小夜子と若松は東京地下世界へ
大して行きたくもない用事で出かけるというのは、気が重いものだ。
土曜日の早朝、冷気は厳しいが爽やかな快晴の空である。
「面倒じゃなァ」
小夜子はそう言いながらも、若松が跨るバイクのサイドカーに乗り込んだ。
朝食は既に済ませており、最近こっている麦飯と牛肉などを腹に入れていた。
若松の包丁は本日も冴え渡る。朝からしゃぶしゃぶ用の牛肉を焼いたものだが、重たくないものに仕上げていた。
「今日の肉は美味かったぞ。自然薯も良い粘りであった」
とろろいも、と呼ばれるアレが自然薯だ。間宮家では一本購入して摩り下ろして食べている。
「へい、農協の通販webサイト、【JAタウン】で岡山県より牛肉を取り寄せました。とろろいもは兵庫県から買い求めております」
「ほうほう、農協までがインターネットかや。時代は進んだものじゃなァ」
「現物は見れませんが、年末のりんごに外れはございやせんでしたので。最近はちょくちょく利用しております」
昨年末といえば、あり得ないくらい蜜たっぷりの小ぶりな林檎【こみつR】を青森県から取り寄せた。これは若松の勧めで、小夜子はりんごばかり食べていた。
季節にしか食べれない珍しいりんごで、手に乗せて余るといった小さなりんごながら、中身の七割は蜜という凄まじい品種であった。
「あれは美味いりんごであった」
きらめくような蜜色。ごく普通のりんごしか知らないと、それが同じものとは信じられない味わいであった。爽やかな酸味を残しつつも、あの芳醇な甘さと果汁。
年末に限定販売されており、到着後すぐに食べつくして寂しい思いをした。あまりに美味く名残惜しいため、もう一箱注文しようとした時には完売していた。
「あんな品種があったとは、あっしも知りませんでした。おっと、お嬢様、ヘルメットはよろしいですか」
「うむ、こんなもん無くてもええんじゃが、無いと警察がうるさいからの。よいぞ、出発じゃ」
エンジンは唸りを上げて、一路、東京へ。
恒例のサービスエリアで寄り道をして、浅草近辺で若松の知り合いであるという業者にバイクを預けてからは東京メトロへと歩を進める。
アメ横で買い食いなどしたいという欲を抑えた小夜子であった。
仕事でなければ、その辺りの露店で何か食べ歩いた後で、どぜう鍋でも食べて家に帰りたい。
「気が重いものじゃ」
「お嬢様、そのようにおっしゃいますと、屍食鬼の皆さまが嘆かれますよ」
若松にたしなめられたが、気が重い。
退屈な事務仕事をやった後に、退屈な集まりがある。
「そうは言っても、わざわざ出向く必要が本当にあるものかや。あの電子メールとかでいいじゃろ。ポケベルと違ってなんでも送れるんじゃから」
前世ではポケベルで暗号を送ったものだ。あんなものでも、当時は実用的な連絡手段として、そしてコミニケーションツールとして重宝していた。
「そういう訳にはいきません。お嬢様がお約束されたことですから」
ふうっとため息をついた小夜子に対して、若松はいつもの顔のままだ。無表情ではないが、塩顔らしい塩っぽい顔である。
「お主はそういうとこが真面目でいかん」
「お嬢様の株を下げたくない一心でございますから」
よく言うようになった。と、小夜子は昔のことを思い出して小さく笑む。
不思議な縁である。若松がおらねば、トイレの花子さんとの邂逅はまた違ったものになっていただろう。
喚起の契約手順を踏まずに異界に踏み込んでいたら、敗北を喫していたのは小夜子であったかもしれない。今となっては、それも無意味な仮定ではあるが、花子さんはそれほどの強敵であった。
「駅長には話を通しておりますので、行きましょう」
「仕方ないのう。帰りは東京ばななでも買うとするか」
お土産物としてはまったくもって普通の味なのだが、不思議とついつい買ってしまう味をしている。
「おや、妙な味のキットカットはよろしいので?」
「あれは普通が一番じゃ。……いや、抹茶味と京都限定の【ミニ聖護院八ッ橋味】は例外じゃな」
