東都探偵物語 ゼロ
一歩足を踏み入れた瞬間に全てが見えた。
この世で一番愛した女性がもうすぐ逝ってしまう事が分ったのである。
窓から光が注ぎ静けさを静寂へと変えていく。
外は眩く明るいのに部屋の中は酷く暗鬱として寒さを感じる。
夏月直彦は自らの足音さえ消え去ってしまう死の静寂の中をゆっくりと彼女が横たわるベッドへと近づいた。
「清美」
名を呼び覗き込むように見つめる。
僅かに開いた瞼の間から漆黒に似た藍の瞳が覗き己の姿を映し込んだ。
「直くん?」
私、電車に間に合ったんだね
「約束…守れたんだね」
大切な大切な約束。
微笑んで抱きしめるように伸ばされた腕に身を任せ直彦は彼女を優しく抱きしめ返した。
「清美、俺と一緒にいてくれ」
ずっと
ずっと
ずっと
行くな。
行かないでくれ。
心ではそう叫んでいるのに、彼女は一人で逝ってしまうのだと理解している自分がいる。
引き留める術はもうないのだ。
朧清美は直彦を抱き締めながら
「直くん、帰ろう」
直くんと太陽君と…春彦君と
「私たち4人の家に帰れるね」
と微笑みかけた。
直彦は『ああ、そうなんだ』と理解すると笑みを浮かべた。
「清美、帰ろうか」
そうだな
「帰ろう」
ずっと。
ずっと。
帰りたかった自分たちの家。
清美は横で座っていた1歳くらいの子供を抱き寄せると
「太陽君、直くん来たよ」
太陽君のパパ来てくれたよ
「一緒に帰ろうね」
と優しく髪を撫でた。
子供は直彦を見ると
「パぁ?」
と不思議そうに首を傾げた。
初めて見る自分の子供だ。
直彦は二人の間に座った子供を愛し気に見つめると
「太陽、お父さんだよ」
太陽
と髪を撫でた。
清美は微笑み眠るように目を閉じながら
「直くんと春彦君と太陽君と…末枯野君や東雲君や白露君も呼んで…また、みんなで遊ぼうね」
と視線を直彦の後ろにいる異母兄妹の津村隆と父親の津村清道に向けると
「隆さん…お父さん…直くんと太陽君をお願い…」
ね。というとそのまま直彦の腕の中で瞳を閉じた。
指先はシーツの上に滑り落ち、モニターが知らせる甲高いアラームの音にも二度と動くことはなかった。
あの日にした約束。
果たされなかった約束。
彼女が乗りたかったあの列車は3年前のあの日に自分たちを乗せることなく過ぎ去ってしまった。
欲しくて。
欲しくて。
望んで手を伸ばした二人の家はこの世の何処にもない。
直彦は溢れ出しそうな叫びを押し殺し何もわからず永遠の眠りについた彼女の頬を不思議そうに撫でている子供を抱き上げた。
「太陽、俺がお父さんだよ」
君は清美と愛し合って出来た最愛の子供だよ
語りかけて強く抱きしめた。
しかし。
彼の前に津村清道は立ち頭を下げた。
「愚かな…男だと笑ってくれていい」
太陽を引き取らせてほしい
「清美が残した唯一の形見だ」
…私に育てさせてもらいたい…
津村隆は間に立つと
「親父!あんたが何をしたか…わかっているのか!」
あんたが!
あんたが!
「清美を殺したんだ!!」
と詰った。
清道は土下座をして
「わかっている…だからこそ、もう二度と間違いはしない」
太陽を幸せにする
「頼む、直彦君」
と告げた。
光が窓から零れるように降り注ぎ、短いような長いような時間が音もなく過ぎ去っていくのを直彦は傍観者のように見つめていた。
病院の待合室では末枯野剛士と東雲夕弦が肩を寄せ合って声を殺して泣き、遠く離れた屋敷で白露元が窓を見つめ黙って涙を落としていた。
6人で集まって何時も時を過ごしていた。
喧嘩をしたり。
笑い合ったり。
しかし、この日。
彼らにとっての青春という一つの時代が強制的に終わりを告げ、新しい時代への引導を無理やり押し付けられたのだ。
直彦は弟の春彦と暮らすマンションに戻り夕焼けに染まる都会の景色を見つめていた。
『直くん、泣いて良いよ。もし泣く場所が無かったらここにきて一緒に泣こう』
…ここはね、直くんが泣いて良い場所だよ…
二人の思い出の場所で言った彼女の言葉が脳内に響く。
直彦は俯き唇を噛みしめた。
「清美、ここはあそこじゃないから…君がいないから…俺はもうあそこへはいけないから…」
俺は…泣くことができない
同じ時。
東雲夕弦もまた家に帰り着くと自室の机を見つめていた。
6人で笑って写っている写真が眩く過ぎ去りし時を輝かせている。
だけど今は。
夕弦は写真を伏せると瞼を閉じた。
「もう、俺は戻れない」
俺が…朧を殺した
「永遠に消えることのない枷を抱えて俺は生きていかなければ」
愛する人を殺し
無二の親友を永遠の地獄へと落としてしまった
「すまない」
同じ時に白露元もまた写真を破り捨てると広くヒンヤリとする大きな館の中で一つの決意を固めていた。
「朧を殺したこの家を俺は俺の代で潰す」
あの人が死ぬ時にこの上のない絶望を与えて
光は地平に消え去り、夜の闇が街に広がり始めていた。
■■■
雪が、降っていた。
鉛色の雲が空一面を覆いチラリチラリと雪の結晶の塊が地上へと降りてきていた。
50円という銀色の硬貨は野坂直彦にとって特別な存在であった。
母親の野坂由以が特別な時に渡す唯一の硬貨だったからである。
「直彦、これでオヤツを買ってきなさい」
ポトンと手のひらに置かれ彼女はいつもそう告げるのだ。
直彦は小さな手でそれを握ると
「うん」
あのね
「お迎えきてくれる?」
といつもそう聞くのだ。
いつか。
そう、いつの日か。
彼女がそれを握らせたまま何処かへ行ってしまうのではないかと自分を置いていってしまうのではないかと思っていたからである。
野坂由以はじっと見上げてくる直彦に笑みを浮かべると
「直彦は私の子供よ」
置いていくわけないわ
「ね、今日は直彦のお父さんになるかもしれない人が来るの」
ちゃんと話するから、ね
と告げた。
お父さんになるかもしれない人が来る日は何時も50円玉を握って外で彼女が迎えにくるまで遊んでいなければならないのだ。
直彦は頷くと
「わかった」
迎えてに来てね
「僕ね、ちゃーんと待ってるから」
と言い、ボロッタのアパートの前の通りを左に曲がりまっすぐ行った先にあるパン屋へと足を向けた。
そこで夏はアイスクリーム、冬は一銭焼きを買って朝から夜半まで近くの公園で一人遊びをするのだ。
パン屋の店主は優しい人で直彦が50円を出すとアイスクリームが入った冷蔵庫の蓋を開けて
「なんでも好きなものを選んでいいぞ」
と言ってくれる。
一銭焼きも「よし、特大だ」と大きな一銭焼きを船に一杯乗せて渡してくれる。
「ありがとう、おじさん」
と直彦は50円玉を店主に渡して公園へと向かうのだ。
だから、直彦にとって50円は何時も特別なものであった。
母親の野坂由以は直彦が夜中まで公園でいると大抵は怒って迎えにやってきた。
「あんな男…あの人と一ミリも似ていなかったわ」
とブツブツ言い
「直彦、帰ろうか」
と直彦の手を引いて連れて帰るのだ。
その手が冷たく感じる時も。
その手が温かく感じる時も。
直彦は何時も小さく
「迎えに来てくれた」
と呟いて彼女と共にボロッタのアパートへと足を向けるのである。
足も手も。
痛くて冷たかったが…降り積もった雪の上についた自分の足跡が母との家にちゃんと向かっているのでほっとするのである。
母親の野坂由以が新しい父親として連れてきた男たちは何時も顔立ちが似た人物たちであった。
ただ、多くの男たちは直彦を受け入れることはなかった。
「ちっ、このガキがいなかったらなぁ」
それが、直彦が6歳になって小学校へ行くようになって新しい父親候補が帰る時に直彦を見て吐き捨てる言葉であった。
母親の野坂由以はそれに何時も
「直彦と一緒でないと…だめよ、だめ」
もういいわ!
