山田正太郎(編集委員)
山田正太郎が五十歳の誕生日をむかえた日、勤め先の映画館、太陽座が閉館した。
ただでさえ映画のネット配信が充実してきて苦戦していたところに、新型コロナがとどめを刺したのだ。
太陽座がオープンしたのは、奇しくも正太郎が生まれた年である。それから半世紀ものあいだ地元住民に親しまれていた。
正太郎も子供のころからの常連だった。
「山田くん、長いことご苦労さんだったね。感謝してるよ」
館長がビールを注ぎながら言った。
最後の上映が終了した後、館長は従業員を集めて、近所の中華料理屋で慰労会をひらいていた。
「お礼を言いたいのはこっちの方ですよ。館長に拾ってくれなかったら、とっくに野たれ死にしてましたから」
「よせよ、大げさだな」
「ねえ館長、久しぶりに坊主って呼んでください」
「しょうがねえな……坊主、体に気をつけてな。たまには家のほうに顔を出してくれよ」
「はい」
正太郎が行き場をなくしていた時、手を差し伸べてくれたのが館長だった。いわば彼の恩人なのだ。
「山田さんも寄せ書きを書いてくださいよ~」
物販担当のパートさんが色紙を突き出してきた。
正太郎はメッセージとともに、簡単な似顔絵を描いてやった。
「すご~い! 山田さん、絵も描けるんですね」
「子供のころは漫画家を目指してたからね」
「山田さんは何でも知ってるし、ギターも弾けるし、おまけに絵も描けるなんて、まるでスーパーマンじゃないですか」
「どれも素人芸だよ。何一つ大成しないまま五十になってしまった」
「それでも凄いですよ。ゲイじゃなかったら、わたし、山田さんのことを放っておきませんでした」
「は? ゲイって?」
「山田さん、館長と出来てるんですよね」
このパートさんは、とんでもない勘違いをしてるようだ。
「おれはゲイじゃないし、館長とはそんな関係じゃないよ」
「だって結構イケメンなのに、その年齢まで独身でしょ? 絶対ゲイだって、みんな言ってますよ~。それにさっき館長が山田さんのことを坊主って言ってたし。こういうのを衆道の契りっていうんですよね。犬神家の一族でやってました」
「えっ、みんな言ってるって?」
そんなふうに思われていたとは心外だ。館長との仲は、自分では石原裕次郎と渡哲也のつもりだったのに。
このあと、従業員たちに誤解を解いて回っているうちに慰労会はお開きとなった。
〇
正太郎が太陽座に勤め始めたのは三十歳のときだ。
子供のころは漫画家になりたくて絵ばかり描いていた。バイブルだった「まんが道」の教えを守り、映画もよく見ていた。
ところが中学のころからMTVの影響で洋楽にハマり始めた。高校に入るとバンドブームが起きる。これが決定打となった。
それからはバンド活動にのめりこんでいった。大学を中退し、二十代はバイトとライブ漬けの日々だった。
趣味として美術館や映画館には通っていたが、生活の中心はあくまで音楽活動だ。
作詞の勉強のつもりでドストエフスキーを読み始めたら、近代文学にハマった。
バルザックやディケンズから漱石へ、果ては埴谷雄高にまで手を出すようになった。
思えばそのころから歯車が狂い始めたのだろう。しだいに理屈っぽくなり、相手を言い負かすことにこだわるようになった。
理論先行で実績の伴わない正太郎は、しだいにバンドメンバーから孤立するようになった。
芽が出ないまま、気がついたら三十になっていた。そのころにはメンバーとの仲も最悪になっていた。
ある日、大げんかの末バンドを追放されてしまった。途方に暮れた正太郎は、気がついたら太陽座に来ていた。
最終上映が終わっても席を立てなかった。目の前の真っ白なスクリーンと同様に、彼の頭も真っ白だった。
「坊主、なにか嫌なことがあったのか?」
そういって館長がコーヒーを出してきた。
東映まんがまつりに通っていたころから、館長に坊主と呼ばれていた。そのころの館長は大学を出たての若者で、父親からこの劇場を任されたばかりだった。
