間宮屋敷でカレーを待つ
タクシーを飛ばして間宮屋敷へ到着したのは、夕日が昇るころだ。
倍の時間をかけて帰り着いたのには、理由がある。
二十代半ばのタクシー運転手は、発車してすぐに尾行されていることに気づいた。
「お客さん、つけられてますよ。面倒はゴメンなんで、撒きます」
運転手は返事を待たずにハンドルを切った。右折して細い路地に入っていく。
「ほう、妖気が無い尾行かや。車でつけてきよるか?」
運転手は仏頂面で返答する。
「二台後ろ白のハイエースと、左車線のシーマにつけられてました。喫茶店のところで停まっていた時からですね」
小夜子は少し考えたが、これも何かの縁と納得する。タクシー運転手は、神話で言うならば乗り物そのものか御者の役割だ。それならば、彼もまたここで出会ってしまった一人である。
「まだ、おるか?」
「勘ですが、まだ別の何かにつけられています。高速代金をご負担頂ければ、撒きますよ」
「上手くいったらご祝儀じゃ」
後部座席の小夜子は、ルームミラーに映る運転手の口元が笑みに引き攣れるのを見た。
「お任せを」
いつものやつだな、と思ったギャル谷は黙って聞き流す。タクシードライバーは大変な仕事だとも思った。
路地を抜けたタクシーは首都高に入る。大回りと分岐を繰り返し、東京を離れる道を行く。
タクシー運転手が走行途中に窓を開けるや指弾を放って尾行車のタイヤをパンクさせたり、巨大なカラスを指弾で叩き落とすなどの事件がありながらも、無事に間宮屋敷へとたどり着いたのであった。
「ほほう、やるものじゃのう。運転手さんや、また頼めるかや?」
「面倒はゴメンです」
「そうか、縁があればまた会うこともあろうよ」
小夜子は財布に入れていた万札を全て抜くと、運転手に渡す。彼は少しだけ笑うと、無言で代金を受け取った。
タクシーが走り去るのと入れ違いに、作務衣姿の若松が出迎えてくれた。
「お帰りなさいませ。皆さま、大変だったようですね」
「今日は休みと言うておったのに、すまぬな。若松よ、ギャル谷に風呂と、こ奴らは居間にでも案内しておけ」
憮然としたままのハジメは、眠る真亜子を姫抱きにして立ち尽くしている。若松には興味もないようで、見ようともしない。
小夜子はそんなハジメに呆れてしまう。若松を見て気づかぬというのなら、真亜子などに執心するのも当然のことか。
「へい、ようがす。お嬢様は、いかがされますか?」
「地下で兄上を呼ぶ。ああ。それから客人はもう一人おってな、ガラル殿、いらっしゃるか」
虚空から突如として現れたのは、姿隠しの術を使って外を走っていたガラル氏である。
「おりますよ。この世界の街並みは面白いものでした」
「ここはわらわの屋敷じゃ。しばらく、こ奴らを見ておいてくれぬか」
こ奴らとは、ハジメと真亜子のことだ。
「乗りかかった船です。任されましょう」
若松はガラル氏の風体に驚いたが、それも僅かな間だけだ。伊達に小夜子の従者をやっていない。
「これはこれは、珍しいお客様ですね。どうぞ、ご案内致します」
そこへギャル谷が声をかけた。
「若まっつん、もう限界だから先にお風呂借りるね。なんか色々ゴメン」
「お気になさらず。お風呂の用意は済ませておりますよ」
そういうことになり、皆が慌ただしく過ごすことになった。
ガラル氏は間宮家の居間に通されて、出されたお茶請けの羊羹に大層喜んだ。異世界にはお汁粉に似た料理があるのだが、こちらの方が美味いとのことだ。
「この羊羹とは実に美味しいものです。そこのハジメとやらもご馳走になるとよろしい」
ハジメはそれを無視してそっぽを向いた。まだ生まれたばかりのハジメには、そんな抵抗しか思いつかないのである。
ただの人間から見れば超常の存在でも、【最初の人間】の本質はヒトでしかない。そして、生まれたばかりのハジメには経験があまりにも足りなかった。
急な来客に困ったのは、内向きを仕切る若松と家事手伝い女中幽霊の千草である。
