小夜子と魔王とテコナと
微睡みの中で、小夜子は断片的な未来を知覚する。
明晰夢に入った所で意識を揺り起こす。
「これが未来かや」
夢の世界は、廃墟と化した街並みであった。
自分自身を強く知覚すると、オタ丸がデザインした長袖チャイナ服の姿になって地に足をつけることができた。
未来から過去にメッセージを伝える際、夢を使用して対象者と接触するという手法がある。
夢を使用した未来からの警告は、80年代のアメリカで実例が報告されている。
ある廃教会の地下から発見されたサタンの棺を巡る事件で、未来からのメッセージによりサタン復活を阻止したというものだ。
パラダイム事件と呼ばれたこの事例は、未来から善なる存在がメッセージを送ったものだとされている。
「こんな未来では、どうにもなるまい。せめてバギーに乗ったモヒカンの悪党でもおれば希望はあろうが」
妖物の気配はあれど、人の気配は全く無い。
そこかしこに食い残しであろう人の破片が落ちていることから、大量の妖物が人を駆逐したのだと分かる。
「ふうむ、あの大きなテレビがあるということは、ここは渋谷であろうなあ」
見る影もないほどに破壊され、今は廃墟と化している。
空を見上げれば、巨大な六面体が太陽の代わりに浮遊して地上を睥睨していた。
「むむむ、あれはレヴィアタン! なるほどのう、地獄の魔神を呼んで現世と【あちら側】の境界を壊しよったか」
六面体の魔神が顕現しているということは、迷路の魔道士も現世に出ているということだ。
廃墟の街を彷徨う。
どこにも人の気配が無いと思っていたが、どこからかピアノの旋律が響いてくる。
音に導かれて、小夜子は歩む。
たどり着いたのは、小学校だ。バリケードはすでに破壊されて久しいようで、教師であったものであろう骨が散乱している。
校舎に足を踏み入れると、だいたい想像していた通りの光景があった。
「なるほどなァ」
子供たちが寝かされている教室。
お世話をしているのは肉色の人型怪物で、ユッケ状の怪物であった小夜子とよく似た存在だ。大した力は与えられていないそれは、眠る子供たちの脳から【夢】を搾り取っていた。
脳に寄生させた触手から、物質として抽出された【夢】を肉色の人形がフラスコに集め、運び出していく。
「ふふ、はは、ははははは」
小夜子はあまりにも馬鹿らしいそれに、笑いの発作を抑えられなかった。
笑いながら肉人形の後をついていく。
たどり着いたのは、音楽室だ。
音楽室のピアノを、黒髪の少女が弾いている。その異常な旋律たるや、常人であれば発狂してしかるべき。
「エーリッヒ・ツァンの音楽かや。ピアノとは良い趣味じゃな」
肉人形が、ピアノを弾く少女にフラスコを渡すと、音楽が止む。
「ようやく来てくれたのね」
振り向いたその顔は、小夜子と瓜二つ。違いといえば、服装が白いワンピースであることだ。
「そなたが、魔王と化したわらわか」
「あなた、なんでそんな喋り方なの? 私の過去のはずだけど、どうしてそんな風になるのかしら」
魔王小夜子は首をかしげた。可憐な仕草である。
「ほほほ、わらわは最初からこうじゃ」
「ふーん、これだけ違ってるから邪進化の未来が出来ようとしてるのね。あなた、どうして人を食べないの?」
「あんなもん美味くもなんともなかろう。神戸牛のステーキは最高に美味いんじゃが、そなたは知っておるか?」
「あはは、動物は食べてないから、今度試してみるわ。美味しいっていったら、これよ。子供の夢」
物質化された夢は、虹色の液体に見えた。異次元の色彩とでも呼ぶべきか、水面に油を撒いた際に浮かぶ虹色に似ているが、常人であれば見ているだけで気が狂う代物である。
魔王小夜子は、フラスコに口をつけてそれを飲む。
「はぁ、美味しいわ。小学校一年生くらいの夢って甘いのよ。六年生はほら、もう色気づいてるでしょう。脂っぽいんだけど、それも悪くないの」
「そんなもんより、ファンタオレンジの方が美味いじゃろ」
「なにそれ? 人間の飲み物かしら」
「日本で一番メジャーな炭酸ジュースじゃ」
「あはは、お子様なのね」
子供の脳から絞り出した夢を嚥下する魔王小夜子が嗤う。
小夜子はこの夢から抜け出す方法を探るが、魔王の支配下でそれは難しい。
「あ、それ無駄だから。……ふーん、やっぱり過去って読みにくいのね、あなた、花子さんの因子があるんだ」
「よう気づいたな。それで、わらわを侵食するつもりかや? 同一存在で喰らい合うというのも一興じゃの。望む所じゃ」
小夜子は言うが、それは虚勢以外の何物でもない。
魔王小夜子は、小夜子よりも強い。
連続性の未確定な時間において、未来側にいる魔王小夜子。
恐るべき魔王は、権能によって過去の自分自身を書き換えることができる。
「逃げ腰で強いこと言うのやめなさいよ。その時間だと、ようやく人の言葉を覚えたくらいだったかしら? 誰かが、過去を改変したのね」
小夜子は小さく笑んだ。
伊邪那美様め、そういうことか。と小夜子は思う。
「魔王であるわらわよ、わらわはお前が嫌いじゃ」
「は、何言ってんの? もう浸食を始めてるんだけど」
「脳から絞った夢を食うような悪食の舌バカめが、食べるということを何も分かっておらぬ」
「世界で一番美味しいものよ、人の夢って」
小夜子はため息を吐いた。
自分自身がここまで馬鹿者であれば、ため息も出る。どれほど強大な魔王であったとしても、小夜子はある一点においてのみ勝利している。
「浅すぎてお話にならん! 食事というものは、やるせない生の中で唯一許された万民の愉しみじゃ。この馬鹿めが、しぼった夢やら人間の踊り食いなど、下賤な妖物がやる下の下でしかないわ」
食事のことを何一つ分かっていない怪物など、小夜子が許容できるものではない。
「はあ? 栄養補給じゃつまんないから美味しい夢を啜ってんじゃないの。子供の脳から絞ったイデアのどこが浅いってのよ!?」
魔王小夜子の語気も荒くなった。
「味の種類はなんぼほどあるんじゃ? 答えられんじゃろ。塩とケチャップしか知らんような味覚ではないか。ほほほ、生絞りと生食いだけしかできん未来など願い下げよ! 貴様は【うまい棒】からやり直すがよいわ」
株式会社やおきんが販売する【うまい棒】は日本で最もメジャーな駄菓子だ。その味の種類たるや、驚異の40種超え!
