2話 それでも慣れない逃走劇
帰り道の住宅街は、人の生活音で賑やかだ。
耳を済まさずとも、階段を上る音や子供を叱る母親の声、ゲームでもしているのか楽しげな悲鳴が聞こえてくる。
オレンジ色の灯りの中と暗い夜空の下の温度差を感じて、私はコートの袖に霜焼けた握り拳を隠した。
「寒っ」
「マフラーどうしたの?」
「寒さ舐めてた」
コートの襟を立てて首を隠すまきちゃんは「持ってくりゃ良かった」と眉を寄せてぼやいている。
その時強い風が吹いて、二人のコートの裾がはためいた。
ふっきゅ、という可愛らしいくしゃみが隣から聞こえてきて、ズズッと鼻水をすすったまきちゃんにティッシュを渡した。
渡した一瞬に触れた指先は冷たくて、迎えにこさせてしまったことを申し訳なく思う。
「今日の夕ご飯なんだろう」
「カレーだってば」
「なにカレーなのかなぁって」
「バターチキンカレー」
バターチキンカレーは、私も好きだ。
カレーが好きなまきちゃんは辛党だけれど、どちらかと言えば私は甘党。
宮嶋家は辛いもの好きなので、振る舞われるのはたいてい辛口。
食べれなくはないけれど、味がわからなくて残念な気持ちになる。
でも、バターチキンカレーはクリーミーな辛さ?なので食べやすい。
お子様舌だとからわかれるけれど、意外なことに私よりも兄さんの方が苦手だ。
幼い頃から舌を慣らしていた私とは違い、生粋の甘党である兄さんは辛いものが大の苦手。
冷凍食品のペペロンチーノで辛いと言うくらいなのだから、そうとうだと思う。
「あ、そうだ」
メインバッグの中を漁ってお菓子を取り出す。
「はい」
それをまきちゃんに渡すと、不思議そうな顔をしながらも受け取ってくれた。
「これ、やっちゃんが?」
「うん。受験頑張れって」
自分で言って、若干凹んだ。
馬鹿だなぁ、私。
自嘲しながら、お菓子のパッケージを開けてビスケットを一つ口に放り込んだ。
『やっちゃん』というのは公園の近くにある居酒屋の名前であり、その店主の渾名でもある。
店先で会うと、お菓子をくれる好い人。
年齢にあってないものが多いけれど、私は子供向けのお菓子も好きだ。
そこの常連さんも優しい人が多くて、兄さんや兄さんの友達と一緒に行くと、枝豆を奢ってくれる。
唐揚げ美味しかったなぁなんて思い出しながら歩いていると、ふとまきちゃんに聞きたくなった。
「まきちゃんは将来なにになりたいの?」
ずっと昔。まきちゃんが小学校に入りたての頃。同じことを聞いた。
その時のまきちゃんは下手くそな笑い方ではなく、もっとキラキラとした、テレビの中の戦隊モノを観るような顔で言ったのだ。
「魔法使いになる」
ハッとしてまきちゃんを見る。
キラキラしてない。いや、目の中はキラキラしているのだけど、顔全体、表情は硬い。
グッと握った拳はこの先にある困難への決意や覚悟を表している気がして、自分で聞いておきながら、私は少し寂しくなった。
まきちゃんはカッコイイに憧れるかわいい子なのに、いつだって私の先を歩いている。
いつの日か振り返って手を伸ばしてくれる日も来なくなるのかなぁ……なんて。
“男子三日会わざれば刮目してみよ”とも言うし、きっとその日はそう遠くないのだろう。
ぎゅうっとまきちゃんに抱きつく。
「男の子だね」
「なにを今更」
ずっとそうだっただろ、とまきちゃんは彼氏の愚痴を言うあーちゃんを見るかのような目で私を見た。
そうだね、と心の中で同意する。
そして、まだまだ私よりも低いところにある顔に笑いかけた。
「なんだよ」
「昔はフクちゃんフクちゃんって言って追いかけてきて、可愛かったのになぁって」
「俺はずっとフクって呼んでたけど」
記憶を捏造するな、とまきちゃんは私の頭を叩いて先に行ってしまう。
「ほら、置いてくぞ」
そろそろ弟離れをしなきゃいけないのかなぁ。
そんなことを考えながら、私はまきちゃんと手を繋ぐ。
「おい」
「たまにはいいでしょ」
仕方ない。
明らかに面倒くさいといった顔でまきちゃんは再び歩き出した───と思った。
「まきちゃん?」
まきちゃんが固まった。
どうしたの?と問うてみるけれど、元から丸い目をもっとまんまるにするだけで返答はない。
私はだんだん怖くなってきて、まきちゃんの肩を揺らした。
「やめろフク」
私は喜んだけれど、まきちゃんの表情は相変わらず硬い。
さっきとは違うタイプの、目がキラキラしていない方。
そして覗き込んだまきちゃんの瞳に映っていたのは……
「うつろ……」
クッと喉が締まる。
まきちゃんが私の手を強く握った。
「逃げるぞ」
振り返ってまきちゃんの視線を追えば、そこにはさっきまでいなかったはずの虚。
最悪だ。
さっきまでのセンチメンタルな気分も、楽しい空気も全てを壊されてしまった。
うん、と頷いて私たちは走り出す。
その背を虚が追ってきていることをなんとなく察せてしまった。