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Cafe Shelly

Cafe Shelly サンタの贈り物

作者: 日向ひなた

「せ~んせっ、こんにちは」

 私は勢いよくドアを開けた。

「おぉ、真理恵か。おまえいい加減、先生って言うのはやめてくれよ」

 私の声に応えてくれた男性はそう言いながらも笑って私を迎え入れてくれた。

「あ、真理恵さん、いらっしゃい。今日は裕貴くんは一緒じゃないの?」

 カウンターの奥からそう言いながら顔を出したのは、まだ若くてかわいらしい女性。

「うん、今日は保育園にあずけてきちゃった。たまには一人で羽根を伸ばしたいときもあるのよね」

 裕貴とは私の四歳になる息子のことである。

「真理恵、いつものでいいのかな?」

「うん、シェリー・ブレンドをお願いしまぁす」

 そう、ここはカフェ・シェリーという名前の喫茶店。ここのマスターは私の高校の頃の恩師である。といっても、もう十五年も前の話だが。

 高校を卒業してからしばらくは先生と会うこともなかったが、私の結婚式で再会。実は私の結婚相手というのが高校の先生で、以前はマスターと一緒の職場にいたことがあるのだ。先生、いや、マスターにはそれ以来いろいろとお世話になっている。

 マスターが先生を辞めて喫茶店を始めたときから、私はこのお店の常連客でもある。ただし来るときはほとんど一人だ。

「真理恵さん、どうぞ」

「ありがとう、マイちゃん」

 マイちゃんは私の高校の後輩でもある。つまりマイちゃんもマスターの教え子だ。

「う~ん、いい香り」

 私はシェリー・ブレンドの香りを楽しんでゆっくりと口に含んだ。

「真理恵さん、今日はどんな味がするの?」

 シェリー・ブレンドは飲むたびに味が変わる。マスター曰く、今その人が欲しがっているものの味がするらしい。私はこのシェリー・ブレンドの毎回異なる味わいを楽しみにしている。

「そうね、今日はちょっと懐かしい味かな。彼の、健介の胸に抱かれているって感じがする」

「そうか…もう三年も経ったのか」

 マスターがボソリとつぶやいた。そうか、もう三年も経ったんだ。私の夫、健介が交通事故で逝ってから。

 ちょうど三年前のことだった。車で学校へ通勤をしていた健介。その日は学校の行事の準備で夜遅く帰っていた。このとき、交差点で信号無視の車が健介の車の運転席側に衝突。健介はその場で帰らぬ人となった。後から聞いた話では、相手の運転手は忘年会帰りで飲酒運転をしていたそうだ。

 健介の死後、マスターは私の就職を紹介してくれたり、息子の裕貴の保育園を探してくれたりといろいろ面倒を見てくれた。

「真理恵、仕事の方はどうなんだ?」

 健介のことをボーっと考え始めた私にマスターがそう声をかけた。

「え、う、うん。クリスマスシーズンからは順調よ。おかげで仕事の日はちょっと忙しくて。裕貴とゆっくりお話しもできていないのよね。かわいそうだとは思うけど」

 私は今、とある大型雑貨店で働いている。仕事ぶりが認められ、今ではパートさん達を束ねる主任の役割をいただいている。

 お休みは毎週水曜日。それが今日なのだ。

 本当なら休みの日こそ息子の裕貴とゆっくり遊んであげたいところなのだが。職場では遅くまで働き、家に帰ったら息子の世話。このところ全く自分の時間というのがとれていない。だからこそほんのわずかでいいから自分の時間が持ちたくて。こうやって一人でカフェ・シェリーに足を運び、現実を忘れようとしている自分がいる。

「だったら一緒に連れてくればいいのに。私が裕貴くんのお相手してあげるよ」

「マイちゃん、ありがとう。でも今は裕貴からちょっと距離を置きたいって気分なのよね」

「あれ、何かあったんでですか?」

「うん、もうすぐクリスマスでしょ。裕貴ったらサンタさんに無理なお願いするんだもん」

「無理なって、どんなこと?」

「裕貴ったらね、パパに会いたいって言うのよ…」

 さすがのサンタもこればかりは無理な相談だ。でもパパに会いたい裕貴の気持ちもよくわかる。私だってできることだったら健介に会いたい。

「ねぇ、先生。サンタって本当にいるのかなぁ?」

 私はふとそんなことを口にした。

「サンタか。真理恵はどう思っているんだい?」

「そうね、子どもにとってはサンタって本当にいるんだと思うのよね。一年に一度、自分の欲しいものを持ってきてくれる。そんな魔法のような存在。私の子どもの頃はそうだったなぁ。マイちゃんはどうだったの?」