「二度と来ないで!」
と涙声で怒鳴っていた。
だが二人になって部屋に入ると
「何よ、何よ!あんな男!!」
と怒鳴りながら
「なにみてんのよ!あんたがいなけりゃ…」
とグラスを直彦にぶつけて割る時もあった。
しかし、その直後に
「違うわ、違う、直彦…私の子供だからね」
貴方は私の子供だからね
「ごめんなさいね」
と抱きしめるのだ。
直彦にはその全ての言葉すら時折どこか遠くでなっているラジオのように感じられるようになっていた。
景色もいつも薄暗いセロファンが翳された向こうにあるようで、自分は濁った世界にいるのだと思うようになっていた。
そう世界は濁っているものなのだ。
直彦がそう思うようになって数年が経ち小学5年になって間もない頃に一人の男性が母親の元へと姿を見せた。
野坂由以は嬉々として男性を迎え入れた。
彼女は笑顔で
「春珂さんの子供ですもの…きっと直彦も喜ぶわ」
直彦のお父さんとそっくりだわ
「本当に」
と告げた。
彼は直彦を見て
「君が、野坂…直彦くんかい?」
とにっこり笑い
「俺と家族になろう」
と初めて抱きしめてくれた。
男性の名前は島津春珂と言い、連れていた赤子は『春彦』で春珂の春と直彦の彦だと言った。
『今日から春彦は直彦君の弟だからね』
…きっと君を守ってくれる子になるよ…
彼は直彦を邪険にすることはなかった。
川の字に寝るということも。
キャッチボールをするということも。
極々当たり前の親子がすることを直彦に初めて教えてくれた。
そして。
「どうしても話をしておかないといけない人がいる」
4人で九州へ行こう
と言い九州へ向かいかけた途中で…事故にあった。
3ヵ月。
たった3ヵ月。
直彦にとっての『初めての家族』は3ヵ月で終わったのだ。
何があったのか分からなかった。
ただ気付いたら直彦は弟の春彦とベッドの上にいて見知らぬ女性が
「お母さんは…空へいってしまったの」
だから
「お父さんが迎えにくるまで私たちと一緒に暮らしましょうね」
と告げた。
だが、島津春珂が直彦と春彦を迎えに来ることはなかった。
2日経って。
3日経って。
1ヵ月が経って。
愛彩養護施設の園長から
「夏の月だから夏月」
今日から
「夏月直彦君と夏月春彦君」
お兄さんと弟くんよ
と言われた。
そうなんだ。と直彦は感じた。
直彦は愛彩養護施設の一角で窓の外の夜空を見上げ
「あの人…きっと来ないんだ」
ここに来ないんだ
と呟いた。
捨てられた…という言葉は好きじゃなかった。
言ってしまったら自分の中の何かが壊れてしまいそうな気がしたからだ。
あんなに。
あんなに。
優しくしてくれたのに。
「家族になろうっていってくれたのに」
捨てられた。
捨てられた。
捨てられたんだ。
直彦は何もわからず懸命に上に手を伸ばして不思議な言葉で話をしている春彦の頭を撫でると
「春彦、お母さんはもういないんだ。死んじゃったんだ」
お前のお父さんは…わからない
「わからないでいいよな」
ごめんなぁ、春彦
と告げた。
きゃぁきゃぁ無邪気に笑う春彦の頭を直彦はただただ懸命に優しく撫でるしかできなかったのである。
■■■
「初めまして、私、朧清美っていうの宜しくね」
彼女はそう名乗った。
彼女は直彦が夏月と苗字を変えて愛彩養護施設の子供が通う等々力小学校に通い始めて最初の日に隣の席になったクラスメイトであった。
直彦は自分が彼女の隣に座った時にざわめきが起きたのにも気付かず
「俺は夏月直彦。よろしく」
と答え、机の中から教科書とノートと鉛筆を出した。
ちょうど小学校5年の二学期に入って間もないときの編入なので授業について問題はなかった。
ただ、直彦はふっと給食を食べながら
「春彦、大丈夫かなぁ」
と弟の春彦のことを思った。
園では何時も春彦と時間を過ごしている。
来年の4月1日で2歳になる弟である。
最近はゴロゴロと転がったりハイハイしたりできるようになってあちらこちらへと動き回るようになったのだ。
心配なことは春彦が泣き出すと何時も先生が何処かへ連れて行ってしまう事である。
直彦は給食のご飯を見つめ
「先生に叩かれてないかなぁ」
と呟いた。
隣に座っていた朧清美は考え事をする直彦を見ると
「どうしたの?」
春彦君って直彦君の弟?
と聞いた。
直彦は彼女を見て頷き
「春彦が泣くと先生が連れて行くんだけど…叩かれてないかなぁと思って」
と呟いた。
清美は瞬きすると
「…先生が連れて行った後に春彦君はもっと泣いて帰ってくるの?」
と聞いた。
直彦は首を振ると
「寝て帰ってくる」
と答えた。
清美は小さく笑って
「だったら大丈夫だよ」
と言い
「きっと先生が春彦君にどうして泣いてるの?って聞いてオシメ変えたりミルクあげたりしているんだよ」
と答えた。
直彦は目をぱっちり開けて驚くと
「先生は春彦とお話しできるか!?」
と彼女を見つめた。
「俺、春彦とお話しできない」
清美はにっこり笑うと
「私もできないよ」
と言い
「でもお母さんがね、アパートの隣の家の赤ちゃんが泣いている時に『おしめかなぁ』『お腹減ってるのかなぁ』って赤ちゃんのオシメとか唇とか触ってオシメ替えたり哺乳瓶でミルクあげたりすると赤ちゃん笑ってご機嫌なおるんだよ」
と答えた。
「だから、きっと先生もそうしているんだと思うよ」
直彦は「おお!」と驚き
「朧さんは凄いな」
と笑顔を見せた。
清美は笑顔で
「赤ちゃんはお話しできないから泣くことでしてほしいことあるよ~って教えてくれるんだって」
と付け加えた。
直彦はぱぁと顔を明るくすると
「じゃあ、春彦が泣いてるときはしてほしいこと言ってるんだ」
と告げた。
「すげー、すげー」
直彦には自分が小さかった頃の記憶がほとんどなかった。
物心ついた頃には泣くと『静かにして!』と怒られていた。
叩かれたりグラスを投げられたりしていたのである。
だから、春彦が泣くと先生が何処かに連れて行って叩いているのかもしれないと思っていたのである。
目から鱗であった。
その日から直彦にとって朧清美は小さな先生となったのである。
春彦が2歳になって直彦が小学6年になった時に清美と春彦が同じ言葉を言っていることに気が付いた。
『綺麗』という言葉である。
春彦は水溜まりで太陽の光が反射しているのをみると
「きれーきれー」
というようになった。
だが、直彦には漢字が分かっても綺麗の意味が解らなかった。
何を見て春彦が綺麗と言っているのか理解できなかったのである。
こんなに薄暗い濁った世界の何が綺麗なのだろうか。
だが、清美も時折同じことを言うのだ。
学校から園に帰る途中の道端で空を見上げて
「ねぇねぇ、直くん」
虹が出てる
「綺麗だよね」
と笑顔で言うのだ。
直彦には薄暗い空にうっすらと色の違う場所があるだけにしか見えなかったのだ。
何が綺麗なんだろう。
でも、清美が言っているのだから綺麗なんだろう。
そう、春彦が言っているのだから綺麗なんだろう。
だから
「うん、綺麗だね」
そう答えるしかなかった。
清美はそう言うとき直彦を不思議そうに見るのである。
直彦は居心地が悪く感じると
「何?清美に俺何か変な事言った?」
と聞き返すのである。
自分はただ…二人の綺麗が分らないだけなのだ。
清美はいつも小さく首を振るだけで
「いいの」
というと直彦の手をぎゅっと握るのである。
そんなある日。
5月も半ばになって彼女が急に2週間ほど休んだあとの月曜日の事であった。
彼女が直彦をピクニックに誘ったのである。
「あのね、あのね」
私とお母さんの秘密の綺麗な場所があるの
「直くんにも教えてあげる」
そこは等々力から少し列車に乗って降り立った自然豊かな場所であった。
二人でリュックを背負い木々が両側に茂る蛇行した道を歩いた。
川が流れ、途中に橋があって、1時間ほど行って最初の橋を越えて登った坂道の脇に小さな川に架かる橋があった。
緑は深く。
流れる初夏の風が心地よかった。
川は頭上から照り付ける太陽の光を水面に躍らせ穏やかな水のせせらぎの音を広げていた。
小さな橋を渡るとその先は獣道のようになっており木々の合間を抜けると目の前に緑の草が風に流れる原っぱとその少し向こうになだらかな稜線を描く丘があった。
清美は直彦の手を引くと
「登ろう」
と言い
「凄く気持ちいいよ」
と笑った。
手を引かれるままその緑の丘を登り頂上にある木の下に立った。
空が近く流れる白い雲に手が届きそうなほどであった。
直彦は空を見上げて
「凄いね」
と笑った。
清美は頷いてリュックからシートとコンビニのお弁当を出すと
「食べよう」
と呼びかけた。
「今日はね、夜まで居よう」
良い?
