚約は、政治の帳簿に記すべき合理の産物だった。
王国は「調和」を旨とし、王冠は民の上に静かに輝くことを理想に掲げる。軍略の才に長ける帝国と、魔術の権威を誇る魔法国と、正面から競り合うのではなく、采配・礼・法を磨いて均衡を保つ――その王国理念に、ロシュフォール家はよく似合った。彼らは人を動かす文で国を支え、誇りは高く、血筋の虚飾に依らない。
婚約の儀は春分の朝、王城「日輪の間」で行われた。
王家の儀礼では、誓杯が二度回る。最初は王に、次に互いに。セイリオスは白磁の盃を捧げるアメリーの指の震えが、緊張ではなく責務の重さから来るものだとすぐに悟った。彼は盃を受け取り、一滴も零さず飲み干す。
「王国の秩序に、君の知を借りる。王冠の影に、君の心を置く」
返礼にアメリーは静かに膝を折り、丁寧に言葉を紡いだ。
「殿下のお言葉を、法の重さと共に胸に刻みます。私の名は紙の上で消えましょう。ですが、文の中で働く指だけは、死ぬ日まで止めません」
恋は――そこにはなかった。
だが確かな敬意と、役目同士の相互理解が、早春の光のように温く、二人の間に降りた。
王都の空は澄んでいた。王城地区から一筋外れた貴族区の一角、公爵家アルビトリウムの離れ座館。昼を少し回った刻、厚手のカーテンの隙間から、風の女神の気まぐれみたいな風が一度だけ入ってきて、テーブルの上の紙束を二指ぶんだけずらした。
そこに一組の男女が向かい合って座っていた。
一人は金色の髪を背まで垂らした秀麗な容姿の、第二王子ダリウス。もう一人は蜂蜜色の髪を纏め、琥珀色の瞳を持った公爵令嬢アーラ。二人の背後には、従者と侍女が各一名ずつ。誰もが息を潜める。小鳥の鳴き声ですら空気を読んで遠慮しているような、そんな沈黙だった。
ダリウスが、声を低く落とした。
「アーラ。兄上とロシュフォール侯爵令嬢の『逢瀬』の経緯は聞いているな?」
「ええ。アメリ―から聞いている。二日前に『無事施行されて無事終了』……本人の言よ。淡々と、ね」
アーラは頷いた。蜂蜜色の髪を編み上げた結び目が、ほんのわずかに揺れる。
二人の言葉が着地すると、部屋に重石が増える。侍女が喉を鳴らしそうになって、寸前で飲み込んだ。従者は視線だけで「どうか私は空気と同じ」と祈っている。
二人は、互いの持ち札を確かめるように短く言葉を交わした。第一王子セイリオスと侯爵令嬢アメリ―。王都の誰もが納得する、正しい婚約。剣と礼、名と秩序。欠点? ない。あえて言えば、教科書の端から端まで美しく印刷されすぎていることくらい。
問題は、その「初めての逢瀬」だった。
ふたりの脳裏に、同じ電流が走る。
このままじゃアカン。
ダリウスの掌が、机を打った。鈍い音。ティーカップが半指ぶるりと震え、受け皿の上で礼をした。
「……どうなっているのだ兄上は!? なんだあのデートは!? いや、デートと言っていいのかアレは!? 軍の行程表かと思ったぞ!?」
「こっちも同じ気持ちよ!! 兄様の行動も正直アレだけど、まさかアメリ―が『男女の愛』についてポンコツだと初めて知ったわよ!? ……いやまあ、今回は十割政略婚だから愛から始まった訳じゃないけれどさぁ……!!」
アーラも身を乗り出したテーブルを叩く。琥珀の瞳に、半分は怒り、半分は情けなさ、そして残り全部は切実が入っている。
二人の視線が合う。頷く。そして、同時に紙束の一枚をめくった。
そこには、アメリ―の几帳面な筆跡と、セイリオスの実直な筆跡が混じった、とある「予定表」が写し取られていた。
六時〇〇分 起床(相互)
六時三十分 軽食(消化に良い粥、蜂蜜水)
七時〇〇分 出迎え(王都南門・衛兵詰所前、遅延許容三分)
七時十分 挨拶(第一王子殿下「本日も晴朗なり」。婚約者殿「お目もじ叶い光栄」)
七時十五分 馬車移動(揺動対策:膝角度九十度)
八時 王立図書院見学(黙読四十分、相互意見交換二十分)
九時 民の声聴取(市場・三軒、質問は一人五問まで)
十時 休憩(無言でよい)
十時十五分 街路散策(歩幅合わせ:一歩七十センチ、速度統一)
十二時 昼餉(麦パン・葡萄・白身のスープ)※雑談テーマは三題:気候・収穫・治安