「サンタさんかぁ。私ね、こう思うの。姿形は子どもの頃に描いていたものとは違うけれど、サンタって大人になった今でもいるんだって」

「へぇ、どうしてそう思うの?」

「サンタさんを信じていれば、毎年必ずプレゼントが届いているからね」

 マイちゃんはそう言ってマスターの方をちらりと見た。

「あは、マイちゃんにとってのサンタさんは意外に身近なところにいるのかもしれないね。

あ~、私にもサンタさん来ないかなぁ~」

 そのときカウベルが鳴って店のドアが勢いよく開いた。

「う~、さびさびっ。マスター、ホット一つね。おっ、真理恵じゃねぇか」

「なんだ、隆史か。今日は仕事、さぼり?」

「バーカ、何言ってんだよ。こちとらこれから商談っていう立派な仕事があるんだよ」

 隆史はバカにしたような口調で私にそう言ってきた。そして図々しくもカウンターの私の隣に座ってきた。

「隆史さん、いらっしゃい。最近とても忙しそうね」

「マイちゃん、ありがとう。いやぁ、さすがに年末になると結構文具が出ていくからね。二代目のオレとしてもここは一踏ん張りしないとね」

 隆史は地元の文具店の二代目。お店も構えているが、仕事の多くは地元企業からの注文を取ってきては配達をするということらしい。ウチの店も隆史の文具店から事務用品を買っている。

 隆史は中学の時の同級生。私は女子校に行ったので、高校に入ってからは全く会うことはなかったんだけど、今の店に勤め始めたときに事務用品の購入を通じて再会した。

「ところで真理恵、おまえんとこのガキ、えっと…」

「裕貴よ。いい加減人の子どもの名前くらい覚えなさいって」

「そうそう、裕貴、ゆうき。その裕貴のクリスマスプレゼントって決まったのかよ? おもちゃならウチを通じて買えば卸価格で提供するぜ。テレビゲームは無理だけどね」

「裕貴のプレゼントかぁ…」

「なんだよ、浮かない顔をして。何かあったんか?」

「裕貴が欲しがっているもの、おもちゃだったらよかったんだけどねぇ」

「なんだよ、裕貴はどんなのが欲しいって言っているんだ? あ、わかった。ディズニーランドに連れて行けとか、そんなことだろう?」

「それもちょっと困るけど、それよりももっと実現不可能なことなのよね」

「あ、今度こそわかった。裕貴のヤツ、パパが欲しいとか言ったんだろう」

 隆史の言葉で私はドキッとした。

「パパならオレがなってやるって、いつもそう言っているだろう」

 隆史はふざけたように私にそう言った。

「な、なによっ。人の子どもの名前も覚えられないヤツにパパなんかになってもらいたくないわっ」

「おいおい、そんなにムキになるなよ」

 隆史はいつの頃からかよく冗談でそんなことを言い出していた。いつでもパパになってやるからな、だと。

 私は当然そんな言葉を真に受けてはいなかった。というよりも、今は人の言葉があまり信じられないというのが本音だ。信じられるのは恩師でもあるここのマスターとマイちゃんくらいなもの。

「ふぅ~っ」

 私は大きなため息をついた。

「人を信じられないから、サンタも信じられないようになったのかな…」

「真理恵、まだあのことを気にしているのか?」

「気にするなって方が無理な話よ!」

 私は隆史にちょっと八つ当たり。

「あんなヤツのこと、早く忘れろよ。確かにヤツは、慎二はお前に優しかったさ。でもその優しさにまさかあんな裏があるなんて、オレも、そしてマスターでさえも見抜けなかったんだから」

 健介が死んでから、私はがむしゃらにがんばってきた。でもその頑張りが逆に私の体を蝕んでしまった。

 ある日、私は過労で倒れて県立病院に運ばれた。その時の担当医、それが慎二だった。歳は四十でとても頼れる男性だった。

 そして慎二は私が退院してもときどき連絡をくれて体を気遣ってくれた。聞けば独りでアパートに住んでいると言うこと。私もお礼がてら、ときどき慎二に手料理を持っていくようになった。そしてお互いに時間を合わせて外で会うようになった。

