《侵入》
霧の奥、古びたコンクリートの防壁に囲まれた施設の一部が、月明かりに浮かび上がっていた。かつての設計連邦時代の研究施設だが、その内部は今や大華統合体(GCU)の厳重な管理下にあり、戦略統括AI『天網』の末端ノードが神経のように張り巡らされた最新鋭のラボへと変貌を遂げている。
「ここからは二手に分かれる」ユキの静かな声が、レゾスキンを通じて全隊員に伝わる。「スノーブレイクは博士の救出へ。オブリビオンは旧データノードへの接続と、ネレウス-5のための軍事水路情報の取得、及び敵AIへの攪乱工作だ」
カンザキが、ヘルメット越しに短く頷く気配が伝わってきた。
「了解。旧ノード制圧とデータ奪取・送信に60秒、その後、監視AIネットワークへのカウンターウイルス注入に60秒。脱出に60秒。計180秒で任務を完了し、撤退準備に入る」
「こちらも同時進行だ。博士の居場所は最深層の研究隔離フロア。『天網』の監視AIの目が最も集中している。時間は一秒たりとも削れない。スノーブレイクも120秒以内に博士を確保し、撤収に移る。オブリビオンと時間を合わせるぞ」
ナオミが袖口から、電磁パルス攻撃にも耐える旧式のアナログ軍用時計を取り出し、リューズを操作する。イソベもアキも、それぞれのリストデバイスの裏側に隠された同タイプの文字盤に目を落とし、時刻を合わせ始めた。
「全員、04時57分30秒に同期。」ユキの言葉が、最終確認の合図だった。
「3、2、1──今!」
レゾスキンから伝わる無言の「圧」が、彼らの意志を一つに束ねた。
霧の中、夜明け前の冷たい風が音もなく吹き抜ける。
スノーブレイク隊三名──ユキ、アキ、ナオミ──は、ポッド着地地点から北北東へ200メートル、巨大な廃棄冷却塔の黒いシルエットの縁を回り込むように、息を殺して移動していた。
ユキが腰のホルダーから、手のひらサイズの黒い球形偵察ドローンを三機取り出し、指先の微細な動きと神経コマンドで無言のまま起動する。ドローンたちは、内蔵された微細な二重反転プロペラユニットによって音もなく浮かび上がり、まるで闇に溶け込むように霧の中へとそれぞれ異なる軌道で分散し、施設外縁の探索を開始した。赤外線、複合磁場、微細振動といった複数のセンサーが捉えたデータが、リアルタイムでユキたちのバイザーに解析・統合されて表示される。
ナオミが淡々と報告する「……ラボの防衛システム、ブリーフィング時のデータより更新されている。AI警戒レベル、常時最大値を維持。警備ドローンの配置ルーチンにも、予測外のランダム変数が加えられているわね。『天網』のサブシステムが、何らかの異常を感知している可能性あり」
アキが片膝をつき、戦闘服の腕部スリーブから滑り出した薄型データ端末に、グローブをしたままの指を走らせる。
「電磁波探知。外壁全体にアクティブ・キャンセリング・フィールドが展開されている。指向性EMPの効果範囲と持続時間が限定される」
ユキの指示、「EMPは一回きり、最適なタイミングで使う。ナオミ、ドローンの情報を元に、監視AIの死角となる最短侵入ルートを再計算。アキ、常に周囲のエネルギー変動に注意して」
ナオミは音もなく地面に伏せた。強化筋繊維とジェルアーマーが滑らかに連動し、彼女の身体をまるで霧の中を滑る影のように動かしていた。
「視界、最悪ね。この霧じゃ、私たちのサーマルも限定的。偵察ドローンのマルチセンサーがなければ、手探り状態だったわ」
アキ「暗視ゴーグルにも限界はある。けれど、拡張神経インターフェースを通じた空間マッピングが、環境スキャンデータとリアルタイムで重なっているから、輪郭だけでなく、微細な熱源、空気の振動、構造物の密度まで立体的に知覚可能」
ユキがいう「その通りだ。視覚に頼るな。全身のセンサーで感じろ。考えるより先に、身体が最適解を導き出すはずだ」
「……了解。考えるな、感じろ、ね」とナオミ。
アキが鋭く警告する「センサー反応、3時方向、距離70。ドローン巡回軌道から逸脱した動き。人間による手動制御型ドローンの可能性あり。あるいは、自律判断型の新型か」
彼女は先頭で偵察を担い、常に一歩先の危険を感知する。
「回避する。旧地下施設へのアクセスポイントへ。ナオミ、ルート投影、更新を」
