~その嘘の源 生立~
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ロシア南西部、ウクライナとも近いクルスクで彼女は生まれた。
両親は共にロシア系、伝統ある家柄の父親と裕福な家柄の母親の間に出来た第一児だった。
彼等からわかる通り富裕層の家系であり、衣食住に困る事は一切無い。
彼女は両親からとても愛され、何不自由の無い生活を送っていた。
記憶には薄いが、彼女も微かにその事を覚えている。
「ああ、私の可愛いルフィーナ……今日もなんて愛くるしいんでしょう」
「ああ、僕の可愛いルフィーナ……君はどうしてこんなに良い子なんだ」
彼女の本名はルフィーナ。
今はもう忘れた名だ。
「そうそう……良く出来たわね、さすが私達の娘ね」
「そうだね、僕達の娘はきっと優秀な子に育つよ」
我が子をあやし愛でる姿は、どこの家庭にでも見られる様な仲睦まじいもの。
裕福なのも相まって、ルフィーナの周りには多くの玩具が並ぶ程。
知育玩具で遊ぼうものならこの様に褒め上げては可愛がり、彼女の好奇心を刺激する。
優秀な人間として育つには、こうやって幼児期から教養を教え込まれる。
こうやって彼等も育ち、親に認められて来たのだ。
ルフィーナはすくすくと育ち、気付けば三才になっていた。
物心がつき始める年頃で、学び方次第では読み書きすら出来る頃だ。
だが、彼女はそれが出来なかった。
「あらルフィーナ……どうしちゃったの? これは昨日出来たのに……」
「仕方ないさ、誰だって間違いはあるんだ。 今日はたまたまそういう日だったのさ」
きっとほんの少しだけ、普通の子よりも成長が遅いだけ。
二人はそう信じ、愛情を変える事は無かった。
歳を重ねるごとに、ルフィーナの能力の低さが露呈していく。
元々、彼女にはそんな節があったものだ。
初めて喋った時期も、初めて歩いた時期も、玩具の遊び方も、人より劣っていた。
それもただ遅いだけ、両親はそう思い続けていただけで、気にも留めなかったものだ。
ルフィーナが五才になった時、両親は少し自分の娘の成長の遅さが気になり始めていた。
自分達の教育の仕方が間違っているのではないかと不安になったからだ。
彼等は意を決してルフィーナを医者へと連れて行く事にした。
時間を掛け、日数を掛け……二人は連日小児専門の病院へと通い詰めた。
ルフィーナの成長具合を診断してもらう為に。
大事な愛娘の成長は二人にとって何よりも大事だったから。
そしておおよそ半年後、その結果が医者から診断される事となる。
「診断結果から、ルフィーナさんはどうやら発達障害の可能性があります」
医者から告げられた結果は、確かに二人を動揺させたものだろう。
しかし二人はいつもの優しさをルフィーナに向け、事情もわからぬ彼女を大いに喜ばせた。
「仕方ないわよね、私達やルフィーナが悪いんじゃないもの」
「そうだね、これはちょっとした神様の悪戯さ 」
そう言ってはルフィーナの体の不良など気にも掛けず。
彼女に向けた愛情は紛れも無く本物だった。
普通の子供よりも物分かりは悪かったが、その愛をくれる両親の事がとても大好きで。
ルフィーナはその愛に応えんばかりに、素直に育っていった。
ルフィーナが七歳の頃。
両親が一人の子供を連れて来た。
その子はルフィーナと同じ歳の女の子で、赤髪で、背丈も同じくらい。
二人が選び、孤児院から引き取った子供だった。
両親はその子にこう言った。
「今日から君の名前はルフィーナだ。 いいね?」
「ああ、私達の可愛いルフィーナ……いい子に育ちましょうね」
新しいルフィーナは何故名前を変えるのかがわからなかったが、新しい両親がとても優しかったので嬉しそうに笑顔で応える。
そして両親は古いルフィーナにそっと声を掛けた。
「ああ、私達のルフィーナ……いい、よく聞いてね?」
「君は今日からルフィーナじゃなくなったから、その名前を名乗ってはいけないよ?」