昼間は生徒会長とメガネちゃんが押しかけてきた上に、休日ということで買い出しにも行っていない。
台所の冷蔵庫を前に、若松は思案顔。しかし、こんな時に悩んでも良いことは何も無い。やれることをするだけだ。
「若松兄さん、あの巨乳とメガネのおかげで、お客様にお出しするほどのものは……」
千草が恨みがましい様子で言う。
今日の昼間、小夜子が留守なのをいいことに押しかけてきた生徒会長とメガネちゃん。お手伝いに来たなどと言いながら、何の役にも立たない上に昼食をたらふくご馳走になって帰っていった。
遊びに来るのは構わないが、お手伝いは迷惑である。
「野菜と冷凍していた肉はありますし、カレーにしましょう」
「えっ、カレー!? やった、大好き!」
千草のそれは思わず出てしまった喜びの声だ。江戸時代生まれだというのに、見た目相応の少女じみた声音である。若松もつられて笑みを浮かべた。
若松にはトラウマがある。母親との思い出から、若松は家庭料理としてのカレーを避けていた。小夜子もそれを知るため、食べたいとはあまり言わない。あの小夜子が年に数回しか言わないといえば、どれほどのものか分かるだろう。
「あり合わせですが、嫌いな人はいないでしょう。千草さん、たまねぎをお願いしやす」
「はい、納屋に吊るしてあるのを取ってくるわ」
今日のお夕飯は、ありあわせカレーに決まった。
カレールーは市販の物を使う。
ハウス食品の銘柄である【ハウスバーモントカレー辛口】と【こくまろ中辛】をブレンドするが、割合は適当だ。暑い日は辛口などともいうが、その日の気分でいい。
カレールーは唐揚げなどの下味に使うこともあるため、半端に余った買い置きがあった。
さて、肝心の具は冷蔵庫の余り物だ。
冷凍庫にあったのはアンガス牛ヒレステーキ200グラム、和牛バラ肉100グラム、いずれもここ二週間の余り物。人数に対してどうかと思ったが、なんとかなるだろう。電子レンジで全て解凍する。
野菜は、たまねぎ、にんじん、レンコン、ししとう、ジャガイモ、茄子があった。
ここで面倒になった若松は、あまり考えず全て使うことに決める。
たまねぎを両手に抱えて持ち帰った千草と共に、まずは玉ねぎを剥いて剥いて剥く。それから炒めるのだ。面倒なので、強めの火加減でいい。
炒めるのを千草に任せると、若松は野菜を切り分ける。レンコンは薄切り、茄子は厚切り。ししとうはそのまま。これらは素揚げにして、トッピング用に回す。
後は普通にカレーを作るのだが、具材の煮込みに魔法の隠し味がご登場。
サントリーが販売する【赤玉スイートワイン1.8リッター入り紙パック】である。
1907年、日本初のワインとして販売が開始された赤玉ポートワインが原型の、激烈な甘さの国産ワイン第一号である。
この赤玉スイートワイン、カレーやビーフシチューにだばだば入れると、「え、店のやつ?」なんて思うほどの豊かな味わいとなる。
初めて試した時には、若松をもって「ヤベぇ」と言わしめた魔法のワインであった。
紙パックから鮮やかに赤い酒精が鍋に注ぎこまれた。これもまた目分量である。赤玉スイートワインの甘い香りが漂った。
調理は順調に進み、カレーらしくなったところで味見をするが少し物足りない。
若松、ここで二度目の隠し味。
冷蔵庫にあったチューブのおろし生姜とチューブのおろしにんにく。さらに粉末の和風出汁の素を適当に入れて味を整えた。
「まあ、こんなもんでしょう」
カレー味はデキの悪さをも包み込んでくれる。何を入れても全部カレー味だ。
「カレー♪ カレー♪ 美味しいカレー♪」
千草はカレーが待ちきれないのか、デタラメな小唄を口ずさむ。その様子に、若松の口元が緩んだ。
あとは時間ギリギリまで煮込めば完成である。
カレーの匂いはどこまでも漂う。
居間ではガラル氏と風呂上がりのギャル谷が鼻をすんすんさせており、ハジメは胡乱気な表情をしていた。
小夜子だけは、カレーの芳醇な香りで落ち込んだ気持ちを執り成している。
