ペルシア帝国とゾロアスター教
イランの歴史② 「ペルシア帝国」の建国とイラン人のオリジナル宗教「ゾロアスター教」について。
● アケメネス朝ペルシア帝国によるオリエント世界の再統一
初代オリエント世界統一の覇者アッシリア帝国の滅亡後、紀元前600年ころ、オリエントは「リディア王国」「メディア王国」、「新バビロニア王国」、「エジプト末期王朝」の「4国分立時代」へ突入したが、その4つに分裂したオリエントを再び統一したのが「アケメネス朝ペルシア帝国」だった。
ペルシアはそれまでは、アッシリアやメディアの支配を受けていたが、前6世紀中ごろにアケメネスが自立し、やがてオリエント全域を支配するペルシア帝国へと発展する。
※ アッシリア滅亡後の「4国分立時代」
※ 4国分立時代からアケメネス朝ペルシア帝国によるオリエント再統一
「アケメネス朝ペルシア帝国」は、アーリア系イラン人のアケメネスを始祖とする国で、ペルシアという国名は、アケメネスの出身地である「ペールス地方」(またはペルシスともいい、現在のイランのペルシア湾に面したファールス地方のこと)にちなんで付けられた。
ペルシア人は人種としてはインド=ヨーロッパ語族に属するイラン人の一系統になり、「イラン」という言葉は「アーリア人の国」という意味で、これはペルシア帝国で国教とされた「ゾロアスター教」の聖典である「アヴェスター」の中に出てくる言葉だという。
※ 第一次アーリア系民族の大移動(紀元前2000年ころ)
<『神野の世界史劇場』 (003) 第一次アーリア民族の大移動>より
● 偉大なる「救世主」キュロス2世による領土の拡大と寛容な統治
アケメネス朝ペルシア帝国は、イラン高原南西部のペールス地方に居住していたアケメネス家のキュロス2世が、前559年に、それまで服属していたメディア王国から独立して王位に就いたのが始まりで、その後、キュロス2世は隣国のエラム王国を滅ぼすと、さらにメディア王国とリディア王国と新バビロニア王国のオリエント三大国をも一気に滅ぼし、一代で大帝国を築き上げた。
キュロス2世は武勇に優れ、人望が厚く、また諸民族の宗教にも寛容であったため、キュロス2世の興した帝国は国内に存在する多数の異民族が多様な宗教を信仰したまま居住することのできる世界帝国となった。
キュロス2世は新バビロニア王国によって「バビロン捕囚」されていたユダヤ人も解放し、彼らにイェルサレムに戻り、神殿を再建することを許した。そのためキュロス大王はユダヤ教徒たちから「救世主」「解放者」として讃えられることとなっただけでなく、現代イラン人からも、イランの建国者として尊崇されているという。
そして続く2代目・カンビュセス2世の前525年に、エジプト最後の王朝(末期王朝)の「エジプト第26王朝」を滅ぼし、アッシリア帝国以来となるオリエント世界の再統一を果たす。
カンビュセス2世の死後、後継をめぐって内乱が起こるが、傍系のダレイオス1世が乱を鎮圧して王として即位すると、帝国は全盛期を迎える。
領土が巨大化したアケメネス朝では、メディア王国をまね、国内を20の州に分け、中央から「サトラップ」と呼ばれる総督、太守を任命して統治にあたらせていたが、ダレイオス1世はさらに「王の目・王の耳」といわれる監督官を派遣してサトラップの監視を強化し、法による支配と中央集権体制の確立を図った。
また、帝都のスサから小アジアのサルデスに至る「王の道」と呼ばれる幹線道路による駅伝を整備し、ナイル川と紅海をつなぐ運河も建設。さらにダリークという貨幣を鋳造し、度量衡を統一してペルシア帝国繁栄の基礎を築いた。
ダレイオス1世も先代の王たち同様、積極的に対外遠征を行って領土を広げた。東進して中央アジア・インド方面に進出し、西進して小アジアを超え、さらにボスポラス海峡を渡って黒海に沿って北上しスキタイ遠征を行った。また、ダレイオス1世はエーゲ海諸島やギリシア本土の都市国家にも宗主権を認めさせた。