 このカフェ・シェリーには何度も連れてきた。慎二の存在は私の枯れた気持ちを生き返らせてくれた。

 しかし私の胸の中にはまだ健介がいた。だからこそ、ずっと健全なおつきあいをしてきた。しかしそれも一年前のあのことで全て終わりになった。

「まさか、慎二に奥さんがいたなんてね…」

 私はボソリとつぶやいた。そう、彼は奥さんと離れて単身赴任をしていたのだ。それがわかったのは、私が慎二のところにお総菜を持っていったときだった。

 突然奥さんが訪ねてきた。手には離婚届を持って。そのとき、慎二と奥さんは事実上離婚状態だったとか。

 そのことを奥さんから聞かされ、そして

「あなた、あとは慎二のことよろしくお願いね」

とあっさり言われた。

 そのとき私の中で何かがはじけた。慎二は私を愛していたのだろうか。それを確認するように私は慎二を見つめた。

 だが慎二の目線は奥さんを追っていた。慎二は奥さんに未練があったようだ。

 どうやら私は慎二の一時の寂しさを紛らわせるための道具に過ぎなかったみたい。それがわかった瞬間、私は慎二の部屋を飛び出していた。

 それから一度も慎二とは会っていない。風のうわさでは、単身赴任の任期も終えて元の病院に戻ったとか。

 それ以来、私に優しさを見せる人を安易に信じられなくなった。マスターとマイちゃん以外には。

 今目の前にいる隆史も、ふざけあうことはしても男女の仲にはなろうとは思えない。隆史なりに私に気を遣ってくれているのはとても感じてはいるのだが…

 そんな私がサンタを信じろ、というのが無理な話だ。

「あ、いい匂い」

 自己嫌悪に陥りそうな私の気持ちを取り戻してくれたのは、焼きたてのクッキーの匂いだった。

「うん、上出来♪」

 マイちゃんが上機嫌でオーブンからクッキーを取りだしている。このクッキーはカフェ・シェリーでも評判の、自家製のもの。

 マスターの妹さんはお菓子屋さんをやっていたことがあって、マイちゃんは学生時代にそこでアルバイトをしていたということ。そのときにクッキーやマドレーヌといった焼き菓子の作り方を伝授され、その腕をこの店で振るわせている。

「はい、どうぞ」

 そう言ってマイちゃんは私と隆史に一枚ずつクッキーを差し出した。

「いいの? これ、売り物でしょ」

「お、うめぇなぁ。さすがはマイちゃんだ」

 私の気遣いをよそに隆史はクッキーをほおばっている。

「あは、うれしいな。私ね、こうやって自分が作ったもので人が喜ぶ顔を見ると、またがんばろうって気になれるの。だからこうやって出来たてをお客さんに差し出してるの。その代わりに一枚だけだけどね」

「そうなんだ。せっかくだから裕貴のおみやげに一つ買っていくわね」

「真理恵さん、ありがとう。今の真理恵さん、私にとってはサンタさんだよ」

「え、それどういうこと?」

 マイちゃんが言う「私がサンタ」という意味がよくわからなかった。きょとんとしている私をみて、今度はマスターがこう語ってくれた。

「マイはね、こうやってクッキーやお菓子を焼くときに必ずこんなひとりごとを言うんだよ。私のつくったお菓子でたくさんの人が笑顔になれますように。そしてその笑顔をみることで私にも幸せを感じさせて下さい、ってね」

「うん、今の真理恵さんの笑顔と、そしてクッキーを買ってくれたことで裕貴くんが笑顔になれるって思ったことで、私は幸せを感じられるの。だから私に幸せを運んでくれた真理恵さんが、今の私にとってはサンタさんなんだよ」

「そう言われると私も嬉しいな」

 このカフェ・シェリーで会話をすると、いつも心が和む。ここに来るお客さんたちはこうやってマスターとマイちゃんを取り囲んだ会話で心の洗濯ができる。

「お、そうだそうだ。真理恵、クリスマスイブの夜にここでパーティーやるんだけど来るか? パーティーといってもそんなに派手じゃないけど。隆史くんもどうだい?」

「え、マスター、オレもいいんですか? もちろん行きますよ!」

 隆史は二つ返事で大喜び。

「イブの夜かぁ…仕事が終わるのがちょっと遅くなるけど…」

 私はちょっとためらった。クリスマスイブの日は仕事の性格上どうしても忙しくなる。しかし理由はそれだけではない。

 マスターとマイちゃんとだけだったら息子の裕貴を連れて喜んで行くところ。けれど隆史や他のお客さんも一緒というのは今ひとつ馴染めない。昔はそうじゃなかったのに。

 やっぱり慎二の件が心に引っ掛かっているんだろうな。

「遅くなるんだったらオレが迎えにいってやろうか?」

 私が考え込んでいるのをみて、隆史がそう提案してきた。隆史は私がもっと別のことで悩んでいることを知らない。まぁ当然だけど。

「そうね、考えとく。じゃ、マスターごちそうさま。そろそろ裕貴を迎えに行くわね」

「なんだよ、もう帰るの?」

 隆史は名残惜しそうにそう言った。私だって本当はもうちょっとここにいたい。けれど今はなんとなくここを去りたい気持ちが強くなった。

「真理恵、クリスマスイブのパーティー参加の返事はいつでもいいから。もちろん裕貴くんも連れてこいよ。プレゼント用意して待っているぞ」

「先生、ありがとう。じゃ、マイちゃんもまたね」

 私は足早に店を出て行った。

「クリスマス…か。人を信じ切れないこの私にサンタさんなんて本当に来るのかしら…」


「ゆうき~、むかえにきたよ~」

 カフェ・シェリーを出て、私はそのまま裕貴をあずけている保育園へ向かった。お迎えの時に先生がちょっと気になることを言った。

「ゆうきくん、サンタさんにはパパをお願いするんだって言っているんですよ。でもお友達からは、いくらサンタさんでもそんなのできっこないって言われて。それでケンカになっちゃって」

 それを聞いて私の胸はズキンとなった。

 裕貴はパパの、健介のことは写真でしか知らない。私も裕貴がまだ小さかった頃はよく健介の話をしたけれどまだ二歳くらいだったから覚えているわけがない。慎二と出会ってから健介の話しをすることがなくなったし。

