~怨念の根源、その記憶の断片~
これは世界の危機に至る以前、遠い悠久の果てに遭った過去の出来事。
希望の輝きによって浄化され浮かび上がった、とある始まりの記憶である。
願わくば、この記憶を基に戒めよう。
世界への優しさは時に悪意をも育むのだと―――
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二人の男女が向かい合って立っていた。
共に似た様な輪郭を抱く褐色肌の者達が荒野に。
どちらもくたびれて汚れた衣服を身に纏い、虚しく風に煽られていて。
そんな二人のそれぞれの手には短剣が握られている。
まるで呼応し合うかの様に瞬きを繰り返しながら。
ただ女から男に指し向けられたのは、何も掴んでいない右掌で。
「兄さん、一緒に行こう? 皆が首を長くして待ってるよ」
そんな手と腕が反り上がり、続く先に見えた顔にも笑顔が覗く。
まるで男を受け入れる様にして穏やかに。
でもその瞳はどこか悲しみを帯びていて、どこか潤しい。
直視する事も辛いのか眉も下がり、瞬きも繰り返していて。
「皆、兄さんが帰って来るのを楽しみにしてるんだ。 沢山の美味しいお菓子や御馳走を用意してさ。 楽しくて、嬉しくて、きっと何でも忘れられちゃうよ。 今までに起きた不幸も、思い出したくない事も……!」
「ああ、そうだね。 僕も帰りたいよ……」
対する男もまた同様に。
意志の掠れた眼を浮かべ、涙さえも流していて。
想いの余りに唇を震わせ、ただただ必死に女の言葉に応える姿が。
けれど、その姿は女にはとても痛々しく見えてならなくて。
余りにも辛く苦しく、それでいて耐えきれない程に悲しかったから。
短剣を通じ、男の抱く感情がそれ程までに強く感じられたのだろう。
故に、彼女には男がこう見えていた。
流す涙は真っ黒で、それも黒い蒸気さえ噴き上げて。
更に途切れる事無く、まるで毛細血管の如く全身を網目状に伝っていくという。
そして続くのは末端、漆黒の皮に包まれた手足腰で。
そんな男の身体の下半身はもう、黒く染まりきっている。
まるで常闇に取り込まれてしまったかの様に。
「―――でも駄目なんだ。 怨念が、恐怖が、僕をおかしくさせてしまう。 これじゃあきっと、いつか皆をまた傷付けてしまうかもしれない。 嫌なんだ、そんな事になるのは。 それが怖くて、僕はもう……!!」
「兄さん……」
身体と同様に、男の心も黒く染まり掛けている。
こうして悲哀を隠す事も出来ず曝け出してしまう程に。
それ程までに悲しいのだろう。
それ程までに苦しいのだろう。
でも女にはその心に触れる資格は無かったのだ。
何故なら、男の心を黒く染めてしまったのは彼女だから。
「ごめんよ、折角ここまでしてくれたのに」
「ううん、兄さんがこうなってしまったのは私の所為だから……だからッ!!」
ただ、女にはその心を救う手立てがあった。
それは左手に握る短剣だ。
―――私を救ってくれたこの誓いの魔剣なら、もしかしたらッ!!―――
この短剣ならば、男が対物を持つ限り心を繋げられるから。
心が繋がるなら、絶望までをも共有出来るだろうと。
だからこそ消し去る事も可能なのだと。
男同様の黒へと染まりつつある中で、女が短剣を自らの胸に突き付ける。
それは贖罪の為か、それとも男を想う余りか。
その瞳にはもはや強い決意さえ覗こう。
己をも犠牲にする覚悟が。
「この短剣なら兄さんの怨念だけを消せるハズ。 私の命ごと!! なら滅してやる、私が始めてしまった悲しみの連鎖を!! 消え去るがいい、憎たらしい怨念め!! お前の様な歪んだ怨念なんか、この世界には要らないんだ……ッ!!」
『オンネン ソレ チガウ コノカンジョウ ワレ ソノモノ』
「―――ッ!?」
だがその短剣は刺さる事も無く留まる事となる。
