第4話 家族へのプレゼンテーション
三日後の夜、俺は再び父の書斎に呼び出された。重々しいマホガニーの扉を開けると、そこには父だけでなく、母と兄のレオンも揃っていた。いわゆる、最終通告前の家族会議というやつだ。書斎の空気は、まるでサーバー室の熱気のように重く、張り詰めている。
(いよいよプレゼンの時間か。プロジェクトの成否を分ける、運命の最終レビューだ)
俺は、この三日間、寝る間も惜しんで作り上げた提案書を小脇に抱え、父の前に座る。羊皮紙に書かれたインクの匂いが、俺の闘志を静かに掻き立てた。膨大なデータ、緻密なグラフ、そして完璧な論理構成。前世で培ったプロジェクトマネージャーとしての全スキルを、この数枚の羊皮紙に注ぎ込んだのだ。
「さて、アルト」
父が重々しく口を開く。その声には、最後の審判を下すかのような厳粛さがあった。
「三日の猶予を与えた。お前の答えを聞こう」
「はい、父上」
俺は背筋を伸ばし、一同を見渡す。父の厳しい視線、母の心配そうな眼差し、そして兄レオンの興味深そうな表情。三者三様の思いが、この小さな書斎に渦巻いていた。
「熟慮の結果、私は騎士でも聖職者でもない、第三の道を歩ませていただきたく存じます」
「第三の道だと?」
父の眉間に、深い谷が刻まれる。兄のレオンも「おいおい」とでも言いたげな顔だ。
「文官でございます」
俺がそう宣言した瞬間、場の空気が凍りついた。母が小さく「あら……」と呟き、兄は完全に困惑している。そして父は……。
「……文官だと?」
父の声が一オクターブ下がる。これはヤバい。彼の怒りのボルテージが、レッドゾーンに突入する直前のサインだ。
「貴族の務めを忘れたか!このヴァルミオ家の男が、机にかじりついて算盤弾きとは……家の恥だと思え!」
「お待ちください、父上」俺は慌てて手を上げる。「その算盤弾きで、どれだけ家のためになるか、具体的にお話しさせていただけませんか?」
「具体的だと?」
「はい。この提案書をご覧ください」
俺は準備していた資料を、机の上に広げる。色分けされたグラフ、整然と並んだ表、そして正確な数値データ。それは、もはや十五歳の子供が作る資料のレベルを遥かに超えていた。渾身のプロジェクト提案書だ。
(これを見ても感情論で反論するなら、あんたは経営者失格だぜ、父さん)
「まず、現在のヴァルミオ家の収支状況ですが……」
俺は、右肩下がりになっている収入と、逆に右肩上がりを続ける支出のグラフを指し示す。
「年間収入25000枚に対し、支出は28000枚。実に3000枚もの赤字です。これは、極めて危険な水準です」
「そ、それは……」
父がたじろぐ。具体的な数字を突きつけられ、彼の威厳がわずかに揺らいだ。
「このペースでの赤字が続けば、5年後、我が家の累積債務は20000枚に達し、蓄えは完全に底を尽きます。父上、兄上の武勲がいかに素晴らしくとも、家計が破綻すれば、その誇りを維持することすらできなくなります」
母がハンカチで口元を押さえている。彼女も、薄々とは気づいていただろう。だが、こうして残酷な現実を突きつけられ、ショックを受けているのだ。
「ですが」俺は次のページをめくる。「私が文官として学んだ知識を活かせば、この状況は劇的に改善できます」
「改善だと?」兄のレオンが、前のめりになって尋ねる。
「はい。まず、支出の最適化。不要な虚栄費を削減し、投資対効果の低い項目から予算をカットします。次に、領地経営の合理化。農業技術の改善、インフラ整備、そして商業活動の活性化です」
俺は、具体的な数値を示しながら、立て板に水のごとく説明を続ける。
「これらの施策により、3年以内に収支を黒字化し、5年以内に税収を現在の1.5倍に増加させることが可能です。これは決して夢物語ではございません」
「1.5倍だと……?」父の声が上ずる。
「はい。こちらのベンチマーク資料をご覧ください」
俺は、近隣の領地経営に成功しているバルトニア男爵領のデータを提示する。もちろん、演算魔法で収集した極秘情報だが、父たちには「独自に調査した」と説明しておく。
