紫雲のみこむ
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
おお、つぶらやくん、そちらの掃除は終わったかな?
悪いね、片付けを手伝ってもらって。このあたりの備品も出番があるかな、とだいぶとっておいたのだけど、ほこりをかぶってきて久しい。
そろそろお役御免かな、とも思うのだけど、同時に名残惜しい気持ちもある。あと1年くらいは様子を見ようかなあ、といったところ。
うん、そのメトロノームは棚の一番上にお願いするよ。いまどきはデジタルなメトロノームも増えているが、やはりアナログなものも捨てがたい。
個人的には、あの左右へ振れる姿を見ていると調子が取りやすい気がしてね。ただ数字を見ているよりも、「味」のようなものを感じるんだ。動き、というものに感覚を研ぎ澄ませるよう、遺伝子が反応するのだろうかね。
調子をはかるための材料。それはメトロノームに限らず、日常のそこかしこに転がっている。それこそ、空の「天候」という形でもね。
ちょうどひと段落ついたところで、私の昔の話を聞いてみないか?
私が生前の祖母から聞いたことがある。
メトロノームが調子をはかるように、空にもまた調子をはかる存在がいるのだってね。
私は最初、それを雲のことかと思った。天気、季節によって、いくつも見られる雲の形があり、そのことを指しているのだと。
しかし、祖母に言わせればそれは半分ほどの正解。もう半分は雲のように思える、別のものの仕業だったりするのだとか。
誰だって、ごまかしたいと思うことは、どうにか隠し通せないかと工夫を凝らす。見た目だったり、所作だったり、トリックだったり。だから見つけようと思っても、そうそう見つかるものじゃない。向こうも警戒しているから。
向こうが無警戒、こちらも無関心。その奇跡的なスキが生まれたときこそ、目にする機会が訪れる。語り継がれる不思議な話は、それらの機会に恵まれたというものだと、祖母は話していたっけ。
私がそれに出くわしたのも、まったくの偶然だったと思う。
その日は貴重な休みで、私はたまたま自宅の縁側で日向ぼっこをしていたんだ。
食事を終えたばかりということもあるのか、ほんのりと眠気に襲われる。ごろりと縁側へ横になって、ぼーっと空を眺めていたんだ。
先ほどまで晴れ渡っていたが、少し前に飛行機雲が一本、白い筋を残しながら彼方へ走っている。しかし、それもだいぶ薄まってきている。
「飛行機雲が早くに消えるのは、晴れの証拠」と、これも祖母から聞いたことがあった。上空の湿度が少ないゆえに、そうそう天気は崩れないのだと。
けれども、その薄まりつつある雲に対して。
十文字に交わるような軌道で、合流してきたものがいる。催しものの曲芸飛行で色でもつけているかのように、それが飛んでいったあとには紫色の雲が長々と残されていく。
その先端を走る飛行物体は、まるでゴマのごとき小ささだったな。それに対し、残される雲は何十粒も束ねたような太さを持つ、見事なものだったよ。
妙な飛行機もあるな、と当初はのんきに見守っていたんだが、かのゴマが空の途中でにわかにかき消えて、「ん?」と身を起こしたんだ。
ずっと目で追っていたし、まばたきの間で消えるとなると単純な墜落とか、逆に高度を瞬時にあげたとも考えづらかった。それこそワープとか、何かしらの手段を講じないと……。
ふと、残された飛行機雲を見やる。白い雲は残ってはいたものの、その姿はほとんど塗り潰されようとしている。
そう。消えるんじゃなく、塗り潰される。あの十文字に横切っていった紫色の飛行機雲の色合いに、もとあった白色がどんどんむしばまれていたんだよ。
絵の具のしみ込むようなその様を見た私は、ふと祖母に言われたことを思い出す。
――もし、そのような雲らしきものに出会ったら……万病のもとが降るよ。
すっかり白を取り込んで、紫色の版図を増した雲は、今度は自らその図体を膨らませて、どんどんと空全体へ広がっていく。
このようなとき、外に出ていてはいけない。眠気に浸されかかっていた身体を起こし、私は部屋の中へ退避する。
閉めきった窓越しに見る空は、それからほどなくすっかり紫色に覆われてしまった。
もし長く続いたならば、騒ぎは大きくなっていたとは思う。けれども実際のところは、この怪現象はほんのわずかなときで済んだ。
なぜかって?
ほんの少し、「ざっ」と音を立てる雨音とともに、かの紫雲はたちまち消えてしまったからさ。
いや、消えたというのは妙だ。「降った」んだな。
空を覆った紫が、雨にそっくりな形で地上へ降り注いだんだよ。細かい粒となって。そしてそれが消えたから、空には青が戻ったというわけだ。
かの紫の雨が降ってから数日の間で、家の屋根のあちらこちらは塗装がはげたし、箇所によっては小さな穴が開いてしまったところもあった。
家々に限らず、アンテナや電柱、駐車していた車などにも同じような現象が起きていたよ。おかげで水や電気が一時的に止まる事態にもなった。
万病のもと、と祖母がいうのを私はてっきり生命体オンリーかと思っていたが、よもやここまでとはね。あの時期、私のあずかり知らないところでどれだけ犠牲が出ていただろうか。
あの飛行機雲を取り込む紫雲。できればもう会いたくないものだよ。