地下の呪物倉庫から、【百年前から腐ることのない人魚の肉】、【壇ノ浦における海竜祭で採取したAn様のうろこ】、【新物の小豆】を取り出して、瘴気充ちる地下室の祭壇に捧げたところだ。
「ああ、嫌じゃ嫌じゃ。兄上なぞを呼ばねばならぬとは……」
影の小夜子へ念話を飛ばしたところ、適当な器を造って受肉させろと指示された。水死体や海の妖怪でもいいとのことだが、そんなものを使えば荒魂となるに決まっている。
触手の淫乱怪物で顕現されるなど、悪夢以外の何物でもない。
大きく息を吐いて気を取り直す。
腹の奥から悪気を吐き出して、水蛭子神の住まう異界に波長を合わせる。
祝詞では清いだけのものしか呼べない。だから、小夜子は人間の耳では聞き取れない異常なる声を用いて魂で繋がる兄そのものを呼ぶ。
「━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━」
小夜子の異常なる声の詠唱が地下室の壁を震わせる。
祭壇にある呪物が煙を上げて溶け始めた。
海にまつわる忌まわしき二つの呪物が溶け合えば、どろりとした黒い粘液と化して怪物を生み出そうとする。強烈な邪気が発散されるが。同じく捧げられた小豆が邪気を祓う。
「━━━━━━━━!!」
小夜子がひときわ強く【声】を捧げれば、不定形の黒い粘液が立ち上がり子供ほどの大きさの影となった。
「兄上、来られませい」
『オレ様のご登場だ!』
小夜子は露骨なほど眉間に皺を寄せて、顕現した水蛭子神を見やる。
頭は鳥のごとく、身体は出来損ないの人魚。ペンギンのような手足。何かと話題の妖怪アマビエに似た姿だ。微妙に違うところに、そこはかとないパチモノ感がある。
「相変わらず腹の立つ姿をしおってからに……。兄上、ひさしぶりじゃな」
『お、テンション低いんじゃない? アゲていこうぜ』
上がらぬ。
「兄上、色々あってな、人の精神に潜りたいんじゃ」
『もっと、ないの?』
「な、なんぞ足りんかったか」
『事務的すぎて、オレ、なんか傷つくんだけど……』
寂しげな感じで言ってくるため、小夜子も態度が悪かったと反省する。
「兄上、すまぬことをしたのう。よくない振る舞いであった。許してたもれ。せっかくの現世じゃ、頼み事が終わったらなんぞ美味いものでもご馳走しよう」
『ふーん、本当に弱ってんだなお前』
「むむ、今のは芝居であったか。気を遣わせてしもうたの」
『年の離れた妹に優しくしてやったんだぜ。どうよ、お兄ちゃんって素敵だろ?』
こういうことをしてくるから、どうにも兄上を嫌いきれないのだ。
「兄上、歩きながら説明しよう」
『おう』
地下室を出るため歩き出した小夜子だが、十歩も進まぬ内に振り返った。
水蛭子神はペンギンのような足をバタつかせて追いつこうとしているのだが、慌てたためか、足をもつれさせてコケている。
「まともに歩けぬとは、明らかな設計ミスではないか!」
倒れたまま顔を上げた水蛭子神は、つぶらな瞳で小夜子を見つめる。
『歩くの無理っぽい。抱っこして』
「はぁ、仕方ないのう」
そういうことでアマビエの姿をした水蛭子神を抱き上げるのだが、磯臭い。そして、あろうことか小夜子の胸に頭をこすりつけてくる。
『お前はほんとおっぱいが無いなァ』
「兄上、サッカーは好きか?」
小夜子の目が据わっていた。
『え……、なにその鮫みたいな瞳は。もしや、オレがボール?』
「ボールはともだちじゃ。恐れることはなかろう」
『ともだちなら、先にゴールへオレがふっとんで行くぜ!』
小夜子の胸元からぴょんと跳んだ水蛭子神は、素早い動きで走り出す。
「おのれ、わらわを謀ったな! いくら兄上とて許せぬ」
『まだ動いてる! オレの心臓、まだ壊れちゃいない!』
無駄な追いかけっこが始まった。
地面どころか壁を走り抜ける水蛭子神と、それを追う小夜子。間抜けな動きのくせに素早い水蛭子神に対して、小夜子は鬼火を飛ばすが綺麗にかわされる。
「む、なかなかやりおるな」