 だから裕貴は本当のパパである健介のことはよく覚えていないはずだ。

「ママ~」

 保育園の奥から元気な声で駆け寄ってくる裕貴。

「ママ、あのね、サンタさんはパパをつれてきてくれるよね」

 何かを訴えるような目で私を見つめる裕貴。でも私はどうしてもその答えを口に出すことができない。

 私だって誰か男の人を信じて、そしてそれにすがってみたい。一人で強がって生きていたくない。でもどうしても今は誰も信じられない。

「サンタさん、か…」

 そうつぶやくので精一杯だった。


 そうして気がつけば明日はクリスマスイブ。雑貨店としては一番のかき入れ時で忙しさも倍増。私はその波にのまれながらもなんとか毎日を送っていた。

 あれから休みが取れなくてカフェ・シェリーには足を運んでいない。そういえばクリスマスイブのパーティーへの参加連絡もしていないな。どうしよう。

 そう思ったときにバックヤードの奥から聞き慣れた元気な声が聞こえてきた。

「はい、じゃぁファイルを一ケースですね」

 うちのマネージャーと会話をしているのは文具の御用聞きに来ている隆史だった。隆史はマネージャーとの会話が終わると、私の姿を見つけて一目散に駆け寄ってきた。

「よぉ、あれから元気だったか?マスターが心配してたぞ」

「うん、お店の方が忙しくてね」

「おまえ、カフェ・シェリーのクリスマスパーティー、行くんだろ?」

 行くんだろ、と言われても気持ちの上ではなかなか返事が返せなかった。なのに口の方が勝手にこんな言葉を発していた。

「う、うん。この日は夜八時まで仕事だけど。それからでよければね」

 自分でもなぜそう言ったのかはわからなかった。

「でも、裕貴はどうしよう?明日は遅くなるから、おばあちゃんにお迎えをお願いはしているんだけど」

 私の実家は今住んでいるところから少し離れたところにある。私が忙しいときには私の母が裕貴の面倒を見てくれているのだが、先日クリスマスイブの日のお迎えを頼んだら

「クリスマスくらいは子どもと一緒にいてあげられないのかねぇ」

と少し嫌みを言われてしまった。私の母は時々ひとりごとのように愚痴を言うことがある。私に向かってハッキリと言ってくれたほうがスッキリするのに。

 陰で何を言われているかわからないと思うと、実の母でさえ信じられなくなる。

「よし、オレが裕貴を迎えに行ってあげるよ。先にカフェ・シェリーにあずけておけば、マイちゃんや他のお客さんが遊んでくれるだろう。その後時間を見て真理恵を迎えにいくよ」

「え~、でもお店はパーティーの準備で忙しいんじゃないの。裕貴、じゃまにならないかなぁ」

「大丈夫。そんときはオレが責任を持って遊んであげるからさ。ね、そうしようよ」

 隆史の提案はとてもうれしかった。素直にそれを受け入れてありがとうって言えればいいのに。

 私が黙り込んでいると、隆史は明るくこう言ってくれた。

「よし、決定!保育園には明日オレが迎えに行くって伝えておいてくれよ。じゃないと誘拐犯に間違われちゃうからな」

「え、あ、うん、わかった」

 私は隆史の勢いに押された形で思わず返事をしてしまった。隆史は私の返事を聞くと、スキップをして店を出て行った。

 逆に私はふぅっとため息。自分の気持ちは本当にクリスマスパーティーに行きたかったんだろうか。行ってみたい気持ちはすごくある。私だってパーティーではしゃいでみたい。でも、そんな自分を他人に見せるのがなんとなくイヤ。

 本当の自分の姿を人に見せたくない。

「うそつき!」

 え、誰? 私はあわてて周りを見回した。

 けれどお店の隅にいた私の周りには誰もいない。しかし、確かに今私の耳には「うそつき」と聞こえた。

 一体誰の声?

 うそつき、私が?

 そう、確かにうそつきかもしれない。私は本当は自分を多くの人に見てもらいたい。そしてもっとかまってもらいたい。そのためには人を信じて、疲れたときには人にすがってみたい。もっと素直に自分を表現してみたい。

 なのに私は何に意地を張っているんだろう。

「真理恵さん、レジお願い」

 マネージャーの声で私は我に返った。そうだ、今はそんなことを考えている場合じゃなかった。私は再び忙しさという海の中にダイビングをするようにレジに向かって走っていった。


「わかった?文具屋さんのたかしおじちゃんがむかえにくるから。それからマイねえちゃんのいるコーヒーやさんにいくんだよ。ママはおしごとがおわってからいくからね。いい子にしているんだよ」

 クリスマスイブの朝、私は息子の裕貴に今日のことを説明した。

 裕貴はマイねえちゃんが大好きで、カフェ・シェリーに行くといつもニコニコ顔になる。今日ももちろんにっこりと笑ってくれるだろうと思ったのだが、今ひとつ乗り気でない顔つき。