直彦は小さく頷いた。
「うん、先生が春彦みてくれるって…ゆっくり遊んできて良いって」
そう答えた。
お弁当を食べて寝転がって二人で眠った。
初夏の夕刻は早く太陽が沈むと空に闇が広がり始めた。
清美は夕方から膝を抱えて座り何かを待っているようであった。
直彦も隣に座って見ていたが彼女が待っているモノが分らなかった。
清美は空を見上げて夜の闇が東の空から世界を覆いつくそうとしているときに直彦の手を握りしめた。
「私ね、直くんが綺麗って分からないんだって分かってた」
直彦は驚いて彼女を見た。
清美はにっこり笑うと
「ここからの星は凄く綺麗なんだよ」
と言い、空の中で一等輝いている星を指差した。
「直くんにも見えるよ」
綺麗が見えるよ
「大丈夫、見ようと思って」
直彦は彼女が懸命に指差す星を見つめた。
彼女が見つめる世界。
春彦が見つめる世界。
綺麗がある世界。
「見たい…」
直彦は彼女が指差すその先の輝きに目を凝らした。
その瞬間であった。
清美の指す星がキラリっと輝いた瞬間に世界が…直彦の目に映ったのである。
星は輝き。
夜空の蒼は煌めきを伴い直彦の目に飛び込んできたのである。
闇の中にも浮かぶ草木の緑。
彼女の持っていたライトの明かりすら眩く光る。
直彦は驚いて朧清美を見た。
そこにいたのは直彦の知らない美しい少女であった。
そう、初めて。
そう、物心ついて初めて。
世界を知り。
そして、人を知ったのだ。
「きよ、み?」
清美は頷いた。
「そうだよ、見えた?」
直くんにも見えた?
直彦は自分の瞳から涙が溢れていることに気付かなかった。
清美は直彦の手を握りしめると
「直くん、ここはね…泣いて良い場所なんだよ」
誰も見ていないから
「泣けない時は此処で泣いて良いよ」
一緒に泣こう?
「泣くのは弱いからじゃないんだよ、人だから…泣くんだよ」
と泣きながら告げた。
直彦は震えながらそっと彼女の身体を抱き締めた。
清美は泣きながら
「あのね、直くん」
私のお母さん…死んじゃったの
大好きなのに
大好きなのに
「お母さん、私を置いていっちゃったの」
と直彦に抱きついた。
直彦も泣きながら
「うん」
うん
「うん」
と答えた。
2人だけだった。
互いの温もりだけしかなかった。
清美は自分を包み込む真摯な温もりの中で直彦を見ると
「私ね、お父さんところ行くの」
と言い
「だから、ここにきて泣きたかったの」
直くんありがとうね
と告げた。
直彦は清美に笑顔を見せると
「俺、清美に会いに行く」
絶対に絶対に
「待ってて、俺会いに行くから」
と告げた。
翌日、朧清美は学校を去り直彦と再び出会うのは中学になってからであった。
彼女の手紙で東都大付属中学へ行くことを知り、直彦は奨学生試験を受けて入学したのである。
そこで、彼女の異母兄弟である津村隆と彼の親友たちである東雲夕弦、白露元、末枯野剛士と巡り合うのである。
一生の友と出会うのである。
■■■
その東都大付属中学は直彦の常識を超えた世界であった。
先に東都大付属小学校に通っていた清美は中学校の正門で直彦と落ち合うと
「直くん!」
と笑顔で手を振った。
あの頃と変わらない笑顔だ。
直彦は清美の前に駆け寄り
「清美ちゃん」
俺約束守ったよ
と笑顔で告げた。
清美は「直くん、ありがとう。私待ってた」と答え隣に立っている青年に視線を向けた。
「あのね、私のお兄さんの津村隆さんなの」
凄く優しいの
直彦は津村隆を見ると
「清美ちゃんのお兄さん?」
と言い
「初めまして、夏月直彦です」
と頭を下げた。
隆はジーと値踏みをしながら直彦を見て
「宜しく」
と短く返して
「夏月君は清美ちゃんのことを好きなのか?」
と聞いた。
…。
…。
直彦は驚いたものの
「俺は清美ちゃんのこと大好きです」
と清美と顔を見合わせながら答えた。
「その、これからはずっとずっと清美ちゃんと一緒にいたいと思います」
清美は隆を見ると
「私も直くんとこれからずっとずっと一緒にいるの」
と告げた。
隆は目を細め
「ふーん」
2人ともガキだな
と心で言うと
「俺の眼鏡に適わなかったら邪魔するからな」
とビシッと指を差した。
直彦は目をパチクリと開けて隆を見つめ
「…うん…」
とコクコクと頷いた。
清美もびっくりして隆を見つめた。
隆は腕を組むと
「清美ちゃんは俺の妹だから変なやつには渡せない」
だから俺が見定める
と告げた。
直彦は笑みを浮かべると
「そうか…じゃあ、俺」
津村君に認めてもらえるように頑張らないとな
と清美を見た。
清美は笑顔で
「直くんならきっと隆さんと仲良くなれるよ」
私には分かるよ
と答えた。
隆はニコニコとやり取りをする二人を見ると
「え?この和やかムードはなんだ?」
俺の言っていること分ってるのか?
と内心ぼやきつつ
「俺の親友も紹介しておく」
こいよ
と校舎に向かって足を進めた。
直彦も清美も隆も同じ1年A組であった。
A組は特殊なクラスで資産家や政界の子息か成績がかなり優秀な学生のみの構成となっている。
直彦は特別試験の成績が1位というつまりは成績が優秀だったのでA組となったのだ。
隆と清美は津村家という政財界に通じた家柄ということでA組であった。
隆は教室に入ると小学校からの友人である白露元に末枯野剛士に東雲夕弦を呼び寄せた。
白露元は白露家という津村家と同じ政財界に通じた家柄で末枯野剛士は次男ではあったが警察庁刑事局長の息子であった。
東雲夕弦は半導体を作っている会社の社長の息子であった。
直彦から見ればつまりは『お金持ち』ということである。
教室の真ん中で顔を合わせ最初に口火を切ったのは元であった。
「初めまして、俺は白露元。前に朧さんと同じ小学校だったんだってね」
特別試験を1位の成績で通ったって先生が言っていたよ
「凄いね」
そう告げた。
末枯野剛士は驚きながら
「ほー、そうか凄いな」
俺は末枯野剛士、よろしくな
と言い、横に立っている東雲夕弦を見ると
「こっちは東雲夕弦」
と紹介した。
夕弦は直彦をじっと見て
「へー、朧さんがいつも噂してた君が夏月君か」
あの試験を1位って凄いな
と眼鏡をクィと上げて笑みを浮かべた。
直彦は三人を見て
「俺は夏月直彦です」
直ぐに友達が出来てすっげぇ嬉しい
「よろしく」
と返した。
清美はニコニコ笑って
「良かったね、直くん」
と告げた。
直彦は頷き
「うん」
と答えた。
教室は校舎の一番上の階にあり窓の下では薄紅の桜の花が満開に咲き誇ってた。
■■■
「あ、負けた」
新緑が輝く5月下旬の夕刻。
授業が終了した放課後の教室で東雲夕弦が呟いた。
『負けた』と言うのは定期テストの結果でここ数日の授業の最初に中間テストの結果が返されてきていたのである。
金曜日のこの日、その最後の英語のテスト結果が返ってきて全員で見比べてそう呟いたのだ。
末枯野剛士は感心しながら
「今までは東雲がほぼほぼ首位を独占していたからな」
強力なライバル出現だな
と告げた。
白露元も笑顔で
「良いんじゃないか?」
東雲も夏月も凄いと思うけど
と告げた。
津村隆は普通に
「まあ、全員上位だから問題ないだろ」
どっちにしても勉強会の教師役は理数系を東雲で
「文系は夏月だな」
と告げた。
清美は微笑んで
「凄いね、直くんも東雲君も」
私も頑張らないとだよね
と自分のテストの結果を見て呟いた。
直彦はそれに
「清美の点数は全然悪くないから俺に教えて」
と微笑んだ。
清美は驚いて
「え!?私が直くんに」
と見た。
直彦は笑みを深めると
「うん、人に教える方が勉強になるから」
勉強会の教師役は持ち回りの方が俺は良いと思う
と告げた。
夕弦も考えながら
「確かに教えるのに俺も自分で理解しないとなぁって思って勉強するからな」
それが良いかもな
と答えた。
剛士は少々額に汗を浮かべつつ
「いや、俺は出来る自信が無いな」
とぼやいた。
夕弦は笑って
「そこは俺が教えてやるよ」
末枯野、特訓だな
とビシッと告げた。
清美も笑顔で
「私も頑張るから頑張ろう、末枯野君」
と励ました。
元もふぅと息を吐き出し
「確かにそうだな」
学科は決めずに順番に回していくのがいいな
と告げた。
隆も「OK」と答えると
「じゃあ、夏月は俺と清美ちゃんが教師役出来るように教えてくれ」
とニッと笑った。
直彦はそれに
「でも土曜日だけになるけど良いか?」
と答え
「それと春彦も一緒だけど」
と告げた。
「横で大人しくさせるから」
清美は笑顔で
「いいよ~、春彦君いつもいい子だよね」
と告げた。
隆も頷いて
「ああ、俺も構わない」
と答えた。
直彦は笑って二人に
「ありがとう」
じゃあ、土曜日の午前中にそっちに行けばいいかな?
