《脱出》
篠田は数秒、じっとユキの顔を見た。微かな笑みのようなものが、その口元をかすめる。
「……君たちは【ユニーク】だな。なら、私は君たちに賭けることにする」
「【ユニーク】?なんのことだ?」
ユキが一歩進み、手を差し出す。篠田が立ち上がり、無言でそれを取った。
「アキ、周囲警戒。ナオミ、脱出ルートへリンク」
二人が同時に動き出したその瞬間、施設全体の灯りが一斉に落ち、赤色の非常照明が点灯する。
「AIが完全に回復した。非許可存在を認識──排除フェーズに入る」ナオミが言う。
「ドローン展開多数。複数階層からの収束パターン。パターンβ─ケルベロス発動の兆候あり」アキが声を低めた。
「回収ポイントへ向かう」
三人は隔壁を越え、研究棟の北側補助通路へと移動を開始する。
その背後で、天井が開き、センサー群を積んだ自律型球体ドローンが音もなく降下してきた。
「照射兵器、作動準備──」ナオミが警告を発する前に、アキが回転動作とともに閃光弾を投げる。
一瞬の白光。
「今!」ユキの声に反応して、全員が側壁の隙間へ滑り込むように移動。
敵の警備AIは彼女たちの行動予測にまだ完全には適応していない。
カンザキが流し込んだウイルスの効果が、わずかにタイムラグを生んでいる。
だがそれも、長くは持たない。
「脱出ポイントまで、あと60秒」ナオミの声が硬い。
三人は走る。通路を、階段を、ケーブルの垂れる冷却管の隙間を抜けて。
遠くで何かが爆ぜる音がした。重い物体が発しているだろう振動が床を通じて伝わってくる。
「ケルベロスユニット、接近中。戦闘型AI兵装、追跡ルートに入った」アキが言う。
ユキは振り返らない。
「予定通り。接触される前に出る」
しかしその直後、背後で乾いた破裂音がした。
「被弾——!」アキが叫ぶ。
振り返ると、篠田博士が左肩を赤く染めて、崩れ落ちていた。
ドローンの残存砲塔が、自動迎撃に切り替わっていたのだ。
「担ぐわよ!」
ナオミが迷いなく博士の脇に滑り込み、その身体を丸ごと持ち上げるように背負った。
博士の体重は軽くない。しかも左肩からは血が滴り、意識も朦朧としている。
だがナオミの脚は一度も止まらなかった。
まるで荷重を意識していないかのように、鍛え上げられた筋肉と正確な重心制御が彼女の身体を支えていた。その姿は、研ぎ澄まされた機能美そのものだ。
博士は呻き声を漏らした。
「あと30秒。海岸沿いまで120メートル」アキが前方を確認しながら声を張る。
「右上、熱源二つ。補助フレーム装備型」ナオミがに伝える。
ユキは足を止め、手首の神経ポートからパルスを走らせた。
頭上の支援ドローンが停止し、即座に前方の霧を透過する投影を展開する。
敵ドローン二体の骨格配置、熱源位置、センサー反応の揺らぎまでもが、緑色のラインで彼女の視界に重ねられる。
「ロック!」ドローンの微細な通信音が耳元で囁く。
同時に、空気をわずかに揺らす静かな振動。磁束収束ライフルがユキの掌で震えた。
高密度金属コア弾が音もなく発射され、空間を裂くように直進する。
補助視界に浮かぶ致命部位へ、正確に、無音で、二発が放たれた。
敵ドローンは反応すらできず、沈黙のまま崩れ落ちた。
「クリア」ユキが短く言う。
ナオミは博士を担ぎ直しながら、冗談めかして返す。
「それ、音なしで殺れるの、ズルいってば」
出口の非常扉を駆け抜けた先に、霧に包まれた夜の海が広がっていた。
波打ち際まで走り抜け、予定ポイントの岸壁にたどり着いたユキたちの前に、
まだ潜水艇の姿は見えない。
「視界ゼロ。どこよ……」ナオミが息を切らしながらつぶやく。
同時に、右手の岩陰から二つの影が姿を現す。カンザキとイソベ。
「遅かったな」イソベが片手を上げた。
「誤差3秒。計画内だ」とカンザキ。