 その理由はやはりこれだった。

「ねぇ、いい子にしてたらサンタさんきてくれる? ボクにパパをつれてきてくれるかなぁ。おもちゃもおかしもいらないから。サンタさん、パパをつれてきてほしいなぁ」

 つぶらな瞳で私をじっと見つめる裕貴。そんな裕貴を見ていたら、胸の奥から何かがこみ上げてくる。

 私は裕貴をギュッと抱きしめて、そっと耳元でこう伝えた。

「うん、きっと来るよ。いい子にしていたらサンタさんきっとくるよ」

「じゃぁ、ママもいい子にしてね」

「えっ?」

「だって、パパはママのところにもくるんだよ。だからママもいい子にしていないとサンタさんはママのところにパパをつれてきてくれないんだよ」

「そうだね。うん、そうだね」

 裕貴は私の心を映し出す鏡のようだった。

 本当は私だって誰かにすがって生きていたい。心から人を信頼して、自分の心を楽にしていたい。そんなパートナーが欲しい。

 死んだ健介は本当にそんな存在だった。けれど健介はもう戻っては来ない。

「ゆうき、ママもいい子にしてるからね。だからサンタさん、きっとくるよ」

 これは裕貴にではなく自分に言い聞かせた言葉。

 こうしてクリスマスイブの朝、私は裕貴を保育園にあずけて戦場となる職場へと向かった。

 この日はクリスマスプレゼントの最終戦。朝から地獄のような忙しさだった。気がつけば閉店時間の午後七時。

 スタッフもだいぶ疲れてはいるが、若い子はこれから友達や彼氏とクリスマスを楽しむと言うこと。

「真理恵さんはこのあとどうするんですか?」

 片づけの最中、アルバイトの大学生にそう聞かれた。

「あ、うん。行きつけの喫茶店のパーティーに誘われているから」

「あれ、加藤さんとデートじゃないんですか? 昨日、加藤さんが迎えに来るとかっていう話をしてましたよね」

 加藤さんとは隆史のこと。どうやら昨日のやりとりを見られていたらしい。

「あ、加藤さんも喫茶店の常連さんだから。二人でデートってわけじゃないのよ」

「へぇ、そうなんですか? いつも仲良く話しをしているから、てっきりそうじゃないかと思っていたんですけどね」

「あはは、あっちが勝手に親しげにしてるだけだよ」

 口ではそう言ったものの、そう言われて悪い気はしなかった。

 隆史はノリが軽いところはあるけれど、仕事は一生懸命で信頼感はある。この歳まで独身だったのは、本人曰く仕事一筋だったからということらしい。

「まりえ~っ、おわったかぁ~?」

「あ、うわさをすればなんとやら。真理恵さんお迎えですよ」

 もう少しで片づけも終わろうというところで隆史が登場。

 「まったくもう、あいつは少しは空気を読めってのよ。こっちはまだスタッフみんなで片づけしているところなのに。別にあいつとデートをしようってわけじゃないんだからね」

 私はみんなに聞こえるように、わざと大きな声でそう言った。ちゃんと言い訳をしておかないと後で何をうわさされるかわからないからな。

「真理恵さん、こっちはもういいよ。あとはボクの方でやっておくから。加藤さんがせっかく迎えに来ているんだから行っておいで」

 マネージャーが気をつかってそう言ってくれた。

「いえ、仕事は最後までやりますよ」

「大丈夫。ほら、行っておいで」

「で、でも…」

「真理恵さんはいつも最後まで残ってくれているんだから。今日ボクたちが真理恵さんにお返しする番だよ。こんなことしかできないけれど、これがボクたちからのクリスマスプレゼント。さ、加藤さん待ってるよ」