と答えた。
それに隆が
「こっちから迎えを行かせる」
その方が良いだろ?
と告げた。
直彦は頷いて
「助かる」
ありがとう
と答えた。
元は三人の話が纏まると苦い笑みを浮かべて
「じゃあ、俺は末枯野東雲組に入るか」
俺の家でしよう
と告げた。
夕弦は嫌そうに
「その、怪しげな組呼びは止めてくれ」
白露
と突っ込んだ。
それには全員が苦笑を零した。
勉強会は決まって日曜日に行われ、場所は白露家であった。
直彦はそこにも春彦を連れて行きいつも自分達が勉強している横で遊ばせているのだ。
勿論、勉強は小一時間ほどで後は遊んだり喋ったりしている。
テスト前は半日くらい勉強して喋るのは午後からの一時だけであった。
小さな事件と言うのは些細な変化から起きる。
6時限の授業が終わり、終礼が済むと直彦は春彦を迎えに行かなければならない。
時間で言うと15時10分くらいだ。
春彦は来年から小学校なのだが今は等々力幼稚園に通っていた。
東都大学は文京駅の近くにあって東都電鉄の文京駅から歩くのが一番早かった。
付属中学高校も同じである。
そこから等々力には列車を乗り換えて一時間足らず。
急いで迎えに行ったとして16時半くらいになる。
以前より一時間くらいお迎えが遅くなるのだ。
その間、直彦の弟の春彦は大人しく幼稚園で一人ぽつんと遊んでいる。
だから時折、自分が迎えに行くとホッとした顔で駆け寄ってくる春彦がかつての自分と重なって胸が痛むことがある。
亡くなった母である野坂由以が外で遊んでいる自分を何時か捨てて去っていくのではないかと思っていたあの頃の自分である。
だが、この日の春彦は何時もと少し違っていた。
何時もは笑顔で駆け寄ってくるのだが今日は口を尖らせて手が赤くなっていたのだ。
直彦は春彦を見ると
「どうしたんだ?春彦」
と聞いた。
春彦は俯いたまま何も言わず唇を尖らせているだけである。
こういう時の春彦は絶対に言わない事は直彦には分かっていたので春彦の組を担当している女性の先生に問いかけた。
直彦は彼女に
「あの、春彦の手が腫れているのですが何かあったんですか?」
と聞いた。
彼女は息を吐き出すと
「春彦君、お友達の本を奪って暴力をふるったので手を叩いたんです」
こう言っては失礼だけど
「本とか色々他の子よりも持ち合わせが無いから仕方ないとは思うんだけど」
暴力をふるって人のものを取るというのはやはり問題だと思って
と告げた。
それに春彦は顔を上げると
「俺取ってない!」
取ってないもん!
「あっくんが勝手に俺の棚に入れたんだ!!」
それに俺殴ってないもん!
とその場にしゃがみ込んだ。
直彦は彼女を見ると
「その、春彦は取ってないと言っていますが…そのあっ君っていう子はどういっているんですか?」
と聞いた。
彼女はふぅと息を吐き出すと
「春彦君が殴って取ったって言ってました」
と告げた。
直彦は少し考え
「それで?その子の親は何かクレームを?」
と聞いた。
彼女は「は?」と首を傾げた。
直彦は冷静に
「いえ、春彦が殴ってモノを取ったっていうことは」
今の春彦のようにどこかが腫れていたり赤くなって暴力を振るわれた跡があると思います
「だったら、どうしたんだ!?って今の俺のように聞いてこなかったんですか?」
まして本を盗られたのなら両親に言うと思うんです
と聞いた。
それに彼女は驚いて視線を忙しく動かすと
「そ、れは」
と呟いた。
春彦は泣きながら直彦を見上げると
「直兄…う~~~」
と立ち上がると抱きついた。
何よりも兄が自分を信じてくれたことが嬉しかったのだ。
直彦は彼女を見ると
「確かに俺も春彦も色々持っていないモノがあると思います」
でも俺は春彦が人を殴ってモノを奪うことをしないことを知っています
「反対に俺は相手のあっくんという子が可愛そうでなりません」
と告げた。
「先生も色々大変だと思いますが、そこは公平に春彦を見てやってください」
そう言うと、直彦は春彦の手を握りしめた。
「帰ろうか」
春彦は頷いて
「うん」
と泣きながらも笑顔を見せた。
直彦は春彦と歩きながら
「春彦は新しい本を読みたいか?」
と聞いた。
「本の部屋の本は全部読んだよな」
勉強会の時に
春彦は直彦を見て小さく頷いた。
「うん、読みたい」
でも
「何回でも読むから良い」
直彦は考えながら
「本か」
と小さく呟いた。
勉強会に連れて行くときに何時も本を持たせてそれを読ませている。
そんな訳で春彦が読める全ての本を読んでしまったのだ。
施設には直彦と春彦を含めて18歳以下の子供が数人いる。
個人でしている小さな施設なので人数は多くなく親が面会に来る子供もいて彼らはその時に本や差し入れを受け取っている。
直彦と春彦にはどれほど待っても親が来ることはないのだ。
ただこうやって学校へ行き食事をして安心して暮らせるだけでも感謝している部分は多かった。
なので、直彦は自分が何とかしなければならないと考えたのである。
施設に帰って直彦は食事を終えると春彦と一緒に布団を敷いて、園長の部屋へと訪れた。
園長の嶋野京子と娘の嶋野宮子に裏の白い紙を欲しいと告げたのである。
京子は首を傾げて
「裏の白い紙を?」
と聞いた。
直彦は頷いて
「あ、はい」
いらない紙でいいので
と告げた。
宮子はそれに
「勉強に使うのだったらノートを使ったら?」
直彦君は東都大付属中学に入学したんだから入用なんでしょ?
と笑顔で告げた。
直彦は首を振ると
「いや、あの…春彦に…話を書いてやろうと…」
と顔を赤らめながら告げた。
京子は静かに笑むと
「何かあったのね?」
春彦君の手が少し腫れていたから気にはなっていたんだけど
と告げた。
直彦は顔を上げると
「春彦が幼稚園の子を殴って本を奪ったって言われて…俺は絶対にそれはないと思っているので心配してないんですが」
春彦が確かにここにある本を全部読んでしまったのは間違いなので
と告げた。
「俺が本を作ってやろうと思って」
裏が白かったら半分に折って重ねてホッチキスで止めれば本になるし
宮子は立ち上がると机からノートを持ってくると
「じゃ、これで本を作って」
それで春彦君だけじゃなくて本の部屋においてくれる?
