第5話 武門の道理
翌日の朝食は、まるで葬式のような雰囲気だった。食卓には、いつもより品数の少ない料理が並び、カトラリーの音だけが気まずく響いている。父は眉間に深い皺を刻んだまま黙り込み、母は心配そうに父と俺の顔を交互に見ている。兄のレオンだけが、この重苦しい空気を和らげようと、必死に当たり障りのない天気の話題を振っていたが、誰の耳にも届いていないようだった。
(気まずい。前世の、システム障害発生直後の役員会議より気まずいぞ、これ)
俺は黙々と黒パンを口に運びながら、この膠着状態をどう打開すべきか思考を巡らせていた。昨夜のプレゼンテーションは、論理的には完璧だったはずだ。だが、父という名の、あまりにも頑固なレガシーシステムをアップデートするには、ロジックだけでは足りないらしい。
食事が終わると、案の定、父が低い声で言った。
「アルト。後で私の書斎に来い」
「はい、父上」
その声には、昨日のような怒りではなく、何かを決断したかのような、静かな重みがあった。
書斎に入ると、父は窓の外を見つめたまま、背中を向けて立っていた。その広い背中が、普段よりも少しだけ小さく見えるのは、気のせいだろうか。彼の内なる葛藤が、その背中から滲み出ているようだった。
「座れ、アルト」
父は振り返ることなく、低い声で呟く。俺は昨日と同じ椅子に腰を下ろした。革張りの椅子が、ぎしりと軋む音がやけに大きく聞こえる。
長い沈黙が続いた。まるで、重いデータがサーバーに書き込まれるのを待っているかのような、息の詰まる時間だった。
やがて父は、ゆっくりと振り返り、俺の前の椅子に深く腰を下ろした。その顔には、昨日の激昂とは違う、何かを諦めたような、それでいて覚悟を決めたような、複雑な表情が浮かんでいた。
「一晩、考えた」
「はい」
「お前の言うことに、理がないとは言わん。いや、理屈の上では、お前の言うことが正しいのだろう」
父の声には、わずかな弱さが混じっていた。これは珍しいことだった。普段の父なら、絶対に自分の弱みを見せるような真似はしない。
「数字は、確かに残酷だ。このヴァルミオ家の財政が、火の車であることも事実だ。お前が示した未来予測もおそらく、現実になるのだろう」
「はい」
「だが」
(やっぱり来たよ、この接続詞が)
父は、机の上に置かれた自分の拳を、じっと見つめながら続けた。
「だが、わしにはどうしても、それが理解できんのだ」
その声は、怒りというより、むしろ悲痛な響きを帯びていた。
「ヴァルミオの血を引く者が、商人まがいの真似をすることが……。三百年に渡って、この地で騎士として剣を振るい、領民を守り、主君に忠誠を尽くしてきた、我らの先祖に顔向けができん」
父の言葉は、もはや論理ではなかった。それは、三百年の歴史という、あまりにも重い伝統と、彼の生き方そのものを支えてきた「誇り」という名の感情だった。これは、どんなに優れたロジックでも、簡単には覆せない。
「お前に、分かるか?アルト。この剣一本で、家と領地を守り抜いてきた者たちの、血と汗の歴史が。武門の誇りとは、金では買えん。どんな財宝よりも、尊いものなのだ」
(誇りで飯が食えるなら、誰も苦労しないんだよ、父さん。その尊い誇りのせいで、俺たちは五年後に破産するんだ)
しかし、俺はその言葉を飲み込んだ。父の瞳には、本気の信念が宿っている。これは単なる頑固さではない。彼なりの哲学であり、生き方そのものなのだ。ここで正論をぶつけても、彼の心を閉ざさせるだけだろう。
「アルト」
父は、すっと立ち上がり、俺の前に来た。
「ヴァルミオの男は、口先ではなく、力で自らを示す。それが、我が家に伝わる、唯一の道理だ」
(道理、ねぇ。その道理が通用しない時代が、もうそこまで来てるってのに)
「お前は次男だ。家督を継ぐわけではない。だが、それでもヴァルミオの血を引く者として、武門の家に生まれた誇りは、決して忘れてはならん」
父の声が、徐々に決然としたものに変わっていく。彼の迷いが、一つの結論に収束していくのが分かった。
「それでも王都へ行きたいと言うならば……その覚悟を、力で示してみせろ」
(嫌な予感がする。最悪のシナリオだ)
「明日、この手で、お前が我が家の騎士団長、ガイウスに一太刀でも浴びせることができれば、文句は言うまい。お前の道を認めよう」