十三時 礼法の復唱(互いに三項目)
十三時三十分 別れの辞(第一王子殿下「本日は有意義であった」/婚約者殿「まことに」)
アーラは額を押さえた。ダリウスは両手の指を組み、天井を一秒だけ見上げた。彼らの脳内で、二日前の情景が再生される。
王立図書院の回廊。白い石床に足音ふたつ。歩幅は見事、速度は同調、背筋は二つの直線。通り過ぎる学生が思わず直立不動。司書は「この静謐、ありがたい」と胸に手を当てるが、違う、そうじゃない。中庭では風が薔薇を撫で、日差しが金の粒になって落ちている。にもかかわらず、二人は黙読四十分を完遂し、意見交換二十分で見事に文献構成を整理し、最後に礼法の復唱で締めた。
「これで完璧だ、婚約者殿」
「流石です、第一王子殿下」
二人は本当にこう言ったのだ。誇らしげに、どこにも傷がない面持ちで。
アーラは叫んだ。胸の底から、天界に住まう女神に届く音量で。
「そうじゃないぃぃぃぃぃい!! デートってそうじゃないの! もっとこう、甘くてドキドキして、相手の反応が気になってモジモジして……なんかそういうアレなのよ!」
「アレ」の解説をためらった彼女に、ダリウスが即座に同意した。内容が取っ散らかっていても、方向だけは正しい。
「まさか兄上とロシュフォール嬢に、あんな欠点があろうとは……不味いぞアーラ。本当に不味い。二人の婚約が上手くいく未来が見えてこない」
「見えて来ていたら、その目玉は取り換えた方がいいわ。病気よ。……で、どうするの? このまま放置は不味いわよね?」
「うむ」
二人は、真正面から「国の命運に直結する課題」として、恋の取扱説明書の改訂に乗り出すことを決めた。
アーラは素早く紙を引き寄せ、羽根ペンを走らせた。タイトルを書き入れる。
第一王子殿下と侯爵令嬢のキャッキャウフフ大作戦
侍女がむせた。従者の肩が震えた。二人とも即座に真顔に戻る。作戦名は、時に士気であり、旗印である。ダリウスは咳払いを一つ。
「作戦目的は明瞭だ。兄上とアメリ―嬢に『予定表では計れない甘さ』を導入する。計測不能な領域の訓練だ」
「任せて。アメリ―は私が見る。彼女、恋の辞書を編むタイプよ。だから逆に、辞書に載っていない単語を体感させる必要があるの」
ダリウスは手早く項目を分けた。
一、行程の可変化(余白の導入)
二、言葉遣いの平時化(公文体を私信体へ)
三、接近距離の見直し(七十センチから四十五センチへ)
四、視線交流の設置(五秒沈黙を怖がらない)
五、偶発事象の許容(予定外の菓子屋・露店・路地)
アーラは眉を上げる。
「四の五秒は、アメリ―には長いわ。三秒から始めましょう。彼女、三秒で四十語考える女だから」
「兄上は三秒で四十の戦術を考える男だ。似た者同士で難儀だな」
二人は思考を別方向に伸ばし、すぐ戻ってきた。
「補助ルールを定めよう。『婚約者殿』と『第一王子殿下』は、公務時以外は使用禁止」
「異議なし。ただ、急には難しいわね。代替案は?」
「名前呼びは早い。まずは敬称を薄める。『殿』『殿下』の代わりに、それぞれ『あなた』『殿下』→『あなた』、段階を踏む」
アーラが微笑む。場が少しだけ明るくなる。
「いいじゃない。段階的。あと、衣装問題。二人とも平時から正装寄り。民間の服を着せるわ」
「兄上に?」
「兄様にも。緩い襟。柔らかい布。『意図して隙を作る』訓練。これは重要」
ダリウスは頷き、ふと顔をしかめた。
「兄上の“褒め言葉”も問題だ。『本日の姿勢も端正だ』『歩幅の安定に感謝する』……これは恋の現場では兵站報告だ」
「アメリ―も似たようなものよ。『殿下の発話テンポは聞き取り効率が高い』。会議か。可愛いけど」
「よし、補講を入れる。褒め方の再教育だ。名付けて『一文完結の甘味添付』」
ダリウスは即興で例を示しす。政治の均衡を読むのが上手い彼の頭脳は、こんな時でも素早く回る。
「……ええと、兄上が言う場合、『その髪が光を連れてくる』。悪くない。いや、悪くないが、兄上の口から出ると軍の暗号に聞こえるか?」
「『連れてくる』は作戦めいてるわね。『似合う』でいいの。『今日はその髪が似合う』。十分甘いのよ」
