小夜子と兄上と
ヒルコの海、それはあり得ざる世界。
本来は概念的なものでしかなく、このような砂浜など無ければ実際の海でもない。人間にも神にも、それこそ伊邪那岐大神と伊邪那美大神でもなければ覗くことすらできない場所ですらない場所である。
ヒルコの海とは境界だ。
決して、生ある者やほとんどの神ですら越えることのできない【あちら側】と、現世を隔てる壁でもある。
ここを【生命の木】と呼ぶ者もいれば、所変わって一神教では【光ある前の闇】とも呼んでいる。
瓜子姫とは、【あちら側】からやって来た瓜を宿した姫だ。
天逆毎を代表とする天邪鬼は、瓜子姫を喰らう役割を持つ。人間があちら側の種子を拾うことを阻止する役割だ。
此度の戦いもまた、それである。
天魔雄は天野冴子という瓜を宿した女性と恋に落ちて、天魔雄が作り出した異界で愛を育み朱音が生まれた。
この時、冴子は瓜子姫の資格を失い、その娘である朱音に瓜は引き継がれた。
朱音は瓜子姫として、誠士と出会うはずだった。
瓜を狙う天逆毎に誠士が勝てるはずもない。昔話と同じように、瓜子姫は天邪鬼に喰われて死ぬ。
異類婚の末に生まれた神と人の合いの子が存在してはならない。朱音は瓜子姫の悲劇に則って、死なねばならなかった。
この世界で幾度も繰り返された宿命により、現代の瓜子姫の物語は終わるはずであったのだ。
そう、間宮小夜子と出会うまでは。
異界の大いなる生命と人の合いの子として生まれた魔人、間宮小夜子。
人類の敵となるべき原罪は、異界邪神トイレの花子さんの胎から産まれ直すことにより、すでに無い。
瓜子姫は、間宮小夜子と出会ってしまった。
あちら側より流れ着いた瓜は、間宮小夜子の気を受けた影響により、その姿を真似てしまった。
最初に動いたのは天逆毎である。
『鳴髪小夜子よ、ここはいかんぞ』
自らの権能により、幾万もの偽りの絶望を見せてやった。
鳴髪小夜子は、愛する男に裏切られるという悪夢を、限りなく現実に近い可能性として見せてやったというのに、一度も折れなかった人間である。
「ん、どんな妖術だ? お前の友達か、ええっと、あまざけ?」
鳴髪小夜子は、人の名前を覚えるのが苦手であった。悪意は全く無い。
『だれが甘酒じゃっ。我は天逆毎姫と言うであろうが。馬鹿なことを言うておる場合ではない。ここは叔父上のおる場所。常世と現世の狭間であるぞ。お前ら人間が来ていい場所ではない』
「なんかお前、急に味方になった感じだな」
天逆毎はぐぬぬと唸った。
決闘契約に敗北こそしたが、ついさっきまで権能によりある意味では精神が一体化していた。だから、鳴髪小夜子という魔人に、反逆神である天逆毎は親近感を持ってしまっている。
『ええい、そんなことを言うおる場合ではない。叔父上、どうしてこちらに来らるるか』
天逆毎が叫ぶ。
この空間では、水蛭子神に縛りは一切ない。最初に産まれた神として、あまりに大きな力を放ちながら、海の彼方よりやって来ようとしている。
「うわあ、相変わらず気持ち悪いなあ。海上封鎖してたキモ肉だ」
鳴髪小夜子は海を見やって、遠くからやってくる肉色の巨大ゼリーに厭な顔をした。
かつて、悪鬼羅刹の経験した未来では、海路を封鎖していたゼリー状の肉塊として水蛭子神はあった。近づいた原子力潜水艦が食われたことは記憶にある。
『叔父上よ、どうしてそのような姿となっておる。他の姿も取れように』
天逆毎はなんとか水蛭子神を止めようとしていた。
せめて人の形をしていたなら、まだ話もできた。しかし、今のアレは最も原型に近い姿だ。あれでは知性があるかも怪しい。