俺は、絶句した。
「騎士団長に一太刀……?」
「そうだ。ガイウスは、わしが若い頃から共に戦場を駆けてきた、歴戦の騎士だ。お前が本当に武門の血を受け継いでいるというのなら、たとえ文官を志すとしても、その程度の気骨は見せられるはずだ」
「ち、父上、その条件は、どのような?」
「条件だと?」
「武器や、ルールなど……」
父は少し考えてから、冷徹に言い放った。
「木剣での一騎打ちだ。当然、魔法の使用は一切禁ずる。ヴァルミオの男は、己の剣技のみで勝負すべきだ。そして、これはあくまで模擬戦。殺傷は厳禁とする。ガイウスの体のどこかに、お前の木剣が一瞬でも触れれば、お前の勝ちだ」
(魔法禁止。完全に詰んでるじゃないか)
騎士団長のガイウスおじさん。俺が子供の頃から知っている、ヴァルミオ家の守護神のような存在だ。身長は180センチを超え、鍛え上げられた筋肉は鎧の上からでも分かる。戦場で数々の武勲を挙げた、本物の戦士。
俺が七歳の時、初めて木剣を握った日の記憶が蘇る。
「若様、剣は力任せに振るうものではございません。相手の呼吸を読み、力の流れを見切り、その隙を突くのです」
そう言いながら、ガイウスおじさんは、俺が渾身の力で振り下ろした木剣を、柳の枝のように軽々と受け流し、いとも簡単に俺を無力化してみせた。当時の俺は、その圧倒的な技術差に、ただ愕然とするしかなかった。
あれから八年。俺の剣の腕前は、せいぜい「基礎ができている」というレベルだ。対してガイウスおじさんは、毎日欠かさず訓練を続けている、現役バリバリの騎士団長。
身長差は30センチ以上、体重差は3倍近く、そして戦闘経験の差は、もはや比較することすら馬鹿らしい。
これは、無理ゲーだ。どう考えても、勝てる要素が一つもない。
(だが、ここで断れば)
父の目が、俺の答えを待っている。
「できねば潔く騎士への道を歩め。それが、お前に残された唯一の道だ」
完全に追い込まれた。父は、俺の論理に正面から反論できない代わりに、物理的な力で俺の未来を決定しようとしているのだ。彼は、俺がこの無謀な試練を前にして、自分の非力さを悟り、大人しく騎士の道を受け入れることを期待しているのだろう。
物語の主人公であれば、ここで何らかの覚醒イベントでも発生し、圧倒的な力で勝利するのだろうが、生憎、俺の『演算魔法』は戦闘には向かない。その本質は情報収集と分析であり、身体能力を爆発的に向上させるような、都合の良い機能は実装されていないのだ。
俺は、脳内で高速に思考を巡らせる。
試練を拒否するという選択肢は、一見安全なように見えて、実は最も確実な破滅への道だった。父の望み通り騎士の道を強制され、いずれは危険な戦場に送られる。家の財政も好転することなく、数年後には破綻するだろう。得られるものは何もない、最悪の選択だ。
一方、試練を受けるという選択肢は、無謀な賭けに等しい。勝利の確率は限りなくゼロに近い。負ければ結果は同じで、模擬戦とはいえ怪我のリスクもある。しかし、万に一つの可能性を掴んで勝利すれば、王都への道が開かれ、望む未来が手に入る。その投資対効果は、計り知れないほど大きい。
確実な破滅か、それとも限りなくゼロに近い確率の、しかし絶大なリターンを秘めたギャンブルか。
結論は、既に出ていた。この理不尽な試練を受け入れ、万に一つの可能性に賭ける。それこそが、俺にとって唯一残された、最も合理的なリスク管理だった。
「わかりました」
俺は深呼吸し、父の目を真っ直ぐに見据えた。
「その試練、お受けいたします」
父の表情が、一瞬だけ驚きの色を見せた。恐らく、俺が泣いて許しを乞うか、あるいは逃げ出すことを予想していたのだろう。
「本気か?」
「はい。明日、騎士団長殿に一太刀浴びせてみせます」
俺の決意に満ちた目に、父は満足そうに頷いた。
「よかろう。明日の朝、練兵場で待つ」
俺は一礼し、書斎を出る。廊下に出た瞬間、自分の足がわずかに震えていることに気づいた。
自室に戻ると、リリウムが既に紅茶の準備をして待っていた。彼女は、まるで書斎での会話をすべて聞いていたかのように、完璧なタイミングで現れる。
「お疲れ様でございました、アルト様」
「ああ。最悪だったよ。明日、騎士団長と一騎打ちすることになった」