と笑顔で告げた。
直彦は慌てて
「あー、でも」
俺そう言うの書いたことが無いからちゃんと書けるかわからないし
と告げた。
京子は微笑むと
「良いわよ」
全然いいの
「やろうと思ったことを挑戦して欲しいわ」
と告げた。
「個人経営で補助金と寄付で賄っているからそれほどのことはしてあげれないけど」
ノートは協力できるから
「それに少しでも本の部屋の読み物が増えるとみんな喜ぶわ」
と告げた。
直彦はノートを受け取ると
「ありがとうございます」
園長先生、宮子さん
と頭を下げた。
そして、部屋に戻ると待っていた春彦の前に座って
「春彦、今日のことをどう思っている?」
と聞いた。
春彦は考えて
「あっくんも先生も嫌い」
直兄はどうしてあっ君が可愛そうっていうの?
「俺の方が辛い」
と答えた。
直彦は笑むと
「そうだな」
と言い
「でも春彦は悪いことを何もしていないだろ?」
だから胸を張って明日も幼稚園に行けばいい
「人じゃない自分に恥じてなければ胸を張って生きて行けば良いんだ」
と告げた。
春彦は直彦を見て
「けど、先生が」
と告げた。
直彦は春彦の頭を撫で
「先生も可哀想だな」
真実を真実だと受け止められないのは自分を自分で裏切っているんだ
「春彦だって自分が正しくないと思っていてそれをし続けるのは苦しいだろ?」
と聞いた。
春彦は頷いた。
「うん、ここがもやもやするもん」
直彦は笑むと
「だから、先生もあっ君も自分が嘘をついたり人に酷いことをするとそのもやもやをずっと持っていかないといけない」
可哀想だろ?
と告げた。
春彦はう~というと
「かもしれないけど、俺ももやもやだもん」
と告げた。
直彦は「そうだな」と言い
「なあ、そう言うことってやった相手もやられた相手もモヤモヤして辛いだろ?」
と告げた。
春彦は大きく頷いた。
直彦は微笑んで
「じゃあ、止めてやれ」
止めることができたら誰もモヤモヤしなくてすむから
と告げた。
「あっ君に言えば良いんだ」
そう言う事しても自分が辛いだけだって
「どうしてそう言うことするのか?って」
…きっと、あっくんにも何か理由があるんだと思う…
春彦は目を見開くと
「そう言うことをする理由?」
と告げた。
直彦は頷くと
「理由が無くなればしなくなるだろ?」
だから
「理由を突き止めて、そういう気持ちを無くしてやるんだ」
と告げた。
春彦は真剣な顔で頷き
「わかった!俺、そうする」
もうモヤモヤいやだからな
と答えた。
直彦は笑って
「それから、春彦の本を俺が作るからそれで我慢するんだ」
いいな
と告げた。
春彦は驚いて目を見開くと
「直兄が俺の本を?」
と聞いた。
直彦は頷いて
「ああ、まあ…ちゃんとできるか分からないけどな」
と答えた。
「どんな話を読みたい?」
春彦は考えて
「俺ほかほかするの読みたい」
と告げた。
ホカホカするの?と直彦は一瞬考えたが
「わかった」
と答えると春彦を寝かせると机の前に座って腕を組んだ。
「ほかほか」
ほかほか
「ほかほか」
自分の中でホカホカと言うと…あの事しかない。
『ここからの星は凄く綺麗なんだよ』
『直くんにも見えるよ』
世界を。
美しいこの世界を。
君がくれたこと。
直彦は胸に熱く赤く灯る思いにゆっくりと鉛筆を手にすると文字を綴った。
翌日、迎えに来た車に欠伸をしながら直彦は春彦と共に乗り込み津村邸へと向かった。
春彦は直彦が書いたノートをリュックに入れてニコニコとしていたのである。
それは青空が広がる初夏の日のことであった。
■■■
「これは、幼稚園児の読みものじゃないな」
津村隆の言葉に直彦は「へ?」と顔を向けた。
直彦が書いたお話は春彦には些か不評であった。
と言うか、色々と難しすぎたのである。
春彦がジーと最初の方のページから動いていないのを見た津村隆がノートを借りて読んだ感想が『幼稚園児の読みものじゃない』であった。
直彦は春彦をちらりと見て
「面白くなかったか?」
と聞いた。
春彦はにっこり笑うと
「難しい字がいっぱい出てた」
良くわからなかった
と端的な感想を返した。
清美は前倒しにガックしきている直彦に
「私も読んでみるわ」
それで感想を言うわ
「挑戦することが大切だから、ね、直くん」
と笑顔で告げた。
直彦は真っ赤になると慌てて
「あ、いや」
清美には…読まれるのが恥ずかしい
と耳まで赤く染めた。
隆は静かに笑むと
「話は面白かった」
俺達が読むには良いと思う
「表現も綺麗だし、読んでいて心地いい」
と告げた。
才能と言うモノがこれほど顕著に表れると衝撃と感動を覚える。
良く父親が画家や演出家や様々な人々をバックアップする時に
『その才能に触れた時は感動を覚えるものだ』
それを伸ばすために力を貸すのは津村家の仕事でもある
と言っていた。
父親とは色々あって少し距離はあるが今その言葉を実感していたのである。
隆は直彦を見ると
「直彦、俺がお前をバックアップする」
と告げた。
直彦は驚いて隆を見た。
隆は笑むと
「春彦君の年齢くらいならもっと分かりやすくて冒険が入っている方が俺は良いと思う」
と告げた。
直彦は本の部屋にあった春彦が読む本を思い出しながら
「確かにそう言う系の本が多いな」
と呟いた。
隆は「例えばだが」と言い
「この話を冒険風に書くことは出来るだろ?」
俺が読んだところ
「これは純愛モノだから俺達の年齢以上で女性が喜びそうな気がする」
と告げた。
「けど、5歳の春彦君には漢字は難しいしお前が書いている恋愛の情緒的なものはまだ早いかなぁと思う」
それよりもこれを二人が訪れる場所に向かう冒険ものにして漢字を分かるものだけ使って書き換えればいけるんじゃないか?
直彦は目を見開くと
「うん、確かに」
津村は凄いな
と告げた。
隆はそれに
「いいよ、隆で」
俺も直彦って呼ぶ
と笑みをみせた。
「俺はお前を育てる」
どうだ?
直彦は頷いて
「わかった、隆」
頑張って書いてみる
と答えた。
清美は微笑んで二人を見つめた。
自分の大切な異母兄と大切な人が仲良くなるのが嬉しかったのである。
春彦は「俺、分からないけど頑張れ!直兄!」と励ました。
隆は少し席を外すとノートパソコンを持って戻り
「これをやるから」
これで書いて送信機能で送れ
「俺がそれで読んで添削して良かったら本を一冊渡す」
それで春彦君に読ませることできるし
「本の部屋に置けるだろ?」
と告げた。
「その中でも公募出来そうなものは応募する」
直彦は驚きながら
「わかった」
と答え
「けどこのノートパソコン…高いんじゃないのか?」
と聞いた。
隆は笑って
「気にしなくていいさ」
と言い
「将来の小説家に先行投資だ」
と告げた。
直彦は目を見開くと
「しょ…せつか…」
と呟き
「けど、頑張ってみる」
と頷いた。
春彦はその後、勉強を始めた直彦たちの横で隆が持ってきたパズルを懸命に解いていたのである。
どうやらパズルは楽しいらしく黙々と指を動かしていた。
将来において売れっ子作家となる夏月直彦の処女作は読んで欲しい相手には不評であったが、津村隆にはかなりの高評価であった。
■■■
初めてみた瞬間に恋をした。
長くふわりとした髪に愛らしく美しい容貌。
それだけでなく意志の強い瞳を持ちながら包み込むような明るく穏やかな空気が彼女から広がっていた。
「初めまして、朧清美です」
そう言った彼女に挨拶を返す事すら忘れていた。
恒例に日曜日勉強会の席で津村隆は不意に
「そう言えば」
と言うと
「白露は最初のころ清美ちゃんが苦手だったんだよな」
挨拶返さなくてその後しばらく声も書けなかったから心配してたけど
「今はすっかり大丈夫みたいだな」
と告げた。
それに東雲夕弦も末枯野剛士も直彦も朧清美自身も手を止めて隆と元を見た。
