第2話 秘密のコンソール
夕食を終え、自室のドアにそっと鍵をかける。カチャリ、という金属音が、今夜も俺だけの時間が始まったことを告げる合図だ。
(よし、今日も一日お疲れ様でした、俺)
ロウソクの頼りない明かりが、部屋の壁に俺の長い影を映し出す。この時間なら、父も母も、そして使用人たちもそれぞれの部屋に戻っている。つまり、誰にも邪魔されずに、俺の秘密の研究に没頭できる最高の時間だ。
表向きは「魔法にあまり興味がない、ちょっと理屈っぽい文系少年」。それが、俺がこの家で演じているキャラクターだ。まさかその少年が、毎晩こうして密かに魔法の練習に明け暮れているなど、家族の誰も想像していないだろう。このギャップが、俺の唯一の生存戦略であり、ささやかな楽しみでもあった。
まずはウォーミングアップとして、この世界の一般的な魔法から確認する。手のひらに意識を集中させると、小さなオレンジ色の火球がぽわりと浮かび上がった。ゆらゆらと踊る炎は、まるで生きているかのようだ。
(うん、通常魔法の術式は問題なく呼び出せるな)
この世界の魔法は、火・水・風・土の四元素が基本だ。俺自身の魔力量は、貴族としては平均か、それ以下。だが、基礎的な術式なら一通りは使える。火の玉を飛ばし、水の球を浮かべ、風の刃を作り、土の壁を隆起させる。どれも魔法学校の教科書に載っているような、初歩的な魔法だ。
(でも、これはあくまで前座。俺の本当の力は、こんなものじゃない)
ベッドに深く腰を下ろし、俺は意識を集中させる。前世で覚えた瞑想法を応用し、呼吸を三回、深く、ゆっくりと。雑念が消え、思考がクリアになっていく。
(それにしても、今日のリリウムとの会話は興味深かった)
彼女に演算魔法を使おうとして失敗したのは想定内だが、あの時の彼女の反応が気になる。まるで俺が何かしようとしていることを、薄々感づいているような……いや、確信しているような、そんな素振りだった。
あの表情には、いつも何か深い知性が感じられる。普通のメイドにしては、あまりにも完璧すぎる。料理、掃除、洗濯、接客……どれを取っても超一流だ。その上、貴族の令嬢のような上品な所作と、時折見せる老獪な政治家のような鋭い洞察力。
(まあ、今はそれより練習だ。彼女というブラックボックスの解析は、今後の重要課題としてタスクリストに入れておこう)
俺は目を閉じ、脳内にコンソールを展開する。視界の奥に、半透明のウィンドウが幾重にも重なって浮かび上がった。これが俺だけの特殊能力、『演算魔法』のインターフェースだ。
六年前の九歳の誕生日に、何の前触れもなく発現してから、毎晩欠かさず練習と研究を続けている。最初は単純な物の名前を調べるだけだったが、今では複雑な情報分析まで可能になっている。
(まずは基本の情報取得から。屋敷内の人的リソースの現状を把握する)
俺は意識を集中させ、屋敷内にいる人々の状況を探ってみる。これが演算魔法の基本、情報取得クエリだ。至近距離にいる、魔力を持たない一般人なら、ほとんど魔力を消費せずに詳細な情報を得られる。
頭の中に、屋敷にいる人々の情報が、まるでデータベースのレコードのように流れ込んできた。
まず、厨房で最後の片付けをしている料理人のマーサ。彼女からは、強い疲労と、腰の痛みが伝わってくる。だが、それだけではない。彼女の内心には、家計を切り詰めるために、質の悪い食材で料理を作らねばならないことへの、プロとしてのストレスとプライドの葛藤があった。これは、単なる健康問題ではなく、従業員のモチベーション低下という、組織運営上の重大なリスクだ。
次に、警備室で見回りの準備をしている警備隊長のジェラルド。彼は父の古い友人で、この家の台所事情を一番よく知っている。彼が抱えているのは、家の財政状況への不安だ。息子の俺が騎士にならないことで、ヴァルミオ家の武門としての未来を憂い、それがひいては自分たちの雇用の不安定さに繋がることを恐れている。彼の忠誠心は本物だが、その根底には生活への不安が色濃く存在していた。
そして、馬小屋で馬の世話をしている若い使用人のトーマス。彼の心は、漠然とした恐怖に支配されていた。隣国ガリアからの革命の噂を聞き、貴族に仕える自分たちの立場がどうなるのかを心配しているのだ。「自由と平等」を掲げる革命軍が、貴族だけでなく、貴族に仕える者たちをも「人民の敵」として処罰しているという話を、行商人から聞いたらしい。