しかしアケメネス朝から自立すべくギリシア人都市国家が前500年に反乱を起こし、ギリシアとペルシアとの間で「ペルシア戦争」が勃発。
ダレイオス1世はギリシア遠征を企てるも、アテネ・スパルタ連合軍の頑強な抵抗に阻まれ、前490年「マラトンの戦い」で敗れると、ギリシア本土征服を果たせぬまま、ダレイオス1世は死去した。
アケメネス朝ペルシア帝国はその後、ギリシア北方マケドニアのアレクサンドロス大王による東方遠征を受け、前330年に滅亡を遂げる。
● イラン人とゾロアスター教 →「二元論」的思考
イランでは、ペルシア人と同じアーリア系民族のメディア人によって興された「メディア王国」のときに初めてイラン人の統一王朝がつくられるが、その民族意識の高まりとともに、イラン人全体の統一宗教としてそのときにつくられたのが「ゾロアスター教」という宗教だった。
それまでは同じイラン内でも、それぞれの民族にそれぞれの民族を守る「民族宗教」があるだけで、信仰は各民族ごとにバラバラだった。
ゾロアスター教はその後、東西世界に広く伝わって世界人類の思想・宗教に多大な影響を与えることとなるが、現在のイラン人にとってもこのゾロアスター教は、そのアイデンティティーの核を構成する思想の根源となった。
ゾロアスター教はおよそ紀元前7~6世紀頃ころ、世界最古の預言者とも言われるゾロアスター(ザラスシュトラ)によって創始されたと推測されている宗教で、ゾロアスターは幻の中で善神であるアフラ・マズダに出会い、預言者として活動することを命じられ、その教えを説きはじめるようになったのだという。
ゾロアスター教はこの時代には珍しい「一神教」の宗教で、「善と悪の二元論」と「終末論」の思想を持つのに大きな特徴があった。
“ ゾロアスターは人間の正しい生き方をもとめ、従来の宗教を堕落した形だけの祭祀に過ぎないとして批判する宗教改革を開始し、唯一の真理であり光明である創造神アフラ=マズダに従って正義と秩序を実現し、それに敵対する闇と悪の霊力を持つアーリマンと戦うことを説き、ゾロアスター教を創始した。一人の教祖が、神の啓示を受けて創始し、啓典(神が示した聖典)を持つ宗教を啓示宗教というとすれば、ゾロアスター教は世界で最初の啓示宗教であった、と言うことができる。 ” (世界史の窓「ゾロアスター教」より)
ゾロアスター教は万物の創造者であるアフラ=マズダを最高神とし、信者はその象徴となる火を崇拝するため「拝火教」とも呼ばれる。
ゾロアスターは、この世は真実の世界である「天界」と、その天界を鏡として映す「現実世界」とによって成り立っていて、そおためこの現実世界の動きを見ることによって「天界」を知ることができるのだと説く。
そしてこの現実世界を見れば、すべて「ニつ」の要素によって成り立っていることがわかると。海があって陸があり、山があって谷があり、昼があって夜があり、男がいて女がいる、右があって左があり、上があって下があり、そして人間の中の心にも、善なる心と悪なる心とが存在して葛藤していると。
なぜ現実世界の本質が「二」になっているのかといえば、それは天界の本質が「二」だから。人の心に善と悪があるように、天界でも善神であるアフラ=マズダと悪心であるアーリマンとが戦っていて、そしてその天界の反映として、この現実世界も争いで満ちた世の中になってしまうのだと。
しかし、ゾロアスターの誕生から三千年後には最後の戦争が起こり、善神であるアフラ=マズダによって悪神アーリマンが倒され、そしてそれまでの古い現実世界は「終末」を迎え、この地上から争いが消え、平和な「神の国」(楽園)が出現することになるのだという。
ゾロアスターによれば、この三千年の間の千年ごとに一人ずつ救世主が現われるが、最後の三人目の救世主によって死者たちが復活し、生きている他のすべての人間たちと一緒に最後の審判が行われ、アフラ・マズダーによって天国に行く者と地獄に堕ちる者とがふるいにかけられるという。
そして最後にアフラ=マズダの光の軍団とアーリマンの闇の軍団との最終戦争が起こって、光の軍団によて闇の軍団が永久に地上から追放されることになると。
