旅立った日
18歳、高校3年生の夏。
我が家に1人、家族が増えた。
まだ見えていないであろう目を必死に開け、しっかりと手を握り返すその小さい手がかわいくて、嬉しくて、思わず涙が出そうになった。
この日私は叔母さんになった。
そして父はおじいちゃんになったのだ。
『目に入れても痛くない』
というのは、まさにこの事だと納得した。
その溺愛っぷりは笑ってしまうほどだった。
「あいちゃん、あいちゃん。」
そう孫を呼ぶ父の顔が、とても幸せそうだったのを覚えている。
そしてこの夏、私は自分の進路について悩んでいた。
18年前、私は子の家の末っ子として生まれた。
ずっと甘やかされて育ってきた事は、自分でも自覚していた。
その反面、口うるさく叱ってくる母や、甘えん坊だと馬鹿にしてくる兄が嫌だった。
そして私をベタベタに甘やかす父が嫌だった。
1人になれる場所が欲しかった。
何も言われない空間が欲しかった。
1人で生活してみたかった。
だからこの数ヶ月後私は1つの決断をするのだった。
「私の第1希望はこの大学です。」
そう言って父に見せた進路希望調査。
「お願いします。」
第1希望に書いたのは、母が1人暮らしを認めてくれると言った大学だった。
「…。」
満足そうな顔をした母の隣で、父は寂しそうな、どこか悲しげな顔をしていた。
「家を出なくてもいいじゃないか。」
父はやっと口を開いた。
チラリとこちらを見たその目は、不満に満ち溢れていた。
「だって家からじゃ通えないもん!」
私はすぐに言い返した。
この頃の私はすごく強気で生意気で、父に対して反抗的だった。
私を心配して言ったであろう言葉も、私は素直に受け取ることができなかった。
「はぁ…。」
私が引かない姿に、父はひとつ息を吐き出した。
そしてその書類に保護者印を押したのだった。
私は1人暮らしの第一関門を突破した。
嬉しかった。
やっとこの家を出れるのだと思った。
もう何も言われない。
1人でいられる。
自分の好きな事ができる。
私はすでに1人暮らしを楽しみにしていた。
この夜父はどんな思いで眠りについたのだろう。
今まで大事にしてきた娘を外に出すというのはどういう気持ちだったのだろう。
可愛い子には旅をさせよ
そんなことわざがピッタリと当てはまったりしたのだろうか。
なんにせよ、親の気持ちなど子を持たない私には到底わかるものではなかった。
18歳、高校3年生冬。
私は推薦で第一志望の大学に合格した。
母は喜び、兄も嬉しそうだった。
「そうか、おめでとう。」
そう言った父の顔は、やはりどこか寂しそうだった。
『本当に行ってしまうのか?』
そう言いたそうな顔だった。
でも私はその顔に、その声に気づかないフリをした。
それからの3ヶ月は引越しの準備で大忙しだった。
部屋を探し、家具を選んで、荷造りをした。
一緒に家具を選ぶ父は、もう寂しそうな顔はしていなかった。
いや、していたとしても子どもな私は気づくことができなかったのかもしれない。
期待が膨らむ初めての1人暮らし。
炊事、洗濯、掃除。
家事を1人でこなすのは大変だと言われた。
「きっと寂しくなるよ?」
と言った友人。
「本当に大丈夫か?」
という兄の心配そうな顔。
不安がなかったわけではない。
家事が大変なのも知っている。
それでもどうしても1人でやってみたかった。
家を出てみたかった。
それがやっと叶うのだ。
不安より楽しみだという思いが強かった。
今思うとこの時の私は浮き足立っていたのかもしれない。
引っ越し当日
3月の終わり頃だったと思う。
入学式まで残る母より一足先に父は岐阜へ戻る事になっていた。
「テレビはどっちに置く?」
