徒然 その7 浪人
浪人時代は受験勉強という体裁で塾で麻雀ばかりやっていた。
通っていた個人塾で習ったことは、勉強よりも麻雀の方が多い。
ここの個人塾とは中学校の頃から付き合いがあり、俺は中学生から麻雀ができた。
ここの塾長が勉強よりも麻雀が好き。困ったものだろ。
でも俺には塾長にとっても助けられた恩もある。
両親が離婚した後、母親、俺、妹は公営住宅が決まるまでの数年間、塾長のマンションを借りて生活していた。当の塾長は塾で寝泊まり。
とても変わった人であった。
またこの塾には、毎週漫画雑誌を揃えているので、当時は全部欠かさずに読んでいた。
思い出して書いてみる。
・週刊サンデー
・週刊チャンピオン
・週刊マガジン
・週刊ジャンプ
・週刊ヤングジャンプ
・週刊ヤングマガジン
月刊誌なんかもあったが、これがメインだったと思う。
アニヲタに走る土台はここで培っていたのかもしれない。
アニファイターを名乗る俺であるが、この時はまだアニメを見る事は殆ど無かった。
この塾に通ったお陰で、頭の知能は間違いなく下がったわww
そして、やっぱり自分にはやりたい事や好きな事が何一つ無くて、あっという間に受験シーズン。
本当に次も、どこも受けずに浪人するところだった。
いや、それは許されないか。。何か働く事になっていたのかも。
就職活動という気は全く無かったのであるが。。
そんな中、母からこう言われた。
「これからは、リハビリが流行ってくるよ、あんた向いているんじゃない?」
時代はリハビリテーションの兆しが見えてきたころ。
まだ大学にリハビリを新設している学校も多くなく、専門学校が主流だったと思う。
やりたい事は見つからなかったが昔から人の為にありたいと思っていた。
なので、断る理由もなくリハビリの学校、理学療法学科を受験した。
結果 受かる事ができた
正直、今であれば分かる。受かるはずのない俺が受かった理由が。
受けた学校は専門学校で定員は昼間部で30名
当時は競争倍率は10倍を超える、関東圏では国立療養所と一番を競うほどの有名な学校だった。
受かった同期はほぼ、同じ理学療法士を目指す人の為のセミナー塾に通っていた。
確かに受験に、3科目に加えて一般教養やら小論文、二次面接やらもあったりしたが詳しい事を知らずに受かった俺は、今では定めであったとしか言いようがない。
同期の内訳も、10名が社会人、10名が有名大学卒業者、8名が新卒、2名が浪人。
この2名の浪人枠に収まった。
ここで俺は、地獄を味わう事となる。