そしてこのゾロアスターの「善悪二元論」と「終末思想」の考えは、同じオリエントのユダヤ教にも影響を及ぼし、それまでユダヤ教には存在しなかった要素を加え、それがまたキリスト教やイスラム教にも受け継がれてゆくこととなっていく。
ユダヤ人は、バビロン捕囚から解放してくれたキュロス2世を讃え、このときゾロアスター教の影響を強く受けて、ユダヤ教の思想に「最終戦争」「救世主」「最後の審判」といった要素が加えられるようになったのではないかという。
● セム的「一」、イラン的「ニ」、インド・アーリアン的「多」
作家の山本七平氏によれば、善と悪の対比だとか、そのようにすべてを「二元論」的に考えるのがイラン人に共通して見られる思考的特長だという。
対して、ユダヤ人をはじめとしたオリエントの「肥沃な三日月地帯」に分布するセム系の民族は、一人の予言者、一つの法、一つの法典でといった具合に、ものごとをすべてただ一つの原理で説明しようとする「一元論」的な思考法に特徴があると。
また、山本氏によれば、アレクサンドロス大王の征服でオリエントに東方ギリシア世界のヘレニズム文化がもたらされ、ユダヤ人に多数決の原理が持ち込まれたのではないかという。それまでのユダヤ人の血族社会では、子は父に従い、一族は長老に従うのが基本で、多数決で決めるような考え方はなかったという。
そしてそうした「多数決」や「多神教」など、多くの独立した根源的実在または原理を認め、これらによって世界を説明しようとする「多元論」的な思考法は、ヨーロッパやインド方面に広く分布したインド・アーリア系民族に共通して見られる特徴になるという。
● アレクサンドロス大王死後の「ディアドゴイ戦争」
アケメネス朝ペルシア帝国は、アレクサンドロス大王に滅ぼされるが、アレクサンドロス大王の死後、オリエント周辺は大きく三つの国に分裂。
そして「アンティゴノス朝マケドニア」、「セレウコス朝シリア」、「プトレマイオス朝エジプト」の三大国で、アレクサンドロス大王の後継をめぐって「ディアドゴイ(後継者)戦争」が勃発する。
● 「パルティア王国」の出現(前3世紀~後3世紀)
アレクサンドロス大王の死後、旧ペルシア帝国を含む西アジア一帯の地は「セレウコス朝シリア」
によって支配されるが、前238年にイラン高原北東部から、イラン系遊牧民のアルケサスが「アルサケス朝パルティア」という国を興して独立。
パルティアは東西世界をつなぐ中継地点として東西交易で栄え、アルケサスの名は遠く中国にも伝わり「安息」と呼ばれた。
パルティアは前2世紀に入ってからミトリダテス1世の時代に強大化し、東方ではインドに侵入し、西方では衰えたセレウコス朝を侵略してメソポタミアにまで進出。
続くミトリダテス2世の代にはアルメニアや小アジアに勢力を拡大し、セレウコス朝シリアの領地のほとんどを受け継ぐ大国を築き上げた。
● ローマ帝国とパルティア王国と250年にわたる「パルティア戦争」
パルティアはその後、セレウコス朝シリアを滅ぼして国境を接してきた「ローマ帝国」と衝突するようになり、その後なんと、パルティアとローマは250年以上にわたって第8次にもおよぶ「パルティア戦争」を繰り広げることとなる。
が、長年のローマとの抗争で国力が衰え、最後は「ササン朝ペルシア」によって滅ぼされる。
● 「ササン朝ペルシア」の勃興(3世紀~7世紀)
224年、パルティア内からアルデシール1世が独立し、パルティアに代わって「ササン朝ペルシア」を建国する。
遊牧イラン人が主体だったパルティアに対し、ササン朝は農耕イラン人であるペルシア人によって建国され、ササン(サーサーン)とは、アルデシール1世の祖父の名に由来する。都はパルティアと同じクテシフォンに置かれ、ササン朝ではイラン伝統のゾロアスター教が正式な国教とされた。
※ 410年頃のヨーロッパ (画面右下の辺りにあるのがペルシア帝国と首都のクテシフォン)
黄:西ローマ帝国
灰:東ローマ帝国
赤:ガリア