影の小夜子が口を開く。
『無駄じゃ。わらわを通して、間宮小夜子を知ってしまった今、もう止まらぬ。母の匂いに行き当たるまで止まらぬよ』
天逆毎は都牟刈の太刀を手に、叔父を斬らねばならぬと考えた。
あれが出てしまえば、瓜子姫と天邪鬼というくくりの話では済まない。世界など壊れてしまえと言ったが、何もかもがアレに飲み込まれるのはただの破滅だ。
「ええい、胡散臭いと思っていたが、そんなことを企んでおったか」
聖蓮尼が薙刀を向けてそう叫ぶ。
『仕方ないじゃろ。こうならんように、瓜子姫を使ってここを閉じてしまうか、天逆毎を流し遣って有耶無耶にしようとしていたのに、そこの女が勝ってしもうた』
桃太郎卿が剣を抜いて、影の小夜子を見据えた。
「分からんのう。そなたは蠅声なすクソガキの写し姿だというのに、どうして水蛭子神の案内などをしておる」
流石の桃太郎卿にも、この状況を打開する一手が分からない。この影を斬ったところで、状況が悪化する可能性もある。
『水蛭子神は、母親の匂いを嗅いでしもうたのよ。わらわを通して知ってしもうたからな。ヒルコの海を越えてでも、母に会いたいのじゃろう。もはや、止まらぬ』
間宮小夜子は、伊邪那美大神によって【あちら側】より戻った。
水蛭子神にとって、小夜子は母に見えているのかもしれない。
影の小夜子は言葉を続ける。
『こうなれば、ここを境界にするしかあるまい。聖蓮尼には悪いが、この山寺を現世より切り離して水蛭子神を出さぬしか、現世を守る方法は無かろう』
これには聖蓮尼の顔色も変わろうもの。
「な、な、な、私の寺だぞここはッ」
鬼に潰された上、敷地に訳の分からない柱を建てられたあげく、今度は現世から切り離す!? こんな暴挙が許されていいものか。
影の小夜子に自嘲的な笑みが浮く。
『御仏も、少数の犠牲で現世が平穏であれば御の字じゃろうの。ここに御仏の助力が無いということは、そういうことじゃ』
聖蓮尼は「ぐぬぬ」と唸る。
だいたいの場合、御仏は助けてくれない。
「聖蓮尼、携帯が通じない。返矢のことです、失敗と判断したら撃ってきますよ」
竹一郎は苦い顔で言う。
退魔十家のまとめ役である返矢左京であれば、この状況を失敗と見做して超小型核弾頭を撃つはずだ。それがどのような結果になるかは、誰にも分からない。
誠士と足長は、横に並んでそれを見ていた。
「あんなものに、勝てるのか」
「ありゃァ、無理そうだなあ。でもよォ、お前、桃太郎だろ?」
足長はそう言って、誠士を見た。
誠士は口元に浮く笑みを抑えられない。鬼にそんなことを言われるとは、思ってもみなかった。
「なあ、手長、さっき俺の式神になるって言ったよな。アレを倒すまでは式神になってくれるか?」
未だ足長に踏まれたままの手長は、きっと誠士を睨みつけた。
「おのれっ、今度はアタシを都合のいい女のようにッ」
「姉者、それは使い方がおかしいぜ。どうせ、負けたんだァ。乗ろうや」
足長の言うことにも一理ある。
どのみち、天逆毎は負けてしまってこのまま解放されたとしても、後でとんでもない折檻が待っているし、ここは勝ち馬に乗るのが得策というもの。
なにはともあれ、海から来る神を相手になんとかしてからの話だが。
「ええい、アタシら手長足長は、今よりお前の式神よ。存分に使え、望むならば夜伽の相手もしてやるよ」
「はは、それはやめとく。命が惜しかったら言うなよ。また天叢雲剣が飛んでくる」
誠士は空虚な笑いと共に、朱音を見た。
今は影の小夜子の足元で、立ち尽くしている。どう見ても、アレに支配されたものかまともではない様子だ。
「ひえぇ、怖い女じゃ」
