第一部 ーきっかけー
■その1■
闇だった。
なにも見えない、塗り込められたような黒。目を閉じるよりも深い闇。
男はその闇の中、重い足を引きずりながら走っていた。
その後ろからヒタヒタという音が追いかけてくる。一定の距離を保ったまま。
もうどのくらい走っただろう。男の身体は疲労の極致に達していた。
いやだ、助けてくれ。
男は叫ぼうとしたが、声にはならなかった。その叫びは心の中で空しく響いただけだ。
だめだ、息が苦しい。
しかし立ち止まることは許されない。
どこに向かっているのか、それもわからない。
が、とにかく逃げなければヤバイことだけは本能的にわかっていた。
「あっ」
足元のなにかにつまずいて、男は前のめりに倒れ、膝をしたたかに打った。
痛みのあまり立ち上がることができない。ひたひたという音はすぐ近くまで迫っていた。
まずい…まずい…逃げなければ…。
男は動かない脚をあきらめ両腕で這い進んだ。
しかしそれでどれだけのスピードが出るというのか。
音はすぐ追いついてくるだろう。
絶望。
しかしその瞬間、あの音が男の耳から消えた。
闇のなか、聞こえるのは自分の荒い息音だけ。
静寂。
男は心の底で安堵の吐息を漏らした。その直後。
どさっ!
背中になにかが飛び乗った。
「ひっ!」
あまりの恐怖に声も出ない。
男には、無言のままジタバタと手足を振るのが、精一杯の抵抗だった。
「はぁぁぁぁ~」
生臭い息を耳元に感じ、男はビクリとして振り返った。
そこには、耳まで裂けた真っ赤な口を開き、嫌らしい笑顔を作った課長がいた。
課長は念仏でも唱えるように同じ言葉を繰り返す。
「きぃのしたぁ~ノォ~ルゥ~マァ~はぁ~?」
「うぁああぁっ!」
木下は跳ね起きた。
布団はベッドからずり落ち、シーツは乱れ、ひどいありさまだ。
なんて夢をみちまったんだ。よりによって、課長だと。
時計を見ると6時20分を指している。また目覚ましの鳴る前に起きちまった。
眠りから覚めたばかりだというのに、木下はひどく疲れていた。
会社に行く時間…か。
「行きたくねえなぁ」
声に出して言ってみる。それが唯一にして精一杯の抵抗だった。
木下はシャワーを浴びると、出社の準備にとりかかった。
■その2■
「ざぃやーす」
木下がオフィスに入ると、もう何人かの同僚が仕事を始めていた。
取引先との電話なのだろう、受話器を握ったままぺこぺこと頭を下げている。
よくやるよ。
木下には同僚たちが到底理解できなかった。
なぜああまで客にヘーコラできるのか。
木下の務める会社「室谷コーポレーション」は、不動産の仲介をしている中堅企業だ。
顧客が大切なのはわかるが、何もそこまで…とも思う。
なにしろ社長は訓示で「お客様の下僕になれ」とのたまうのだ。「頭を下げるのに何ら金はかからない」とも。
その行き過ぎた顧客第一主義に、木下は辟易していた。
そしてノルマ至上主義。
そもそも、過剰な顧客第一主義を生み出している元凶がこれだ。
室谷コーポレーションでは社員に過酷なノルマを課し、達成できないものにはネチネチとしたイジメが待っている。木下は三年この会社で働いているが、この会社の体質にはほとほと倦んでいた。
「おあーすっ!」
隣席の同僚が、一際大きな声であいさつをした。
顔を上げると案の定、石田課長のご出社だ。
木下はこの石田という男がどうにも嫌いだった。
石田は木下の所属する営業三課の課長である。
爬虫類のような嫌らしい目、はげかかった頭頂部を隠すようにオールバックにした、テカテカの髪、ギトギトと脂ぎった顔、尊大な態度。全てが木下に嫌悪感を与える要素だった。
そして嫌悪の最大の理由は…。
「おぉい、木下。ちょっと来い」
ほら来やがった。木下は内心舌打ちした。
木下が石田のデスクの前に行くと、石田は今にも舌なめずりしそうな顔で木下を見た。
木下は今朝の夢を思い出して、気分が悪くなった。
「木下よぉ、オマエやる気あるわけぇ?」
石田はデスクの上に両肘をつき、その丸い顔を上に乗せて木下を見る。
その顔は喜びに満ちていた。
「なんでヨミがこんだけなんだよぉ」
昨日提出した売り上げの予測について言っているらしい。
「お前ぐらいだぞぉ、こんな数字出してきたの」
それは明らかに嘘だった。
今は普通、ニーズの少ない時期でなのである。同僚たちだってたいした数字は上げていない。
要するに木下はスケープゴート、見せしめなのだ。
自分よりもかわいそうな奴がいる、ということで社員の不満をそらす。
そんな意図がまるわかりなのである。その証拠に周りの同僚たちはみんな、聞こえないフリである。いやニヤニヤ笑いを浮かべている奴までいる。
「…だぞぉ。ちったぁマジメにやれ」
石田の説教はひとまず終わった。
しかし一日に三度はこうしてネチネチといびられるのである。