「あ、ありがとうございます」

 心の奥がなんだかジーンときた。私はみんなにお礼を言って、バックヤードで待っている隆史のもとへ向かった。

「真理恵、おつかれさま。マスターが真理恵にって、これ」

 隆史が差し出したのは保温のできる水筒。

「疲れた体を癒すのに、特製のシェリー・ブレンドだって」

「ありがとぉ」

 こんなときにはシェリー・ブレンドはとてもありがたい。私は車の中で早速シェリー・ブレンドをいただいた。

「今日の味はどんなだい?」

「うん。疲れが吹き飛ぶって感じ」

 仕事から解放された安堵感と、これから楽しもうという期待感が入り交じった感覚だ。

 そしてもう一口。

 このとき今までにない不思議な味わいが口の中に漂ってきた。何、この味。

 隆史は私が妙な顔をしているのに気づいたようだ。

「どうした?何か不思議な味でもしたのか?」

「な、何なの。私、どうかしちゃったのかしら」

 その後、なぜか目の前の景色がうまく見えなくなった。

 目の前がうまく見えない理由はすぐにわかった。なぜだか涙があふれていたからだ。

「真理恵、どうした?」

 私の様子がおかしいのに気づいて、隆史はそう聞いてきた。

「ううん、なんでもない」

 そう言いながらも私はハンカチで涙をぬぐう。

「おまえ、泣いているのか?」

「うん、どうしちゃったのかしら。シェリー・ブレンドを飲んで泣いちゃったのって初めて…」

 今まで幾度となくシェリー・ブレンドを飲んできたが、こんなことは初めてだった。

 気をつかったのか、隆史は黙ったまま車を走らせてくれた。

 そうしてカフェ・シェリーに到着。

「あ、ママー!」

 私の姿を見るなり、裕貴は駆け寄って抱っこをせがんだ。

 店は顔なじみの常連客とマスターとマイちゃんを合わせて十名ほど。こぢんまりとはしているが、みんなとても楽しそうな笑顔だ。

「ゆうき、いい子にしてた?」

 裕貴の頭をなでながら、私はそっと裕貴を抱きしめた。

「ママ、おかおがつめたぁい」

「ごめんごめん」

「裕貴くん、とってもいい子でしたよ。マイ姉ちゃんのお手伝いもしてくれたしね」

「うん!」

 マイちゃんがそう報告してくれた。

「真理恵、おつかれさま。一杯飲むだろう?」

 マスターがビールとグラスを持ってきてくれた。

「先生、ありがとう」

 私は差し出されたグラスを手にして、つがれたビールを一気に飲み干した。

「先生、特製のシェリー・ブレンドありがとう。でもちょっとおかしな事が起きたのよ」

「ん、どうしたんだ?」

「最初に一口飲んだときには、疲れが吹き飛ぶ爽快感って感じがしたの。これは仕事で疲れていたからだってのはわかるのよ。でも次に飲んだときに、なぜだか涙が出てきちゃって…今までこんなことなかったのに」

「そうか。真理恵はそれをどうとらえる?」

「わからない。それがわからないのよ。私は何を欲しがっていたんだろうって考えちゃった」

「そうだな。真理恵は今までどんなときに涙を流したのかな?」

「いろいろあるわよ。一番最近泣いたのは、慎二と別れたときだったかな。そして一番たくさん泣いたのは健介が死んだとき…あ、いや、あのときはあまり泣かなかったなぁ」

 今思えば健介が死んだときには私はあまり泣かなかった。その理由の一つは、現実を受け入れることができなかったこと。そしてもう一つの理由は、ここで自分が弱い人間であることを人に見せたくなかったこと。

 思えばこの頃から私は周りの人に対して意地を張って生きてきたような気がする。

「考えてみたら、心の底から涙を流したってことないかもしれないなぁ」

「そうか。じゃぁ昔はどうだったんだ? そういや真理恵は高校の頃は泣き虫だったような記憶があるな」

「やだぁ、先生ったら。あの頃はまだ私も純粋で若かったのよ」

「そういや真理恵が一番泣いたの、覚えてるぞ。確か文化祭の打ち上げ式の時だったな。真理恵はずっと裏方で、目立たない仕事を地道にやってきたんだよな。舞台裏で指示を出したり、校内の掲示物をチェックしたり、みんなが気持ちよく文化祭を過ごすために一生懸命だったよな」

「うん、あのときは文化祭が終わったと思った瞬間、なんだか涙があふれてきちゃって。感動したというか、使命を果たし終えた安堵感というか。あれ以来、あんなふうに涙を流した事ってなかったかも。自分に素直じゃないのかな…」

「真理恵さん、ワインいかが?」

 カウンターでマスターと話しをしているところに、マイちゃんがワインを差し出してくれた。

「あ、ありがとう。いただくわ。そういえばマイちゃんって最近どんなことで泣いた?」

「え、私ですか?う~ん…そうねぇ、この前見た映画、あれは感動して泣けたなぁ。あれはマスターも思いっきり泣いてたもんね」

「いやぁ、あの映画は久々に泣けたなぁ。真理恵は映画とか見て泣かないのか?」

「最近はダメね。泣きたいけれど、ここはガマンしなきゃって思っちゃうのよ」

「真理恵、おまえうそつきだろう?」

「えっ!」

 マスターのこの言葉に、私はビックリした。そう、この前どこからか突然聞こえてきた「うそつき」という言葉。ひょっとしてあの言葉は今のマスターの言葉だったのだろうか?

「マスター、それはちょっと…いくらなんでも…」

「いいのよ、マイちゃん。それよりも教えて。うそつきってどういう意味なの?」

 私はマスターの言う「うそつき」の意味が知りたくてたまらなかった。

「真理恵、自分でもうすうすは気づいているだろう。何に対してうそをついているのか」

「うん…」

 私はわかっていた。わかっていたけれどそれを認めたくはなかった。

 でも、マスターとマイちゃんにならそんな自分をさらけ出すことができる。そう思った。

「私、どうしても自分の気持ちとは違うことを言ったりやったりしちゃうのよ。だから泣きたいのに泣かないって思ったり、人に意地を張ったり。そうしないと自分が壊れてしまいそう。もう人にはだまされたくはないから」

「そうか、自分を守るため、か」

「自分を守るため…」

 マスターの言葉を私は復唱した。

「そう、自分を守るため。無防備に自分自身をさらけ出してしまうと、そこにある弱みをパクリと食べられちゃう。だから自分を守るためのバリアーを張らなきゃいけない」

「そのバリアーが自分へのうそってこと?」

「そうだな。敵を欺くにはまず味方から、ってことになるかな。自分自身にうそをつかないと、周りの人をごまかすことはできないからね」

「じゃぁ、私はこの先自分を守るためにずっと自分にうそをついていかなきゃいけないの? それ以前に人ってそうしないと、うそをつかないと自分を守れないものなの?」

「真理恵、おまえは私やマイにうそをついたことがあるか?」

「ううん、ない」

 それだけはいえる。マスターやマイちゃんにうそなんかついたことはない。虚勢を張って自分を守ろうとしたことなんかない。それどころか、ここだけが私の憩いの場だと思っているのだから。