「隣のバルトニア男爵領では、同様の手法で10年間で領地の資産価値を3倍にしています。特に、灌漑設備への初期投資が、長期的に見ていかに高いリターンを生むか、このグラフが明確に示しております」
「待て、待て……」父が頭を抱える。「そんな数字ばかり並べられても、実感がわかん……」
「では、もっと身近な例をお出ししましょう」
俺は、このプレゼンのために用意していた、とっておきのカードを切ることにした。
「厨房のマーサおばさん。彼女が毎日、どれだけの食材を無駄にしているか、ご存知ですか?」
「無駄ですって?」母が首をかしげる。「マーサは、昔から我が家に仕える、倹約家の料理人ですわよ」
「ええ、彼女の忠誠心は疑いようもありません。ですが、問題はそこではないのです。腐りかけた野菜を削って使う、調理法の非効率、そして何より、保存技術の未熟さ……。これらの運用上の問題を改善するだけで、我が家の食費は、月々20%も削減できると試算しております」
「20%も……?」
「そうです。これはほんの一例に過ぎません。家中のあらゆる業務プロセスに、改善の余地が眠っているのです」
父は、俺の資料を食い入るように見つめている。その表情は、もはや単なる怒りではない。困惑と、そしてほんの少しの関心が入り混じっていた。数字は嘘をつかない。これこそが、感情論という名の分厚い壁を打ち破る、唯一の武器なのだ。
「しかし……」父が、重い口を開いた。「お前一人で、本当にそんなことができるのか?」
(よし、食いついてきた。ここがクロージングのチャンスだ)
「もちろん、今の私一人では不可能です。だからこそ、王都の学園で、体系的な政治経済学を学びたいのです」
「王都の学園……」
「サルディア王立学園の政治経済学科です。卒業生の就職先は、王室財務官、有力貴族家の会計顧問、商業ギルドの監査役など、どれも安定した高収入の職業です。そして何より、そこで得られる知識と人脈は、ヴァルミオ家の再興に必ずや役立つはずです」
俺は、演算魔法で入手した情報を基に自作した、学園のパンフレットを広げる。
「学費は年間50枚。3年間で150枚の投資となりますが、卒業後の期待年収は最低でも100枚。投資回収期間は、わずか2年。これほど効率的な自己投資は、他にございません」
(このROI、文句のつけようがないだろ。さあ、どう出る?)
母が、小さく手を叩いた。
「まあ、アルトったら、いつの間にこんなにしっかりとした考えを……」
「本当に……」兄のレオンも、心から感心したように頷く。「弟ながら、その計算能力と先見の明には驚かされるよ。俺には、到底真似できない」
しかし、父だけは、まだ納得していないようだった。
「……数字は分かった。だが、それが武門の誇りに代わるものか?」
(まだ言うか、その『誇り』とやらを)
「父上」俺は、今度は感情に訴えかける戦術に切り替える。「誇りとは、家名を掲げることだけではございません。家を守り、領民を豊かにすること。それこそが、真の貴族の誇りではないでしょうか?」
「それは……」
「剣で敵を倒すことも、もちろん素晴らしい武勲です。ですが、数字で貧困という敵を打ち破ることも、同じくらい価値のある武勲ではありませんか?」
我ながら、うまい比喩だ。父の表情が、わずかに揺らいだ。
「アルトの言う通りかもしれませんわ、あなた」母が、そっと父の腕に手を添える。「最近の戦争は、剣の腕前よりも、兵站……つまり、お金の力が勝敗を分けると聞きます」
「そうそう」レオンも力強く頷く。「俺も騎士団で嫌というほど経験したが、結局、最新の装備と潤沢な物資を持つ方が勝つ。つまり、金の差が戦力の差なんだ。アルトの言うことは、的を射ている」
父は、苦虫を噛み潰したような表情で、俺の資料と家族の顔を交互に見ている。
(論理的には、完全に俺の勝ちだ。外堀も埋めた。あとは、彼の感情という最後の城壁をどう突破するか……)
しばらくの沈黙の後、父が重い口を開いた。
「……確かに、お前の言うことには理がある」
(おっ、いけるか?ついに陥落か?)
