聖蓮尼と朱音とお父さんのおはぎ
聖蓮尼と朱音はのんびりと茶を飲んでいる。
半壊した食堂はそのままにして、無事だったテーブルとイスを持ち寄って茶を飲んでいた。
季節外れに暖かい日だ。
例年の二月といったら、一年で最も寒い日が続くというのに、天気予報のお姉さんが言うところ四月中旬の暖かさがしばらく続くという。
「やはり、あたたかいほうがいいですね」
聖蓮尼が言うと、朱音もうなずく。
「冬場はホットじゃないと、冷えちゃいますよ」
お茶の話ではなく気候のことを言ったつもりだった聖蓮尼だが、ここは流してうなずいておくことにした。
「しかし、あの中はどうなっていることやら」
「ええ、こんなに不思議なことってあるんですね。今の今まで知りませんでした」
朱音のそれは本心だ。自分がその不思議に含まれていて、世の中にそんなものが存在していたということも、想像もしていなかった。
「うむ、中国の言い伝えで似たものを聞いたことがありますが、あれではまるで、ドラえもんの道具」
朱音は少しだけ笑ってしまった。
確かにそのとおりだったからだ。
彼女たちの見つめる先には、畳一畳分程度の鬼ヶ島があった。
余人が見れば、精巧なミニチュアの、ジオラマとも呼ばれるものだと思っただろう。絵に描いたような、見事な出来栄えの小さな鬼ヶ島がある。
桃太郎卿は、誠士を鍛えると言ってミニ鬼ヶ島を虚空から呼び寄せた。
誠士は桃太郎に連れられて鬼ヶ島へと吸い込まれていき、もう四日が経過している。
待つしかない聖蓮尼は二人の小夜子に連絡してみた。
間宮の魔人は道に迷って長野県で蕎麦を食ったり、山蜘蛛を退治したりしていて遅れるとのことだ。そして、ショタ食い性犯罪者も道に迷っており、今は京都にいて先ほど王冠を被ったイナゴの姿をした西洋悪魔の首を刎ね飛ばしたから、すぐに行くとのことである。
二人の小夜子。どちらも世間話のように言っていたが、あの感じだと虚言ではない。
あいつらヤベぇな、と聖蓮尼は思った。
「朱音さん、制御の方はいかがですか?」
「ええ、道反くんのお父さんが教えてくれたこと、できるようになってきました」
ケモノ女襲来の翌日、なんとか妨害をはねのけた道反竹一郎がやってきた。車で二時間の道のりは、まさに修羅道の有様。しかし、彼はたどり着いた。そして、今は本堂で読経を上げている。
精神集中のためだと言うが、息子の安全でも祈願しているのだろう。
「竹一郎めも立派になったもの。あの捻くれ者が、息子のためだけに神の意思をはねのけるなんて。私は成長が嬉しいです」
聖蓮尼にとって、竹一郎は後輩にあたる人物だ。子供のころから知っていて、あの鬼の面相からコンプレックスをこじらせて荒れていた時期もよく覚えている。
「いいお父さんじゃないですか」
「私が知るアレは、今でも子供のままでした。けど、今はもう立派な父親なんですねェ……、時が経つのは早いものです」
「……多分、あと二日くらいで来ます」
朱音はじっと湯呑を見つめて言った。
湯呑の中では茶柱がくるくると正確な円を描いている。
ごく初歩的な霊力の超能力変換だ。
これをやって、茶柱を自在に動かせる退魔師など存在しない。あまりにも非効率で、地味な修行にしか使えないのが、霊力の超能力変換だからだ。
一流の退魔術師であっても、朱音と同じことなどできようもない。茶柱を一周させれば、力を使い切ってもおかしくない。それを、朱音は一時間も維持している。
聖蓮尼の見るところ、朱音の行使している力は霊力ではない。朱音が霊力と認識したから、その形をとっているだけだ。
朱音を門として、彼方から漏れ出した【あちら側】の力である。