霧は深く、海面に動きはない。
「時間、切ってるぞ」イソベが呟く。
「来る。」カンザキが静かに言った。
その瞬間、沖合の海面がまるで息を吸うように陥没し、真円の渦が生まれる。
「来たな……」ユキが言う。
黒い影がゆっくりと浮上した。
波紋をまとうその艦体は、まるで海そのものから生まれたかのようだった。
霧を切り裂くように現れたその潜水艦ネレウス-5(Nereus-5)は無人だ。
艦首の下部ハッチが無音で開き、内蔵ランプが淡く点灯する。
ユキは何も言わず、そのハッチに向かって走り出した。
ナオミが博士を抱えたまま飛び乗り、アキがその後に続く。
カンザキとイソベが乗り込むのを見届けると、ユキが最後にもう一度、背後を振り返った。
赤く瞬く警告灯が、施設の内部から追ってくる。
「潜航!」ユキの声が響いた。
ハッチが閉じると同時に、艦内にはくぐもったベント調整音が響き、照明が淡く切り替わった。
オブリビオン隊が補助席に収まり、博士はナオミの腕に支えられたままストレッチャーへ移される。
博士の呼吸が浅くなっているのを確認したアキは、即座にメディカルモジュールを起動し、ストレッチャーの側面からナノサージェリー用アームを展開した。
「ナオミ、止血ブロッカー。左鎖骨下動脈、完全に断裂してる。肺にも穿孔」
「了解。バイタル連動、補正係数0.7でリンク」ナオミは素早くツールを選び、アキの指示に合わせて装着を補助する。
アキは損傷部位を迅速にスキャンし、周囲の血液を排出するようにジェルブロッカーを流し込んだ。
「人工血管、展開。位置合わせ──ナオミ、フィード制御」
「リンクした、投影固定」
シリコンポリマー製のマイクロチューブが自動で傷口に挿入され、内部で破断部位を補う。バイパスが繋がった瞬間、ストレッチャーのディスプレイがわずかに緑を示した。
「出血減少、心拍応答上昇。酸素飽和値──42%から56%に上昇」
「まだ足りない。肺への穿孔、補填材注入。酸素フィルター、サブポートから挿入する」
ナオミが素早く挿入経路を開き、アキがナノフィルムと酸素調整カプセルを組み込む。
「心拍安定、反射応答あり。脳波変動小。大丈夫、戻ってこれる」
博士のまぶたが微かに動き、呼吸が静かに整っていく。
アキは深く息を吐いた。「間に合った。」
そのとき、艦内アナウンスが短く鳴った。
「戦闘加速準備。全乗員、ECSジェル展開。加速まで60秒」
アキが即座に応じた。
「博士には使えない。内部出血が深すぎる。ジェル圧で肺が潰れる」
ユキは迷いなく命じた。「ECSモードキャンセル。緊急医療航行モードに切り替え」
端末の表示が瞬時に変化し、ネレウス-5(Nereus-5)の艦AIが応じる。
「認証完了。最大加速度を制限、スカイフック到達時刻を再計算──ETAプラス8分30秒」
ユキは沈黙し、わずかに目を細めた。
「予定より遅れる。迎えの機は再調整が必要。
ネレウスAI、上層部との再同期と新ルート構築、優先度を最上位に」
「了解。新航路を維持。防衛パターン回避率を最適化。戦術モード:人命優先フェーズ、継続」
「現在スカイフック隊と再調整中──」
ユキは沈黙し、わずかに目を細めた。
「ネレウス、今後の作戦行動は負傷者の状態を最優先とする。」
「了解。ECS非対応者1名の生命維持を最優先とした結果、航行ステルス性を10%低下、探知リスク上昇率は8.3%。緊急医療モードによる内部安定性は92%向上」
ユキは、低く言った。「追撃の可能性は?」
「ケルベロスユニットの一部、海上索敵モードへ移行。旧型ステルスプロファイルでは捕捉の可能性あり。現ルートでは交戦確率65%」
「許容する。生かして帰すのが目的だ」
海中で、ネレウスは静かに進路を変えた。