今日の教師役が朧清美だったのでそう言う話題となったのだ。
直彦は清美を見ると
「そうなの?清美」
と呼びかけた。
清美はニコニコっと笑うと
「そんなことないよ」
と答え
「白露君、凄く優しいし色々気を使ってくれてるよ」
と告げた。
「最初の頃は多分緊張していたんじゃないのかなぁ」
私だけが女子だったし
そう答えた。
元はドキドキしながら彼女を見た。
変に誤解されていないようなので安堵はしたがこの恋心を知られるのは不味いと思ってもいたのである。
目を奪われて恋をして…声が出なかった。
その気持ちは今もずっと胸の中で輝いている。
だが、彼女には当初から夏月直彦と言う思い人がいて今彼女の横で一緒に勉強をしている。
知られるわけにはいかなかったのだ。
そんな、元を横目で夕弦は苦笑しながら
「津村は意外と鈍感だよな」
とぼやいた。
恋心が分かっていないと心で突っ込んだのだ。
考えればこの中で彼女と恋愛関係になれないのは血の繋がった隆だけなのだ。
『妹』というオブラートで包まれた隆の感情から言えば『好きな相手を前に緊張する』ではなくて『苦手だから話さない』になるのだろう。
夕弦は元来心理考察が得意なので脳内で人間関係図が既に描かれていた。
どちらにしても彼女は非常に分かりやすい。
と言うかあった頃から恋愛のベクトルが動いていないのだ。
夕弦は「白露の気持ちも分からないではないけどな」と呟きつつ、自分の恋心を上手く隠していた。
直彦が4月に東都大学付属中学に入学して数か月が経ち、そんな恋愛という感情が大きく芽生える時期に差し掛かった彼らの横で直彦の弟である春彦は黙々と直彦が書いた本を読んでいたのである。
幼稚園の探偵隊の冒険ミステリーである。
春彦はここのところそれに夢中であった。
夕弦に『鈍感』と言われた隆は
「そうか?」
と腕を組んで考えた。
直彦はその隣で日頃は誰にも公平で誰にも好かれるリーダーシップのある白露元がこういう風に動揺しているのが不思議であった。
今も一言も発せず俯いているのだ。
クラスの中で元の存在はクラスの女子の中では特別で恋心を抱く子が多かった。
見れば分かる…と言う具合である。
ただ、直彦には清美がいたので全く気にしたことが無いのだが、元が出来た人間であることに関しては大きく頷くところである。
元は気合いで頬に熱が上がるのを押さえ
「それよりも、そろそろ昼だろ?」
ランチ用意しているから食べよう
と告げた。
「来週には文化祭の出し物を決めて夏休みに練習しないといけないからな」
剛士は頷くと
「そうだな」
でも毎回昼を用意してもらって悪いな、白露
と告げた。
元は笑顔で
「いいよ」
と答え、清美を見ると
「朧さんも教師役お疲れさま」
お昼食べて休憩してからまたよろしく
と告げた。
清美は笑顔で
「ありがとう、白露君」
何時もごめんね
と答えた。
直彦も頷いて
「本当に春彦の分まで悪いな、ありがとう」
と告げ
「春彦!」
と呼びかけた。
春彦はぱぁと笑顔で元を見ると
「ありがとうございます」
と頭をぺこりと下げた。
元は微笑ましくそれを見ると
「弟の允華は夏月のところみたいにべったりじゃないし」
家族で余り食事をしたがらないから
「羨ましいよ」
と言い、夕弦や隆が礼を言うのに頷いて部屋の外へ出て食事を用意するように手伝いの女性に声をかけた。
もし、あのままあの場にいたら今頃は頬を赤く染めている状態になって気付かれたかもしれない。
抱いてはいけない横恋慕に。
元はふぅと息を吐き出し、部屋から姿を見せた母親に
「お母さん、何時も日曜日に騒がしくしてすみません」
と笑みを向けた。
母親の香華は元の真っ赤に染まった頬を見て目を見開いたものの何も言わず
「いいえ、元さんがご学友と勉強なさっているのですから嬉しいことですよ」
と答え
「頑張ってくださいね」
と部屋に戻った。
そして、執事を呼ぶと
「今日は何時ものご学友の方の集まりかしら?」
と聞いた。
執事の藤堂康夫は頷くと
「はい、津村家の隆さまに妹の清美さま」
それから末枯野の剛士さまに東雲の夕弦さま
「あと4月になって来られるようになった夏月直彦と言う子もおられます」
と告げた。
「調べましたところ愛彩養護施設にいるそうですが…あの東都大学付属中学の外部入学試験でトップ入学だったということです」
香華は「あら、そうなの」答え、少し考えると
「つまり、津村家の清美さんね」
津村家の子女なら問題はなさそうね
「それに本家直系ではないのでこちらに入ってもらうのも問題はないし」
と窓の外を見て笑みを浮かべた。
白露家の跡取りである元の嫁である。
元の様子から津村清道が他で産ませたものの津村家が引き取った朧清美と言う少女が好きなのだと直ぐにわかった。
家柄も問題はない。
彼女は執事を下がらせて
「早い方が良いわね」
早く婚姻を結んで白露家を安泰させなければ
「それこそが私がここにいることのできる唯一の…そう唯一の理由ですものね」
と小さく呟いた。
それが後に大いなる悲劇をもたらすとはこの時には誰も想像すらしていなかったのである。
この時、青い空が一面に広がり夏の陽光が燦々と照り付けていた。
ただその向こうでは大きな雲が低い遠雷をならせていたのである。
■■■
文化祭の出し物は『王女マグガレット』という陰謀と野望が渦巻く国の中で他の国の王子と恋に落ちて自らを殺して国を乗っ取ろうとする弟とその後見人たちの手から国を奪い返して平和をもたらすという話であった。
マグガレット役には佐原流奈と朧清美の二人の名前が上がったが女子の間では色々確執があり、佐原流奈に決定した。
それに関しても一部の女子の間では反対者がいたが白露元が『纏まらないから公平に決まったことに従って欲しい』との一言で終わりを告げた。
反対にあっさり決定したのは王子役であった。
白露元と夏月直彦の名前が上がったのだが…隆があっさり『白露で良いんじゃないのか?直彦は脚本させるから』と編集者の本領を発揮し、元としては無碍にも出来ず『じゃあ、もし反対が無ければ俺がさせてもらう』と言ったので決定した。
剛士は悪役の後見人で最後に王子と対決してやられる役に収まった。
隆は監督でビシバシとダメ出しを出してクラスメイトから『鬼監督』と異名をもらうことになった。
夕弦は弟役となり何故か何処か翳りのある悲劇の美しい弟王子となってしまい『弟と後見人が可哀想』という劇の評価になってしまったのである。
それは夕弦の名演技もあるが…掘り下げすぎて脚本を仕上げてしまった直彦にも責任があった。
佐原流奈は脚本を読んだ瞬間にサメザメと泣きながら
「私だってこの弟王子と後見人なら同情するわよ」
と言っていたので、仕方のない結末であった。
そんな文化祭が終わり秋も半ばの10月下旬。
直彦はその佐原流奈に体育館の裏に呼び出された。
一人だけで来て欲しいということであった。
秋の陽落ちは早く、午後3時と言えど空は赤く染まり始めていた。
下校時はいつも一人なので直彦は体育館の裏へと向かった。
来るまで待っていると言われたので本当に待たれていたら困るからである。
その日、直彦が校門へ向かわずに体育館へ向かうのを日直で教員室から出てきた夕弦と清美が見つけ顔を見合わせてそっと後をつけたのである。
直彦に関しては様々な噂があった。
A組の中でも身寄りのない直彦がいることを快く思っていないクラスメイトもおり、もしそれで呼び出されいたらと心配してのことであった。
が、二人が見たのは佐原流奈が真剣に話しかけている様子であった。
夕弦は直ぐに
「これは不味いところに朧を連れて来たな」
と思い
「どう見ても決闘じゃないから大丈夫だろ」
脚本に文句でも言ってるんじゃないのか?
