モスクワの春
帝政ロシア。文化経済が円熟した十九世紀。
そこには微かに退廃の気配もあった。
モスクワは雪のぬかるむ春を迎え、イリーナは屋敷の庭に出て小鳥の囀りを音楽のように聴き、楽しんでいた。芝生の上に置かれた椅子に座り、縁が金色の白い陶器の皿に盛られたプラリネを時々、口に含む。プラリネとは香料の効いたゼリーやジャムをチョコレートでくるんだフランス産の菓子だ。けれどイリーナが口にするプラリネには、ゼリーやジャム以外のものも含まれていた。そして彼女にとってはそれこそが肝要であり、命綱と言っても大袈裟ではなかった。
小鳥が歌う。葉擦れの音。
甘い菓子。甘さの所以は砂糖だけではなく――――。
「イリーナ」
声を掛けられて振り返る。
相手の少年はイリーナに見つめられ、気恥ずかしそうな顔を一瞬、した。
抜けるように白い肌。ロシア人の中でも群を抜いて透明感ある白さ。エメラルドのような深い緑の瞳。髪は黄金と見紛うばかりで唇は紅を置いたように赤い。十四歳ながら、イリーナの美はほぼ完成されたものと言っても良かった。職人が粋を凝らして創り上げた美しい人形さながらの、少女は微笑んだ。
「セルゲイ。ありがとう。プラリネは今日もとっても美味しいわ」
「陽に当たって大丈夫?」
「言ったでしょう。多少は構わないのよ。それに私は陽光の煌めきが好き。らしくないかしら?」
「ううん。君らしいよ。とても」
イリーナ・アンドレイエヴナ・クロスカヤは吸血鬼の末裔である。人間との混血を繰り返し、今では本来の血が薄くなっているので、日光も十字架もさほど害にならない。血だけは必要で、毎日、彼女が食べるプラリネは特別に屋敷の家政婦が作った物で、セルゲイの血が混ぜ込まれていた。セルゲイはイリーナの従兄弟で、加えて彼女の崇拝者だった。もう記憶も定かではない幼少の頃から、イリーナに血を捧げてきた。そして、それが自分の存在意義だと思っていた。
「昼はスダーク(川で獲れる白身の魚)を揚げるってマリアさんが言ってたよ。ご馳走だ」
セルゲイは手振りでスダークの大きさを表現しながら言う。
「こんなに大きいんだってさ」
「私はプラリネだけでも良いけど、セルゲイとだったら食事も楽しいわ」
「叔父上は?」
「工場とギルドに顔を出すから、昼は外になるそうよ。あと、モスクワ証券取引委員会がどうとかって。難しいことはよく解らない」
イリーナの父は侯爵だが、工場経営でも成功した一流の商人でもあり、ほうぼうに顔が広い。彼もまた血を必要とするが、イリーナとは違いワインに混ぜて摂取することを好んだ。血の提供者は屋敷の使用人だった。誰の血でも良い訳ではなく、相性があり、イリーナの父にとっては未婚の若い使用人が適正であり、イリーナにとってはセルゲイが望ましかった。彼らには、適する血の持ち主を嗅覚が知らせる。だからイリーナはいつもセルゲイに花にも劣らぬ魅惑的な匂いを感じていた。セルゲイがイリーナに心酔するのであれば、イリーナはセルゲイを得難い存在と感じていた。
「セルゲイは私が怖くないの?」
プラリネをまた一つ齧り、イリーナはセルゲイに問う。ふわり、と漂うセルゲイの血の香り。けれどそれはイリーナにしか知覚されない。
「綺麗過ぎて怖いと思うことはあるよ」
「嘘ばっかり」
「本当だよ。――――馬車に乗って公園を周ったって?」
ロシア商人の古風な習慣に、娘の結婚相手を探す際、着飾らせた娘を馬車に乗せ、公営の公園を巡るというものがある。イリーナの父は、革新と頑迷が共存した精神の持ち主だった。
「ええ。セルゲイも一緒なら楽しかったのに」
イリーナのこの発言を聴いたセルゲイは何とも言えない顔をした。彼女が無邪気で純粋なのは知っているが、セルゲイの気持ちにすら気づかずに言っているのだろうか。もしも気づいた上で言っているのだとしたらと思うと、セルゲイは暗い気持ちになる。しかしこの疑惑は次のイリーナの言葉で払拭された。
「そうしたら他の男の人たちへの牽制になるでしょう?」
セルゲイは思わずイリーナを見る。
きらきらした緑の一対の宝玉がセルゲイに向いている。
モスクワにそよぐ優しい風がイリーナの黄金の髪を靡かせ、セルゲイの頬を優しく撫でた。
黒崎伊音さんにイリーナのモデルとなっていただきました。
御礼申し上げます。