濃緑:ブリタニア
● 「3世紀の危機」を迎えたローマ帝国の衰退時に台頭してきたササン朝
ササン朝ペルシアはパルティアの時代と変わらずその地理的な宿命から、東西の強敵との抗争を強いられることとなったが、しかしパルティアの時代と違って、ササン朝にとって最大の大ライバルとなるローマ帝国は、全盛期を築いた2世紀の「五賢帝」の時代から、「軍人皇帝」の出現によって「3世紀の危機」と呼ばれる混乱と衰退の時代へ突入しようとしていた。
中でもそんな軍人皇帝の一人だったウァレリアヌス帝に至っては、259年、シャープール1世率いるペルシア軍との「エデッサの戦い」に敗れて捕虜となってしまう。
● ササン朝にならってローマ帝国が「専制君主政」への移行と「宗教改革」に乗り出す
軍人皇帝時代の混乱によって『3世紀の危機』と呼ばれるピンチに陥ったローマ帝国だったが、ディオクレティアヌス帝の登場によって回復へと向かう。
ディオクレティアヌス帝自身も一兵卒から成り上がり軍人たちに推されて皇帝となった生粋の軍人皇帝の一人だったが、彼は新興のササン朝ペルシアにならってローマ帝国の改革に乗り出す。
ポイントは皇帝権力の強化と、「一神教」化による宗教的権威の向上。ササン朝では専制君主制が確立されていて皇帝の権力が強く、またその権威もゾロアスター教の最高神アフラ=マズダと同一視されているほどの権威を持っていた。
一方、ローマ帝国の皇帝はあくまで「プリンケプス」(市民の第一人者)という地位に過ぎず、また元老院からの承認を得なければ皇帝になることができなかった。ローマの皇帝は皇帝といいつつ、その権力はあくまでローマ従来の「共和制」を守るために与えられるという非常に特殊な存在だった。
ディオクレティアヌス帝はローマ皇帝の専制化を強化するとともに、その身分もローマの主神ユピテル(英語読みでジュピター)になぞらえる存在「ドミヌス(神)」だと主張した。
ローマ社会はそれまでは多神教の社会だったが、ディオクレティアヌス帝はユピテル神の権威の絶対化を図るべく、他の宗教を一切禁止とし、このときに領内のキリスト教やマニ教に対して大弾圧が行われた。
さらにディオクレティアヌスは、「テトラルキア」(四分統治または四帝分治)と呼ばれる分国政策を実行して、巨大に膨れ上がったローマ帝国を大きく4つに分割し、それぞれに支配者を任命して統治させることにした。
この「テトラルキア」では、東の正帝であるディオクレティアヌス帝自身が決定権、裁決権を独占し、他の三人の皇帝はその代理として統治にあたるだけで、一人の皇帝に独裁的な権力を集中させる専制君主政とは矛盾しないようにしたため、後の東西ローマ帝国分裂とは異なる。
その他、ディオクレティアヌス帝は経済統制や物価統制、コロナトゥスによる身分統制などを行い、彼の統治は3世紀の危機を克服してローマ帝国後期の体制を作り上げ、その滅亡を遅くしたと評価されているという。
● コンスタンティヌス帝によるキリスト教の公認とテオドシウス帝による国教化、そして「東西分裂」へ
ディオクレティアヌス帝は皇帝の「ドミヌス(神)」化のため、皇帝を神と認めないキリスト教徒の大弾圧を行ったが、306年にローマ皇帝に就任したコンスタンティヌス帝は、ディオクレティアヌス帝と反対にキリスト教の公認を行った。コンスタンティヌス帝はキリスト教を公認することでむしろキリスト教徒たちの支持を取り付け、国内の治安と皇帝権力の安定化につなげようとした。
キリスト教はユダヤ教徒であるイエス自身のユダヤ教批判を機に、ユダヤ教から分派して誕生した新興宗教だったが、このころにはそれほどまでに信者数が増大していた。また、教義上の対立が深刻化してきたため、コンスタンティヌス帝は325年に「ニカイア公会議」を主催してキリスト教の教義の一本化をさせた。このときにキリスト教では、イエス=神とするアタナシウス派が正統となり、イエス=人間だとするアリウス派の教義が異端として退けられることとなった。
