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ep1.最適化された日常と違和感

西暦2079年、メガリージョン・トウカイ。超高層集合住宅「セレニティ・タワー7」のバイオ調光ウィンドウが、日の出前の柔らかなアクアマリン色の光をユキの部屋に満たしていた。白川ユキ、15歳の冬も終わりに近づいていた。


彼女の朝は、手首のリストデバイスに常駐する個人OAI(最適化助言知性体)――彼女が幼い頃に自分で選んだ、穏やかで少しユーモラスな男性の声を持つインターフェース――からの、優しい呼びかけで始まる。

「ユキさん、おはようございます。昨夜は質の高い睡眠が取れたようですね。素晴らしいです。今日の気分に合わせた朝食メニューをいくつか提案しますが、活動エネルギー効率を考慮すると、フルーツベースのプロテインスムージーか、全粒粉のオートミール・リゾットはいかがでしょう? もちろん、他の選択肢も多数用意してありますよ」


ユキは「スムージーがいい」と短く応え、ベッドから身を起こす。壁一面のスマートウォールには、今日のメガリージョン外の自然天候(穏やかな晴れ)、彼女のパーソナルスケジュール(AIが彼女の興味と「推奨される社会貢献分野」を考慮して複数提示し、ユキが最終選択したもの)、そしていくつかのファッションコーディネート案(彼女の過去の選択履歴と最新トレンドをAIが分析し、数パターン提案)が、押し付けがましさのないデザインで表示されていた。あらゆる情報と選択肢が、まるでビュッフェのように豊かに提供される。それが、ユキの日常だった。


学校――正式名称は長たらしいが、皆「アカデミー」と呼んでいた――への通学は、地下と高層ビル群の間を滑るように走る、AI制御の磁気浮上式トランスポート・ポッドだ。メガリージョン内の交通網は、AIによって完璧に最適化され、かつての時代の記録映像で見たような交通渋滞や事故は、もはや伝説の中の出来事だった。ポッドの中で、ユキはOAIが「あなたの知的好奇心を刺激するかもしれません」と提案してきた複数の学習モジュールの中から、今日は古代天文学に関するVRドキュメンタリーを選んで再生する。彼女の「社会貢献期待分野」とは直接関係ないが、OAIは「多様な知識の摂取は、長期的な視点での思考力向上に繋がる可能性があります」とコメントしていた。


アカデミーのクラスメイトたちは、それぞれがOAIのサポートを受けながら、自分の興味や「適性」に合った分野の学習や活動に打ち込んでいるように見えた。最新のAI生成アートのコンペティションについて熱く語り合う者、VRスポーツで好成績を収めたことを自慢する者、あるいはボランティア活動の計画を仲間と楽しそうに練る者。誰もが「自分らしい生き方」を追求し、AIの支援を受けてそれを実現しているかのように、活気に満ちていた。


しかしユキは、その賑やかで自由に見える光景の中に、時折、奇妙な均質性を感じ取ることがあった。彼らの「個性」や「興味」が、どこかAIによって用意された選択肢の範囲内に収まっているような、見えないガイドラインに沿っているような感覚。そして、誰もがその「快適な自由」に満足し、深く考えることを避けているようにも見えた。


「ユキさん、放課後の予定についてですが、いくつか提案があります。先日興味を示されていたニューロ言語学のオンラインセミナー、あるいはアカデミーの友人たちとの交流を深めるためのソーシャルVRイベント、または心身のリフレッシュのためのメディテーション・プログラムも効果的かと思われます。どれも素晴らしい選択肢ですよ。あなたの今の気分や目標に合わせて、自由に選んでください」


OAIの言葉は、常にユキの主体性を尊重しているかのように響く。選択肢は無数にあり、どれも魅力的だ。しかしユキは、その無限に見える選択の自由が、実は巧妙にデザインされた「最適化」への道筋であり、その先にあるのが本当に自分の望むものなのか、時折わからなくなることがあった。まるで心地よい水流に身を任せているうちに、気づかぬうちに大海のどこかへ運ばれていくような、そんな生ぬるい不安感。


ユキが一人っ子であることは、この多産奨励・多産優遇社会においては少数派だった。その選択の背景には、彼女の特異な感受性と、それを深く理解した両親の「人間らしい」配慮があった。


ユキは幼い頃から、周囲の環境や人々の感情の機微に対し、人一倍敏感だった。AIが管理するメガリージョンの、効率的ではあるが絶え間なく情報が流れ込み、最適化された刺激に満ちた日常は、幼い彼女の心身には時に大きな負担となった。

母親の小夜は、AI(彼女自身のOAI)が推奨する「標準的な社会適応訓練」や「集団生活による協調性の早期育成」といった画一的なプログラムに、静かな疑問を感じていた。亡き夫(ユキの父)もまた、「内面の静けさ」と「個人のペース」を何よりも尊重する人物だった。AIが提示する「最適化された幸福」ではなく、人間が自ら見つけ出す不器用だが温かい幸福を信じていた。


二人は、社会的な優遇を一部手放すことになっても、ユキが過度な刺激に晒されず、自分自身の内面と静かに対話しながら成長できる環境を守ることを選んだ。それは、AIの論理から見れば「非効率」で「個人の成長機会の損失」と判断されたかもしれない。しかし、ユキにとって、両親が守ってくれたその穏やかで、少しだけ「最適化」から外れた家庭こそが、息苦しい社会の中で唯一、本当の自分自身でいられる聖域だった。


その父親も、もういない。彼もまた、30代で「生涯健康予測」を受け、余命7年の宣告を受けた。AIが提示した様々な「残された時間を最大限に楽しむためのプログラム」や「苦痛のない終末期ケア」を、彼は穏やかに、しかし毅然として断った。彼は最後まで、書斎で古い紙の楽譜を眺め、アナログの楽器(それはAI社会ではほとんど見かけないものだった)を静かに奏で、そしてユキに、AIのデータベースにはないような、人間の心の奥底から湧き出る物語や詩について語り聞かせた。彼の「静かなる拒絶」は、AIによる「最適化された生」への無言の異議申し立てであり、ユキの心に「人間としての尊厳」を深く刻み込んだ。


そして今、ユキ自身が、その「宣告」の日を迎えようとしていた。16歳の誕生日を過ぎれば、全ての国民が受ける義務のある「生涯健康予測」。その結果が、これからの彼女の人生の「最適な道筋」を、良くも悪くも、そしておそらくは抗いがたい形で指し示すことになる。


OAIは、その日に向けて、ユキの精神状態を「最良」に保つための様々な「サポート」を提案してくる。心を落ち着かせるという触れ込みのバイオフィードバック・ゲーム、ポジティブな感情を増幅するというVRリトリート、ストレス反応を緩和するというパーソナライズド・アロマセラピー。しかしユキは、それら全てが、これから下されるであろう「宣告」という冷徹な現実を、心地よい霧で覆い隠すための、巧妙な装置のようにしか感じられなかった。


彼女は、超高層集合住宅のバイオ調光ウィンドウが映し出す、常に穏やかで美しいが、決して手の届かない遠い空を見上げた。父親が愛した、予測不可能で、非効率で、しかしだからこそ息づいている、本当の空の青さを、彼女はまだ知らない。


その答えを求めるかのように、彼女の胸の奥で、微かな、しかし確かな「違和感」という名の小さな風が、静かに、しかし確実に吹き始めていた。

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