「彼女は冷静な子だから問題はないと思うけど」
とはぐらかすように笑みを浮かべて告げた。
どう見ても告ってるな、と夕弦は心で突っ込んだ。
清美は困ったように戸惑いながらも
「そ、だよね」
でも直くんの脚本悪くなかったよ
と言い
「その隆さんも待ってるし…戻りましょう」
と踵を返して歩き出した。
もしかして佐原さん直くんのことを好きになったのかな、と清美も思った。
直彦が等々力小学校に編入してきた時に彼を好きになった女の子は多かった。
清美もその一人だった。
明るくて真っ直ぐで…笑顔で受け答えをしてくれるのが嬉しかった。
そして、あの日。
母を亡くして寂しくて寒くて辛かった時にそっと温かく抱きしめてくれたのだ。
清美は胸を押さえると
「直くん」
と小さく呟いた。
自分は直彦が好きだ。
ずっとずっと抱き締めて温かく包み込んでくれた彼が好きなのだ。
しかも自分の為に約束を果たしてここへ来てくれた。
だけど。
そっと俯いて視線を伏せる清美にあわせて夕弦も足を止めると細くか弱い肩へと手を伸ばしそうになった。
元ではないが自分も初めて会った時に恋をしたのだ。
彼女の姿に一瞬で目を奪われた。
こんなに綺麗で愛らしい少女を見たことが無かった。
しかも明るくてほんわりと包み込むような温かな空気が溢れて一緒にいるのが心地よかった。
だが彼女の中には彼女を温かく包み込む誰かの影があった。
彼女は何時も『直くん』という名前を出して彼がやってくるのを待っていたのだ。
会って恋をして…そして、直ぐに失恋した。
夕弦は心で
「人のことは言えないな」
とぼやきつつ
「大丈夫、夏月は朧に夢中だから」
とちゃきっと業と眼鏡をあげてにっこり笑って告げた。
清美は頬を真っ赤に染めて夕弦を見ると
「…あ、ごめんね」
私変な顔してたよね
と恥ずかし気に笑みを浮かべた。
夕弦は微笑んで
「良いんじゃないか?」
朧は夏月のことずっと好きだったじゃん
「待ってたんだからな」
まあ、俺の人間考察の解析データから言えば
「夏月も朧のこと特別だと思ってるからな」
大丈夫
と告げた。
清美は微笑むと
「東雲君…ありがとう」
東雲君って本当に優しいよね
「こうやって元気づけてくれるの感謝してるわ」
ありがとう
と告げた。
夕弦は業とらしくふぅと息を吐き出すと
「クラスメイトには得体の知れない奴だって言われているけどな」
と言い、ニッと笑って
「津村が待ちくたびれてるぜ」
行こう
と足を進めた。
清美は頷くと
「ん、ありがとうね、東雲君」
と歩き出した。
夕弦は「俺もとんだ道化師だよな」と思いながら、赤く染まる空を見上げた。
中学と言うと…少しずつ誰もが大人の階段を上り始める時期だったのである。
■■■
直彦の小説が賞をもらったのは中学2年の時であった。
桃源出版が出している文芸誌『文芸開拡』というどちらかと言うとライトノベルよりは文芸色の濃い雑誌であった。
佳作で名前とタイトルだけであったが直彦にとっては大きな一歩であった。
勿論、応募の手続きをしたのは津村隆であった。
その間に何編か書いた話は約束通りに装丁して養護施設の本の部屋に並んでいる。
春彦のための本なので小学校に上がった春彦には易しい推理モノや冒険ものが多かった。
だが、その合間に書きたいものということで恋愛モノを良く書いていた。
その一つを隆が添削して応募したのだ。
直彦は佳作の賞金の5万円をもらい園長の嶋野京子に勧められて始めて通帳を作ったのである。
「半分は俺の通帳で半分は春彦の通帳」
嬉しくて。
嬉しくて。
それを机に入れると隆から貰ったパソコンに向かって指を動かした。
清美との未来の夢を。
彼女とのこれからを。
希望と祈りと願いを直彦は綴ったのである。
隆の眼鏡に適った話は応募をして幾つかの雑誌社で賞を取り、高校2年の終わりころには桃源出版からはぽつりぽつりと原稿の依頼が来るようになっていた。
同じ頃、直彦は高校での特別授業…いわゆる部活で弓道を選び特別授業のある日は体育館に併設されている弓道場へと出向くようになっていた。
もちろん、小学校に上がった春彦のお迎えがあるので弓道をするのはその時だけで道具は全て学校にあるものを借りている状態であった。
そんな高校3年に上がった春の雨の日に直彦と清美は初めて身体を重ねた。
部活を終えて突然降り出した雨に濡れて二人とも草の香と水の香りが広がっている体育館の倉庫の中で唇を重ねマットの上に身体を預けた。
冷え切りそうな身体を互いの熱で温めたのだ。
清美は冷え切りそうな身体に流れ込んでくる直彦の強い熱に浮かされながら
「直くん、好き」
と小さく呟いた。
直彦はその甘い囁きに何時も心の中で滾っていた熱く激しい愛と言う塊が更に燃えさかるのを感じながら
「俺も清美が好きだ」
愛してる
「清美だけだ」
と囁き返した。
そう彼だけ。
そう彼女だけ。
ずっと。
ずっと。
愛する人はこの人だけなのだ。
しかし、それから3か月ほどして清美が子供を宿していることを知ったその日…家に帰ると父親の清道から白露家へ卒業後に嫁ぐように言われたのである。
「白露家の長男の元君だ」
清美も良く知っているだろ?
「家柄も性格も申し分ない」
清美は小さく震えながら
「わ、私…直くんが…好きだから」
直くんと結婚したいの
と告げた。
清道はそれに
「あんな家柄も将来もない人間に大切なお前をやるわけにはいかない」
お前には幸せになってもらいたい
「それが美美を一人で苦労させてきた償いだ」
いいな、お前の幸せのためだ
「白露家へ嫁いで幸せになるんだ」
と命令したのである。
それは夏休み目前の7月下旬のことであった。
■■■
書き出しは『春彦へ』であった。
春彦が既に寝入ってしまった夜中に直彦はペンを走らせた。
「ごめん、春彦…ごめんな」
絶対に迎えに来るから
且つて母親に捨てられるのではないかと不安に思っていた。
だが、母親は自分を捨てたことはない。
なのに。
なのに。
自分は春彦を例え一時と言えど置いていくのだ。
直彦は手紙を書き終えるとそれを手に園長の元へと向かったのである。
数日前に朧清美に言われたのだ。
「私…白露君と結婚しなければならないの」
でも
「私は直くんと一緒になりたいの」
…ここに直くんとの子供がいるの…
そう言って彼女はお腹を擦った。
彼女の中に自分との愛の結晶が生まれたのだ。
「俺、頑張って小説を書く」
一緒に暮らそう
「清美と子供と…春彦と4人で」
質素でも良いんだ
「4人の家で暮らそう」
だけど春彦を連れて行くには余りに自分たちの未来は不安定だった。
小説の依頼があるといっても毎月ではない。
いやそれどころか途絶える可能性すらある。
だから。
「1年だけ…それで生活が安定したら迎えに来るから」
直彦は園長に手紙とこれまで貯めたお金を入れた春彦の通帳を渡して頼んだ。
「明日、清美とここを離れます」
嶋野京子は頷き
「わかったわ、娘に明日は春彦君を迎えに行かせるわ」
ただ一つだけ約束して頂戴
「手紙を必ず送ってね」
私には何処にいるか分かるようにして頂戴
と告げた。
直彦は頷いた。
「はい、先生。ありがとうございます」
翌日、直彦は荷物を持って待ち合わせの北千住駅へと向かった。
人も多く行き交っている。
そこから成田へと向かう予定であった。
清美は高校のホームルームが終わって直ぐに文京駅に出て駆けつけてくる。
待ち合わせ時間は12時5分。
隆が力を貸してくれる。
必ず上手く行く。
直彦は緊張しながら一足先に北千住駅で待っていた。
12時10分の特急に乗って成田空港へ出てそこから新しい土地へと向かうのだ。
清美は隆と共に東都大学付属高校へ一旦は行ったものの周囲を注意しながらホームルームの手前で抜け出すとタクシーを掴まえて文京駅ではなく一つ向こうの芸大前へと向かった。
父親が清美の行動を警戒して人を文京駅に送っているかもしれないと思ったからである。
見つかって捕まってしまったら…きっと清美と直彦の中は引き裂かれてしまう。
隆は妹と親友に幸せになって欲しかったのである。
芸大前には誰もおらず隆は持っていたお金を清美に握らせると
「春彦君のことは俺も様子を見ておくからと直彦に言っておいてくれ」
幸せになるんだぞ
と笑みを見せた。
清美は笑顔で頷くと
「ありがとう、隆さん」
落ち着いたら連絡する
「お兄さん」
と手を振ると列車に乗り込んだ。
四辻橋駅で乗り換えて北千住で合流して成田へ行けば新天地へたどり着ける。
清美は高鳴る胸を押さえて時計を見た。
まだ、11時30分。
「大丈夫、間に合う」
彼女は自然に笑みを浮かべ
「直くん、それから太陽君…生活が落ち着いたら春彦君も迎えに行ってみんなで幸せになろうね」
とお腹を優しく擦った。
四辻橋駅で降りてJRのホームへと足を急がせた。
もうすぐ。
もう少しで。
清美はホームに上がって目を見開いた。
「…東雲君」
そこに東雲夕弦が立っていたのである。
「朧、やっぱりここで乗り換えると思ってた」
もう一度考え直してほしくて
そう、若気の至りで高校卒業もしていない二人が生活などできるわけがない。
直彦に小説の依頼があるといっても不安定なモノだ。
将来がどうなるか分からないのだ。
「ちゃんと話し合って説得した方が良い」
清美は入ってくる列車を見ながら
「ごめ、ごめんなさい」
でも
でも
「私…太陽君を守りたいの」
とお腹をそっと擦って告げた。
「ここに、直くんとの子供がいるの」
夕弦は目を見開くと
「こ、ども」
と呟いた。
清美は頷くと
「きっと分かったら…おろさせられる」
私産みたいの
「直くんとの子供を」
と泣きながら告げた。
夕弦は静かに笑むと
「そうだったんだ」
と言うと
「わかった」
と足を踏み出しかけてホームを駆けあがってきた男たちを見て
「朧乗れ!」
と慌てて開いた扉へと彼女を押し入れようとした。
清美は泣きながら
「ごめんね、東雲君」
ありがとう
と列車に乗り込み中へと入りかけたその手を男の一人が掴んだのである。
夕弦は自分を押さえようとした男を払いながら
「やめろ!!」
行かせろ!!