 そのことを伝えると、マスターはこんなことを言った。

「真理恵、そう言いながらもお前は一つだけ私とマイにうそをついているぞ」

「え、私うそなんかついていないよ」

「いや、残念ながら真理恵自身も気づいていないうそをついているんだよ」

「自分も気づいていないうそって?」

 私はマスターのいううそが何なのかを知りたくてしょうがなかった。しかしそれを知るのはこの一言で後回しになってしまった。

「ママー、あっちでお料理食べよう」

 息子の裕貴が私を誘いにきた。裕貴が指差す方を見ると、隆史を始め常連さん達が私のことを待ちわびていた。

「うん、わかった。先生、私のついているうそ、後から教えてね」

「いや、教えなくてもそのうち気づくよ」

 マスターの「そのうち気づく」という謎の言葉が気になりつつも、裕貴が引っ張っていく方へと足を向ける私。とりあえずこの場は雰囲気を壊さないようにみんなとおしゃべりを楽しむことにした。


 その後、パーティーも一段落。

「よし、みんなコーヒーでも飲むか?」

「おっ、そりゃいいね。マスター、シェリー・ブレンドお願いね」

 常連の一人がマスターの声にそう応えた。

「わかってるよ。今日のシェリー・ブレンドは特別製だぞ。マイ、手伝ってくれ」

「は~い」

 マスターとマイちゃんはカウンターでコーヒーの準備。裕貴は疲れたのか、私のひざの上で眠っている。

 私は裕貴の頭をなでながら、マスターが言った「自分でも気づいてないうそ」について頭をめぐらしていた

「はい、真理恵さん」

 私がぼーっと考えていたら、マイちゃんがシェリー・ブレンドを持ってきてくれた。

「あ、ありがとう」

 早速一口。

「ん、おいしい。疲れた頭がよみがえるって感じね」

 お酒が入っていたせいもあったのだろう。さっきまで頭がうまく回らなかったのが、シェリー・ブレンドのおかげでシャキッとなった感じがした。

「今日のシェリー・ブレンドはいかがですか?」

 マスターがみんなにそう尋ねた。すると真っ先に隆史が手を挙げてこんな答えを返した。

「はいっ。なんだか勇気が湧いてきました。心の奥からみんなの応援が聞こえてきた気がしますよ」

 隆史ったら何を言っているんだろう。突然変なことを。

 しかし、常連の一人が突然こんな声を。

「がんばれよ、隆史!」

 一体何をがんばるの?

 私がキョトンとしていると、なんと隆史が私の方へどんどん歩いて来るじゃない。え、一体何なのよ? その顔は今まで見たことないくらいとても真面目な顔。

 隆史は私の前で立ち止まり、一度ネクタイを整える。

「隆史、どうしたの?」

 隆史の突然の行動、意味がわからない。隆史はなぜだか緊張して私のほうをじっと見つめている。そして意を決したようにおもむろに口を開き始めた。

「ま、真理恵…いや、真理恵さんっ」

「隆史、一体どうしたの?」

 隆史は私と向かい合い、一拍おいて今度は私の両肩に手をあててきた。

「今まで真理恵のことをずっとみてきた。友達としておまえのことを支えていこうと思っていた。おまえと、そして裕貴の二人を幸せにしたい。だんだんその気持ちが大きくなってきた。だから…だから…」

 え、なに。これってひょっとして…

「だから、オレと結婚してくれ。今度はふざけていっているんじゃない。心から本気で言っているんだ」

「ちょ、ちょっと待って…」

 突然の出来事に私は何がなんだか頭がパニック。でも私の混乱を落ち着かせてくれたのは、マスターのこの言葉だった。

「真理恵、ゆっくりとシェリー・ブレンドを飲んでごらん」

 私はマスターの言うとおりに、飲みかけだったシェリー・ブレンドを口にした。このときにあの感覚が私に再び訪れた。

 そう、ここに来る前に隆史の車の中でシェリー・ブレンドを飲んだときのあの不思議な感覚。

 気がつくとまた涙が出てきた。

「真理恵、今どんな感じだ?」

「先生…わかった、私わかった。ここに来る前になんで涙が出たのか。そして今どうして涙が出ているのかも。私、これが欲しかったんだ…」

「真理恵、一体何が欲しかったんだ?」

 隆史が心配そうな顔で私をのぞき込みながらそう聞いてきた。

 私はひざで眠っている裕貴の頭をなでながら、ほほに伝わる涙を手でぬぐって隆史に精一杯の笑顔でこう答えた。

「私ね、私、今気づいたの。これ、嬉しいって感情なんだって。やっと思い出したの。心の奥から嬉しい時って、こうやって涙があふれてくるものだってことを。私、これが欲しかったんだ」