『妹に負けられるかってんだ』
途中からは本気の鬼ごっこ。
地下室から屋敷の庭に飛び出した時には、小夜子は髪を刃と変える髪縛りの術で襲い掛かり、水蛭子神は口から高圧の海水を吐き出して対抗するという魔戦へと変わり果てていた。
居間でくつろいでいたガラル氏は何事かと庭園を見やる。
あまりの殺気に台所でカレーを煮込んでいた若松も飛び出した。そして、見知った顔を見つけて思わず叫んだ。
「ビ、ビエさんじゃありませんか」
水蛭子神は若松と出会った折にビエさんと名乗っている。そして、その出会いはあまりにも数奇なものであった。声も出ようというものだ。
『小夜子、ストップ。まあまあ楽しかったけど、もういいだろ?』
「な、なにを急に落ち着いておるんじゃ!」
『おいおい、子供みたいな真似はよせよ。若松の前だぜ?』
小夜子はぐぬぬと唸ったが、術を解いていつもの黒髪ロングに戻す。しかし、どうして若松の前では気取るのか。なんだか納得がいかない小夜子であった。
「説明もできておらんというのに、兄上はもうちょっと常識を持ちよれ」
『そんな喋り方で常識を説かれても……』
「ぬあああああああ!! わらわ、兄上なんか大嫌いじゃ! 海に還れっ、バカっ!」
『はははは、そうむくれるなって。な、ワカメでも食って落ち着こうぜ』
水蛭子神がいつのまにか手に持っていた大量のワカメを差しだした。さきほど獲れたばかりのような、新鮮そのものの潮がしたたるワカメである。
「ビエさん、食べ物で遊ぶのはよくねえです。ワカメは預かりますし、カレーも出来上がりますんで、みんなで食べましょう」
『マジで!? カレー食べていいの? おかわりも?』
「何杯でも食べて下さい、ささ居間へどうぞ。刈谷さんッ、お嬢様をお任せします」
呼ばれたギャル谷が我に返った。
「あっ、うん、すぐ行く」
初めて見る小夜子の嬌態に驚いていたギャル谷は、慌てて返事をすると小夜子へと駆け寄った。
『おっ、なんか面白い人間がいるじゃないの。しかも、いいオンナだね』
「今はいけません。女同士に口を出すのは粋じゃありませんよ。ささ、ビエさんはこちらに」
若松は有無を言わせずビエさんこと水蛭子神を抱き上げて居間へ向かった。
居間にはガラル氏とハジメ。そして、眠る真亜子がいる。
ガラル氏はじっと水蛭子神を見つめて固まっていた。
「あなた様は、まさか……」
ガラル氏の声は、驚愕に震えていた。
『んあ? んんんん、珍しいのがいるなあ。ここのオレはお前が知ってる存在とも繋がってるけど別人? 別神? まあどっちでもいいか、別モンだよ』
「なんと、そのようなことが! ならば、ここではビエ様とお呼び致します」
『それでいいよ。お前は……ガラルだったよな』
それからビエさんは居間を見回して、ハジメを見た。
『そこの虫臭い出来損ない。オレ様のことはビエさんと呼んでいいぞ』
ハジメは声すら出せない。目の前にいる珍妙な海産物妖怪が、恐るべき存在であると本能で分かるからだ。
「う、なんだ、これは」
身体の震えを抑えることができないハジメは、それが恐怖によるものと知らない。初めての恐怖に肉体が泣き叫んでいることを理解できないでいた。ビエさんにじっと見つめられていると、呼吸すらもできなくなっていく。
『おっと、これじゃ人間にはキツいか。ほれ、もうマシになっただろ』
ビエさんから発散される気配が和らぐと、ハジメはなんとか呼吸ができるようになった。
「な、何者だ」
『お前みたいなガキに分かるかよ。そんなことより、カレーだ。若松、カレー食べたい』
若松はガラル氏を見やった。そして、「頼みます」と目で語り掛ける。
うなずくガラル氏は、ビエさんの抱っこを代わった。
「ビエ様、そこな若松くんが用意してくれるとのことです。私と待ちましょう。このテレビという絡繰は面白いですし、ヨウカンというものは甘くて美味しいですよ」
『カレーの前に羊羹って、欲張りセットかよ!?』
とりあえず、カレーを待つことになった。




