《降下》
ステルスバルーンは目標高度28キロに到達し、成層圏の希薄な大気の中を、AIが事前に算出した最適経路に沿って静かに航行を続けてきた。ポッド内部では、ユキを除く隊員たちはニューラルドープによる浅い意識レベルで待機。8時間が経過していた――
ポッド内を満たしていた抑制された環境音が、ごくわずかにそのパターンを変えた。ユキのヘルメットバイザーに、これまで安定して緑色を示していた航行予測信頼度を示すインジケーターが、黄色へと明滅を始める。
「…時間ね」
ユキは誰に言うともなく呟き、自身の意識レベルを戦闘モードへと一気に引き上げた。首筋のレゾスキンを通じて、微弱だが明確な覚醒シグナルがチーム全員に送られる。ナオミ、カンザキ、イソベ、アキのバイタルサインが即座に変化し、準備が整ったことを示す。
ポッド内の戦術支援AIが、合成音声ではなく、ユキの聴覚神経に直接、冷静な情報を送り込んでくる。
《目標エリア、深圳経済特区中心部までの推定到達時間、9分。これより先、事前予測気流データとリアルタイム観測の乖離が増大。敵性AIによる監視パターンの不規則変動も確認。航行モードをレベル3へ移行。戦略級量子通信リンクは、完全遮断モードを維持》
ユキは短く息を吐いた。「了解。リアルタイムセンサーフィードをメインディスプレイに統合。分析を開始。」
ポッド内壁に展開されていた広域航行マップが、より詳細な戦術ディスプレイへと切り替わる。無数のセンサーデータが複雑なパターンを描き出し、ナオミとカンザキがそれぞれの専門領域で情報を処理し始める。
「高層大気の密度ゆらぎ、予測値から0.8シグマ逸脱。微細乱流が複数発生しているわ。AI予測モデルの限界ね」ナオミの声はレゾスキンを通じて、冷静だが微かな緊張を帯びてユキに届く。
カンザキ「敵性AI『天網』の広域監視ドローン・スウォームの配置パターンにも変化。事前予測された周期的なスキャン軌道ではなく、よりランダムな動きに移行している。我々の接近を察知したというよりは、警戒レベルが引き上げられていると見るべきだろう」
イソベが、ポッド外部の温度変化や微弱な電磁波の変動を示すグラフを指し示すように、レゾスキンで感覚イメージを送ってくる。「下層雲の高度と密度、事前予測より濃密。光学ステルスには有利だが、最終降下ポイントの視認と、パラシュート制御の難易度が上がるな」
戦術AIが、三次元戦術マップ上に複数の推奨侵入経路オプション(アルファ、ブラボー、チャーリー)を、それぞれの成功確率予測(68.3%、65.1%、62.9%)とリスク要因と共に提示する。
《各オプションは、現時点でのセンサー情報と過去の類似事例データベースに基づき最適化されています。オプション・アルファが最も成功確率が高いと判断されます》
ユキは数秒間、提示された情報を凝視する。彼女の脳内では、AIの論理的な推奨と、これまでの実戦経験、そして「何か」が複雑に絡み合っている。
ユキ「アルゴス・アイの推奨は合理的だ。だが、敵性AI『天網』もまた、この『合理的』な侵入経路を重点的に警戒している可能性が高い。最も確率の高い道が、最も危険な道になることもある」
「アキ、オプション・アルファとブラボーの中間に存在する、現在観測されている微弱な『成層圏シアライン(風境線)』を利用した変則アプローチの実行可能性は? 事前計画ではリスク高とされていたが、現在の敵の警戒パターンを考慮すると、逆に盲点となるかもしれない」
アキは即座にポッドの慣性センサーと重力センサーのデータを解析し、レゾスキンで簡潔な応答を返す。
「シアライン、幅約800メートル、流速変動大。安定性は低いが、短時間通過は可能。ただし、通過には極めて精密な機体制御と、イオンエンジンの連続的な微細噴射によるカウンターステアが必要。失敗すれば制御不能、あるいは探知リスク急上昇」
「そのリスクを取る。アルゴス・アイ、我々はシアライン経由のルートを選択する。イオンエンジンによるコース補正プロトコルをカンザキに転送。カンザキ、エンジン制御準備。全ポッドはカンザキの制御に任せる。ナオミ、シアライン通過後の敵監視ドローンの再配置予測を最優先でシミュレート」
