呪術
「神の僕なる我グルフィヤは、祈りをあげずに立ち上がり、家から扉を抜けずに、玄関から門をくぐらずに、十字を切らずに表に出る。広い野に出で、青い海辺に出で、転がっている丸太の上に立ち、見る、見渡す、北の方角を。北の方角には氷の島があり、氷の島には氷の家が立ち、氷の家には氷の壁、氷の床、氷の天井、氷の扉、氷の窓、氷の硝子、氷のペチカ、氷の食卓、氷の椅子、氷のベッド、氷の布団があり、そこに氷の王が座っている。その氷の家の、その氷のペチカには、ポーランド猫と舶来犬がそっぽを向いて座っている。そのポーランド猫とその舶来犬は、顔を合わせれば血が流れるまで引っ掻きあい、噛み合う。このように、神の僕なるセルゲイと神の僕なるイリーナが、どんな時も、どんな瞬間も、見つめ合うことも、視線を交わすこともありませんように。おお、氷の王よ、冷やすな、凍らせるな、川を、湖を、青い海を! 冷やせ、凍らせよ、神の僕なるセルゲイとイリーナの熱き胸を、二人が共に食べること、飲むことも、見つめ合うことも、相手を想うことも、考えることも出来なくなりますように。神の僕なるセルゲイが神の僕なるイリーナにとって、また神の僕なるイリーナが神の僕なるセルゲイにとって、森の獣より恐ろしく、地を這う蛇より冷酷に感じられますように。アーメン、アーメン、アーメン」
グルフィヤは呪文を唱え終えたあと、三度、唾を吐いた。
ロシアには古くよりキリスト教と共に呪術が厚く信仰されていて、呪術師としてそれを生業にする者もいる。治療師(ツェリーチェリ、ツェリーチェルニツァ)と呼ばれる呪術者は良き者として歓迎され、「呪術をかける者」を意味するコルドゥン、コルドゥーニヤの呼称は、どちらかと言えば反キリスト教的な意味で用いられていた。グルフィヤが今、行った呪文は愛を冷まし仲違いさせるものであり、コルドゥンやコルドゥーニヤの行う呪術の領域と言って良いだろう。
グルフィヤの亜麻色の瞳には昏い炎が宿っている。
渡すものか。渡すものか。
セルゲイはイリーナという魔性に魅入られているのだ。正気ではないのだ。だから自分がこうした呪術を行うことも、セルゲイの為なのだ。
グルフィヤはこう考えることで、後ろ暗さを自らの正当性で糊塗しようとした。実際に呪術が効くかどうかはさして問題ではない。只、グルフィヤはセルゲイを想う余り、イリーナを悪と決めつけ、取り戻そうと躍起になっていたのだ。
イリーナとセルゲイ、そしてグルフィヤの住居はモスクワ、タガンスキー地区の近しい場所に位置しており、それが彼らの交流を頻繁にさせる要因の一つともなっていた。それは彼らに限らず、親であるクロスカヤ侯爵やグルフィヤ、セルゲイの父をも親しくさせ、時に晩餐を共にして歓談し合う仲とした。クロスカヤ侯爵とセルゲイの父・コーコレフ伯爵は妻が姉妹であり、双方、第一ギルドに属している。グルフィヤの父・ミハイール・アクサーコフは親愛の情もあるが、憲兵将校という職務上、モスクワの有力者であるクロスカヤ侯爵たちと近しくしておくことで、有益であることを望んだ。クロスカヤ侯爵やイリーナが吸血鬼の末裔であることを、彼は知らない。
「コルドゥン、またはコルドゥーニヤがいるらしいと専らの噂だ」
晩餐後、ウォッカの入ったグラスを揺らしながら、ミハイールは眉根を寄せてそう言った。グラスの透明に点された灯りの火が映り、橙色に光っている。
「その手の噂はよくあることだ。気にしないほうが良い」
「だがアレクセイ、皇帝陛下の良民をいかがわしい行為で惑わす輩は看過出来ないのだよ」