(なるほどな……。使用人たちの不安は、ヴァルミオ家が抱える問題の縮図か。財政難、旧体制への固執、そして外部環境の変化への対応の遅れ。これは、プロジェクトで言うところの三重苦だ)
続いて、屋敷という「ハードウェア」の状況も確認してみる。建物の劣化状況、物品の配置、侵入経路の確認……。演算魔法なら、人間の目では見えない箇所の状態まで、レントゲン写真のように把握できる。
(うげぇ、やっぱりかなりキテるな。物理インフラの老朽化が深刻だ)
東側の屋根に水漏れの兆候。三階の窓枠が腐食し、気密性が低下。二階の廊下の床板が一部、湿気で膨張している。ざっと修繕費用を見積もっても、金貨で50枚は下らないだろう。今の我が家の財政では、到底捻出できない金額だ。
(問題が山積みだ。だが、問題が可視化できれば、それはもう解決への第一歩だ)
俺は気を取り直し、今度は情報取得能力の精度を上げるための訓練に移ることにした。これまでは静的なオブジェクトや、魔力を持たない人間を対象にすることが多かったが、より複雑な情報を、より速く、正確に読み取る練習が必要だ。
俺は、部屋の中を飛び回る小さな蛾に意識を集中させる。その不規則な動きをリアルタイムで追跡し、羽ばたきの回数、飛行速度、体表の温度変化といった微細な情報を、ミリ秒単位で取得しようと試みる。
(くっ……速い。処理が追いつかない)
脳内に流れ込んでくる膨大なデータを処理しきれず、軽い頭痛を覚える。これが演算魔法のコストだ。高度な情報処理は、俺の精神に直接的な負荷をかける。
数分間の追跡の末、ようやく蛾の動きのパターンを捉え、その飛行ルートを95%の精度で予測することに成功した。額には汗が滲んでいる。
(戦闘に応用するには、まだまだ訓練が必要だな。動くターゲットから、瞬時に弱点情報を引き出す。それができれば、生存率は格段に上がるはずだ)
次に、俺は意識を廊下に向ける。ちょうどリリウムが、深夜の見回りなのか、静かな足音で通りかかった気配がした。
俺は、彼女の情報を取得しようと試みる。名前、状態、思考、過去……。いつもと同じように、俺は演算魔法を起動する。
しかし、返ってきたのは、やはりお馴染みのエラーメッセージだった。
『ACCESS DENIED: You do not have permission to access this resource.』
(やっぱりダメか)
今度は別のアプローチを試す。直接的な情報取得ではなく、周辺環境から間接的に彼女の存在を推測する。リリウムがいる場所の温度、湿度、空気の微細な流れ、魔力の残滓……。だが、それらの情報も、彼女の周囲だけが、まるで情報の真空地帯のように、何も取得できない。
俺は改めて、この完璧なメイドの得体の知れなさを実感する。六年間、何度試しても同じ結果。彼女だけは、俺の演算魔法が全く通用しないのだ。
(あの人は一体何者なんだ? この世界の物理法則から、逸脱しているとしか思えない)
普通の人間が、ここまで完璧に情報を遮断できるとは思えない。何か特殊な魔法的防御を常時展開しているのか、それとも、存在そのものが俺の理解を超えた規格なのか……。
コンコン。
思考に耽っていると、不意に部屋のドアがノックされた。俺は慌てて魔法の痕跡を消す。
「アルト様、夜分に失礼いたします」
リリウムの声だ。俺は少し驚きながらも、「どうぞ」と入室を促した。
彼女は銀のトレイを手に、音もなく部屋に入ってくる。温かいスープの香りが、部屋に満ちた。
「どうしたんだ、こんな時間に」
「お夜食でございます。アルト様の脳の活動レベルが、先ほどから推奨値を超えておりましたので。神経を落ち着かせる効果のある、特製のカモミール風味コンソメスープをお持ちいたしました」
(脳の活動レベルってなんだよ……。それに特製って、また変なもの入れてないだろうな)
俺は内心でツッコミを入れつつ、彼女の言葉の裏にある意味を探る。
「……俺が何かしてたって、どうして分かったんだ?」
「アルト様のお部屋から、極めて微弱ながら、高速で変動する魔力の波を観測いたしました。メイドの職務として、主人の健康状態に関わる室内の環境変化を監視するのは、当然のことでございます」
