4話 猫の誘い
「小福!!」
まきちゃんが抱きついてきて、やっと私の時間が動き出した。……痛みで。
「いた……痛い痛い!まきちゃん離れ、痛い痛い!」
私の叫びなんか知ったことではないと言わんばかりに、まきちゃんはぎゅうぅっと抱きつく力を強める。
私は抵抗ができず、されるがまま。
心配かけたし、攻撃したから仕方ないと思うけれど……空気を読まずに言うと、なによりも緊張が緩んだせいでそもそも力が入らないのだ。
痛みに耐えつつ、ぬいぐるみのようにくてーんとしながら、まきちゃんに抱きしめられていると、
「うわ、すっごい泥だらけ」
女の子にしては低めの、だけど、とても心地好い声が聞こえてきた。
それは虚が燃える直前に聞こえてきた声に酷似していて。
私もまきちゃんも、いると思っていなかったところから人が現れるものだから、驚いてその声がした方を見た。
そこには真紅の髪を風に遊ばせている、とても綺麗な女の人が私たちの方に向かって歩いてきていた。
どこか女王様というか、しなやかで鋭くて、野性的な美しさもある。
まるでベンガル猫のような人だと思った。
あの優しい声と目の前の女の人の第一印象が結びつかない。
そもそも初対面の人との会話がそんなに得意ではないのに、どうしたものかと考えていると、まきちゃんが私の後ろに押し込めた。
そういえばまきちゃんも猫みたいだな、なんて緊張感のある場にそぐわないことを考える。
種類はたぶん、マンチカン。サイズ的に。
「あんた、誰?」
硬い声。たぶん今、まきちゃんは女の人を睨みつけている。
けれど、動けない私は喉までおかしくしてしまったのだろうか。
いや、なんと言えばいいのかわからないのだ。
だから、声が出ない。
……どうしよう。
何か言った方がいいのかもしれないけれど、なんと言えばいいのだろう。
「無理に話そうとしなくていいよ」
優しげな声にハッとした。
女の人は目尻を下げて、優しげに笑っている。
……そうだ。
まず、助けてくれたんだから、ありがとうを言わなくては。
いや、彼女かどうかはわからないけれど、心配してくれているのは確かなのだから。
「あの、ありがとうございます……」
「気にしないで。でも、応戦しようとしたのは反省して」
うぐ、と肩を揺らしたのはまきちゃんだ。
そして、私の方を向いて、
「ごめん」
と、泣きそうな顔で謝った。
言い出しっぺだからって責任を感じたのかもしれない。
けれど、私も止めなかったのだから、同罪だ。
むしろ、私が止めなければいけなかった立場だったし、比重で言えば私の方が重いだろう。
今はそういう罪とか罰とか求められていないだろうから、私も「ごめんね」と謝る。
まきちゃんもわかっているのだろう。
何も言わずにまた私を抱きしめた。
お腹に回されたまきちゃんの手には、切り傷ができていて、家でも確認しなければいけないと私はまきちゃんの背中を優しく叩く。
「家まで帰れる?」
「あ、はい」
動かなくなってしまったまきちゃんの代わりに私が答える。
「帰ったら警察に電話しな。それか、帰り道が怖かったら送ってくけど……いや。初対面のやつに家知られる方が怖いか」
「それは、その……」
なんとも言えない。
私はともかく、まきちゃんは素性のわからない人が苦手だから。
でも、もしもまた虚ろが来たらって怖いのも本心で。
そんな私の気持ちを察してくれたのだろうか。
女の人と少し話し合って『やっちゃん』まで送ってくれることになった。
『やっちゃん』からまきちゃんの家までの道は明るいし、この時間ならそれなりに人も通る。
まきちゃんにそれでもいいかと聞くと、首肯だけが返された。
「どこの高校行くか決めた?」
『やっちゃん』までの道。
私たちが中学生だということは私が背負うメインバッグを見れば一目瞭然。
驚くことは無いのだけれど、悩みを言い当てられたような気がして少しビクッとなってしまった。
「まあ、三年だったら決めてるだろうし、一、二年ならまだまだだよね」
軽い調子で彼女は言う。
それに私はもそもそと、
「決まってないです……」
三年生なのに、という言葉は付け加えなかった。
お姉さんにまだ決まってないの?という呆れを含んだ目を向けられるのが怖かったから。
隣のまきちゃんはずっと黙って私に手を引かれているから、話には参加しない。
必然的に私とお姉さんだけの会話になるのだけど、なんだか背伸びをしたくなってしまって困る。
カッコつけたがり、という言葉が頭に浮かぶ。
変なふうに思われてないかお姉さんを盗み見るけれど、変わった様子はなく「がんばれー」と適当に応援するだけ。
気が抜けた私は、ここ最近の悩みごとを相談してみることにした。
と言っても、大部分はぼかすけれど。
「お姉さんは、学校好き?」
少しドキドキする。
でもなんとなく、この人は好きって答えそうだと思った。
「うん」
そして、その予想は的中。
やっぱりな、と当たったことを嬉しく思う反面、共感してもらえなさそうだとわかって残念だった。
「でも、中学は嫌いだった」
「え?」
本当だよ、と彼女は笑って空を見上げた。
薄らと雲がかかった空は、もう暗くなってしまっている。
まきママたちに心配かけるなぁ。
「高校は楽しいよ。天路高校っていうんだけど、知ってるかな。魔法科のさ」
あ、と思って頷く。
天路高校を知っているのもあるし、今更お姉さんが高校生だということに気づいたから。
ブレザーを着ていないのと、お姉さんが大人っぽいせいで全然わからなかった。
「うちの学校来なよ。あんたのこと気に入ったし、あんたもたぶん気に入るから」
どくん。
心臓が大きく跳ねる。
「天使のテンに、道路のロで、アマジ。絶対来なよ。文化祭だけでもいいからさ」
まきちゃんの手をぎゅっと握った。
なんだかまた、胸がドキドキし始めた。
「じゃ、またね」
え?と驚く。
てっきり『やっちゃん』まで一緒に帰れるのだと思っていた。
そう思って前を見ると、赤っぽいオレンジの電光看板。
そこには『やっちゃん』と書かれていて、もう着いてしまったんだと残念になった。
改めてお礼を言おうと振り返ったのだけれど……
「いない?」
お姉さんはいつの間にかいなくなっていて。
だけれど、ピンと背筋を伸ばして歩く姿は簡単に思い出せた。
「……決めた」
下唇を噛んだあと、私は宣言する。
「まきちゃん、私、天路高校に行くよ」
まきちゃんが顔を上げる。
先程の話を聞いていたからかそんなに驚いた様子はない。
ただ一言、
「フクならできるよ」
そう言って、信号を渡って行ってしまった。
***
天気は快晴。
気温も快適。
桜はまだまだ咲いている。
今日ほど絶好の日もないだろう。
そんなことを考えながら、私はおろしたての制服を着る。
成長見込みで大きめを買ったから“新入生感”がつよいけれど、似合っていると思うので問題は無い。
いつも通りの蜂蜜色の三つ編みは、姿見の前でくるっと一回転した私に合わせて揺れる。
「フク、準備終わった?」
「うん」
部屋のドアを無遠慮に開けて、友達がひょっこりと顔を出す。
「じゃあ行こっか!」
そう言ってドアを全開にした桃色の少女は楽しみだね、と笑いかけてくる。
四月七日、午前八時半過ぎ。
初瀬小福、十五歳。念願叶って今日から天路高校の一年生です。