ミハイールがクロスカヤ侯爵・アレクセイに憂慮の面持ちで答える。
「嘗て私はツェリーチェリに病を治してもらったことがある。呪術も善し悪しだよ」
コーコレフ伯爵が場の空気を軽くするように肩を竦め、わざとおどけた顔をして見せた。
「偶然に快癒の時期と重なったんじゃないか、ドミトリー」
「うーん。どうかな? そうだとしても、手を尽してくれた彼に私は感謝して、相応の謝礼を払おうとしたが、笑って拒否された。欲のない、善良な人だったよ」
「治療師なら問題はないのだ。例えそれが眉唾ものでもな。問題は正教会にあだなす悪しき呪術を行う者たちの存在だ。正教会に背くということは即ち、皇帝陛下に背くことにも繋がる」
ミハイールはコーコレフ伯爵に娘と同じ亜麻色の双眸を向ける。ミハイールはクロスカヤ侯爵やコーコレフ伯爵と親交を持ちながら、同時に彼らを警戒してもいる。財力と権威を持つ人間は、突如として皇帝に反旗を翻し、革命を起こす恐れがあるからだ。
「シェケルブーラ(甘味となるパン)はいかが?」
にこやかに、手ずから作ったシェケルブーラをクロスカヤ夫人が運んできたことで、ともすれば硬化しそうだった客間の雰囲気が和らいだ。クロスカヤ夫人・アデリーナが作るシェケルブーラは胡桃の風味がよく効いていて、客人には大いに歓迎された。また、クロスカヤ夫人のはっと目を瞠るような美貌もまた、訪れる客人の目当ての一つとなっていた。イリーナの美貌は母親譲りで、イリーナが天使に例えられるなら、クロスカヤ夫人は女神や聖母マリアを連想させた。
コーコレフ伯爵が夫人とシェケルブーラに相好を崩し、先程まで険しい顔をしていたミハイールでさえ僅かな微笑を浮かべた。クロスカヤ侯爵は美しい妻を見ながら、心中に生じるざわめきを持て余していた。ミハイールは厳格な軍人だ。皇帝陛下に命を捧げ、忠誠を尽し、その妨げとなる要素は容赦なく叩き潰す。例えば、悪しき呪術者と自分たち吸血鬼の末裔の存在を結び付けて弾劾することさえあり得るのだ。そうならない為には、ミハイールに正体を決して悟られないことが肝要だった。
翌日、屋敷に来たセルゲイを、クロスカヤ侯爵は自室に招いた。
「お呼びですか。伯父上」
「ああ、今日もイリーナの為に済まないね」
「いいえ、望んでしていることですから」
クロスカヤ侯爵は飴色のどっしりした机の上に、地図を広げた。
「君に頼みがある」
「はい」
「もし私に、私たちに何か起きた時は、イリーナを連れて逃げてくれ。ここだ」
そう言ってクロスカヤ侯爵は地図の一点を指した。モスクワからずっと南下した地点だった。
「ヴォルゴグラード……」
「そうだ。そこには止むを得ない事情で世間から隠れねばならなくなった、私たちの同胞が住む〝永劫の森〟という場所がある。私がユダヤ人を重用するのは、彼らがロシアに染まろうとしない、思想を持っているからでもある。祖国が私たちを迫害しても、助けとなる伝手があるように。私はそう考えた。ジプシーもまた、味方となってくれる。私は水面下でずっと、来たるべき時、けれど来ないでくれれば良い時に備えて、人脈を築いていた。永劫の森に行けば、君も戻ることが叶わないだろう。また、戻らないで欲しい。イリーナには君が必要だ。だから無理を承知で、頼みたい」
セルゲイは真剣な伯父の顔を見て、頷いた。
「僕にも、イリーナが必要です。もしもの時は……ヴォルゴグラードを目指します。きっと彼女を守るので、安心してください」
クロスカヤ侯爵はじっとセルゲイの顔を凝視した。
「感謝する。君は。……イリーナにとって得難いプラリネだ」