先日ギャル谷にもらった【チロルチョコきなこもち】と同じく、驚くほど八ッ橋味がする。そしてチョコの良さも失っていない。でも、好き嫌いは別れるところ。
ちらりちらりと視線を感じる。
髑髏と彼岸花のド下品和装が注目を集めているところもあるが、それ以外の視線もあった。
「ふむ、屍食鬼共めが、護衛などいらぬというのに」
通り過ぎる人間の中に、屍食鬼が混じっている。よく化けているが、妖物独特の存在感と気配で分かる。
こうして地下世界を訪れる日になると、彼らはわざわざ護衛まで配置する。しかし、小夜子には余計なお世話というもの。
退魔師などに誤解されるからやめろと言っているのだが、彼らは警護を頑なにやめない。
「お嬢様に尽くしているだけですよ。気持ちは受け取りましょう」
「毎度のことに大げさなんじゃ」
そのようなことを話しながら、駅長室へと入った後にそれ用の出入り口に案内される。
東京地下秘密路線というのは、東京に地下鉄が整備されたころに開発していた軍事用の非公開路線である。
国会議事堂直通路線などが建造されていたが、この計画は地底に潜んでいた屍食鬼などの勢力によって瓦解する。
当時の退魔師たちも混乱期にあり、東京地下勢力を押し返すことはできなかった。あわや全面戦争というところで、今上陛下の尽力と将門公の御力をお借りして、政府と地下勢力は友好条約を結ぶ。
そのようなことがあり、令和の今まで地下鉄の秘密路線や地下街は屍食鬼たちの縄張りとなっていた。
令和時代に入ってもその支配は続くと思われていたが、間宮小夜子が現れた。
地下世界をあっという間に平定し、その支配者となったのである。
駅長室から案内された関係者以外立ち入り禁止の秘密通路から、秘密ホームへ。そして、一両編成の専用列車に乗り込む。
「いつ見てもボロい電車じゃ」
小夜子はまたげんなりとした。
1960年代の列車がそのまま使用されているため、車両はボロい。扇風機が取り付けられている電車など、老人でもないと知らないものだろう。
「乗り心地もよくないものですが、こればっかりは仕方ないでしょう」
小夜子の私財で新調しようかと考えたこともあったが、相当の面倒さがあり諦めた。ここに新しい車両を持ってくるというだけで莫大な費用がかかる。
駅長が列車を出発させる。
ガタンゴトンガタンゴトン。
列車独特の振動は、どうしてか心地よい眠気をくれるものだ。
小夜子はうつらうつらとしながら、遠い前世のことを思い出す。
今となっては嘘のようなものであったとしても、かつての生命のことは思い出せる。
愛しいものも、憎いものも、恨んだものも、歓びも、全て過去のもの。
一度死に黄泉帰った次の生命であれば、古いモノは追憶の彼方となって新しき同じを得ていく。
ガタンゴトンガタンゴトン。
地下の奥深くへ列車は進む。
色褪せた記憶にも価値はあって、たまにそれを切なく思い出すこともある。
本気でそれに縋ろうというものではない。浸りたい気持ちになっているだけだ。大切であったそれらは、すでに追憶の彼方。
うとうとしている間に、終点に到着する。
東京の地下深くにある駅のホーム。
ここが本当に地下なのか、それとも異界であるものかも判然としない。
空を覆う岩盤には、青白く輝く菌類が茂る。
蒼白い光が天から降り散る薄暗闇の、東京地下大世界。
「いつ来ても、じめじめておるなあ」
小夜子は言って感傷的な気持ちになったことを自嘲する。
ここは黄泉平坂より死の気が薄い。そのせいか、過去に思いを馳せてしまう場所となっている。
自殺志願者がここに迷い込むことがあるというのも、うなずけるものだ。
蒼白い暗闇の奥から、ひたひたと白い影が現れる。
「今宵、この時を待ちわびておりました」
真っ白い肌の女である。
地下世界の屍食鬼。
暗闇で過ごす種族特有の真っ白な肌に、真っ赤な瞳。髪まで真っ白で、発達した耳は鹿のものに似て長い。そして、肉食の口元から覗く歯は鋭く尖っている。それ以外はほとんど人間と変わらないが、人を喰らう屍食鬼共。