なんてイヤなところなんだここは…。木下は胃のあたりにキリキリと痛みを感じた。
こんな日は外に出ているに限る。
「外回り行ってきやーす」
木下は営業カバンをつかむと、誰とも目をあわせずに会社を出た。
■その3■
ドアを開けると、カランカランと来客を知らせる鐘が鳴る。
その音を聞いてやっと、木下は心の緊張を解くことができた。
木下の行きつけの喫茶店「チロル」。
ここは木下が外回りをサボるとき、いつも利用する店だった。
チロルは会社からも離れているし、地下にあるため入ってしまえば見つかる心配はほとんどない。携帯の通知を切ってしまえば、ひととき完全に会社から離れられるのだ。
四人がけのテーブルが二つとカウンターだけの狭い店内。
照明も、まるで木下をかくまってくれるように仄暗い。
それだけでも、木下は落ち着くことができた。
「あ、いらっしゃい」
カウンター席に座った木下を、ママが迎える。
「またお仕事サボってんのねー」
おしぼりと水の入ったグラスを置きながら、ママが言う。
その言葉には、いたわるような優しさがあった。
「ホット」
二時半という半端な時間のせいか、店内には木下以外、客はいなかった。
「仕事、たいへん?」
ママはカウンターにコーヒーを置きながら言った。
「仕事っていうより課長がね…」
木下は待ってましたとばかりに話し出す。
実はこのママの存在が、木下がチロルに通う理由だった。
チロルのママは不思議な魅力を持っていた。
普段はさほど口数の多くない木下でも、このママと話すときは妙に饒舌になってしまう。
単なる聞き上手では片付けられないほど、木下は心をさらけ出し、癒されている自分を感じるのである。
年は三十代前半だろうか。化粧っ気はないが、整った顔だち。ほのかな色気の漂ういい女、である。
木下はママのことを何も知らなかった。名前さえも。
しかしそれが逆に、彼女に自分をさらけ出せる要因かもしれなかった。
だからあえて、木下はママの素性を探るような話はしなかった。
ただ自分のことを聞いてもらうだけで満足していた。
「その課長、イヤな奴なんだよ。今朝なんて夢に出てきてさぁ」
今朝見たイヤな夢も、ママに話すと笑い話になる。
木下は心のもやもやが晴れていくのを感じていた。
「そんなにイヤなら辞めちゃえばいいじゃない」
ママはこともなげに言う。
こういう言葉に木下は癒されるのである。
「いや、無理だよ。うちの会社、なんだかんだ言って辞めさせてくんないんだ。
次が入ってこないし、部下が辞めると課長の査定が下がるんだってよ」
「ふーん」
「ホントに、アタマ狂いそうだよ、会社にいると」
優しい言葉が欲しくて、つい大げさになる。
「いっそ、本当にアタマ狂っちゃえばいいのにね」
「え?」
カランカラン、カラン。
そのとき、来客を告げる例の鐘が鳴って、ママとの会話は中断された。
「いらっしゃいませぇ」
ママが新たな客におしぼりと水を出しにいく。
その様子をボーッと目で追いながら、木下の頭の中には、さっきのママの言葉がぐるぐると回っていた。
本当にアタマ狂っちゃえばいいのにね…本当にアタマ狂っちゃえばいいのにね…本当に…。
「そうか、そりゃ面白いかもな…」
木下は、口の端に笑いを浮かべてそうつぶやくと、伝票をつかんで立ち上がった。
■その4■
室谷コーポレーションの事務員、田中洋子の午後は優雅だった。
午前中は確かに目の回るような忙しさだが、伝票や発注のメール、FAXを処理してしまえば、営業マンが出て行った後のオフィスは洋子にとって天国となる。
同じく事務の女の子二人と、お茶を飲みながらおしゃべりに興じ、仕事といえば時折かかってくる電話の応対ぐらいであった。
しかし、この日は少し違った。
午後三時半。
営業マンはみんな外回りに出ており、がらんとした事務所内には気がねする相手もいない。 洋子たち事務員三人は、洋子のデスクにスナック菓子を持ちより、いつものように無駄話に花を咲かせていた。
「でもさぁ、最近すごいよね、石田課長」
最年長の倉野ゆかりが言う。
彼女はもう入社10年になるベテランで、入れ替わりの激しい室谷コーポレーションでは、かなりの古株だ。
「ねー。木下さんちょっとかわいそうですよねー」
と、野田恵里があいづちを打つ。
この恵里と洋子はほぼ同時期の入社で、年も同じ23歳ということもあり、休みの日も一緒に出かけるほど仲がいい。
「まあでもあの人、ホントにやる気なさそうだしね」
洋子が続ける。
洋子は木下のことがあまり好きではなかった。一生懸命さが感じられない、というのがその理由だ。とは言え、石田課長のやり方にも、洋子は賛成しているわけではないのだが。
「格好の標的ですよねー、あの人」
ポテトチップスを口に運びながら恵里が言う。
「でもあの人だけじゃないのよねぇ。今まで何人も…」
そう、ゆかりが言いかけたときだ。
バンッ!