桃太郎卿はそれが何か分かっていたようだが、口にしないところをみると口にするだけで、【良くない】ことを呼び寄せる類か。
「間宮さんは便利な言葉を教えてくれました。【あちら側】、名を言ってはいけない場合にも使いやすいですし、神どもに気づかれるものでなし。大変良い言葉です」
もし、間宮小夜子がそれを聞いていたら、自分のことのように喜んだだろう。この言葉を最初に使用した、大好きな先生が褒められたなら、そうなる。
「えっと、どういうことですか」
「朱音さん、あなたの力は【あちら側】そのもの。瓜子姫というのは、瓜から生まれたと言いますが、きっと彼方から流れ着いたモノ」
その意味など分からなくていい。
神であれ、死なねばあちら側へは行けない。伊邪那岐大神ですら境界まで行って追い返された。
瓜子姫とは【あちら側】から流れ着いた瓜より生まれたる姫君。
「聖蓮尼さん、わたしには瓜子姫の記憶があります。私のことじゃなくて映像みたいな感じの記憶なんですけど、怖い変なモノとかに狙われて、誰かに助けられたり、そうじゃない時も」
「それは偽物の記憶ですよ。こういうものは、世の中に影響を受けます。だから、テレビで見たドラマか何かだと思うのがいいでしょう」
前世は誰それだった、という話は稀にある。しかし、それは今現在とは一切関わりが無い。
魂魄に刻まれた前世などというものは、落丁本か再生紙のようなものだ。
あくまで聖蓮尼の考えだが、人の魂魄は再利用されて生まれ変わる。
再生紙で言うなら、以前に少年ジャンプだったページの切れ端が端っこに残ってしまったようなものだ。それか、全く別の本のページが挟まれた落丁本。逆に希少価値が出ることもある。
結局のところ、人間などというものはそれほどいい加減にできているものだ。いい、の部分を「良い」とするかは人による。
「助かったり、殺されたり、でも、こんなことはなかったんです。あんな怖いモノは来なかったのに……」
ケモノ女の神を言っている。
アレは聖蓮尼でも経験したことがないレベルの神だ。信仰を失った稲荷や流行神などとは比較できない。
「大丈夫ですよ。我々が失敗したら、この土地ごと焼き払います」
聖蓮尼はなんでもないことのように言った。
神に対して確実な対抗手段を、人類は既に持ち得ている。
「え、それって」
「超小型核弾頭の手配は済みました。プルトニウムは神であれ焼き尽くします」
自然界に存在しないプルトニウムは、人類が作り出した神殺しの一つだ。
霊的存在の力が強いこの世界では、何十年にも渡って神への対抗策が模索されてきた。その中で、初期から確実な効果を実証しているのがプルトニウムである。
「ええぇぇ、そういう解決方法なんですか」
「失敗しても死ぬだけですし、後のことは後に生きる者たちに託せばよいのです」
どうやっても死ぬ時は死ぬ。
死生観は人それぞれだが、神などを相手にするのであればそれでよいと、聖蓮尼は思っている。若者にそれを強制するのは心苦しいが、生まれついた宿命とはそういうもの。そして、それを覆すことが可能だと知っていた。
神ならぬ人間にはそれができる。
「それ、大人が言っていいんですか」
「取り返しのつかないことをしながら齢を重ねていったのが大人というもの。取り繕うのが上手くなるだけなのですよ」
聖蓮尼は朱音が宿命を覆すことに期待していた。そして、そこには小夜子の影もいて、残る二人の小夜子も来るのだ。なんとかなるような気がする。
しばらくして、読経を済ませた竹一郎が手ずからこしらえたおはぎを持ってやって来た。
「聖蓮尼、この度は愚息のために骨を折って頂いて、なんとお礼を言ったらよいものか」
道反竹一郎は常からの鬼の形相で恐縮して言う。
その手におはぎを山盛りにした皿を持っているのが、なんともおかしい。