「だが」
(……やっぱり来たよ、ラスボスが)
父の声が、急に大きくなる。
「理屈ばかりで人は動かん!領民たちが求めているのは、頼りになる強い領主の姿だ!」
「ですが父上、その『強さ』とは、一体何でしょう?」
俺は冷静に、しかし力強く反論する。
「剣の強さで領民を守れるのは、戦場という限定的な状況だけです。日々の生活を脅かす飢えや貧困から彼らを守るには、経済という、全く別の強さが必要なのではありませんか?」
「経済の強さなど、軟弱な商人の戯言だ!」
「いいえ」俺は首を横に振る。「隣国ガリアの革命も、その根本原因は経済問題です。民衆が貧困に喘いでいたからこそ、『自由だ平等だ』という甘い言葉に騙され、国が乱れたのです」
父の顔が、サッと青ざめる。ガリアの革命は、ここサルディア公国にとっても、決して他人事ではないのだ。
「つまり、父上」俺は、最後の一撃を放つ。「最も確実に革命を防ぐ方法は、領民を豊かにすることです。それこそが、この時代における、真の武勲ではないでしょうか」
完璧な論理だ。反論の余地など、あるはずがない。
しかし、父は頑固だった。
「……理屈は、分かった。だが、わしは認めん」
(あー、来た。感情論での最後の抵抗。いわゆる『ちゃぶ台返し』ってやつだ)
「ヴァルミオの男が、商人まがいの真似をするなど……わしの目の黒いうちは、断じて許さん!」
父は立ち上がり、部屋の中を歩き回り始める。完全に感情的になっている。これ以上、論理で説得するのは不可能だ。
(うーん、膠着状態か。デッドロックだな、これは)
俺は母と兄の顔を見る。二人とも困った表情だ。特に母は、明らかに俺の案に賛成している様子だが、家長である夫に逆らうことはできないでいる。
その時、部屋の隅で控えていたリリウムが、微かに口元を緩めているのに、俺は気づいた。
(あの人、絶対に楽しんでるな……)
彼女は表面的には完璧なメイドの微笑みを保っているが、その赤い瞳の奥は、まるで極上のエンターテイメントを観賞するかのように、キラキラと輝いている。父の感情的な反発と、俺の論理的な攻撃。この対立構造そのものを、彼女は面白がっているのだ。
俺は、ここで最後のカードを切ることにした。
「父上、せめて一年だけでも、私にチャンスをいただけないでしょうか」
「一年だと?」
「はい。王都の学園で一年間学び、その成果を必ずや家にお見せします。もし、私の言葉が偽りであったなら、その時は潔く、父上の仰る通り、騎士の道を歩みます」
これは、俺なりの妥協案だ。とりあえず時間を稼ぎ、実績という名の既成事実で、父を納得させる作戦である。
父は、俺の資料を何度も見返している。数字は明確だ。論理は完璧だ。そして、息子の覚悟も、今、示された。
「…………」
しかし、父は黙り込んでしまった。母が心配そうに父の顔を見つめ、兄のレオンも固唾を飲んで見守っている。書斎の空気が、鉛のように重くなる。
(あれ?これは、まずいパターンか……?)
「……今夜は、もう遅い」
ついに父が、重い口を開いた。
「今日のところは、ここまでにしよう。だが、アルト。理屈は分かった。だがな、ヴァルミオの男は、言葉ではなく、力で自らを示すものだ……!覚悟しておくがいい」
「はい、父上」
結局、この日の会議では、何も決まらなかった。俺の完璧な提案も、父の頑固な信念も、どちらも一歩も譲らない。完全な平行線だ。
家族がそれぞれ部屋に戻っていく中、俺は最後にリリウムの表情を確認した。
彼女は静かに俺に近づいてくる。
「お疲れ様でございました、アルト様」
「全然、決着がつかなかったけどな」
「いえいえ」リリウムの声には、わずかに弾んだ調子が混じっている。「とても興味深い議論でございました。論理と感情の真っ向勝負。まるで、最新のAIと、熟練の職人が、どちらの作る製品が優れているかを競っているかのようでしたわね」
俺は苦笑いを浮かべる。「そんな風に見えてたのか?」
「ところで、議論中にお父様が『ふん』と鼻を鳴らされた回数は、12回でございました」
「は?」
「わたくし、つい数えてしまう癖がございまして。メイドの基本技能の一つでございます」
俺は呆れながらも、彼女の奇妙なこだわりに、少しだけ笑ってしまった。完璧なメイドの仮面の下にある、こういうズレた部分が、時々顔を出すのだ。
「お父様もアルト様も、どちらも譲らない。まさに、譲れない一線でございますね」
リリウムは窓の外を見やる。
「明日もきっと、興味深い展開になりそうでございますわ」
その言葉に、俺は妙な予感を覚えた。
(何か来るな)
この膠着状態が、一体どんな方向に向かうのか。リリウムの表情を見ていると、まるで、すでに次の展開のシナリオを読み終えているかのようだ。
俺は深いため息をついて、部屋を後にした。明日、父は一体どんな手を打ってくるのだろうか。