第5話 銀髪の破壊者 後半
翌朝、王立学園の宿舎で。
俺は窓の外を見つめながら、昨夜の出来事を振り返っていた。遺跡は完全に崩壊し、二度と立ち入ることはできない。王都の地下に眠っていた貴重な古代遺跡が、一夜にして瓦礫の山と化した。そして、それと共に俺の金策計画も、古代魔法の研究材料を得る手段も、全て失われた。
(一体、何が起きたんだ?)
俺は昨夜の光景を思い返す。リリウムの予想以上の実力。人工精霊との戦闘。そして、遺跡全体の崩壊。あの状況で冷静に対処できたのは、彼女の能力の高さを示している。
だが、詳細がはっきりしない部分も多い。
「アルト様、朝食の準備ができました」
リリウムが部屋に入ってくる。いつもの完璧なメイドの笑顔だ。まるで昨夜の激戦が嘘だったかのように、何事もなかったかのような落ち着きで。
「おはよう、リリウム」
俺は意識的に普段通りの挨拶をする。だが、心の奥では、彼女への見方が少し変わっていた。
「リリウム、昨夜のことだが」
「はい、何でございましょう?」
俺が振り返ると、彼女はきょとんとした表情を見せた。
「遺跡の崩壊について、何か知っているか?」
「申し訳ございませんが、よく分からないのです」
リリウムが困ったように首を傾げる。
「人工精霊との戦闘中に、魔力が暴走してしまいまして。気がついた時には、遺跡全体が崩壊し始めていました」
その説明には不自然な点があった。昨夜感じた圧倒的な魔力の波動は、暴走というよりも完全に制御されたものだった。そして、あの一方的な『処理』の感覚。
(彼女は、俺を守るためなら、必要な時には容赦なく力を使う。それが彼女なりの『配慮』なんだろう)
だが、深く追及する必要はないだろう。
「そうか。無事で何よりだ」
俺はそれ以上の詮索を避けた。リリウムには彼女なりの事情があるのだろうし、結果的に俺たちは無事だったのだから。
「アルト様?」
リリウムが心配そうに俺を見つめる。その瞳には、いつもの優しさがあった。
「いや、何でもない。それより」
俺は話題を変えた。
「金策が振り出しに戻ったな」
俺が窓の外を見つめながら呟くと、リリウムが申し訳なさそうに頭を下げた。
「申し訳ございません。わたくしの不注意で、貴重な収入源を」
「いや、君のせいじゃない」
俺は立ち上がり、窓の外の学園を見つめた。中庭では、朝の訓練を行う学生たちの姿が見える。平和な日常が、そこにはあった。
「また、一から考え直すだけだ」
心の中で、俺は一つの認識を新たにしていた。
リリウムという存在は、俺が思っていた以上に有能で信頼できる。彼女は状況を的確に判断し、必要な行動を取ることができる。昨夜の人工精霊との戦いも、彼女なりの冷静な判断があったのだろう。
そして、それは——
俺にとって非常に心強いことでもあった。セレスの聖霊石問題をはじめ、これから先も様々な困難が待ち受けているだろう。そんな時、リリウムのような頼れるパートナーがいることは、本当に大きな支えになるはずだ。
ただ、彼女の隠している『秘密』については、いずれ知る必要があるかもしれない。今はまだその時ではないが。
「お顔の色がすぐれませんが、体調はいかがですか?」
リリウムが心配そうに近づいてくる。その表情は、本当に心配しているように見える。彼女の『ご主人様への献身』は、時として驚くほど徹底している。
「いや、大丈夫だ。ちょっと考え事をしていただけだ」
「そうでございますか。でしたら、お食事はいかがいたしますか?」
「ああ、食べる」
俺は振り返り、いつものようにリリウムに微笑みかけた。心の奥では、新たな課題が浮上していることを認識していた。
セレスの聖霊石の問題。古代魔法の習得。そして、リリウムという存在の真の能力を理解すること。
やるべきことは増える一方だった。
だが、一つだけ確かなことがある。
この世界で生き抜くためには、まだまだ力が足りない。様々な脅威に対抗できるだけの力が。
俺は古代魔法の書物を手に取り、新たな学習を始めた。アルフレッドから授かった『古代魔法基礎理論書』と『生命操作術式集』。これらを完璧にマスターすれば、セレスを救えるだけでなく、この世界の様々な困難に立ち向かえるかもしれない。
(リリウム、君は俺の大切な仲間だ。君の秘密がどんなものであれ、今は信頼関係を大切にしよう)
まずは、セレスを救うことが最優先だ。そのためにも、新たな金策を考えなければならない。
その日の午後、俺はセレスと学園の中庭で会っていた。昨夜の一件以来、彼女の表情には深い不安の影が宿っている。普段の凛とした公爵令嬢の面影はそこになく、代わりに年相応の少女の不安が表れていた。
「アルト様、昨夜の遺跡のことを考えていると、眠れませんでした」
セレスが芝生の上に座りながら呟く。その声は、いつもより小さく、震えが混じっていた。
「大丈夫だったか? 体調は」
「はい、身体は大丈夫です。ただ」
セレスが自分の胸のあたりを無意識に撫でる。
「わたくしの身体の中にある聖霊石のこと、本当に除去できるのでしょうか? アルフレッド様は、わたくしの先祖のエレノア様が、その石によって亡くなったと仰っていました」
セレスが俺の顔を見つめながら尋ねる。その瞳には、希望と恐怖が複雑に入り混じっていた。生への希望と、死への恐怖、そして未知への不安。
「必ずできる」
俺は迷わず、力強く答えた。
「アルフレッドから受け取った古代魔法の書物を研究すれば、きっと方法が見つかる」
