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『営業四課』  作者: 塙田 伊都也
1/3

第一部 ーきっかけー

挿絵(By みてみん)


■その1■


闇だった。

なにも見えない、塗り込められたような黒。目を閉じるよりも深い闇。

男はその闇の中、重い足を引きずりながら走っていた。

その後ろからヒタヒタという音が追いかけてくる。一定の距離を保ったまま。

もうどのくらい走っただろう。男の身体は疲労の極致に達していた。


いやだ、助けてくれ。


男は叫ぼうとしたが、声にはならなかった。その叫びは心の中で空しく響いただけだ。


だめだ、息が苦しい。


しかし立ち止まることは許されない。

どこに向かっているのか、それもわからない。

が、とにかく逃げなければヤバイことだけは本能的にわかっていた。


「あっ」


足元のなにかにつまずいて、男は前のめりに倒れ、膝をしたたかに打った。

痛みのあまり立ち上がることができない。ひたひたという音はすぐ近くまで迫っていた。

まずい…まずい…逃げなければ…。

男は動かない脚をあきらめ両腕で這い進んだ。

しかしそれでどれだけのスピードが出るというのか。

音はすぐ追いついてくるだろう。


絶望。


しかしその瞬間、あの音が男の耳から消えた。

闇のなか、聞こえるのは自分の荒い息音だけ。


静寂。


男は心の底で安堵の吐息を漏らした。その直後。


どさっ!


背中になにかが飛び乗った。


「ひっ!」


あまりの恐怖に声も出ない。

男には、無言のままジタバタと手足を振るのが、精一杯の抵抗だった。


「はぁぁぁぁ~」


生臭い息を耳元に感じ、男はビクリとして振り返った。

そこには、耳まで裂けた真っ赤な口を開き、嫌らしい笑顔を作った課長がいた。

課長は念仏でも唱えるように同じ言葉を繰り返す。


「きぃのしたぁ~ノォ~ルゥ~マァ~はぁ~?」


「うぁああぁっ!」


木下は跳ね起きた。

布団はベッドからずり落ち、シーツは乱れ、ひどいありさまだ。

なんて夢をみちまったんだ。よりによって、課長だと。

時計を見ると6時20分を指している。また目覚ましの鳴る前に起きちまった。

眠りから覚めたばかりだというのに、木下はひどく疲れていた。

会社に行く時間…か。


「行きたくねえなぁ」


声に出して言ってみる。それが唯一にして精一杯の抵抗だった。

木下はシャワーを浴びると、出社の準備にとりかかった。



■その2■


「ざぃやーす」


木下がオフィスに入ると、もう何人かの同僚が仕事を始めていた。

取引先との電話なのだろう、受話器を握ったままぺこぺこと頭を下げている。

よくやるよ。

木下には同僚たちが到底理解できなかった。

なぜああまで客にヘーコラできるのか。


木下の務める会社「室谷コーポレーション」は、不動産の仲介をしている中堅企業だ。

顧客が大切なのはわかるが、何もそこまで…とも思う。

なにしろ社長は訓示で「お客様の下僕になれ」とのたまうのだ。「頭を下げるのに何ら金はかからない」とも。

その行き過ぎた顧客第一主義に、木下は辟易していた。


そしてノルマ至上主義。

そもそも、過剰な顧客第一主義を生み出している元凶がこれだ。

室谷コーポレーションでは社員に過酷なノルマを課し、達成できないものにはネチネチとしたイジメが待っている。木下は三年この会社で働いているが、この会社の体質にはほとほと倦んでいた。


「おあーすっ!」


隣席の同僚が、一際大きな声であいさつをした。

顔を上げると案の定、石田課長のご出社だ。


木下はこの石田という男がどうにも嫌いだった。


石田は木下の所属する営業三課の課長である。

爬虫類のような嫌らしい目、はげかかった頭頂部を隠すようにオールバックにした、テカテカの髪、ギトギトと脂ぎった顔、尊大な態度。全てが木下に嫌悪感を与える要素だった。