「よいよい。私も呼ばれたら嫌々ながら行ってたこと。偶然にここが中心になっただけです」
「あの、誠士くんはわたしのために」
「キミのためなら、それは頷ける。よく頑張ってくれたね、天野朱音さん」
竹一郎はそう言って、瓜子姫こと朱音に対しての庇護欲を自覚した。彼女を守らねばならないと、血がそう言っている。だから、当然のことだ。
「はははは、竹一郎も丸くなったものです。おはぎ、いただきますね」
鬼の面相をした竹一郎が台所にあったもので作ったおはぎだ。
今から修行してなんとかなるものでもなし、やることがないから作ったというものである。
おはぎを食べる聖蓮尼は、もこもごと口を動かしていて、竹一郎が子供のころから変わらぬ食べ方である。このお方の年齢については、口を出さない方がよいのだろう、と彼はいつものように考えた。
「あ、いただきます」
朱音も食べてみた。
おはぎ、家でも作れるんだ。という新鮮な驚きがあった。和菓子屋さんの設備でないと作れないものとばかり思っていたが、そうでもない。
スーパーなどで売られているものより、甘さが少なくあずきの味が強い。
「おじさん、美味しいです」
「それはよかった。若い子にそう言ってもらえて嬉しいよ」
鬼の面相が笑う。顔は怖いのに、なんだかいい人だなと思えてしまう笑顔だ。誠士の苦笑いは、これを屈折させたような印象だ。顔つきは全然違うのに似ている。
「竹一郎、そんなことを言うと綾子がまた余計な勘繰りをするぞ」
綾子とは竹一郎の妻で、誠士の母親だ。
竹一郎は妻のことを持ち出されて、露骨に顔を歪めた。
「妻のことは、ご勘弁を」
「あれには私がガツンと言っておくべきでした。誠士に母親らしいことをしたことなど無いでしょう」
「面目ない」
「あの、わたしが聞くとまずい話なんじゃ……」
「構いません。あなたもこれが終わったら、道反家に嫁入りするかもしれない身です。今の内に聞いておきなさい」
「えっ、嫁入りって、そんな」
誠士との口づけを思い出して、おはぎを持ったまま朱音はうつむいた。顔は真っ赤だ。
「聖蓮尼、妻のことは勘弁して下さい」
「結婚して二十年以上も恋愛しとる綾子がおかしいと、お前が言うてやらんからだ。アレは母親らしいことをしていないでしょう」
「そ、そのようことは」
「朱音さんが嫁入りしたとして、綾子のことですから竹一郎に色目を使ったなどと言いだすのは分かっています。そもそも、竹一郎よ、お前がアレを甘やかすから余計に悪くなる」
「あれはあれで、努力していますので」
「世間一般では悪妻と言うのです。朱音さん、もし綾子が変なことを言い出したら、私に電話しなさい。あの色ボケには説教してやらねばなりません」
「えぇぇ、もうそんな話なんですか。早いですってば」
鳴髪小夜子の時にしそびれたこともあり、誰かに説教をしたい聖蓮尼であった。
彼女らがこのようなことをしている間にも、誠士と桃太郎卿の修行はミニ鬼ヶ島内部では順調に進んでいた。
桃太郎の役目を得た者がやる修行である。
内部では無数の鬼との死闘が繰り広げられているのであった。
小夜子の影は、朱音の内部よりヒルコの海にいた。
波打ち際には様々なものが流れ着いており、海は荒れていた。
『わらわを生み出した理由、そろそろ教えてもらいたいものじゃな』
パラソル付きのテーブルで、海を眺めて影の小夜子は言う。
かつて、瓜子姫はここに流れ着いた。
桃太郎ですらも、それは同じだろう。いや、そういった意味では何もかもがここから来たというのも間違っていないのかもしれない。
現世の本体とも言える小夜子は気づいているのだろうか?
運命と宿命、それらの破壊者として小夜子はいるのか?