「単語の選定リストを作るか……」
「そこまでやるとまた行程表になるから、やらない」
二人は同時に苦笑した。風がまた、カーテンの隙間を一指ぶん揺らした。
ダリウスは椅子からわずかに身を乗り出し、低く言う。
「アーラ。これを茶番と笑う向きもあろう。だが、王国は人の感情で回る。恋も政も、天秤の皿を同じ手で持つときが来る」
「わかってる。だから、笑いながら真面目にやるのよ。これが私たちのやり方」
アーラは侍女の方を向いた。
「メモ。アメリ―への初手は『笑顔の練習』。歯を見せて笑うのは二日目から。初日は目尻を柔らかくするだけ」
「かしこまりました」
ダリウスは従者に目配せを。
「兄上の初手は『沈黙耐性』。三秒の無言に耐える訓練だ。剣の素振りより難しいぞ」
「はっ」
アーラは卓上の地図を引き寄せた。王都の簡易図。王城から大商郭、王立図書院、職人区までを一本のルートで結び、その周辺に丸印を付けていく。
「候補地。大商郭の蜂蜜菓子屋。露台があって風が良い。あと、図書院の南側回廊。光が柔らかい。影町(情報と醜聞が回る下町)の入口は今日の段階では無し。刺激が強すぎる」
「同意。軍港の新造船見学も却下だ。あれは恋ではなく船だ」
「港は波と風がロマンチックだけど、炎と砲のヴァルクス港に行ってもね。行くなら西のサン=リヴィエールよ」
「確かにな。交易が盛んなあちらなら、恋人同士の語らいが砂浜で映える」
二人の会話は、もはや一個の軍議の速さだった。だが、そこに流れているのは人の温度だった。
一拍。ダリウスはペンを置く。目を細める。
「……それと、最後にもう一つ。『謝罪の仕方』を教える。ふたりとも完璧主義だ。予定が崩れると自己評価が下がる。そこで『ごめん』を短く言える練習だ」
「いいわね。それ、たぶん一番効く」
アーラが、真顔で頷いた。
そして二人は立ち上がる。十年来の幼馴染が、固く握手を交わす。
「順次報告と相談は密に。私はアメリ―を見張る」
「こっちは兄上を、何とかまともな方向へ」
「……本当に、親友が迷惑を掛けるわ。ごめんなさいねダリウス」
「……それはこちらの台詞だ。兄上が、申し訳ない」
今は私的な空間だ。王族と貴族の境は無く、幼馴染の二人は互いに謝りあう。
本当にもう、苦労する。完全無欠と言われた第一王子と侯爵令嬢が、あんな恋愛クソ雑魚ポンコツとは思ってもみなかった。王国の未来の為にも、裏方が頑張らなければならない。第二王子と公爵令嬢。もの凄く豪華な裏方が。
侍女と従者が一歩下がって礼を取った。扉へ向かう前に、アーラが振り返る。
「ダリウス。軍楽隊は呼ばないでよ。デートに軍楽はいらない」
「善処する」
「善処は駄目。禁止」
「……禁止とする」
扉が開いた。外は昼下がりの光。風見旗が一枚、気分よさそうに回った。
こうして、アルヴァン王国の命運をかける――第一王子殿下と侯爵令嬢のキャッキャウフフ大作戦が、静かに、しかし過剰に真剣に、発動した。
その数刻後。王立図書院からほど近い小路で、セイリオスは従者から手渡された封書を受け取る。封蝋は白梅。中には、アメリ―の端正な文字が並んでいた。
「第一王子殿下 御机下
先日の逢瀬における行動規程の適否につき、再検討の余地があると考えます。
ついては、次回は議題を減じ、歩行速度・歩幅ともに柔軟に運用することを提案いたします。
なお、呼称につきまして、私的場面に限り、暫定措置として『あなた』の使用を試みます。
以上、実験的実施に向け、よろしくご協力願います。
アメリー・ド・ロシュフォール」
セイリオスは文面を読み、ふ、と短く笑った。剣呑でも冷酷でもない、珍しい種類の笑みだ。彼は紙を丁寧に折り、胸ポケットにしまう。
「……承知した。婚約者殿――いや、『あなた』か」
誰もいない路地に向けて、彼は小さく練習してみる。
鍛え上げられた体と、金色の髪。青空のような瞳を持った精悍な美男子であるセイリオスが――今は年下の婚約者の為に、小さな努力を開始する。
言葉はぎこちない。けれど、ぎこちなさという名の余白が、初めて二人の予定表に書き込まれた瞬間だった。