俺は鞄から『古代魔法基礎理論書』と『生命操作術式集』を取り出し、セレスに見せた。厚い羊皮紙に古代文字で記された、貴重な知識の結晶だ。
「この『生命操作術式集』には、聖霊石のような古代アーティファクトの安全な除去方法が記載されているはずだ。これらを完全に理解するまでには時間がかかるだろうが、君を救う方法は必ずある」
「でも、わたくしのために、アルト様がそこまで」
「君のためだけじゃない」
俺はセレスの言葉を遮った。
「俺は、この世界の不合理なシステムを変えたいと思っている。教皇庁が個人の意志を無視して聖霊石を埋め込み、政治的な道具として利用する。そんなシステムは間違っている」
セレスの瞳が、わずかに見開かれる。
「君を救うことは、そのシステムに対する最初の挑戦なんだ」
「ありがとうございます」
セレスが涙ぐみながら微笑む。
「アルト様がいてくださるから、わたくし、頑張れます。たとえどんなに困難でも」
だが、俺の心の奥には、もう一つの深刻な懸念があった。
セレスを救うために古代魔法を習得する。それは良い。だが、その過程で俺が強くなりすぎれば、リリウムはどう反応するだろうか?
昨夜の彼女の行動を思い返すと、彼女の『ご主人様への配慮』という姿勢は、想像以上に深いところまで及んでいる可能性があった。もし俺が古代魔法を習得していく過程で、何か問題が生じたら、彼女は適切にサポートしてくれるだろうか?
「アルト様?」
セレスが俺の表情の変化に気づく。
「何か、心配事でも? 顔色が悪いようですが」
「いや、大丈夫だ」
俺は意識的に笑顔を作った。セレスに余計な心配をかけるわけにはいかない。
「ただ、これから大変になりそうだな、と思っただけだ」
古代魔法の習得。聖霊石の除去。そして、リリウムという存在への対処。
どれ一つとして簡単なものはない。だが、それ以上に、これらの課題は全て互いに関連し合っている。一つを解決するための行動が、別の問題を複雑化させる可能性がある。
だが、俺には一つの信念があった。
この世界の不合理なシステムを改善し、大切な人を守る。そのためなら、どんなリスクも、どんな困難にも立ち向かう。
「セレス、約束する」
俺は彼女の手を取り、真剣に言った。その手は、思ったよりも小さく、温かかった。
「君を必ず救う。聖霊石も、教皇庁の呪縛も、全て断ち切ってみせる。たとえ世界中を敵に回すことになっても」
「アルト様」
セレスの瞳に、涙が光る。
「はい」
セレスが強く頷く。
「わたくしも、アルト様と一緒に頑張ります。自分の運命に、負けません」
夕日が二人を優しく照らしていた。学園の中庭に、長い影が伸びる。だが、俺の心は既に次の戦いに向けて動き始めていた。
古代魔法という新たなる力を手に入れ、この世界の『レガシーシステム』を、本当の意味で変革する時が来たのだ。
リリウムという不確定要素はあるが、それでも俺は前に進む。
セレスのために。そして、この世界のために。
その夜、俺は一人で古代魔法の書物を読み進めていた。アルフレッドから受け取った『古代魔法基礎理論書』は、俺の理解を遥かに超える内容で満ちていた。ページをめくるたびに、現代魔法とは根本的に異なる概念と理論に出会う。
(これは、まるでプログラミング言語そのものを再定義するような代物だ)
古代魔法は、世界の根源的な法則に直接アクセスする技術だった。現代魔法が『安全なAPI』を通じて決められた機能を呼び出すものだとすれば、古代魔法は『OSのカーネル』に直接コマンドを送り込むようなものだ。
危険だが、理解できれば応用範囲は無限大。そして、セレスの聖霊石を安全に除去するには、この知識が不可欠だった。
「アルト様、夜遅くまでお疲れ様です」
リリウムが温かい紅茶を持って部屋に入ってくる。いつもの完璧なメイドの笑顔だが、俺にはもうその笑顔の奥に隠された複雑さが見えていた。
「ありがとう、リリウム」
俺は本から顔を上げ、彼女を見つめた。昨夜の一件以来、俺の中で彼女への見方が根本的に変わっていた。
彼女は間違いなく俺の味方だ。だが、その『配慮』の仕方は、時として俺の考えとは少し視点が違うところがある。
「古代魔法の勉強でございますか?」
リリウムが本を覗き込む。その瞬間、彼女の表情に微かな変化があった。まるで、その内容を理解しているかのような、興味深そうな光が瞳に宿る。
「はい、セレスを救うために。『生命操作』の理論を理解する必要がある」
「そうでございますね」
リリウムが微笑む。だが、その笑顔の奥に、何かを隠しているような気配があった。まるで、この古代魔法について、俺よりもはるかに詳しい知識を持っているかのように。
「一つお尋ねしてもよろしいでしょうか?」
リリウムが紅茶を俺の机に置きながら、慎重に言葉を選ぶように話した。
「何だ?」
「もし、セレス様を救うために、ご自身が危険にさらされるような状況になったら、どうなさいますか?」
その質問は、俺の核心を突いていた。まるで、俺の内心を見透かしているかのような的確さで。
俺は少し考えてから、迷わず答えた。
「それでも、やる」
「たとえ、命に関わるような危険であっても?」
リリウムが追加で尋ねる。その声には、普段の上品さとは異なる、真剣な響きが混じっていた。
「大切な人を救うためなら、多少のリスクは受け入れる。それが俺の考えだ」
リリウムの表情が、わずかに曇った。その瞬間、俺は彼女の瞳の奥に、言葉にできない複雑な感情を見た。心配、困惑、そして——理解し難いものを見つめるような、戸惑い?
