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プラリネ  作者: 九藤 朋
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サモワールが聴いていた

 イリーナの屋敷は北向きに建てられ、貴族や富裕層であればどの家でも大抵あるであろう日射しが燦々と入るサンルームがない。これは些か奇異なことだったが、クロスカヤ邸を訪問する客たちはその代わりと言ったような窓に掛けられた美麗な異国の織物や、珍しくまた高価な調度品のほうに目を奪われ、その奇異を追及しようとしない。

 西翼の客間に今日、集った女性陣も例外ではなかった。ソルダチェーンコフ夫人、マーモントフ伯爵夫人、そしてイリーナとセルゲイの共通の友人であるグルフィヤの目に入る、丸テーブルに置かれたサモワール(給茶器)は紅茶を淹れる為の湯を沸かす物であるが、細工が凝って煌びやかである程に、その持ち主である家の家格を自ずと客人たちに喧伝することとなる。クロスカヤ家のサモワールは光を弾く銀で、大輪の花と鳥の意匠が施されていた。十二分にクロスカヤ家の威勢を物語るサモワールに加え、窓に掛かる織物は狩りの様子を表した躍動感溢れる見事な逸品だった。一度、クロスカヤ邸に足を踏み入れた人間で、その財力や芸術的感性に疑いを抱く者はいなかった。


「それでね、関税の引き下げに今、主人は躍起になって反対しているの」


 ころりとした体型のソルダチェーンコフ夫人の夫は手広く商いを行い、モスクワでも知らぬ人間のいない成功した商人だった。真紅の天鵞絨地のドレスに大粒の真珠のネックレスを着け、耳には雫型の金のイヤリングをしている。ソルダチェーンコフ夫人が身動きするたび、装飾品が揺れ、金の雫が眩く光った。

 

「それはそうね。こんな時こそ、国内の有力者たちが手を携えて、国益と自身の保護の為に団結しなくては」


 紺色のドレスに翡翠のネックレスを合わせ、水晶のイヤリングを着けたマーモントフ伯爵夫人がしたり顔で頷くが、言葉ほど、口調に熱が入っていない。彼女は政治経済に関して余り興味がないのだ。その青い目がちらりと、表面が狐色のシルニキ(パンケーキ)を運んできた黒髪の使用人を捉える。彼女が去ったあと、ふう、と溜息を吐き、翡翠のネックレスを弄りながらイリーナに言った。


「相変わらず、ユダヤ人を多く使ってるのね。こちらでは」

「彼らは勤勉です。よく働いてくれます」


 イリーナは含みのあるマーモントフ伯爵夫人にてらいのない笑顔で応じた。経済に喰い込み、独自の風習を持つユダヤ人を蔑視する風潮は、ロシア国内に限らない。クロスカヤ家ではともすれば迫害の憂き目に遭う恐れのある彼らに、自分たち人外に通じるところを見出して重用していた。また、ユダヤ人を多く雇う理由はそれだけではなかった。


「セルゲイみたいに、尽してくれるのかしら」


 グルフィヤの独り言めいた呟きには、棘があった。彼女の父は憲兵将校だった。ソルダチェーンコフ夫人とマーモントフ伯爵夫人が窺うような目線をグルフィヤに送るのは、憲兵の権威を恐れてのことだった。その気になれば皇帝陛下にあだなすと判断した危険人物をシベリア送りにする権限を有する憲兵は、彼女たちならず国内の人間の恐怖と畏怖の対象だった。亜麻色の髪を背に流したグルフィヤの、同じく亜麻色の瞳は挑戦的にイリーナに向いている。彼女は夫人たちほどには着飾っておらず、イリーナと同様に質が良いが簡素なドレスを着ていた。


「彼らの奉仕には助けられているけれど、セルゲイには及ぶべくもないわ」

「セルゲイは、それだけ貴方の言いなりなのね」

「言いなりという訳ではないわ」

「彼の自発的行為と」

「……ええ」

「可哀そう」


 誰を、とは言わなかったが、グルフィヤがセルゲイを指して言ったことは明白だった。

 夫人たちは二人の遣り取りにはらはらした表情を隠さない。グルフィヤはプラリネの件を知っていた。イリーナが吸血鬼の末裔であることも、そしてセルゲイがイリーナを女神のように崇拝していることも。その事実はグルフィヤの胸を嫉妬で焦がし、痛めつけた。イリーナの完璧な美貌が、更にグルフィヤの嫉妬に拍車を掛ける。グルフィヤも美少女の部類であるが、相手がイリーナでは霞んでしまう。

 そこで些か場違いな発言をソルダチェーンコフ夫人がする。


「グルフィヤもあと三年もすれば社交界デビューね。最初のダンスのお相手はセルゲイかしら?」

「――――そうなれば良いと思っています」


 亜麻色の瞳は夫人に答えながらイリーナを捉えている。貼りつけたような笑顔を浮かべて、イリーナに言う。


「イリーナもその時はセルゲイに口添えしてくれるわよね」


 イリーナは答えることが出来なかった。ドレスの滑らかな布地を皺になるくらいに握り締める。その様子を見てグルフィヤが小さく嗤った。昏い笑みだった。

 精緻な細工のサモワールだけが静かに沈黙して、彼女たちの会話を聴いていた。

 



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