「へっへっへ、母様と同じだァ」
軽口を済ませて絶望的な相手を見た。
影の小夜子の手立ては、きっと最善なのだろう。しかし、こんなところで死にたくはない。
皆がそうだ。
天逆毎も、天邪鬼軍団だってそうだろう。
時を同じくして、ギャル谷の駆るバイクは山寺まであと一歩のところにまでたどり着いていた。
タクシーが後を追っているが、バイクの方が早い。鬼のすり抜けを行って、市街地をすっ飛ばしてここまで来た。
ギャル谷の後ろには、小夜子が乗っている。
ようやく近場までたどり着いたところ、異様な視線を感じた小夜子。ただならぬものを感じ、バイク二人乗りの速度重視に切り替えていたのであった。
急なことで、小夜子はノーヘルである。危険極まりない上に犯罪だ。
「サヨちゃん、やっと迷わなくなったのはいいけど、なんかサイレン凄い鳴ってる」
ギャル谷の言葉は、ブルートゥースのインカムから小夜子に伝えられる。旅の途中、オートバックスで買ったものだ。
その言葉のとおり、役所の放送で避難指示が出ている。
「なんとかするから気にせんでよい。そこの坂を登っておくれ。登り切ったら、わさビーフの工場の看板が見えるでな、そこで止まれ」
坂道をバイクはフルスロットルで駆け上る。
小夜子が上空をじっと見つめた。
山寺の様子は、つい先ほどから妨害が失せてくれたのでだいたい分かる。そして、空の上を走るものにも気づいた。
「見えたっ、わさビーフ!」
坂を登りきると、市街地が見下ろせる場所に出た。遠くに目立つのは、お馴染みの牛のキャラクターが描かれた看板だ。どうやら工場があるらしい。
「ここで待っておれ。飛んでいく」
「えっ、なに、跳ぶって、えええぇ」
小夜子は二ケツの状態から、シートに立つと、そのまま空中を駆けて飛んだ。
縮地の応用で、短距離テレポートを連続で行って上空に駆けていく。
「えええぇぇ、そんなことできるの!? すげぇっ」
ギャル谷が口を開けてみている上空では、小夜子が超小型核弾頭を見つけていた。
超小型と言っても、その大きさは小夜子の身長ほどもある。
「まったく、面倒なことをしおってからに」
小夜子は着物の胸元をはだけ、そのまま諸肌を脱いだ。
上半身が露わになった状態で、核弾頭の前に空中で立ち塞がる。
「不味そうなものを食わねばならんとは、最悪な日じゃ」
小ぶりな小夜子の乳房の間に、縦に裂けた隙間が生じる。それはみるみる内に裂けて、牙の生え揃う巨大な怪物の口となった。
「よし、来やれ」
気合と共に、迫りくる核弾頭をその口がごくりと呑み込んだ。
「ふんっ」
小夜子は胸に生じた大口を閉め、全身に力を入れる。
核反応による爆発と飛散する放射性物質、それらが体内で荒れ狂う。同じことができる妖物がいたとして、飲み込んだ肉体は爆発四散するだけだろう。
小夜子にはできる。
異界の生命の肉体と、異界邪神トイレの花子さんを取り込んだ肉体は、体内の異空間でその破壊的なエネルギーを余すことなく飲み込んだのであった。
「な、なんというヒドい味じゃ。これはいかん、口直しになんぞ食わねば口が腐る」
めちゃくちゃ不味い。
今までこんなもの食べたことが無いというレベルで不味い。地獄という表現では生温いほどの不味さ。アルミ箔を噛んだ時の千倍は不味いというもの。
「む、今度はなんじゃ」
上空から地面に視線を移すと、山寺のある場所がなぜかビーチになっている。何がどうしたらそうなるのか、全く状況が分からない。
「……いきさつは分からんが、わらわを呼んでおるな」
そのまま小夜子は滑空してビーチへと向かう。
