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ペトロネラ・エトホーフト。伝統あるエトホーフト侯爵家の跡取りである父親と、誓約によって隣国から嫁いできた母との間に生まれた長女、それが私だった。
柔らかな日差しが控えめに差し込む部屋の中で、光に照らされてキラキラと輝く埃を眺めながら、ふと自分の長い髪を見下ろした。艶のある漆黒の髪。日差しに照らされても、その光をすべて吸収してしまうかのような黒。
視線をそのまま窓の外へと向ける。
薄暗く埃っぽい部屋とは対照的に、きれいに整えられた庭は鮮やかで、季節の花々が美しく咲き誇っていた。温かな日差しに自然と映える淡い色の花と、まだ新しい芽が出てきたばかりで若々しい緑はまぶしく輝いていた。その中心には、笑顔で走り回る妹と、彼女にやや振り回され気味なお父様と、その様子を扇子で口元を覆いつつ微笑みながら眺めるお義母様がいた。
対照的な光景をまぶしく思い、そっと視線を逸らす。再び視界に入った自身の黒い髪を一房つまむ。
「……私の髪が黒じゃなかったら……せめて明るい茶色だったら」
お父様もお義母様も私に優しくしてくれただろうか。一緒に庭を散歩できただろうか。家族として仲良くできたのではないだろうか。妹に接するように、私のことを愛してくれたのではないだろうか。
次々に浮かんでくる考えに蓋をして、ぶんぶんと大きく首を振る。
そんなことはあり得ない。それはただの妄想で、現実ではないのだから考えても仕方がない。それならば、考えるだけ時間が無駄だ。大きくため息をついて、天井を仰ぎ見た。
「お嬢様?」
気遣わし気な声に振り向くと、部屋の隅で控えていたらしい侍女が心配そうにこちらを見ていた。今までの動きをすべて見られていたことに気が付き、慌ててへらりと笑ってごまかす。
「ごめんなさい。何でもないの」
「それならばよいのですが……」
きっと誤魔化せてはいないものの、私が何でもないと言えば、彼女は何も言うことができないようだった。眉を下げて困ったようにこちらの様子を伺っているようだが、私は特に何も言うつもりはない。言ったところでどうしようもないからだ。
この家の序列は明確だ。
まず、一番偉いのは、外で妹に振り回されているお父様。侯爵家の主人なのだから当たり前だ。次に、お義母様。現在の侯爵夫人である彼女が二番目なのも自然だろう。その次は妹。前妻の娘と後妻の娘の序列は周りの環境によっても力関係が変わってくるところだが、ここ侯爵家では妹の立場の方が私よりも上だ。
理由は、お父様がお義母様を愛しているからというのもあるが、それだけではないことを私は知っている。それは覆しようがない理由で、どうしようもないのだ。
私は使用人を除けば侯爵家の一員の中で最も軽視されている人間だ。ただ、お父様も一応政略結婚の駒としては見てくれているようで、侯爵家の令嬢としての最低限の教育は受けさせてくれる。部屋はそこそこ年季の入った部屋だし、あまり私と会話はしてくれないけれども。それでも侍女はつけてくれているし、外出用には綺麗なドレスも用意してくれていて、一応貴族令嬢として扱ってくれている。
手にしていた本を見下ろして気合を入れ直す。
「この本の主人公よりも余程良い生活が出来ているもの。泣き言は言っていられないよね」
蔵書庫にあった子供向けの本を棚へと戻すと、座っていた梯子からするすると降りた。外からは楽しそうな妹の笑い声が聞こえてくるが、それは窓を隔ててくぐもった音として耳に入る。明るい光に背を向けて扉に向かうと、侍女が扉を開けてくれた。
「ありがとう」
にっこりと笑って見せれば、彼女は安堵したようで表情を緩めた。私のことを心配してくれるなんて優しい人だ。小さな歩幅で廊下をずんずんと進み、使用人用の通路を横切って裏口から外へと踏み出す。