パッケージ違いで同じ味、という駄菓子の概念を覆す味のバリエーションは日本中の子供たちに愛されているのだ。
「なによ、うまい棒って!? 訳の分からないこと言って、もういい。こんなヘンな自分なんていらない。今すぐ浸食してやるわ」
「お前みたいな浅瀬チャプチャプ魔王にやられるものか!」
「意味分かんないけど、腹が立つ!」
魔王小夜子の怒りが小夜子を縛る。
足元から浸食されていくのが分かったが、時間を正確に認識できない小夜子には、それを止める手立てが無い。抵抗するため力を込めようにも、その方法をまだつかんでいないのだ。
その時、奇妙なモノがこの空間に割って入った。
真っ黒な影のようにも、まばゆい光のようにも認識できる異常なモノである。
シルエットは女であるように思えるが、それすらもゆらゆらとして判然としない。
「膨れ女ッ、また邪魔をしてッ」
魔王は闖入者である影のようなモノを【膨れ女】と呼んだ。
「接続を切って」
小夜子の耳元で膨れ女が囁く。そして、連続時間同期における接続の強制切断の方法を送信した。魔王と化す未来を持つ小夜子であれば、それを受信してすぐに使用できる。
「む、感謝するぞ。魔王よ、次に会う時が貴様の命日じゃ!」
「浅瀬チャプチャプとか、意味が分かんないけど絶対許さない! 絶対その存在を消してやるんだから!」
「二回も絶対など言うヤツには負けんわ。せいぜい廃墟でグルメを気取っておけ、浅瀬チャプチャプ魔王よ」
「ぬがあああ」
魔王の恐るべき怒気を孕む唸り声を最後に、接続が切断された。
小夜子が目覚めると、隣に見知らぬ女子生徒がいた。
若松がほっとした様子で小夜子に語り掛ける。
「お嬢様、戻られましたか」
「うむ、危ないところであった」
小夜子はそう言って、隣の女子生徒に向き直った。
「助力に感謝する。ありがとう。そなたのおかげで浸食も止まった」
「どういたしまして、小夜子さん。それから、はじめまして、返矢テコナです」
テコナも小夜子に向き直って、ぺこりと頭を下げた。
「間宮小夜子じゃ。返矢殿のところで隠れておったのう」
「あら、やっぱり気づかれてました?」
テコナは少しだけ笑った。
小夜子にも、彼女の笑顔が、顔自体が認識できない。しかし、無個性な女の子が笑顔を見せた、という情報だけを受信できている。
「うむ、どこかの神の眷属かと思うて用心だけはしとったがの。いやはや、危ないところじゃった。未来の魔王とは敵対しとるのかや?」
とんでもない会話に、若松も驚いた様子だ。その意味は分からなくとも、何かとてつもないことが起きていたことだけは分かる。
「ええ、魔王のあなたが人間を全て食べてしまいそうで……。厳密には、未来のわたしなんですけど、夫を守るために魔王と敵対しています」
「ほう、……もしや、オタ丸くんか」
テコナの身体からは、オタ丸の残り香がある。
小夜子はその意味に気づいて、しまって気まずい。
「あら、分かっちゃいましたか。未来のわたしから、突然情報が同期されて驚きました。まさか、わたしが人間の男に入れ込むなんて……」
「恩人に言うべきではないかもしれんが、シャワーは浴びた方がよいと、思うぞ」
小夜子の語気が弱い。恥ずかしがっているのだ。
「えっと、その、今日が分水嶺だったから、盛り上がってしまって。もう、言わせないで下さい!」
「そ、そういう意図ではないわ。それより、このチャイナ服もそなたのおかげか」
「ええ、【膨れ女】としての装束です。賭けでしたけど、上手くいってほっとしました」
服というものは、霊的な意味を持つ。
神話にも、服飾品の贈答により荒ぶる神を懐柔するというものや、ヤマトタケルであれば女に化けてクマソを殺すものまで様々にある。
「なるほどのう。未来のそなたがわらわを救うための布石であったか」
「結果的にそうなりましたけど、ほとんど偶然ですよ。魔王の浸食を避けられた可能性は奇跡みたいなものです」
どんなものであれ、出会いというもの自体が奇跡だ。それが、結果を引き寄せた。
小夜子はギャル谷と出会っている。
「奇跡でも、そなたとオタ丸くんのおかげじゃ。借りが出来たぞ」
「その借り、すぐさま返してもらっていいですか?」
「もちろんじゃ」
顔を認識できないテコナの願い。
それがどんなものであるか知らずとも小夜子は引き受ける。貸し借りを、そういうものだと決めているからだ。