「真理恵…じゃぁ…」

「うん。自分に素直になれたのは隆史のおかげ。隆史がずっと私のことを見守ってくれたから、今ようやく自分を取り戻すことができた。だからこの先もずっと私のことを見守って欲しい。ずっと私のそばで。そして裕貴のことも。裕貴のパパになって、ね」

 この瞬間、見守っていてくれた常連客から大きな拍手が。その音のせいとただならぬ雰囲気を感じたのか裕貴がゆっくりと目を覚ました。

「ん…パパ?」

 裕貴は何の夢を見ていたのだろうか。寝言のような言葉だったが、隆史は裕貴を抱き上げてこう言ってくれた。

「うん、今からオレが裕貴のパパになるんだよ」

 その言葉に裕貴はパッと目を覚まして、その目を輝かせた。

「わぁ、サンタさんほんとうにきてくれたんだ!」

「そうだね、サンタさんゆうきのところにきてくれたね」

「じゃぁ、ママのところにもサンタさんきてくれたんだ。ママ、いい子にしてたもんね」

 裕貴の言葉に周りのみんなは大笑い。私もつられて、涙を流しながら一緒に笑った。


 パーティーも一通り終わり常連さん達はみんな家路についた。残ったのはマスターとマイちゃん、私と裕貴、そして隆史の五人。

 私は後片づけを手伝い、隆史はもう一度夢の中にいる裕貴を抱っこしてくれている。テーブルを拭きながら私はマイちゃんにふと疑問に思ったことを質問してみた。

「ねぇ、カフェ・シェリーでクリスマスパーティーやるのって初めてだよね。今年はどうしてこんな企画をしたの?」

「え、そ、それはね…」

 なぜだかマイちゃんがとまどっている。マイちゃんは助けを求めるようにマスターに目で合図を送った。

「あはは、隆史くん、もうバラしてもいいかな?」

 マスターが隆史に何やら許可を求めた。でもどういうこと?

 隆史はマスターの言葉に照れ笑いしながらも軽くうなずいた。

「実はね、隆史くんがお願いをしてきたんだよ」

「え、隆史が?」

「真理恵にプロポーズしたいから力を貸してくれって。だから私からこうしようって提案したんだ」

「ってことはひょっとしてこのことはみんな知ってたの?だから頑張れって声援が出たんだ」

「真理恵、ごめんっ」

 隆史が申し訳なさそうに謝っている。

「まったくもう。でもいいわ、許してあげる」

 いつもなら隆史に文句を言うところだけれど、今回はそんな気にはなれない。

 裕貴を抱っこした隆史をにっこりと笑って見つめた。こうやってみると隆史もすっかり裕貴のパパだ。

「あーっ! 大事なことを忘れてた!」

 突然隆史が大きな声を。

「ど、どうしたのよ」

「マイちゃん、裕貴をお願いしていいかな?」

「あ、はい」

 隆史は腕の中でぐっすり眠っている裕貴をマイちゃんに預けた。そしてなにやらポケットの中をごそごそ。そして…

「改めて言うぞ。オレは裕貴のパパになる。だから真理恵、オレと結婚してください」

 深々と頭を下げる隆史。しかし両手だけは私の方を向けている。その先にはきらりと光るものが。

 それは輝きを持ったダイヤの指輪だった。

「隆史…」

 私はあふれる涙を止めることができなかった。

「はい、よろしくお願いします」

 そう言うと、隆史は私の左手の薬指にそっと指輪を。

「真理恵、おめでとう」

 マスターとマイちゃんがとびっきりの笑顔と拍手で祝福してくれた。


「せ~んせっ、今年も一年お世話になりました」

 今日は大晦日。カフェ・シェリーの今年最後の営業日。

 私は裕貴と、そして隆史と一緒にマスターとマイちゃんにご挨拶にうかがった。

「よっ。結婚の準備は進んでいるのか?」

「うん、隆史がお正月にうちの実家に挨拶にくるんだ。あ、シェリー・ブレンド二つとオレンジジュースお願いね」

 隆史と裕貴は窓際の席でマイちゃんと遊んでいる。私はカウンター席でマスターと向かい合った。

「ところで先生、一つ不思議に思うことがあるんだけど」

「なんだい?」

「私ってあれだけ人を信じられなかったんだけど、隆史にはやたらと素直になれたんだよね。どうしてだろう?」

「どうしてだと思う?」

「う~ん、やっぱ自分の気持ちに素直になれたからかな。だから人の気持ちが素直に受け取れるようになったって気がする」

「そうだね。真理恵は今まで心にバリアを張っていたんだ。それを取り除けば人の心が、特に温かい気持ちがわかるものなんだよ。はい、シェリー・ブレンド」

「ありがとう」

 差し出されたシェリー・ブレンドをひとすすり。

「真理恵、今日はどんな味だ?」

 私はとびっきりの笑顔でこう答えた。

「うん、最高の幸せの味!」


<サンタの贈り物 完>

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