そして嫌悪の最大の理由は…。


「おぉい、木下。ちょっと来い」


ほら来やがった。木下は内心舌打ちした。

木下が石田のデスクの前に行くと、石田は今にも舌なめずりしそうな顔で木下を見た。

木下は今朝の夢を思い出して、気分が悪くなった。


「木下よぉ、オマエやる気あるわけぇ?」


石田はデスクの上に両肘をつき、その丸い顔を上に乗せて木下を見る。

その顔は喜びに満ちていた。


「なんでヨミがこんだけなんだよぉ」


昨日提出した売り上げの予測について言っているらしい。


「お前ぐらいだぞぉ、こんな数字出してきたの」


それは明らかに嘘だった。

今は普通、ニーズの少ない時期でなのである。同僚たちだってたいした数字は上げていない。

要するに木下はスケープゴート、見せしめなのだ。


自分よりもかわいそうな奴がいる、ということで社員の不満をそらす。

そんな意図がまるわかりなのである。その証拠に周りの同僚たちはみんな、聞こえないフリである。いやニヤニヤ笑いを浮かべている奴までいる。


「…だぞぉ。ちったぁマジメにやれ」


石田の説教はひとまず終わった。

しかし一日に三度はこうしてネチネチといびられるのである。

なんてイヤなところなんだここは…。木下は胃のあたりにキリキリと痛みを感じた。

こんな日は外に出ているに限る。


「外回り行ってきやーす」


木下は営業カバンをつかむと、誰とも目をあわせずに会社を出た。



■その3■


ドアを開けると、カランカランと来客を知らせる鐘が鳴る。

その音を聞いてやっと、木下は心の緊張を解くことができた。


木下の行きつけの喫茶店「チロル」。


ここは木下が外回りをサボるとき、いつも利用する店だった。

チロルは会社からも離れているし、地下にあるため入ってしまえば見つかる心配はほとんどない。携帯の通知を切ってしまえば、ひととき完全に会社から離れられるのだ。


四人がけのテーブルが二つとカウンターだけの狭い店内。

照明も、まるで木下をかくまってくれるように仄暗い。


それだけでも、木下は落ち着くことができた。


「あ、いらっしゃい」


カウンター席に座った木下を、ママが迎える。


「またお仕事サボってんのねー」


おしぼりと水の入ったグラスを置きながら、ママが言う。

その言葉には、いたわるような優しさがあった。


「ホット」


二時半という半端な時間のせいか、店内には木下以外、客はいなかった。


「仕事、たいへん?」


ママはカウンターにコーヒーを置きながら言った。


「仕事っていうより課長がね…」


木下は待ってましたとばかりに話し出す。


実はこのママの存在が、木下がチロルに通う理由だった。

チロルのママは不思議な魅力を持っていた。

普段はさほど口数の多くない木下でも、このママと話すときは妙に饒舌になってしまう。

単なる聞き上手では片付けられないほど、木下は心をさらけ出し、癒されている自分を感じるのである。

年は三十代前半だろうか。化粧っ気はないが、整った顔だち。ほのかな色気の漂ういい女、である。


木下はママのことを何も知らなかった。名前さえも。

しかしそれが逆に、彼女に自分をさらけ出せる要因かもしれなかった。

だからあえて、木下はママの素性を探るような話はしなかった。

ただ自分のことを聞いてもらうだけで満足していた。


「その課長、イヤな奴なんだよ。今朝なんて夢に出てきてさぁ」


今朝見たイヤな夢も、ママに話すと笑い話になる。

木下は心のもやもやが晴れていくのを感じていた。


「そんなにイヤなら辞めちゃえばいいじゃない」


ママはこともなげに言う。

こういう言葉に木下は癒されるのである。


「いや、無理だよ。うちの会社、なんだかんだ言って辞めさせてくんないんだ。

次が入ってこないし、部下が辞めると課長の査定が下がるんだってよ」


「ふーん」


「ホントに、アタマ狂いそうだよ、会社にいると」


優しい言葉が欲しくて、つい大げさになる。


「いっそ、本当にアタマ狂っちゃえばいいのにね」


「え?」


カランカラン、カラン。

そのとき、来客を告げる例の鐘が鳴って、ママとの会話は中断された。


「いらっしゃいませぇ」


ママが新たな客におしぼりと水を出しにいく。

その様子をボーッと目で追いながら、木下の頭の中には、さっきのママの言葉がぐるぐると回っていた。

本当にアタマ狂っちゃえばいいのにね…本当にアタマ狂っちゃえばいいのにね…本当に…。


「そうか、そりゃ面白いかもな…」


木下は、口の端に笑いを浮かべてそうつぶやくと、伝票をつかんで立ち上がった。



■その4■


室谷コーポレーションの事務員、田中洋子の午後は優雅だった。


午前中は確かに目の回るような忙しさだが、伝票や発注のメール、FAXを処理してしまえば、営業マンが出て行った後のオフィスは洋子にとって天国となる。

同じく事務の女の子二人と、お茶を飲みながらおしゃべりに興じ、仕事といえば時折かかってくる電話の応対ぐらいであった。


しかし、この日は少し違った。


午後三時半。

営業マンはみんな外回りに出ており、がらんとした事務所内には気がねする相手もいない。 洋子たち事務員三人は、洋子のデスクにスナック菓子を持ちより、いつものように無駄話に花を咲かせていた。


「でもさぁ、最近すごいよね、石田課長」


最年長の倉野ゆかりが言う。

彼女はもう入社10年になるベテランで、入れ替わりの激しい室谷コーポレーションでは、かなりの古株だ。


「ねー。木下さんちょっとかわいそうですよねー」


と、野田恵里があいづちを打つ。

この恵里と洋子はほぼ同時期の入社で、年も同じ23歳ということもあり、休みの日も一緒に出かけるほど仲がいい。


「まあでもあの人、ホントにやる気なさそうだしね」


洋子が続ける。

洋子は木下のことがあまり好きではなかった。一生懸命さが感じられない、というのがその理由だ。とは言え、石田課長のやり方にも、洋子は賛成しているわけではないのだが。


「格好の標的ですよねー、あの人」


ポテトチップスを口に運びながら恵里が言う。


「でもあの人だけじゃないのよねぇ。今まで何人も…」


そう、ゆかりが言いかけたときだ。


バンッ!