居るはずもない者の声が聴こえた事で。
いや、〝者〟などと形容するのもおこがましいか。
それはまだ存在として確立していない様な意思だったから。
故にこの時、女は唖然として見上げていた。
そんな有り得もしないはずの存在を目の当たりにして。
なんと男から黒影が立ち上り、二人の頭上を覆っていたのだ。
人影とさえ言えぬ、真っ黒で丸く伸びただけの存在として。
「あ、ああ……ダメだア・リーヴェ、それはいけない!! 頼む、もうやめてくれ……!!」
「えっ……?」
それでも確実に存在していた。
実体として、それも陽光を遮る程に厚く。
しかも女を見下ろすかの様に二つ眼をも浮かばせて。
『カナシイ クルシイ ワタシ オマエ キライ ソノコンゲン クラウ』
「そ、その声はア・リーヴェ!? い、いや違う、これはア・リーヴェなんかじゃない!! じゃあお前は一体何なん―――」
その果てに欲望さえ露わとしよう。
黒影が女を丸飲みするという形で。
一瞬の出来事だった。
たったその一瞬で、女は磨り潰された。
短剣と、それを掴む手の先だけをポトリと落として。
後は黒影が生む咀嚼音だけが虚しく響くのみ。
ガリガリ、ボリボリと、物理的にも精神的にも粉々にせんとばかりに。
『オマエ ムイタ サツイ メッシタ―――だカらネ、さァニイさン、行キマしョう。 世界はマだ、こンナ殺意ニ満ちテいルのだカら』
「あ、ああ、ああああッ!! まただッ!! 僕はあッ!! また取り返しのつかない事をしてしまった……ッ!! うあああーーーーーーッッ!!!」
その中で遂に男が膝を付く。
悲しみに打ちひしがれる余り、頭をも地に打ち付けて。
黒影から響く声に耳を傾ける事も無く、ただひたすらと。
黒影の姿はもう見えない。
再び男の身体へと戻った事によって。
なお心の奥底で囁き続けながらも。
そんな声には、先の女の声色までもが混じっていた。
その所為か、まるで二人が同時に囁いているかの様に聴こえていて。
男を蝕む偽霊と、唯一信頼すべきだった妹。
二人の重なった声は男の心をただただ闇へと引き堕としていく。
故に悲しみに溺れて沈み行こう。
後悔と、懺悔の念をも絡ませて。
全てを失った絶望を胸に、暗闇の底へと。
いつか
世界の
終わりを迎えるその時まで―――
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兄と妹、その心は間違い無く通じ合っていた。
もしもこの時に妹が自害に至れば、全てはここで終わっていただろう。
しかし兄の心には絶望に包まれた事によって偽魂が生まれていた。
かつて心へ宿し、愛した天者―――それに擬態した怨念が。
兄が孤独の末に創り上げた負の塊を礎として。
あろう事かその怨念はもう意思さえ持っていて。
妹の言葉を歪んで受け止め、想いも捻じ曲げ、遂には喰い殺した。
そして彼等が一つになった時、兄はもう疑う事さえ苦しくなってしまったのだ。
何もかも考える必要の無い無情の世界を求めてしまう程に。
こうして全ての始まりが終わりを告げて。
終わりまでの道程が進み始める事となる。
でもその終わりはもうきっと訪れないだろう。
今の世界は彼等が知る以上に希望で満ち溢れていたから。
この兄妹から始まった悲哀の連鎖は今、その希望によって断ち切られた。
心の奥底で悠久に渡って潜み続けた願いが、ようやく叶ったのである。
これは勇と茶奈だけが触れられた記憶だった。
それでいて余りにも凄惨で不幸に塗れ過ぎていて。
だからこそ二人は記憶のこの一部だけを残し、他の全てを封印する事を決めた。
必要の無い悪意と、殺意。
それらに塗れた世界はただただ醜いだけだから。
これからの世界にそんな醜いだけの記憶など、もう必要無いのだと。