「そうでございますか」
彼女はそう呟き、いつものお辞儀をして静かに部屋を出て行った。だが、その後ろ姿には、普段の優雅さとは違う、重いものが感じられた。
(俺たちは、まだお互いを理解し合えていない)
俺は彼女の後ろ姿を見つめながら、そう実感した。彼女にとって俺の安全が最優先であり、俺にとって大切な人を救うことが最優先。この価値観の相違を埋めるには、もっと時間をかけて話し合う必要がある。
(そういえば)
俺は扉を見つめながら、ふと気づいたことがあった。
リリウムは確かに超有能だ。メイドとしての技術は完璧で、コミュニケーション能力も高い。どんな相手とも適切に会話し、どんな状況でも完璧に対応する。
だが、それは全て『ご主人様のため』という大前提の上に成り立っている。
彼女には、社会一般への関心や、他者との自然な関係性を築こうとする意欲が感じられない。昨夜の人工精霊を『消去』した時の冷徹さも、そこから来ているのかもしれない。
彼女の世界は、俺を中心として回っている。俺の安全と幸せを最優先に考える、とても献身的な姿勢を持っている。
(これは、ある意味で心配になる状態だ)
超高性能だが、普通の人とは少し違った価値観を持っている部分がある。まるで、とても合理的で純粋な考え方をする、ちょっと変わった存在のように。
そう考えると、なんだか理解してやりたい気持ちになってきた。
(俺が、彼女の考え方をもっと理解してやらなくちゃいけないのかもな)
彼女が俺を大切に思ってくれているのと同じように、俺も彼女の価値観を尊重し、お互いに歩み寄る必要があるかもしれない。
俺は再び本に向き直ったが、心の奥で一つの確信を抱いていた。
リリウムと俺の間には、価値観の微妙だが重要な相違がある。俺は『大切な人のためならリスクを取る』という考え方で動いているが、彼女は『ご主人様の安全を何より大切にする』という考え方で動いている。
この相違を放置すれば、いずれ大きな問題を引き起こすかもしれない。彼女の圧倒的な力が、俺の意図しない方向に使われる可能性もある。今夜の遺跡のように。
だからこそ、お互いを理解し合うことが絶対に必要だ。俺は彼女の献身的な想いを受け止め、彼女には俺の価値観を理解してもらう。そうすれば、セレスを救う過程で、真の意味で協力し合えるはずだ。
だが、今はまだその時ではない。
俺は古代魔法の習得に集中し、セレスを救う方法を見つけることに専念した。『生命操作術式集』のページをめくりながら、聖霊石除去の手順を一つ一つ理解していく。
時計の針は深夜を指していたが、俺は読書を続けた。
未来への不安は確かにある。古代魔法習得の困難さ、聖霊石除去に伴うリスク。そして何より、リリウムとの価値観の相違をどう乗り越えるかという課題。
だが、それ以上に、やるべきことが明確にある。
この世界の『レガシーシステム』を変革し、大切な人たちを守り抜く。
そのためには、リリウムとの主従ではなく、相互理解が必要だ。彼女の力と俺の意志が同じ方向を向いた時、きっと今まで以上に大きなことを成し遂げられる。
(俺たちは、お互いを理解し合わなければならない。それが、この先の困難を乗り越える唯一の道だ)
そう心に決めて、俺は古代魔法の研究を続けた。セレスを救うことが、リリウムとの真の協力関係を築く第一歩になるはずだ。
窓の外では、王都の夜景が静かに輝いている。この街の地下に眠っていた古代遺跡は、もう二度と見ることはできない。だが、俺の手には、その遺跡が残してくれた最後の贈り物がある。
古代魔法の知識。
これを武器に、俺は新たな戦いに臨む。
セレスのために。そして、この世界を少しでも良い場所にするために。