正太郎が三十男になっても、坊主と呼ぶ習慣は続いていた。
「バンドをやめることになったんです。これから何をすればばいいか分からなくて……仕事を探すにしても、この年では難しいだろうし」
すると館長はにやりと笑った。
「それは良かった」
「えっ?」
「実はうちで映写をやってる爺さんが、とうとう体調不良で引退することになったんだ。代わりの人間を探してたんだが、どうやら見つかったようだ」
「それって、つまり……」
「坊主、うちで映写技師をやってみるつもりはないか?」
こうして正太郎は太陽座に勤めることになった。翌日から彼は坊主から山田くんに昇格した。
映写技師というのは一日中、映写室に閉じこもる仕事だ。
あらかじめ二台の映写機にフィルムをセットしておき、タイミングが来たら切り替える。基本的にそれ以外はすることがない。
必然的に、残りの時間を読書でつぶすことになる。小説だけでなく、社会評論や経済学の入門書まで乱読した。
三十歳からの二十年間を、彼はこのようにして過ごした。
〇
慰労会がお開きになったあと、正太郎はひとりで家路についていた。
数年前に父親が死んで、受け取った保険金がまるまる残っている。だから、あわてて次の仕事を探す必要はない。
当分はあちこち旅行するつもりだ。
なにしろ、暗い部屋に閉じこもるモグラのような生活を、長年続けていたのだ。新鮮な空気や太陽をたっぷり堪能したい。
旅のお供にタブレットを持って行こう。その中には、かねてより個人的に編纂した自分用の文学全集が入っている。
ネット上にある有料無料のコンテンツをかき集めて、“ぼくのかんがえたさいきょうの”ラインナップをそろえた。
ちゃんとした文学全集のつもりなので、大手出版社で出されてもおかしくないオーソドックスな編集にしてある。
もちろんギターも持って行くつもりだ。見知らぬ街で弾き語りをするのも悪くない。
手始めにどこへ行こうかと考えながら横断歩道を渡っていると、目の前に信号無視のトラックが飛び込んできた。
「えっ? あれっ? どうなってんだ?」
次の瞬間、正太郎は真っ白な空間に浮かんでいた。横断歩道からここまで意識はシームレスに続いている。
まるで映画のカットが変わるように、彼の視界が夜の街から白い空間に切り替わった。
戸惑っていると、いきなり頭の中で声が響いた。
――わたしはアストラル界の女神サルーナです
澄んだ美しい女性の声だった。
「あっ、えーと、山田正太郎です」
――わたしの管轄するアストラル界では、魔石を利用した魔導技術の発達により、人々の生活水準が劇的に向上しました。ところがそれに比べて文化、芸術の発展が著しく遅れているのです
まるで台本を読んでるように早口でまくし立ててきた。
「はあ、あの、つーか、さっきトラックに轢かれたような気がしたんですけど」
――あなたの世界で例えれば、産業革命に到達しているのにダヴィンチもシェークスピアもバッハも登場していない状態です。このアンバランスを是正するために、あなたの魂をお借りしたいのです
「なんだろう、どっかで見たような状況だ。たしかなろう系ってやつだ。つまり俺は異世界に転生するってこと?」
――そうです。今からあなたの魂を加工してスキルを作ります。そのスキルの所有者が天寿を全うしたあと、あなたの魂は再びもとの状態に戻って輪廻の輪に入るので、ご安心ください
「俺の魂を加工してスキルを作る? 意味が分からない。転生したら剣とか自販機とか、そういう話?」
――必要なのは、あなたの知識であって人格ではありません。スキルになってるあいだ、あなたの意識は眠りに入ります。輪廻のすごろくで一回休みに止まったと思ってください
「は? なにそれ、どういうこと? は? なにそれ」
――時間がないので早速、加工を始めましょう。失礼します
なんだか女神はえらく急いでいるようだ。よく分からないうちに、正太郎の意識はまどろみの中に沈んでいった。