と大きな音を立てて、ドアが開いた。

三人がはっとして振り向くと、今さっき話題にしていた木下がそこにいた。

営業が帰ってくるのは、通常夕方五時ごろのはずである。何かトラブルでもあったのだろうか?

洋子は一瞬そう思ったが、すぐにそれを否定した。木下の表情が、ニヤニヤと笑っているように見えたのだ。

木下が帰ってきたことで、洋子たちの楽しみは中断された。ゆかりと恵里はそれぞれの席に戻って仕事を始める。なんとなく木下を気にしながら。

洋子は、三人がコーヒーを飲んでいたマグカップを洗うため、給湯室へ向かった。


給湯室は、オフィスを出て廊下の突き当りを右に折れたところにある。

洋子がちょうど、2つ目のカップを洗おうとしたときだ。


「キェエエエエエエエエエエ!」


耳をつんざくような、甲高い、南国の巨大な鳥を思わせる叫び声が、洋子の耳に飛びこんできた。


オフィスの方からだわ…。


洗いかけのカップもそのままに、洋子は速足で廊下を戻る。

開けっ放しのオフィスの入り口付近にいた倉田さゆりが、口を両手で抑え「また…また…」とつぶやいていた。

恵里は、自分の席に座ったまま、凍り付いたように一点を見つめている。

その恵里の見つめる先に、床にぶちまけた書類の上に這いつくばり、奇声をあげ、よだれを垂らしながらのたうちまわる木下の姿があった。


洋子に気付いた木下は、四つん這いの態勢で動きを止めると、顔だけを洋子のほうへ向けた。

そして口の端を大きく歪めてニヤリと笑った。その表情は、悪意に満ちていた。


「ギャーーーーー!」


洋子は悲鳴をあげ、気を失った…。



■その5■


「くっくっくく…」


木下は思わず声を出して笑うと、ビールの缶を傾け、ぬるくなった液体をぐいっと喉の奥に流し込んだ。


あいつらの顔、サイコーだったなぁ。


木下は今日の午後の出来事を思い出しながら、自分の部屋でささやかな祝杯をあげていた。


あれから、田中洋子は応接室に運ばれ、ソファに寝かされた。

木下は彼女が倒れた直後、まるで何事もなかったかのように床に散らばった書類を片付け、仕事に戻った。二人の事務員が大騒ぎしているのを横目に見ながら。

それでも二人の事務員は、木下に何も言わなかった。痛いほどの視線は感じたが、話しかけてくることはなかった。結局、田中洋子は貧血による早退、ということになっていた。


あの三人の驚愕の表情。その後の、自分を見る目、態度…。

それを思い出すたび、木下の背中に快感が走り抜け、言い知れぬ高揚感を覚えさせる。

おかげで先ほどから木下の股間は、膨らんだまま元に戻ろうとしなかった。


残り少なくなったビールを一気に空けると、


「さてと。研究、研究」


木下はわざと声に出してつぶやくと、こたつに入ったまま、茶色い紙袋を手元に引き寄せた。


「西脇書店」と店名の入った紙袋の中身は、大量の本だった。狂人を扱った小説や、精神薄弱、多重人格などの精神病に関する本だ。今日、会社からの帰りに木下が買い込んだものだ。


どれが使えそうかなぁ…。


木下はひとまず「心の病とその行動」という本を手にとりぱらぱらとめくり始める。

不安……何かに怯えるような……幻覚……幻聴……記憶障害……小さな虫……異常な執着…。

木下は気になる箇所を見つけると、次々にページの端を折って目印をつけていく。


…恐怖……電波が……歪んだ性欲……自傷行動……動物的……解離……てんかんのような発作……心神喪失……心神喪失?その文字を見たとき、木下はふいに田中洋子のことを思い出した。


あの女…。


また、例の快感が木下の脊椎を走る。


木下はあの田中洋子という事務員が好きではなかった。

おそらくは、木下がいつも石田にいびられているせいだろう。日頃から、木下をバカにしている節があったのだ。

その生意気な女が、自分を見て、気を失って倒れる。そのシーンを、木下は反芻した。


悲鳴をあげ、ゆっくりと仰向けに倒れていく田中洋子の細長い身体。どうっ、と床に背中を打ちつけるとともに、跳ね上がる白く長い二本の足。裾のめくれ上がるスカート。四つん這いの木下の目に飛び込んだ、スカートの奥の、ストッキングに包まれた白い下着…。


木下は興奮していた。本を放り出し、右手が股間に伸びる。


「はぁー、はぁ、はぁ」


荒い息を吐き出しながら、木下はその行為に没頭した。

木下は想像の中で、田中洋子を何度も何度も凌辱していた。


~第二部へ続く~

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