と大きな音を立てて、ドアが開いた。
三人がはっとして振り向くと、今さっき話題にしていた木下がそこにいた。
営業が帰ってくるのは、通常夕方五時ごろのはずである。何かトラブルでもあったのだろうか?
洋子は一瞬そう思ったが、すぐにそれを否定した。木下の表情が、ニヤニヤと笑っているように見えたのだ。
木下が帰ってきたことで、洋子たちの楽しみは中断された。ゆかりと恵里はそれぞれの席に戻って仕事を始める。なんとなく木下を気にしながら。
洋子は、三人がコーヒーを飲んでいたマグカップを洗うため、給湯室へ向かった。
給湯室は、オフィスを出て廊下の突き当りを右に折れたところにある。
洋子がちょうど、2つ目のカップを洗おうとしたときだ。
「キェエエエエエエエエエエ!」
耳をつんざくような、甲高い、南国の巨大な鳥を思わせる叫び声が、洋子の耳に飛びこんできた。
オフィスの方からだわ…。
洗いかけのカップもそのままに、洋子は速足で廊下を戻る。
開けっ放しのオフィスの入り口付近にいた倉田さゆりが、口を両手で抑え「また…また…」とつぶやいていた。
恵里は、自分の席に座ったまま、凍り付いたように一点を見つめている。
その恵里の見つめる先に、床にぶちまけた書類の上に這いつくばり、奇声をあげ、よだれを垂らしながらのたうちまわる木下の姿があった。
洋子に気付いた木下は、四つん這いの態勢で動きを止めると、顔だけを洋子のほうへ向けた。
そして口の端を大きく歪めてニヤリと笑った。その表情は、悪意に満ちていた。
「ギャーーーーー!」
洋子は悲鳴をあげ、気を失った…。
■その5■
「くっくっくく…」
木下は思わず声を出して笑うと、ビールの缶を傾け、ぬるくなった液体をぐいっと喉の奥に流し込んだ。
あいつらの顔、サイコーだったなぁ。
木下は今日の午後の出来事を思い出しながら、自分の部屋でささやかな祝杯をあげていた。
あれから、田中洋子は応接室に運ばれ、ソファに寝かされた。
木下は彼女が倒れた直後、まるで何事もなかったかのように床に散らばった書類を片付け、仕事に戻った。二人の事務員が大騒ぎしているのを横目に見ながら。
それでも二人の事務員は、木下に何も言わなかった。痛いほどの視線は感じたが、話しかけてくることはなかった。結局、田中洋子は貧血による早退、ということになっていた。
あの三人の驚愕の表情。その後の、自分を見る目、態度…。
それを思い出すたび、木下の背中に快感が走り抜け、言い知れぬ高揚感を覚えさせる。
おかげで先ほどから木下の股間は、膨らんだまま元に戻ろうとしなかった。
残り少なくなったビールを一気に空けると、
「さてと。研究、研究」
木下はわざと声に出してつぶやくと、こたつに入ったまま、茶色い紙袋を手元に引き寄せた。
「西脇書店」と店名の入った紙袋の中身は、大量の本だった。狂人を扱った小説や、精神薄弱、多重人格などの精神病に関する本だ。今日、会社からの帰りに木下が買い込んだものだ。
どれが使えそうかなぁ…。
木下はひとまず「心の病とその行動」という本を手にとりぱらぱらとめくり始める。
不安……何かに怯えるような……幻覚……幻聴……記憶障害……小さな虫……異常な執着…。
木下は気になる箇所を見つけると、次々にページの端を折って目印をつけていく。
…恐怖……電波が……歪んだ性欲……自傷行動……動物的……解離……てんかんのような発作……心神喪失……心神喪失?その文字を見たとき、木下はふいに田中洋子のことを思い出した。
あの女…。
また、例の快感が木下の脊椎を走る。
木下はあの田中洋子という事務員が好きではなかった。
おそらくは、木下がいつも石田にいびられているせいだろう。日頃から、木下をバカにしている節があったのだ。
その生意気な女が、自分を見て、気を失って倒れる。そのシーンを、木下は反芻した。
悲鳴をあげ、ゆっくりと仰向けに倒れていく田中洋子の細長い身体。どうっ、と床に背中を打ちつけるとともに、跳ね上がる白く長い二本の足。裾のめくれ上がるスカート。四つん這いの木下の目に飛び込んだ、スカートの奥の、ストッキングに包まれた白い下着…。
木下は興奮していた。本を放り出し、右手が股間に伸びる。
「はぁー、はぁ、はぁ」
荒い息を吐き出しながら、木下はその行為に没頭した。
木下は想像の中で、田中洋子を何度も何度も凌辱していた。
~第二部へ続く~