近づくにつれて、異界の海と知れる。そして、海の向こうは【あちら側】と通じていて、そこからゼリー状の肉塊がやって来ている。
「あ、子供のころのわらわとそっくりじゃ……。ということは、水蛭子神か」
【母上、母上、母上が戻られた】
小夜子だけは、水蛭子神の言葉が分かった。そして、どうして自らの魂がユッケ状の異界の生命に宿ったのかも、ここで理解した。
「水蛭子神よ、わらわは伊邪那美様ではないぞ。しかし、水蛭子神様は兄上のようなもの。今、そちらへ参るぞ」
流星のごとき勢いで、胸をはだけたまま肉塊のゼリーへと落下する。
【母上、母上、ようやく母上に会えました】
「いやいや、わらわは伊邪那美様とは別人。水蛭子神様、落ち着かれよ」
【母上の匂い、忘れてはおりませぬ】
「違うって言っておろうに、はなせ。身体をまさぐるでない」
肉色の触手が小夜子に絡みつく。
【母上の胸に抱かれとうございました】
全身に絡みついてくる肉の触手をぶちぶちと引き裂きながら、小夜子は理解する。
「このドスケベがっ、違うって気づいておったじゃろっ」
【母上、何を言うのですか。せっかく会えたというのに】
ゴミを見る目になった小夜子が、先ほど取り込んだ核分裂の力で肉塊を殴った。
「ボケが、今の明らかにおっぱい舐めておったじゃろッ。殺すぞ貴様!」
【痛ッ、すごく痛い。……母上の匂いを感じたのです】
「おのれ、その設定が通じると思うなよ。なんなんじゃ貴様は、ドスケベで境界から出てきおったんか」
【違う違う。呼ばれたし、なんか出てこーいって。それに、ほら、キミが影響を与えてくれたおかげで、オレも思考能力がスキっとしたから】
水蛭子神は触手を使って、影の小夜子がいる方向を指さした。
「んんんん、アレがそうか。しかし、わらわの分身にしては何か妙じゃな。なんぞ混じっておる」
【たまに外を見たくて、瓜を出してたんだけど、なんか人間の世界じゃ瓜子姫ってなってるみたい。で、それが、なんかキミの影響で変化しちゃって自我を持ったコピーみたいになっとるのよ】
「普通に話せるなら話せばよいものを」
【無理無理。人間はオレの声を聴いただけで発狂するし。それに、どうもオレが出るのって未来で確定してるみたいだから、呼ばれたら出たくなくても出ちゃう。出ちゃうの】
「いちいち言い方がいやらしいわッ。このセクハラ兄上。人間の世界では訴えられるぞ」
【冗談はさておき。オレは別に出ても出なくても一緒なんだよね。未来が改変されたら出ないってだけ。母上もそれが分かっててキミをこっちに呼んだんじゃない?】
「……分からんのう。時間については兄上が上手か」
魔人である小夜子をもってしても、時間は過去から未来への流れでしか認識できない。時折、ある程度の未来の可能性が分かるだけだ。
【もっと身体の使い方を覚えた方がいいね。どうよ、お兄様が教えてあげてもいいのよ?】
神特有のガバガバ倫理観であった。
「兄上はちょっと……」
【マジで言うのやめてよ。それはさておき、とりあえず、オレが出ないようにできるかやってみなよ。成功したら、未来でオレが完全に出ちゃうってのはなくなるはずだから】
「うむ、ではやってみようかの。兄上、成功したら次に会えるのはずっと先じゃな」
【もっと上手く身体を使えたら、また会えるさ。ま、失敗したら外に出て、一日にノルマ千人で人間を食べるから、そのつもりでね】
水蛭子神は、母である伊邪那美のためにそれをやると言っている。
「……困った兄上じゃ。あと、ドスケベはマジでやめろ。次やったら殺す」
【母上、母上、お会いしとうございました】
もう一回殴ろうかな。と、小夜子は思った。