「一か月ぶりじゃの、クマヒよ」
彼女は屍食鬼の姫君クマヒ。
彼らの使う文字は象形文字に似た紋様のごときもので、その言語を日本語にすると、クマヒが一番近い音となる。そのため、彼女を小夜子はクマヒと呼んでいた。
やろうと思えば彼らの言葉を発声することもできるが、平定したことを誇示するため、あえて人間の発音で呼んでいる。
「このクマヒ、小夜子様を待ちわびて眠れぬ日々を過ごしておりました。ささ、こちらへ」
クマヒの立ち振る舞いは高貴な人物のそれだ。
屍食鬼たちの文化的な服装をしているのだが、それは黒光りのする甲殻の鎧である。地下に生息する大百足の甲殻を使用した鎧めいたもので、その下に縄文時代風の貫頭衣を着ている。
どうしてか、ファンタジー風に見える衣装であった。
「いつもながら、その文化的な装束はカッコイイのう」
「過分なお言葉です」
クマヒは容姿を誉められたのが嬉しいのか、口元に笑みを浮かべた。ギザ歯がちらりと見えて、それがまた異相に妙な可憐さと色気を醸し出していた。
出迎えのクマヒに、小夜子は苦笑いを浮かべる。
屍食鬼の姫という立場のクマヒは、小夜子に首を垂れながらも、その視線はそろりそろりと若松に向いている。
この熱視線を受けている当の若松は、気づかないふりで小夜子の後ろに控えていた。
「うむ、参ろうかの。さ、若松よ、今日もよろしく頼むぞ。彼らに馳走してやれよ」
言外に「愛想よくしてやれ」という意味を込めて小夜子は言う。
「かしこまりました。準備は整っております」
若松は塩対応であった。
クマヒは若松の声を聴いただけで、我慢しているようだが口元が笑みに引き攣れている。それを隠しきれていないのがまたいじらしく、見ていてなんとも面映ゆい気持ちになる小夜子であった。
一行は地下世界を歩む。
時折、天井の岩盤から響く列車の走行による振動が、なんとも心地よい。
岩盤と発光する菌類を通したその音は、どこか不吉なのに心地よい音として耳朶にしんしんと染む。
少し歩くと、青白い光が地面からも発されるようになる。
石造りの都が見えてきた。
ゆらゆらと歩いている屍食鬼たちの姿が見て取れる。彼らの多くは現代日本の服装をしているが、中にはクマヒのような貫頭衣と甲殻鎧の者もいた。
「風光明媚とはこのことよの。いつ見ても美しい都市じゃ」
地下東京の幽玄な佇まい。
これぞ魔界都市の一部といった雰囲気、素晴らしいというのに、ここは小夜子の求めるものとは微妙に違っていた。それでも、美しいものは美しい。
石造りの都を、しゃなりしゃなりと小夜子が往く。
そのころ、鷲宮沙織と書記のメガネちゃんはえらいことになっていた。
駅前で拾ったタクシーで、「おじさん、前のバイクを追って」ということで乗り込んだ。得意のストーキングに加えて地元名家一人娘が財力の合わせ技である。
さて、タクシー運転手といえば、一度は言われたいセリフを聞いて中年のパワーで追跡を開始。浅草まで追いかけた後に、鷲宮沙織に料金を請求して今日は良い一日になると確信したというが、それは本筋と全く関係ない。
素人まる出しの尾行がよろしくなかった。
東京メトロのそこかしこを警護していた屍食鬼たちに、それはばっちり捕捉されていたのである。
すぐに捕まって駅のホームから暗闇に引きずり込まれた。
屍食鬼たちは、相手が不埒者や退魔師であればすぐに喰い殺していたが、どうにも普通の少女にしか見えないし、よくよく嗅げば若松と小夜子の残り香を感じ取れる、そういうこともあって躊躇した。
支配者たる小夜子の縁者であれば、勝手に喰い殺そうものならえらいことになってしまう。
「たすけて若松くんっ」
沙織が放った言葉も決定的であった。
屍食鬼共の神が小夜子だというのなら、若松は大恩人にして英雄である。
彼の名前を知るというのなら、手荒なことはできない。
そのような経緯で、沙織とメガネちゃんは催眠茸の胞子で眠らされた後、地下世界へ運ばれることになったのであった。