カンザキが答える「了解。イオンエンジン、スタンバイ。噴射パターン、ユキの指示とアルゴス・アイのリアルタイム補正値を統合して実行する」
ナオミが呟く「シミュレーション開始。…このルートなら、確かに敵の通常警戒網の隙間を縫える可能性があるわ。でも、本当に綱渡りね」
ポッドの外部で、次世代型イオンエンジンがほとんど知覚できないほどの微細なプラズマを噴射し始める。それは音もなく、可視光も発しない。しかし、ポッドはゆっくりと、しかし確実にその巨体を傾け、星々の間を滑るように、AIが当初推奨しなかった、経路へと静かに移行していく。
ユキは目を閉じ、レゾスキンを通じて伝わってくるチーム全員の集中力と、イオンエンジンの微細な振動、そしてポッドが切り裂く成層圏の希薄な大気の抵抗を感じていた。
ポッドの船体にごく微かな、低い振動が走る。次世代型イオンエンジンが、ステルス性を維持するために計算され尽くしたパルス状の噴射を開始した。それは音もなく、外部からはほとんど知覚できない。しかし、ポッドはまるで意思を持った影のように、巨大都市の光の海へとその機首を向け、AIの予測を出し抜くための新たな経路へと滑り始めた。
眼下には、メガシティ深圳の壮大な夜景が広がる。天を突く超高層ビル群、複雑に絡み合う交通網、そしてそれらを覆い尽くすように点滅する無数のドローンの灯り。それは人類の繁栄の象徴であると同時に、AIによる完全な監視と支配の象徴でもあった。
アルゴス・アイ「目標降下ポイントまで7km。高度4800。熱排気プルーム進入まで15秒…進入。機体表面温度、周囲環境と同期完了。レーダー反射断面積、最小化」
ユキたちの乗るポッドは、まるで幽霊のように都市の排熱が作り出す蜃気楼の中を突き進む。計器の数値が目まぐるしく変化し、カンザキがイオンエンジンの微調整と機体バランスの維持に全神経を集中させているのが、レゾスキン越しに伝わってくる。
イソベ「おいおい、マジかよ…『天網』のドローン編隊が、俺たちのすぐ下を素通りしてやがる…!」
ナオミ「プルームを抜けたら、すぐに別のセンサー網が待ち構えているわ。切り離しポイントまで、あと…3分」
戦術AI「ステルスバルーン切り離し、Tマイナス10秒。最終降下軌道、確定。ポッド外殻冷却システム、最大出力」
ユキ「全員、衝撃に備えろ」
戦術AI:「…3、2、1…切り離し実行」
鈍い金属音と共に、ポッドはステルスバルーンから解き放たれる。一瞬の浮遊感の後、重力がその牙を剥き、ポッドは機首を急角度で下げ、目標地点へと吸い込まれるように自由落下に近い滑空を開始した。機体表面の光学迷彩が周囲の夜景と同期し、その姿を闇に溶け込ませる。
ユキ「滑空制御、マニュアルオーバーライド準備。アキ、風と障害物データをリアルタイムで共有」
アキ「了解。」
高度4100メートル。
「ステルスパラシュート展開シーケンス、起動」
ポッドの上部が音もなく開き、漆黒の特殊素材で織り上げられた巨大なパラシュートが、夜空に静かに花開く。それはレーダー波を吸収し、赤外線放射を極限まで抑え、風切り音すらも特殊な整流エッジで消し去る、まさに「沈黙の翼」だった。
これまでの急激な滑空から一転、ポッドはコントロールされた緩やかな降下へと移行する。眼下には、目的地の旧型研究施設――今は最新鋭のラボに偽装された敵の拠点――の屋上が、都市の灯りの中で暗い影として浮かび上がってくる。
ナオミ「周辺ドローン、動きなし…気づかれていないわ。奇跡的ね」
イソベ「…さあ、ショータイムの始まりだぜ」
ポッド下部の小型姿勢制御スラスターが、着地直前の最終減速のために、数秒間だけごく微量の推進剤を逆噴射する。ほとんど衝撃を感じさせない、猫が闇に降り立つような静けさで、ポッドは目標地点の屋上、大型空調ユニットの影に寸分の狂いもなく着地した。
ユキ「外殻、ナノ分解開始。30秒以内に装備を整える。」
ポッドの漆黒の外殻は、微細な粒子となって周囲の闇に溶けていく。
誰にも気づかれぬまま、五人のヴァリアブル・フォース隊員が、密かに降り立った。
レゾスキンを通じて、チーム全員の研ぎ澄まされた集中力と、静かな闘志がユキに伝わってきた。
2095年、深圳。AIの網膜に映らない影たちが、今、動き出す――。