薄暗かった廊下から一気に明るい光に包まれたことで、一瞬世界が真っ白に映る。思わず目を細めるが、瞬きを何度かすれば、すぐに目の前の光景が目に入ってきた。先ほどの部屋から見えていた庭園とはまた別の庭だ。
こちらは野菜や薬草も育てているような庭で、魅せるための庭ではない。畑の中で背中を丸めて作業をしている人影を見つけて嬉しくなり、駆けだした。
「コニー!」
呼びかけてみれば、ぴたりと動きを止めた彼は顔を上げた。パチパチと目を瞬かせたかと思うと、日焼けした顔の中で白い歯が輝くような笑みを浮かべた。
「ペトロネラお嬢様!」
手についた土をパタパタと払ってから、こちらに手を振ってくれる。畑の植物を踏まないように気を付けながら彼のもとへと駆けていく。
「おやおや、そんなに走っていたら服が汚れてしまう」
「大丈夫よ! ドレスじゃないもの!」
私が着ているのは妹が着ているような可愛らしい子供用のドレスではない。裕福な商家の娘が着るようなワンピースよりも簡素なワンピースだ。派手に転んだりでもしなければ、それほど汚れることもない丈である。
「今日は何をしているの?」
「野菜を間引いていたんだよ」
そう言って近くに置いていた籠を見せてくれる。中には少し小ぶりな、まだ育ち切っていない野菜の赤ちゃんのようなものが詰まっていた。
「もったいない……」
「いいや、これでいいんだ」
「どうして?」
「こうして間引くことによって、残っている野菜にたくさん栄養が回るんだ。そうしたら立派でおいしい野菜が取れるよ」
「ふぅん……」
そういうものか、と目の前の残された野菜を見る。まだまだ収穫は先だろう。
「収穫が待ち遠しいわ」
「はは、ペトロネラお嬢様は食いしん坊だ」
コニーと顔を見合わせてくすくすと笑う。彼は庭師だったはずだが、何故か最近は畑仕事をしているところをよく見かける。
「コニーって何でも屋さんなの?」
「うん?」
「だって庭師なのに畑仕事もしているから」
「あぁ、いやまぁ、ちょっと事情がなぁ」
そう言って照れくさそうに人差し指で頬をかく。よく日焼けした彼の頬が、それでもわかるほどにほんのりと赤らんでいる。
「今度子供が生まれるんだよ」
「あら、家族が増えるのね!」
めでたいとばかりにパチパチと拍手をすれば、つられて彼も照れくさそうに笑う。しかし、すぐにその表情は曇った。
「ただなぁ、俺の稼ぎじゃどうにも生活がねぇ。嫁も働いてくれているんだが、さすがに出産前後くらいは休ませてやりたいからね。そこで、旦那様に頼んで仕事を増やしてもらったんだ」
「コニーは働き者ね。でも……」
いくら体格が良くて日焼けをしている彼でも、目の下の隈は誤魔化せない。仕事を増やしたことで寝不足になっているのかもしれない。
「ちゃんと寝ているの?」
「あちゃぁ、お嬢様はよく気が付くなぁ。実は畑仕事を増やしても稼ぎが足りなくてなぁ。仕方ないから、さらにほかの仕事を少しやっていて、あまり眠れていないんだ」
「……」
「そんなに心配することはないよ。それよりも俺はお嬢様の方が心配だ。こんな場所で油売っていたら怒られてしまうぞ」
そう言ってへらへらと笑うコニーにむっとした表情を返せば、さらに笑われる。
「もう、コニーのことを心配しているのに」
「俺だってお嬢様を心配して言っているんだぞ」
「からかっているの間違いじゃなくて?」
「はは」
「もう!」
ふん、と鼻を鳴らして背を向けると、畑を後にする。確かにコニーの言うことも一理あるのだ。畑にいたことが後からばれると、お義母様が酷く叱りつけてくるのだ。令嬢の振る舞いとしていかがなものか、そのようなところに行くなんて信じられない、これだから黒髪の子は嫌だわ、といった具合だ。最後の黒髪に関しては何も関連性がないと思うのだけれど、怒られるときには必ずと言ってよいほどついてくる決まり文句だ。
「……この黒髪さえなければなぁ」
視界に入った黒髪を憎々し気に払いのけて屋敷の中へと戻る。妹はまだ外で遊んでいるのか、楽し気な声が響いていた。