番外編~刻の賢者とクロウサギ・5
目の前の男――白兎という名を持つ、印象的な男。
妙に大人びていて、おそらく本来の年齢は俺と大差はないだろう。けれど、目の前の男も俺も、時を奪われてしまったかのように、幼い時間を何処かに置いてきてしまった。
けれど、今の男は何処か幼くもあり、危なっかしさもある。
だからといって、特に何をやるというわけでも言うわけでもなく、俺は口を噤んだまま男を見つめていた。
どれぐらいの時間が経ったのか。
ほんの一瞬であり、永い時間であったような気もする。
それは男も同じだったのか、交わっていた視線が外れた瞬間、どちらからともなく息を吐き出した。
実力は男の方が上。
今の俺では手も足も出ないだろう。
「……それも、いい。選択か」
だが、それでもいいのかもしれないと、俺は僅かに表情の筋肉を緩めた。元々、自分を殺せる相手を探していたのだ。
生に興味がない。生きていたくない。
それが、俺の全てだったはずだ。
男がそれを叶えてくれるのならば、俺の方に問題があるわけない。暫くの間、体験した事もないような穏やかな時間を身に纏っていたからなのか、そういった当たり前だった感覚が何処かにいってしまっていたらしい。
二人同時に逸らした視線。
俺は、逸らせたはずの視線をもう一度合わせ、俺は男をジッと見つめる。
殺すなら殺せばいいと。
この時の俺は何故か、影になる、という選択肢を脳裏から消し去っていた。
「………」
男は、俺の視線に応えるように合わせ、不機嫌そうに眉間に皺を寄せたまま俺を見下ろす。
「俺は姫さんを殺そうとしたけど……お前は、自分を殺すヤツか」
吐き捨てる。という表現が相応しい程、男は忌々しげに俺から視線を外しながら口から音を吐き出すと、俺ではなく、俺の腕の中へと目を向けた。
そこには、小さな黒い兎がいる。
「面倒くせぇヤツ。自分で生きる気も死ぬ気もないなら、姫さんの盾になって死ねよ」
「………」
「そうすれば、俺が骨ぐらいは拾ってやるさ」
何故か、男は穏やかな雰囲気を瞬時に身に纏っていた。先ほどとのギャップに対応出来ず、俺は驚いたように目を見ひらいて男を見つめるだけ。
「姫さんが勧誘した相手を俺が殺せるわけないだろ。姫さんが悲しむし」
「……本当に、少女だけか」
気になる言葉も聞いたが、それでも、今の男にはあの少女だけなのだろう。
「あぁ。姫さんだけだ。俺は、姫さんがいればいい。姫さんだけしかいらない。でも、姫さんが影を選ぶってなら、守ってやる。ついでにな」
男の言葉に嘘はないのだろう。
俺は、俺の腕の中でおとなしく丸まっている黒い兎と共に、男を目に映しこんでいた。
印象的な人間。
華やかな人間。
声だけの俺とは違い、その場を支配するに相応しいであろう人間。
「……馬鹿じゃねぇ? いや、馬鹿だろお前」
すると、目の前の男が心底あきれ果てたと言わんばかりの態度と口調で、俺との距離を一歩分縮めた。
「お前さ」
更に一歩。
「十分華やかだぜ? っつーか、この表現をあんまり野郎に使いたくないけどな」
一歩ずつ距離を縮めていたら、いつのまにか男の顔が手の届く範囲にあった。
黒い兎も不思議そうに男を見上げている。
「俺の場合は一目をひく色を持つだけだ。というか、白い兎とは違ってお前のも生意気だな」
腕を伸ばす男を、黒い兎が威嚇していた。
まるで、俺をいじめるな、と言わんばかりに小さな身体を膨らませて、俺の腕の中から出たと思ったら迷わずに男に飛びかかる。
宙に躍り出た黒い兎に、咄嗟に腕を伸ばしていた。
このままでは地面に叩きつけられる。
そう思ったからだ。
だが、俺の予想は大きく外れる事になる。
地面に叩きつけられるはずだった兎は、男に飛びかかると同時にその形を変えた。平べったい……大きな黒い布へと変化する。
そのまま男を包もうとするが、男が手の平を翳すと同時に、兎の動きも止まる。
「へぇ。形状を変えられるのか。面白いけど、俺に歯向かうにはまだだろ」
見ていたら、ひょこり、と黒い耳が生える。
布の形を残したまま、そこから黒い兎が生まれ、背中から重力に逆らう事無く落ちていこうとしていた兎を、俺は両手を使って受け止めた。
兎は分離したが、元は兎だった黒い大きな布は未だに、男を包み込もうと奮起している。
「白い兎は図体がでかくて生意気で可愛げも何もないが、その小さいのの特殊能力は中々なんじゃないか」
まだ、出来る事は少ないけどな。
黒い布を見つめたまま、何処か楽しげに言葉を紡ぐ男の声を、俺は聞いているようで聞いていなかった。
目の前で起こった、黒い兎の変化に目を奪われていた。
無力だった。
小さかった。
何も出来ないはずだった。
俺と同じで、ただ蹲って震えているだけのはずだった小さな黒い兎は、小さな体躯からは想像も出来ない程の質量のある布に変化し、その名残を残したまま黒い兎へと戻る。
男の力をもってすれば、黒い兎が残した大きな布など、一瞬で灰燼と化す事が可能なのだろう。でも、男はただ動きを止めただけ。
そして、突き出していた右腕はそのままに、左腕をゆっくりと一閃させた。無駄のない動きで、思わず見惚れてしまう。
「丈夫だな。折角だ。姫さんのマントでも作るか」
姫さんなら喜ぶだろうと、男は笑った。
「これだけ出来るなら上等だろ。行くぞ。姫さんを一人っきりにしておくのは好きじゃない。呆けた表情をしててもいいけど足を動かせ。仲間にしてくれるのかもなにも、姫さんが誘ったんだろ」
無言のままの俺に向かって、男は一方的に言葉を連ねる。
俺に話す隙も与えず。
元々喋りたくない俺は、頷くだけのこの形は気楽でいいのかもしれないが。
でも。
男は今、俺の心情を読み取った返事を返した。
不思議そうに男を見上げていると、男は呆れたように半眼にし、これ見よがしに溜息を落とす。
「解りやすいんだよ。テメェの表情は」
「……」
不可思議な言葉を聞いた俺は思わず、男をただ凝視した。
俺の表情は変わらない。
顔の筋肉が動かない自覚もある。
それでも、目の前の男はわかりやすい、と迷わずに言い切った。
この男がいて、俺の声が効かないと言い切った少女がいるなら、影、というのも悪くないのかもしれない。
ただ、今の俺に選択肢がない事には気付かずに、俺は男の後ろについて黒い兎と共に歩き出した。
震えてた黒い兎は、いつのまにか俺を背に庇う。
声を出す事を恐れていた俺は、声を出す事を願いだす。
これが、俺と白兎と姫様の、始まり。