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プラリネ  作者: 九藤 朋
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天使と追憶

 初めてイリーナと逢った時、セルゲイは天使みたいだと思った。白い陶磁器のような頬、エメラルドの瞳。黄金の髪はふわふわとして、イリーナの円やかな輪郭を縁取っている。イリーナが四歳、セルゲイが六歳の時だ。

 けれど天使の顔色は青白く、目には覇気がなく、どこか茫洋として精彩に欠ける。

 この頃のイリーナは、糧となる血を上手く摂取出来ていなかった。クロスカヤ侯爵のように適合する相手が現れず、食事も偏食で、キセーリ(ゼリー)やプリニャーク(クッキー)、そしてとりわけプラリネを好んだ。愛娘の虚弱な在り様に、クロスカヤ夫妻は気を揉んでいた。

 それでも庭の木陰で絵本を広げる幼いイリーナの姿は、一枚の絵のようだった。

 初夏。芝生や樹の緑が瑞々しく色づき、風が穏やかに吹き抜けていく。慎重に歩み寄るセルゲイに、イリーナも気づいた。

 尤もそれは、気配を察知してのことではない。今までに嗅いだこともないような芳しい香りが嗅覚に触れたからである。匂いだけでうっとりするように甘美な少年の姿を、イリーナは認めた。茶色の柔らかそうな髪、同じ色の双眸。唇には笑み。


「イリーナ?」

「そうよ。貴方、だあれ?」

「僕はセルゲイ。セルゲイ・コーコレフ。君の従兄弟だ」


 揺れる葉の影がセルゲイの顔の上でちらちらと躍っている。


「そうなの」

「マリアさんに頼まれて、プラリネを持ってきたよ」


 そう言ってセルゲイは手に持った皿を上げて見せた。エメラルドに喜色が浮かぶ。


「ありがとう」

「僕も食べて良い?」

「良いわ。……ねえ、貴方、とても良い匂いがする」

「え、そう?」


 セルゲイはイリーナの隣に腰を下ろし、くんくんと自分のシャツの匂いを嗅いだ。セルゲイには取り立てて特別な匂いは感じられない。セルゲイはこの時点で既にイリーナが吸血鬼の末裔であることや、血の適合者に出逢えていないことを知っていた。この憔悴した小さな天使が哀れで、どうにかしてやりたいと思う。弱々しく微笑むイリーナが無理をしているのは明らかで、このままでは彼女は儚くなってしまうのではないかという危惧さえ覚えた。


「指、怪我してるわ」

「ああ、さっき、割れた皿を片付けるのを手伝ったから」


 イリーナはそれには答えず、真剣な表情でじっとセルゲイの指を凝視すると、その赤い一点をぺろりと舐めた。途端に、見違えるような変化が起きた。

 青白かった頬は微かに薔薇色を帯び、エメラルドは生気を得て輝く。今までは憔悴している分、痛々しさを助長させたイリーナの美貌が、ここにきて内側から活き活きとした輝きを放ったのだ。イリーナは自分の中に豊かな温もりと力が生じるのを感じた。


 セルゲイは適合者だ。


 一方でセルゲイは、イリーナに指を舐められた瞬間、身が熱くなり、次いでイリーナに訪れた変化に目を瞠った。虚ろな人形のようだった彼女が、まるで魔法使いに息吹を吹き込まれたように一変している。唇が珊瑚色で、その珊瑚の端にはセルゲイの血の名残がついていた。それを舐めとるイリーナの舌の動きから、セルゲイは目を離せなかった。なぜか気恥ずかしく、そしてイリーナの舌の薄い赤に、鼓動が跳ねた。かっとして、動揺を誤魔化す為に口に含んだプラリネの味もよく解らない。


「見つけた」

「え?」

「セルゲイ。貴方の血を私に頂戴」


 木漏れ日が芝生に影絵を描き、樹にもたれかかるイリーナは、薄闇の中で発光するようだ。天使は光におわすとは限らない。影におわします天使もいるのだ。セルゲイはそう感じた。イリーナの願いに対する答えは決まっていた。セルゲイは一目見た時からイリーナに魅了されていた。外見的なものだけでなく、彼女の汚れない無垢な心が透けて見える様子が、セルゲイの心を捉えて離さない。セルゲイは立ち上がり、イリーナの真正面に来ると跪き、こうべを垂れてイリーナの右手を取り、甲に口づけた。


「喜んで。イリーナ。僕は君に血を捧げる。この先ずっと」


 イリーナは跪くセルゲイにおずおずとしがみついた。小さな手でシャツを掴み、ほうと息を洩らす。


「ありがとう」


 天使の声が耳元で囁く。

 淡い緑、濃い黒に近い緑、幹の灰色と焦げ茶、青い空と白い雲。

 それらの色彩の中、イリーナの青いドレスは鮮明で、彼女自身の色はより鮮明だった。この小さな天使を生かすのが自分の使命なのだと思い、その瞬間からセルゲイはイリーナの崇拝者となった。恋という名の崇拝は、けれど本人に明確に理解されることなく、その後数年が経つことになる。セルゲイにとってイリーナは聖域で、侵すべからざるものだったのだ。

 そしてセルゲイの血を混ぜたプラリネが、イリーナの糧となる日々が始まった。

 セルゲイは当初、直接、血を吸われるものと思っていたが、そうするとセルゲイ自身も吸血鬼の末裔に等しくなってしまう為、注射器で血を採られることとなった。こうした点はクロスカヤ侯爵が特に気を遣っているところで、侯爵自身も自分の適合者を同胞にするような愚は犯さなかった。また、吸血鬼の末裔である侯爵らは、血の糧さえ得られれば並の人間よりはるかに頑健で、治癒力も高かった。クロスカヤ侯爵は軍人としてクリミア戦争にも赴いた経歴を持つのだが、彼が戦争から五体満足で生還したのも、極めて高い生命力が大きな理由だった。但し些少の傷であればすぐに治る体質は、慎重に隠された。



 セルゲイとの出逢いを反芻して、イリーナはベッドの中で思索に耽っていた。


〝セルゲイは、それだけ貴方の言いなりなのね〟


 グルフィヤの言葉が棘となってイリーナの胸を刺す。

 優しいセルゲイは、イリーナの窮状を見兼ねて、血を提供してくれているのだ。恋心も、そこにあると考えるのは正しいだろうか。セルゲイに、他の男性への牽制になって欲しいと言ったのは、イリーナのささやかな想いの吐露だったが、セルゲイはそれに気づかなかったかもしれない。試したいという思いもあった。セルゲイがどんな反応を返すか。けれどセルゲイはイリーナに、いつものように優しく笑いかけただけだった。イリーナはセルゲイの心を測り兼ねた。イリーナの想いが一方通行に過ぎないのなら、こんなに虚しいことはない。イリーナはセルゲイのお情けで生かされていることになる。

 言ってしまおうか。

 もう血は要らないと。プラリネは要らないと。


 セルゲイがそれを聴いて安堵した表情を見せたなら、イリーナは奈落の底に突き落とされる気持ちになるに違いないけれど。




次話で完結となります。

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