番外編~刻の賢者とクロウサギ・3
男と睨み合うように視線を絡ませていた俺の前に、トスン、とこの場には不似合いな音が響き渡る。
黒い塊。
それが何かという事に気付いた俺は、戸惑いの表情を浮かべてしまう。
黒い兎。
そう。突然。という言葉が相応しい程、何もない空間から現れた。その理由は、目の前の少女。
「んー…」
ジッと俺を見ながら、唸る少女。
少女の隣りに立つ男と俺との険悪な雰囲気など一切気にならないのか、俺を見ながら首をほんの少しだけ傾げた後、にこりと笑う。
俺が見た事のない笑顔。
いつも…いつも俺が見ていたのは、真っ赤な口だった。元の形などわからない程分厚く塗られた真っ赤な唇。俺に愛を囁けと、素顔を晒さない女達が強要する。ソレを思い出した俺は、胸の奥に言葉に出来ない想いがわきあがってくるのだが、少女が手を振り上げた瞬間全てが吹き飛んだ。
サッと空気を一閃する少女の右腕。
何をするのだろうという少女に対しての興味と、男が眉を顰めた事による疑問。そして、目の前に現れた黒い兎。
「姫さん」
男が、声を絞り出す。
「また、ですか?」
男。そういえば白兎と呼ばれていた男。
また?
そう問いかける眼差しを向けて見れば、男ではなく白い兎が俺の前へと立ちふさがる。
「コイツはまたっ」
また??
黒い兎よりも随分と目つきの悪い、男を連想させるような白い兎。コイツを見ると、あの黒い兎は随分と大人しい。しかも、蹲って震えている気の弱そうな兎だ。
《未熟者がーーっ》
そんな事を考えていたら、兎が喋って跳んだ。
飛んだ?
そうか。兎は飛ぶのか。
激しすぎる触れ合いを目の前に俺が動けずにいると、いつのまにか少女が黒い兎を両腕に抱きしめながら俺の隣りへと立つ。
少女も小さいが、兎も小さい。どうやらあの白い兎の大きさが規格外らしい。
「シロウサギと白兎はいつもあんな感じだから、気にしないで」
「……あぁ」
シロウサギと、白い兎。
俺の疑問に答えるように、少女が表情全体で笑みを浮かべる。
「はい。この子は貴方のもの。白兎たちを見ていれば解ると思うけど」
「……」
「兎はどうしてか?」
無言のまま少女を見下ろすと、俺の言いたい事を感じ取ったのか少女が口を開きながらもう一度兎を抱きかかえる。
「兎は寂しがりやでしょ?」
「……」
少女の言葉はたった一言で済んだ。つまり、俺も、あの男も寂しいと叫んでいたという事か。
男の事はわからない。でも、俺の事なら……そうだな。寂しい、と言えるかもしれない。声には出さずに視線で少女に伝えると、少女は首を横へと振る。
「本当に寂しいのは――…誰でしょう? まぁ…謎かけにもならないけどね。
…もう予想はついてるかもしれないけど、貴方さえ良かったら私の影にならない? もれなく人外コース。寿命も力も桁外れ。寧ろ常識って何だろうっていう理不尽な存在の、私の影」
曖昧な笑み。
自嘲とも取れる笑みだったが、俺にはその意味が解らない。ただ、解る事といえば少女が俺を影にしたいという事。少女には、俺の声が効かない。そして、俺が欲しかった壊せる力が手に入る。それだけ。
遠くの方で男と、地響きのような音が響き渡るが、少女が作り出す空間を侵食する事は出来ないらしい。
音が吸い込まれそうな程静かな空間。
神聖ささえも感じさせるような空気が流れているのに、厳粛なモノではない。寧ろ安らげる場所。
「答えは直ぐに出さなくていいよ。とりあえず、このクロウサギと一緒に暮らしてみよっか」
「?」
少女の腕の中から、俺の腕の中へと跳ぶ兎。
少女の腕の中に納まるぐらいの小さな兎。俺の腕の中だと、納まる処か有り余ってしまう程の大きさしかない兎。
疑問を言葉にするよりも先に、少女の身体から解き放たれる何か。
それに呑まれ、俺の四肢は自由が聞かずにそのまま黒い靄の中へと吸い込まれていく。
「その兎に聞けよ。小生意気なコイツより、臆病みたいだけどな」
完全に飲み込まれる前に俺の視界に入った男。後ろでは白い兎が何かを怒っているが、男の言葉を聞く事に精一杯で他の音が一切耳に入ってこなかった。
この兎に聞け?
あの白い兎と同じように喋るんだろうか?
確認するように兎の顔を覗き込めば、黒い兎が口を動かしている事に気付いた。
《 》
口をパクパクと動かす黒い兎。
でも、俺には聞こえない。