未だそれは分からないでいた。
聖蓮尼の住まう山寺に、最初に辿りついたのは二人の小夜子のどちらでもなかった。
中年男が石段を進んで、山門を通り過ぎる。その手には、布に包まれて桐箱に納められた一振りの剣がある。
びりびりとした神の気配で、結界が爆ぜた。
「来たな」
その時、おはぎを食べていた聖蓮尼は、言うと手に持っていた残りを急いで口に入れて茶で流し込んだ。
戦支度は済ませていない。嫌な時に来たと思いつつも、壁にかけてあった薙刀をもって、食堂に開いた穴から外に出る。
竹一郎もそれに続いた。
朱音はすうっと息を吸い込んだ。二人がどうなるかは分からない。ただ、その時にはできることをするだけだ。
やって来たのは、やつれた中年男だ。
なかなか男前の、細身の男で、どこか稚気を残したモテそうな男である。
「お前たちが、朱音を守っているのか?」
男が言うだけで、神の声による威圧が走る。
「成り行きでな。お前も、妖物ではなく神か。何の用だ」
薙刀の切っ先を向けてそう言った聖蓮尼は、竹一郎に目配せした。
それがどんな意味を持つか。竹一郎には分かる。
あの男もまた、どうにもならない相手の可能性が高い。だが、聖蓮尼は全力で相手をするつもりだ。そうなれば、朱音を連れて逃げろと言っている。
「……俺は、朱音の父親だ。人間の名前はどうでもいいだろう。天魔雄だ、娘を母から守りに来た」
天魔雄、九天の王にしてまつろわぬ神の王。天狗の始祖とも言われ、別の名前では信仰すら集めている。
「ほう、自ら名を名乗るか」
空気が粘度をもったように、身体に張り付く。神と相対すれば、何もかも空気ですらもが敵に回る。
名前を呼べばどうなるか。聖蓮尼は腹を括った。
「天魔雄よ、お前の言葉は全て逆の意味だと言われているが、どうだ?」
そうであれば敵だ。
「その縛りを解いたから、こんな身になっている」
男の、天魔雄はどこか自嘲的に言った。確かに、名前を口に出したというのに、聖蓮尼が感じるところで大きな変化は無い。
「では、なぜ息子が母に反逆する。アレとは同じ部類だろうに」
「俺が朱音の父親だからだ。信用はしなくていい。それなら、これを置いていくだけだ」
天魔雄が持っていた包みを解いた。桐箱に入っていながら、それは異常なる神気を放っており、天魔雄の手を焼いていた。中身は見えないのに、剣であると直感に語り掛けるほどの代物。微かに、潮の匂いがした。
「……よかろう、入れ。だが、何かあればその首を落とすからな」
薙刀の構えを解いた聖蓮尼は、天魔雄に背を向けた。
竹一郎は少し遅れてそれに倣った。だが、二人ともにかなりの勇気がいる決断である。九天の王であれば、背中から斬ることなど抵抗もあるまい。
「分かった。それから、朱音のこと礼を言う。ありがとう」
聖蓮尼は舌打ちを一つ。
やり難い。まだ伝承通りの悪鬼である方がマシだ。
親子の再会は、どこかあっさりとしたものだった。
「お父、さん?」
ある日、突然消えてしまった父親。
朱音とは微妙に距離があるけど、不器用なりに優しくしてくれた記憶はある。でも、どこか他人のような距離感だった。
「朱音、無事だったか。よかった……」
今も、その距離感は変わっていない。
「お父さん、どうして。知ってたの、このこと」
天魔雄は目を逸らして、いかにもばつが悪いという顔をした。
「そうだ。アレとはもう会ったみたいだが、あれはお前のお祖母ちゃんだ。すまない、アレの封印が解けているなど、思いもよらなかった」
「そんな、どうして」
「言っても信じてくれなかっただろう。アレの気配を感じて、俺を追ってきたと思って逃げたんだ。まさか、お前たちのところに来るなんて、思ってもいなかった」
朱音は何か言いたかった。だけど、言葉にならない。
どうしてこんなことに、と言いたいところはある。だけど、こうならないと、そんなこと言われても信じられなかっただろう。
「すまない。俺のせいだ」
「いまさら、謝らないでよっ」
謝る意味もないことだ。誰かが悪いということではないと、朱音は知っていた。
素戔嗚尊が一人で生み出した娘。その娘が、父に倣って一人で造り出した息子。それが天魔雄だ。
天狗、天邪鬼のルーツとされており、その言葉は右を左と言うような逆のことを言う性を持つ。反逆神の王。
そんな天魔雄も、娘の激昂に対して何も言えないでいる父親でしかなかった。