そしてキリスト教はその後392年になって、今度はテオドシウス帝により、アタナシウス派のキリスト教がローマ帝国の国教とされ、他の宗教はもはや信仰自体を禁止されるまでになる。
さらに395年、テオドシウス帝の死後、ローマ帝国がテオドシウス帝の息子のホノリウスとアルカディウスがそれぞれ西と東のローマ皇帝に指名されたことを機として、事実上、ローマ帝国は東と西とに分裂してしまうことになる。
また476年には、西ローマ帝国によって雇われていたゲルマン人傭兵隊長のオドアケルがクーデターを起こして皇帝ロムルスをローマから追放し、西ローマ帝国は滅亡してしまう。
● ササン朝ペルシア帝国の全盛と滅亡 (ローマの名将ベリサリウスとの戦い)
ペルシア帝国のライバルのローマ帝国は、395年に東西に分裂し、西ローマ帝国のほうは476年に滅亡するに至るも、一方、対するササン朝のほうでは6世紀のホスロー1世の時代に全盛期を迎える。
ホスロー1世は、彼と同時代に生き、そして西ローマ帝国が失ったイタリアや北アフリカの領土を回復し「大帝」と称されるに至る東ローマ帝国皇帝(ビザンツ帝国皇帝)ユスティニアヌス1世とも戦争をして優勢に戦い、旧セレウコス朝シリア王国の首都アンティオキアを占領するなどして活躍した。
ユスティニアヌス1世の領土拡大の成功は、実はローマ歴代屈指の名将ベリサリウスの功績によるもので、ベリサリウスはホスロー1世の父カワード1世のときに東ローマ帝国領内へと侵入してきたペルシア軍を530年の「ダラの戦い」で撃破。その翌年にはペルシア軍追撃を主張する部下たちを抑えられず逆に「カリニクムの戦い」で敗退してしまうが、双方ともに大きな損害を出す。
そんなとき、531年9月にペルシャ王カワード1世が死去。息子のホスロー1世はこのとき父の後を継ぐと、ユスティニアヌス1世と「永久平和条約」を締結し、金11,000ポンドという多額の賠償金を引きださせつつ戦争を終結させた。
ユスティニアヌス1世はイタリア半島の東ゴート王国と北アフリカのヴァンダル王国征服に目が向いていて、ペルシアとの戦いを早く終わらせたいと考えていた。
その後、ユスティニアヌス1世はベリサリウスを派遣して東ゴート王国とヴァンダル王国を滅ぼして旧領を回復するが、同時にホスロー1世もまた、西側の安全を確保した上で、東方の中央アジア方面から侵入してくるエフタルを突厥と組んで滅亡へと追い込んだ。
ホスロー1世は東方遠征を終えると、540年春に「永久平和条約」を破棄して、改めて東ローマ領への侵攻を開始する。
ホスロー1世は旧セレウコス朝シリアで都だったアンティオキアやベロエアを占領。その後、東ローマ帝国の同盟国だった黒海東岸のラジカ王国へと進撃。するとそこへまたベリサリウスが派遣され、ベリサリウスはトルコ西部のヒエラポリスに進出してシリアとラジカの間を遮断し、ペルシア軍の補給路を断つ動きを見せてペルシア軍を撤退に追い込む。しかしベリサリウスに独立の疑いがかけられて更迭されると、再び戦争状態に突入。
その後557年に和平が結ばれ、続く562年には、以後50年間続く和平協定がペルシアと東ローマの間で締結された。講和条件により、ペルシャはラジカを放棄することが決まったが、ローマ帝国からは毎年金400から500ポンドの賠償金を支払うことが決定された。
ユスティニアヌス1世の行った対外遠征は、国内に重い増税と社会保障のカットを迫るもので、また、ペルシア軍との戦っている最中に、再びイタリア半島の情勢が悪化してきていた。
一方、ホスロー1世のほうはローマとの和平後、再び進撃の方向を変え、570年にはイエメン地方(アラビア南部)に進出して勢力を拡大させた。
しかしかつてのパルティア同様、ローマ帝国との熾烈な争いはペルシア帝国の国力の衰退を招き、その後、アラビア半島から興って急激に勢力を拡大させたイスラム勢力にササン朝ペルシア帝国は滅ぼされ、そしてその後、イランのイスラム化が進められていくこととなる。
● ペルシャ帝国の滅亡とイスラム世界の拡大
手直ししながら書き足していきます。