俺は椅子に崩れるように座り、彼女が差し出す紅茶を一口飲む。温かい液体が、張り詰めていた神経を少しだけ和らげてくれた。
「まあ」リリウムの眉が、わずかに上がる。「それはまた、興味深い条件でございますね」
(この人、やっぱり楽しんでるな)
リリウムの表情を見ていると、彼女がこの状況を「面白い見世物」として、心から観察していることがよく分かる。
「アルト様は、どのようにお考えですか?」
「正直に言うと、勝ち目は限りなくゼロに近い」
「そうでしょうね」リリウムは、あっさりと同意する。「通常の戦闘思考では」
「通常の、思考?」
俺は彼女の言葉に引っかかりを感じた。まるで、通常ではない思考法があることを示唆しているかのようだ。
「お父様がお望みなのは、アルト様が『力で打ち負かす』ことでしょうか?それとも、『一太刀浴びせる』という『事実』を、でしょうか?」
(目的と手段を混同するな、か)
リリウムの言葉は、いつも俺の思考をクリアにしてくれる。そうだ。目的は「勝利」ではない。「勝利条件の達成」だ。騎士団長を完全に倒す必要はない。ただ、一瞬でも木剣で触れることができれば、それで条件はクリアされるのだ。
「だが、それでも難しい。相手は手加減するとはいえ、プロの騎士だ。しかも、魔法は使えない」
「ええ。ですが、アルト様には、他の方にはない『特別な視点』がおありですから」
(特別な視点。やはり、演算魔法のことを指しているのか)
「物事を全体として捉え、あらゆる情報を分析し、最適解を導き出す。それこそがアルト様の最大の武器ではないでしょうか。お父様は『剣で示せ』と仰いましたが、その『示し方』は、必ずしも剣の腕前だけとは限りませんわ」
彼女はそう言うと、お茶のおかわりを注ぎながら、ふと、真剣な顔で俺を見つめた。
「アルト様、ご安心くださいませ」
「……何がだ?」
「わたくしが先ほどから観察いたしておりますと、アルト様がお茶を飲まれる際の手の動きが、まるで精密機械のように淀みなく、そして無駄なく動いていらっしゃいます。これは、まさに集中状態の極致でございますね」
「……は?なんで俺の動きをそんなに細かく観察してるんだよ!?」
「また、椅子に座られる姿勢も、背筋がピンと伸び、まるで思考そのものが具現化したかのような完璧な体勢でございます。瞬きもほとんどなく、その瞳は宇宙の真理を見つめているかのようです」
「宇宙の真理って、大袈裟すぎだろ!?」
俺は、飲んでいた紅茶を噴き出しそうになった。
「呼吸もまた、まるで森羅万象の理に則ったかのように静かで深く、アルト様の脳が最高のパフォーマンスを発揮していることを示しております。これらの兆候から、アルト様は既に最高の問題解決モードに入っていらっしゃると断言できます」
「断言されても……リリウム、いくらなんでも観察しすぎじゃないか?」
「困難な状況に直面された時こそ、アルト様の真価が発揮される瞬間でございます。普段から効率性を重視されるアルト様の思考パターンは、制約がある時ほど創造的な解決策を生み出すものです。きっと素晴らしいアイデアをお考えになるはずですわ」
「……もういいよ。わかった、わかった。リリウムらしいや」
リリウムは、悪びれもせずに、完璧な微笑みを浮かべている。
(こいつ……本気で言ってるのか?だが、まあ……)
そのあまりに馬鹿馬鹿しい、しかし真剣な応援に、張り詰めていた俺の緊張が、少しだけほぐれた気がした。
(そうだな。根拠は不明だが、言われてみればそんな気もする)
俺は、目の前の謎めいたメイドに心の中で感謝しながら、思考のコンソールを開いた。
『問題:圧倒的格上の相手に一太刀浴びせる方法』
『制約条件:魔法使用禁止、殺傷禁止、時間制限24時間』
『利用可能リソース:演算魔法(情報収集限定)、基礎剣術知識、相手の慢心……そして、俺の頭脳』
(面白くなってきたじゃないか)
俺は、薄く笑みを浮かべた。父は俺を諦めさせるために、この試練を課したのだろう。しかし、それは逆効果だった。
俺の、ITエンジニアとしての魂に、火がついてしまったのだ。
不可能を可能にする。システムの脆弱性を見つけ出し、それを突く。それこそが、俺の得意分野なのだから。
明日の朝までに、完璧な作戦を立ててやる。騎士団長という名の、巨大で難攻不落に見えるシステムを、俺のやり方でハッキングしてみせる。