ユキの指示に、ナオミが肩の小型プロジェクターから戦術ホログラムを周囲の霧に淡く投影する。研究施設の詳細な三次元外周マップ、現在位置、巡回ドローンのリアルタイム軌道、排熱ポイント、そして微細な風向データまでが一瞬で可視化され、新たな侵入経路が赤いラインで示された。
「こっち。地下の旧給水管メンテナンス用アクセスシャフトが、座標データ上は未だに残存している。少なくとも15年は完全封鎖されているはず。GCU側のAIデータベースからも、おそらくは旧時代の遺物として自動更新対象外になっている可能性が高い」
「よし。そこから行く。走るぞ!」
三人は一斉に飛び出した。特殊素材で作られた無音ブーツが、湿ったコンクリートの破片をわずかにかすめる音すら吸収し、濃霧とスモッグが混じる中を、亡霊のように素早く移動していく。
建物の裏手、巨大な冷却ユニット群の陰。苔むした旧式のマンホールカバーを、アキが片膝をついたまま、特殊ツールで静かにこじ開けた。セキュリティチェックは物理的な高強度ロックのみ。ナオミが磁気ピックと微細な振動プローブを差し込み、数秒で電子封印と物理ロックを無力化する。
「オープン。トラップ反応なし。確保」
地下へと続く錆びついた梯子が現れる。アキが音もなく先に降下し、周囲の安全を確認するサインをレゾスキンで送る。続いてナオミ、最後にユキが滑り込むように梯子を下りた。
管内は狭く、壁面は結露で濡れ光っている。外気よりわずかに気温は高いが、古い配管の金属臭と、澱んだ汚泥の匂いが鼻をついた。
ナオミが小声でいう「十メートル先、分岐点。左へ。そこから先は、施設のセントラル空調システムの旧排熱シャフト裏に接続している」
狭い通路を、時には匍匐に近い姿勢で進み、やがて微かな機械の作動音が響く排熱シャフトの裏手に出た。そこは、現在のAI管理システムからは忘れ去られたかのような、旧時代の構造物が残る非AI制御ゾーンだ。ユキが一瞬だけ立ち止まり、ヘルメットバイザーに表示されるチーム全員のバイタルサインと、作戦開始からの経過時間、そしてミッションタイマーの残り時間を確認する。
「接近フェイズ、完了。オブリビオン隊の状況は?」とユキ。
カンザキが即座に応答する。「こちらオブリビオン。旧ノードへの物理アクセスポイントに到達。これより制圧とデータ奪取を開始する。予定通り120秒で完了させる」
「了解。スノーブレイク、これより研究隔離フロアへ突入する」
三人はアイコンタクトすら交わさず、同時に動き出した。身体が先に最適解を知っているかのような、水が流れるごとき連携。それは、遺伝子設計によって付与された高い身体能力や、AIによる訓練プログラムの成果だけではない。幾度となく繰り返された過酷な実戦と、その中で培われた仲間への絶対的な信頼が、骨と筋肉、そして神経の隅々にまで染み込んだ反応だった。
ユキの脳裏を、ほんの一瞬だけ、灼熱の太陽が照りつけるヴァリアブル・フォースの最終選抜演習場の砂塵の匂いがかすめた気がした。
空調ダクトの末端、腐食し、かろうじて原形を留めているメンテナンスパネルが、アキの手によって内側からゆっくりと、しかし一切の音を立てずに開かれる。彼女が闇色の戦闘服に身を包んだしなやかな身体を滑り込ませ、数秒後、内部から視界クリア、脅威なしのジェスチャー(レゾスキンによる感覚信号)を返してきた。すぐにユキとナオミが続く。
目の前に広がったのは、研究棟Bブロック、低温実験フロアのサブコリドール。白いナノマテリアルの床に、天井のLEDパネルからの間接照明が薄く反射しているが、人影も警備ドローンの姿も見えない。通常ならば、この時刻、この区画はGCUの自律型警備ドローンが規則的なパターンで巡回しているはずだった。
ナオミが囁く。「ドローン反応、無し。カンザキたちが送り込んだカウンターウイルスが、この区画の監視AIフレームを一時的にフリーズさせてるみたいね。さすがオブリビオン」
「効果は限定的。おそらく数十秒でローカルAIが自己修復し、上位システムにアラートが飛ぶ」とアキが淡々と呟く。
「その通りだ。攪乱が効いている間に、最大限に時間を稼ぐ。行くぞ」
三人は隊列を崩さず、壁や障害物の影を滑るように利用しながら、廊下を迅速に進む。
一つ目の角を曲がった、その瞬間。ユキのヘルメットバイザーの右上隅に、一瞬だけ、しかし強烈な赤色の警告フラグが点滅した。
ユキが鋭く言う「 フリーズ!」
声よりも速く、三人の身体が壁際に吸い付くように身を寄せ、周囲の環境に溶け込むように完全に静止する。光学迷彩が周囲の壁面パターンを瞬時にスキャンし、体表に投影する。