ルフィーナだった子は何故名前を名乗ってはいけないのかわからなかったが、優しい両親が大好きだったので言う事を聞く事にした。
その後、両親はルフィーナだった子を車に乗せて、凄く凄く遠い場所へ連れていった。
そこは子供では歩いても戻れないくらいに遠い遠い、街中の裏路地だった。
両親は車からそっとルフィーナだった子を降ろすと、彼女にわかる様にゆっくりと伝える。
「いいかい、君はここにずっといるんだ。 戻ってきてはいけないよ」
「いい? ここが貴女の新しいおうちよ。 わかった?」
相も変わらずの愛情溢れる言い回しに、ルフィーナだった子は喜んで頷き応えた。
「これも仕方の無い事ね。 だって神様の所為なんですもの」
「そうだね、悪いのは神様で、僕達は何も悪い事なんてしてはいないのさ」
両親が言い残したのは、悪びれも無く吐き出された言い訳。
でもそれも、まるで言葉に似合わず慈しみを帯びた優しい囁きだった。
二人の言った事がどういう事なのかわからなかったけれど、彼女は二人が大好きだったので言いつけを守ってその場に居続けた。
両親が彼女を愛で終えて去った後も、次の日も。
きっと二人が戻ってくると信じていたから。
でも二人は戻ってこなかった。
ルフィーナだった子はそれでも待とうとしたけれど、お腹が空いたので食べ物を求めてその場から離れた。
孤児に対する目は厳しいもので、誰もが彼女を避けて関わりたがらない。
ルフィーナだった子はとうとう動けなくなり、両親に助けを請う様に声を上げる。
しかし二人は戻ってこない。
彼女にはそれが何故だかわからなかった。
そんな時、彼女に手が差し伸べられた。
「おまえ、おなかすいたのか?」
手を差し伸べたのは、彼女と同じくらいの少年。
彼もまた孤児で、一人で生きてきたのだという。
少年はルフィーナだった子に名前を尋ねるが、彼女は両親の言いつけを守って自分の名前がルフィーナでは無い事を伝えた。
少年はルフィーナという名前が何なのかはわからなかったが、彼女が一人になったという事には直ぐに気付いた。
それが少年自身と同じだという共感を呼び……彼は彼女に付いてくるよう促した。
「お前、行くところ無いんだったらオイラについてこいよ」
ルフィーナだった子も彼の優しさに甘え、彼に付いて行ったのだった。
少年に信頼を寄せる様になったのは間も無くだった。
彼女にとって、少年は何よりも代えがたい存在になっていたから。
「なまえが無いのは不便だなぁ。 うーん……じゃあお前は今日からナターシャだ」
少年はルフィーナだった子に新しい名前を付けてあげた。
ルフィーナだった子は素直に受け入れ、ナターシャと名乗り始める。
ナターシャは新しい名前が凄く嬉しくて、少年の事がとても大好きになった。
「オイラの事はアニキとよぶんだ、わかったなー?」
少年はナターシャにそう言い聞かせ、彼女も嬉々として受け入れる。
彼もそれが嬉しかったのだろう、彼女を連れ歩く時はいつも手を繋いていたものだ。
それから二人はずっと一緒だった。
これからもずっと一緒だと思っていた。
少年の名前はアンディ。
ナターシャに名前を与え、ずっと一緒にいてくれた人。
今でもナターシャの心の隅には彼の笑顔がある。
両親の代わりにずっと向けてくれた笑顔が。
だから彼女は……彼を裏切れない。
自分を棄てた両親と同じにはなりたくなかったから。
両親と同じ様に嘘を付いてでも、彼女は彼の笑顔を守ろうとしたのだ。
自分は子供の時に愛情を受けて育ったから、もう充分だと思った。
受けた事の無いアンディに愛情を分けてあげて欲しいと願った。
自分の心に嘘を付いていたと気付くまでは。
でもそれに気付いてしまったから、彼女は心の底から望むだろう。
いつか、アンディと一緒に……レンネィの愛を享受する日が訪れる事を……。
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