そう聞く父の額には汗が滲んでいた。
まだ3月だというのに風通しの悪い、暑い部屋だった。
「こっち!」
そう答えた私は、本当に1人でやっていけるのかと少し不安になっていた。
それを振り払うように無駄に口を動かしていた気がする。
少し日が傾いた頃。
「じゃあ、お父さんそろそろ行くね。」
そう寂しそうに言った父の顔は一瞬で見えなくなった。
なぜなら私は、父の腕に抱きしめられたからだ。
小さい頃はどこへ行くのも一緒だった。
どこへ行っても必ず手を繋いだ。
父の手のひらは大きくて、温かくて、少し硬かった。
仕事で思い荷物を運ぶ父の腕は、太くて逞しかった。
その腕にぶら下がって遊んだのを覚えている。
寒い日は暖かさを求めて、父の腕にひっついて歩いた。
暑い日だって、2人で暑いね、と笑いながらくっついて歩いた。
いつからだろう。
いつから私は父と手を繋ぐのをやめたのだろう。
いつから私は父とくっつくのをやめたのだろう。
いつから私は父の隣を歩かなくなったのだろう。
いつから私は父と手を繋ぐのを恥ずかしいと思うようになったのだろう。
いつから私は父とくっつくのを恥ずかしいと思うようになったのだろう。
いつから私は父の隣を、歩けなくなったのだろう。
数年ぶりに私を抱きしめた父は、さらにぎゅーっと力を込めた。
嫌だなんて思わなかった。
恥ずかしいだなんて思わなかった。
父の腕は昔と変わらず逞しくて、あったかくて、思わず父の背中に自分の腕を回した。
目が、熱くなるのを感じた。
父の背中はとても、とても広かった。
「ゆうちゃん、がんばってね。」
目から溢れそうになるものを、私は必死に堪えた。
泣くのはやっぱり、恥ずかしかった。
私は父の車が見えなくなるまで見送った。
でも、目に何かが膜を張ってよく見えなかった。
父の車が見えなくなって暫くしてから、やっとその何かが目から溢れてきた。
なかなかそれはとまってくれなくて、夕焼け空の下で立ち尽くした。
服の袖で目を拭い、父の車が曲がって行った道の角を見つめた。
どれだけ見つめても父の車が戻って来るわけもなく、また目が熱くなるのを感じた。
今度はそれが溢れることのないように、私は勢いよく顔を上げた。
見上げた空は、もう日が沈みそうだった。
18歳、春
無事に入学式を終え、1人暮らしが始まった。
朝起きて洗濯をして、朝ごはんを食べて学校へ行く。
帰ったら夜ご飯を食べて、お風呂に入って布団になだれ込む。
そんな生活が1ヶ月くらい続いた。
生活に少し余裕が出てきた頃、初めて寂しいと思った。
おはよう、という相手がいない。
朝ごはんを作ってくれる母がいない。
ご飯を一緒に食べる家族がいない。
いってきます、と言っても、
いってらっしゃい、と返ってこない。
ただいま、と言っても、
おかえり、と返ってこない。
真っ暗な部屋。
物音1つしない空間。
誰もいない、わたしの家。
それがこんなにも寂しいものだと、私は知らなかった。
私は今1人なのだと実感した時、1人暮らしをしてから初めて泣いた。
寂しいことを認めたくなくて、声を殺して泣いた。
とまれ、とまれとまれ!!!
とめようとすればするほど、涙は溢れてきた。
頰を流れた涙は、
ポタッ、ポタッ…
と冷たい床を濡らした。
もう涙をこぼすまいと、硬く目をつぶった。
そんな時、父の言葉を思い出した。
『ゆうちゃん、がんばってね。』
その言葉を思い出した時、私はあの時のように顔を上げた。
あの時とは違い、目の前に広がったのは日が落ちかけた空ではなかった。
明かりもつけていない、真っ暗な部屋の天井だった。
今度はあの日のように、目から溢れでるものを止めることができなかった。