「行かせるんだ!!」
と清美を掴まえた男の手を掴んだが反対に蹴られて蹲ったのである。
清美は腕を払いながら
「東雲君!」
と手を伸ばしかけたが男たちに引き摺られるように連れ去られたのである。
夕弦はホームに蹲りながら駆け寄ってくる駅員たちに支えられながら階段へと消えていく清美を見つめていたのである。
まさか。
まさか。
「ここで乗り換えるなんて…普通は気付かないよな」
…俺が見張られていたのか?…
「俺が…」
待ち合わせの北千住の駅で直彦は時計を見て小さく息を吐き出した。
待ち合わせは12時5分。
そして、時計は12時3分を知らせていた。
新しい生活。
きっと。
きっと。
幸せにする。
「清美…待ってるから」
きっと来てくれると信じてるから
そう呟いた時、携帯が震えた。
直彦は驚いて携帯を手にすると息を飲み込んだ。
「宮子さん…だ」
なんで?
直彦は息を吐き出すと時計を見ながら応答に出た。
携帯から泣き声の嶋野宮子の声が響いた。
「直彦君?今学校?」
春彦君がね
「トラックに撥ねられて…意識が無くて…直ぐに駒沢中央病院に来て頂戴」
時計の針がゆっくりと12時5分を指し、直彦は小さく震えながら声を出せずに立ち尽くした。
清美。
清美。
早く、来てくれ。
わかりました、も。
行きます、も。
言葉が出なかった。
どうして。
何故。
こんな時に。
直彦は携帯を切ると祈る思いで立ち尽くしていた。
「あと、5分…ごめん、春彦」
清美が来たら
彼女が来たら…自分はどうするのだろう。
激しき揺れ動く心の中で直彦はホームを見つめ続けた。
そして、乗る約束をしていた列車がホームへと滑り込んできたのである。
彼女の姿が無いまま。
直彦は呆然と立ち尽くしその列車が発車するアナウンスを耳にそっと鞄を手に列車が去っていくのを見つめた。
2人の家。
子供と…春彦と。
「4人で暮らそう」
そう言って夢見た家。
だけど…きっとその家に春彦はいない。
ここで彼女と向かってしまったら春彦はいないのだ。
「俺は…絶望しているのか?」
それとも安堵しているのか?
直彦はハハッと笑い声を零すとゆらりと足を踏み出しホームを立ち去った。
失愛と絶望と…そして僅かな安堵を抱いて賑やかに夏休みの計画を立てながら行き交う人々の間を縫うように駒沢中央病院へと向かう列車に乗る為に足を進めたのである。
病院に着くと園長が来ていて直彦を見ると蒼褪めて、泣きながら抱きしめた。
直彦は赤いランプを見つめ
「春彦…ごめんな」
ずっといるから
「お前の側にずっといるから許してくれ」
と手術室の廊下に蹲るように座った。
直彦が迎えに来なかったので一人で帰ろうとしてトラックに撥ねられたのだ。
手術が終わり幾つもの管に繋がれて、それでも懸命に伸ばされた手を直彦は握りしめた。
「春彦、ずっといるからな」
だから
「身体を治して元気になれ」
ずっと。
ずっと。
何時かお前が俺をもういらないと思う時まで。
翌日、津村隆が病院に姿を見せた。
「…直彦…清美は…四辻橋の乗り換えで親父に捕まって…来月に白露と結婚する」
2人とももう高校には出てこない
「東雲も…高校に出席しないと言っている」
白露に清美のお腹の子供のこと…頼んでおいたが
「俺が出来るのはそこまでだった」
直彦は静かに首を振り
「ありがとう、隆」
と答え、春彦の病室に戻ると眠る春彦の隣でパソコンに小説を打ち始めた。
「あのさ、俺…施設を出て春彦と二人暮らしをしようと思っているんだ」
あと半年ほどで高校も卒業するし
「区切りになるからな」
隆は直彦を背後から抱き締めると
「直彦」
父を許してくれ
「清美を…許してくれ」
と震える声で告げた。
直彦は笑むと
「誰のせいでもない」
俺に罰が当たったんだ
「母は俺を捨てなかったのに…俺は…春彦を捨てようとしてしまった」
だから俺は春彦を元の元気な体に戻して
「いつか春彦が俺をいらないと思う時までずっと育てていく」
そう決めたんだ
と告げた。
隆は春彦を見るとそっと頭を撫でて
「春彦君も…ごめんな」
元気になってくれ
と囁いた。
白い包帯が痛々しかった。
いつも元気で遊んでいた春彦が点滴を受けバイタルに繋がれて眠っているのだ。
その後、病室で書いた直彦の小説は桃源出版から発行されるとベストセラーとなった。
代表作『一輪挿しの恋人』である。
俺にとってその一輪は唯一人愛する君。
君とってその一輪は多くの花の中で置き忘れてしまった他愛もない存在。
何時か散って消えてしまうまで此処に置いておこう。
俺の中の君と言う大輪が消えさるまで。
直彦は打ち終わると
「清美…もう会うことはない」
だけど幸せを祈ってるから
と小さく呟いた。
施設を出て新しい家を探していた直彦に隆は高砂駅から徒歩5分の場所にあるマンションの部屋を強く勧めた。
津村家が所有する高級マンションで隆がオーナーだったからである。
始めは断ったが決して食い下がらない隆に直彦は笑みを浮かべると
「悪いな…けど、生活できるくらい稼げるようになったら買い取るからな」
と告げて住むことにしたのである。
それに合わせて春彦も近くの病院へと転院した。
何度かの手術を得て、退院するとそこで暮らすようになったのである。
直彦は高校を卒業すると本格的に小説家の道を歩き始め、多くのヒット作を飛ばし、テレビに出るとその端麗な容姿から更に人気に拍車がかかった。
ただ津村隆と末枯野剛士以外の白露元と東雲夕弦と会うことはなかった。
夏休みの後に高校へ出席した直彦の耳に触れたのは東雲夕弦が朧清美と四辻橋から駆け落ちしようとしたという心のない噂であった。
朧清美は白露元と結婚して一年足らずで女の子供を産み、太陽と名付けた。
だが、2年ほどで結婚生活は破局し身体を壊したまま離婚して闘病生活へと突入するがその時にはもう手遅れの状態であった。
直彦がその事を知るのは彼女の命の火が消える寸前のことであった。
毒物による中毒死であったが…それが公になることはなかったのである。
■■■
朧清美がこの世を去ってから1年。
ずっと。
ずっと。
愛していた。
いや、今も愛している。
あの日、彼女は来なかったが…彼女を思う胸の熱い想いはずっと燃え続けたまま消えることはなかったのだ。
直彦は秋の始めの9月下旬に清美の墓の前に立ち
「清美、ずっと愛している」
これまでも
今も
これからも
「俺の愛する人は君だけだ」
そう告げて、少し離れた場所で津村隆が手を繋いで立っている少女に目を向けた。
「太陽、おいで」
少女は隆の手を離してヨタヨタと直彦に近寄ると手を伸ばした。
彼女が残した愛の証。
直彦は子供を抱き上げると強く抱きしめた。
「清美、ありがとう」
この美しい世界を
「そして、太陽を俺に与えてくれて」
空は晴れ渡り穏やかな光が静かに降り注いでいた。
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