廊下の向こう、約50メートル先のT字路から、二つの球形の自律浮遊型センサーノードが、滑るように現れ、ゆっくりと並進してきた。その動きは、通常の警備ルーチンとは明らかに異なる、不規則で探索的なものだった。
アキが緊張を押し殺した声でいう。「再起動フェイズに入った。ローカル監視AIが、カンザキたちのウイルスの一部を排除し、自己修復を開始している。上位AI『天網』からの指示で、イレギュラーな探索パターンを実行中」
「想定よりも回復が速い……! カンザキたちの攪乱効果は、もってあと数10秒か」ユキは小さく息を吐き、次の行動を瞬時に計算する。
「回避進行ルート、再計算。プライマリルートは放棄。セカンダリルート、第3データアーカイブ室経由で研究隔離棟へ。ただし、セキュリティレベルは1段階上昇するわ」ナオミのバイザーには、新たな最適経路がホログラムとして展開される。
センサーノードが視界から消え、その微かな駆動音が遠ざかると同時に、三人は再び影のように滑るように動き出した。
彼女たちの“存在”という微細なノイズが、巨大なAI『天網』の認識フレームに再び明確に捉えられ、排除対象としてロックオンされるまで、もう時間の猶予はほとんど残されていなかった。
研究隔離区画の分厚い気密扉の前に到達したとき、施設内部の照明が一斉に明滅し始め、壁面の警告ランプが不気味な赤い光を放ち始めた。
ナオミが履き捨てるようにいう。「クソッ! AIが完全に覚醒、照準フェーズに移行したわ! 中枢システムまで回復したのね!」
「強行突破する!」
ユキは隔離区画の扉前に立つと、右手の掌を認証パネルにかざした。パネルは数秒間スキャンを行った後、無慈悲なアクセス拒否の警告音と共に赤く点灯した。
「やはり、か」ユキは呟くと、即座にパネル下部の非常用物理インターフェースポートをこじ開け、手首のデバイスから細いナノ光ファイバーケーブルを引き出し、接続する。
ナオミが割り込む。「私がやる。ナノハックコード注入開始。セキュリティプロトコルタイプΧ(カイ)…厄介ね。でも、十秒あればこじ開けられる!」
扉のロック解除を待つ数秒が、永遠のように感じられる。遠くから、複数の戦闘ドローンの起動音と、床を震わせる重量級の何かの移動音が聞こえ始めていた。
カウントダウンがゼロになると同時に、重厚な気密扉が、圧縮空気を吐き出す音と共にゆっくりと内側へスライドしていく。
白い、眩いほどの光に満たされた部屋。研究隔離区画の中は、未来的な医療機器と解析装置が整然と並び、人工的な静寂と無機質な清潔さに満ちていた。
そして、その中央。半透明のカプセルのような隔壁の奥に、一人の男がいた。
男は、白い簡素な衣服を身にまとい、背の高い椅子に深く腰掛け、こちらに背を向けたまま、目の前の巨大なホロディスプレイに映し出された複雑な数式か遺伝子コードのようなものに没頭しているように見えた。
ユキが一歩、部屋に踏み込むと、センサーが反応したのか、隔壁の透明度が上がり、室内の照度が自動調整され、男の姿がはっきりと照らし出された。
ブリーフィングで見たGCU側の監視カメラ映像(おそらく盗撮されたもの)や、数年前の予想顔写真よりも、明らかに老い、憔悴しているように見えたが、その瞳にはまだ確かな知性と、そして驚くほど静かな光が宿っていた。
そして、彼は全く驚いた様子を見せなかった。まるで、この訪問を予期していたかのように。
男――篠田博士は、ゆっくりと椅子を回転させ、ユキたちの方を向いた。
「……やはり、来たか」
その瞬間、ユキの神経インターフェースに、オブリビオン隊のカンザキからの短い通信が飛び込んできた。
「水路情報、確保、送信済み。敵ローカルノードへのカウンターウイルス注入、完了。回収ポイントへ向かう。」
ユキは、内心でカンザキたちの成功に短く頷きつつ、篠田博士に向き直った。
「篠田博士。我々と共に来ていただきます」
博士は、ユキの顔を、そしてその後ろにいるアキとナオミの姿を、値踏みするように、あるいは何かを見極めるように、静かに見つめた。
「……連れ出しに来たのか。それとも、私が『天網』に渡る前に、ここで始末しに来たのかね、君たちは」
ユキは、その問いに臆することなく、真っ直ぐに博士の目を見返した。
「それは、あなたが、これからどう行動するかで決まります」