ドキリとした。彼女の言葉は、核心を突いているようで、それでいて何も断定していない。俺が部屋の中で何をしていたか、どこまで把握しているのか。その底知れなさに、俺は言葉に詰まる。
「……リリウム。君は、一体何者なんだ?」
思わず、本音が漏れた。彼女は俺の問いに、いつもの完璧な微笑みで答える。
「私は、アルト様にお仕えする、ただのメイドでございます。主人のなさる『研究』を、影ながら応援させていただくのも、またメイドの務めかと」
そう言って、彼女は悪戯っぽく笑った。その表情は、まるで俺の秘密を楽しんでいるかのようだ。
「ただ、一つだけ申し上げられることがあるとすれば……アルト様のそのユニークな御力も、万能というわけではございません。この世界には、今のアルト様の『理屈』では、到底届かない、古く、そして強大な『理』が存在いたします」
彼女の言葉は、俺の演算魔法の本質を、正確に……いや、的確に言い当てているようだった。
「その『理』に触れるには、アルト様ご自身の『階位』…いえ、存在そのものを、さらに引き上げる必要がございますわね」
俺はもう、何も言えなかった。彼女の言葉は、俺の能力の限界と、その先の可能性を、同時に示唆していた。
リリウムが部屋を出て行った後、俺は改めて自分の能力について整理を始めた。彼女の言う通り、演算魔法は万能じゃない。魔力を持たない一般人の情報は自由に取得できるが、魔力の強い相手になると、情報の解像度が落ちる。そして、リリウムのような規格外の存在には、完全にアクセスを拒否される。
距離の制約もある。屋敷の中のような至近距離なら問題ないが、王都のような遠方の情報を得るには、大量の魔力を消費する上に、得られる情報も断片的だ。
時間の制約も大きい。過去の情報を遡れるのは、今の俺のレベルでは最大で72時間程度。それより古い情報は、ノイズが多くて使い物にならない。
(そして何より、この能力が外部に漏れたら、間違いなく破滅フラグだ)
魔法使いにとって、情報は最大の武器だ。相手の弱点、周囲の状況、隠された秘密……これらを瞬時に把握できる能力は、あまりにも強力すぎる。王家や他の貴族に知られれば、便利な道具として利用されるか、危険因子として排除されるか。どちらにしても、俺が望む平穏な生活は手に入らない。
(この能力を誰かに知られるくらいなら、一生冴えない次男坊として生きたほうがマシだ)
俺は改めて、そう決意した。だが、この力があるからこそ、父の出した二択以外の『第三の道』を切り開くことができる。
(明日からは、本格的に情報収集フェーズだ)
王都の学園について、徹底的に調べる。入学条件、学費、カリキュラム、卒業生の進路、そして学内の派閥構造。演算魔法を駆使して、三日間で父を説得するための完璧なプレゼン資料を作成する。
家の財政状況も、さらに詳細に分析する。支出のボトルネックを特定し、具体的な改善案と、それによって見込まれる利益を数値で示す。感情論ではなく、論理とデータで父を説得するのだ。
(絶対に、俺の望む未来を勝ち取ってやる)
窓の外では、虫の鳴き声が聞こえている。秋の夜長が、俺の思考をさらに深く、鋭くしていく。月明かりが部屋を薄く照らし、俺の影を壁に映していた。
俺は演算魔法のインターフェースを閉じ、ベッドに潜り込んだ。今夜の練習は、大きな収穫があった。明日からの三日間で、俺の人生を賭けた情報戦が始まる。
この能力は、俺にとって最強の武器であり、同時に最大の秘密でもある。だからこそ、誰にも知られることなく、この世界のバグを、一つずつ修正していく。
(まあ、大それた社会改革なんて考えてないけどな。とりあえず、俺と家族がもう少しマシな暮らしができれば、それでいい)
だが、心の奥底では分かっている。この力を手に入れた以上、普通の人生は歩めない。いつか、もっと大きな問題に巻き込まれる日が来るだろう。
その時は、この演算魔法を最大限に活用して、最適解を導き出す。俺なりのやり方で、この理不尽な世界と渡り合っていく。
三日後の家族会議で、俺は父を完全に論破してみせる。そして、王都での新しい生活を始めるのだ。
こうして、俺の人生を決める戦いの前夜が、静かに更けていった。