神ゲーの黎明
時は西暦2021年。
日本のゲーム業界は、長い黄昏の時代を迎えていた。
かつて世界を席巻した「メイド・イン・ジャパン」の輝きは失われ、ゲーマーたちの話題の中心は、大陸から来たオープンワールドRPG『炎神』に独占されていた。美麗なグラフィック、広大な世界、魅力的なキャラクター。その圧倒的な物量とクオリティの前に、国内メーカーの新作は霞んで見えた。
「……また炎神か」
三度の飯よりゲームを愛する男、佐伯は、ネットのゲームニュース一覧を見ながら深くため息をついた。大手国内メーカーの新作発表会は、過去の栄光にすがるリメイクか、搾取上等のソーシャルゲームばかり。革新的な驚きも、世界に挑戦する気概も、そこにはなかった。
「日本のゲームは、もう終わったのかな……」
諦めにも似た呟きを漏らしながら、惰性でνTubeを開く。おすすめ欄に並ぶのも、やはり『炎神』の攻略動画やガチャ配信ばかりだ。そんな中、ふと異質なサムネイルが目に留まった。
【アストラル・ライブ】超リアルフルダイブVRMMO βテスト配信 #01
チャンネル名は『Project: ASTRAL』。登録者数、17人。
聞いたこともない零細チャンネルだ。プロフィール欄には「革新的エンターテインメントを創造する中小企業です」とだけ書かれている。胡散臭い。フルダイブVRMMO? 2021年の現代技術では時期尚早もいいところだ。どうせ適当なフリー素材の映像でも流して、投資家でも釣るつもりなのだろう。
無視しようとした指が、止まる。
サムネイルに映る森の木々。その葉の一枚一枚を照らす木漏れ日、地面に落ちる影の複雑さ、画面の奥で揺れる陽炎。あまりにも、リアルすぎる。
「……なんだ、これ」
好奇心が、疑念を上回った。佐伯は、舌打ちしながらも動画をクリックした。
『うおおおおっ、マジかよ! マジで異世界じゃん!』
画面の向こうで、少し浮ついた男の声が響く。映し出されたのは、鬱蒼とした森の中、呆然と立ち尽くす男の一人称視点。男――テスターの「ケンタ」は、自分の手を見つめたり、地面の土を掴んだりしている。
「土の感触がある……匂いも……すげえ、すげえ!」
「はいはい、茶番乙」と佐伯は冷めた目で見ていた。だが、数分と経たないうちに、その表情は驚愕に変わっていく。
ケンタが木の幹に触れる。樹皮のザラついた質感が、まるでテスター自身が触れているかのように変わる。彼が小川の水をすくう。指の間から零れ落ちる水の透明度、水面に映る自分の顔の揺らぎ。それは、どんな最新のゲームエンジンが叩き出す映像よりも生々しく、現実的だった。
コメント欄は、まだ数えるほどしか人がいない。
『CGにしてはすごいな』
『どこのスタジオが作ったんだ?』
『このテスター、リアクション大げさすぎw』
誰もが、これを「精巧なCG映像」だと思っていた。佐伯も、最初はそうだった。
だが、ケンタがふと見つけたリンゴのような果実を、何の気なしに口にした瞬間、佐伯は背筋に電流が走るのを感じた。
『うぐっ……! にがっ! なんじゃこりゃ!』
ケンタは顔を盛大にしかめ、果実を吐き出した。その表情の歪み、唾液の飛び散り、えずく喉の動き。それは、プログラムされたモーションではあり得ない、人間の「生理的な反応」そのものだった。
「……演技、じゃないのか?」
これはゲームではないのかもしれない。だとしたら、一体なんなんだ?
佐伯が画面に釘付けになっていると、森の奥からガサリ、と大きな物音がした。ケンタがビクリとそちらを向く。茂みから現れた「それ」を見て、佐伯は息を呑んだ。
「……獣人?」
それは、二本足で立つ、巨大な狼だった。
巷のゲームに登場するような、人間の美少女に獣の耳と尻尾をつけただけの安っぽい「獣人」ではない。筋骨隆々たる身体は灰色の硬質な毛皮で覆われ、逆立った鼻面には鋭い牙が覗く。爛々と輝く黄金の瞳は、野生そのものの知性と獰猛さを宿していた。顔つきは、ほぼ狼。しかし、その立ち姿と、腰に下げた粗末な剣は、紛れもなく知的生命体であることを示している。
現代のVFX技術で、これほどリアルなクリーチャーを、ライブ配信で、リアルタイムに動かせるものか? いや、不可能だ。
獣人は、侵入者であるケンタを睨みつけ、低い唸り声を上げる。
『グルルル……何者だ、貴様。この森は我ら同胞の領域。人間の立ち入る場所ではないぞ』
流暢な、しかしどこか古風な日本語。その声に合わせて動く口元、威嚇で震える鼻。ケンタは腰を抜かし、無様に後ずさった。
『ひっ……! い、いや、あの、俺は……!』
ケンタの恐怖は、本物だった。画面越しに、彼の心臓の鼓動まで聞こえてきそうなほどに。
「なんだよ、これ……」
佐伯は、知らず知らずのうちに呟いていた。
目の前で繰り広げられている光景は、彼の三十年以上にわたるゲーマー人生の常識を、根底から破壊していた。
これは、ゲームではない。CGでもない。
では、なんだ?
分からない。だが、一つだけ確信できることがあった。
「……日本のゲームは、まだ終わってないかもしれない」
震える手で、佐伯は巨大匿名掲示板のゲーム総合スレッドを開いた。そして、キーボードを叩き始める。
『おいお前ら、とんでもない配信が始まったぞ。騙されたと思って見てみろ。歴史が変わるかもしれん』
最初は、誰にも相手にされなかったその書き込みが、やがて世界中のゲーマーを巻き込む巨大な渦の中心となることを、この時の佐伯はまだ知らなかった。
ただ、彼の胸には、黄昏の時代を終わらせる「黎明」の光が、確かに差し込んていた。