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ストリートソング

作者: 降瀬さとる

    ◇


『ザー……ザ、ザ、ザ…えー、続いてのニュースです……』


都会の排気ガスで汚れた赤煉瓦造りのガード下に、今日も誰かが付けっぱなしにしているラジオの音声が響く。


『…えー、内務大臣暗殺事件から、早くも一年。已然として逃亡中の実行犯、ミリー・マークレー容疑者の足取りは掴めておりません。そこで、この度警察当局は、有力な情報提供者には多額の報奨金を用意するとし、広く皆様からの……』


    ◇


「ねぇ。なんでおじさんは、いつもいつも、こんな暗いところで歌を歌っているの?」


昼間でもろくに日の光が届かないガード下。そこに不釣り合いな程、健康的で伸びやかな男の子の声が響き渡る。


声の主は、茶色い髪の毛がキラキラとし、同色の瞳もクリクリと可愛い、白人の男の子。

名前はジェームズ・フォルフといった。

今日は黒い半ズボンを履き、黄色いシャツを着ている。とても利発そうな子だ。


その目の前には、これまたそんな子には似つかわしくない男が座っている。


きついウェーブの掛かった長い髪の毛を、帽子ですっぽりと覆い、口の周りにはもじゃもじゃの髭をたくわえている。目元は帽子と前髪で隠れていて見えなかった。


どちらにせよ、あまり清潔とは言えない風貌だ。ひと目で「宿なし」だとわかる。

名前はサミーといった。苗字は名乗らない。男の子にはただ「サミー」とだけ伝えていた。


「ははは、どうしたんだい、ジェームズ? 今日は、いきなりそんなことを聞いて」


サミーはポロポロと爪弾いていたアコースティックギターから視線を上げて笑った。

その格好からは想像すべくもない、綺麗な手と声をしている。


「だってさぁ。サミーはこんなところで歌ってないで、もっと大きな通りで歌った方が良いと思うんだもん。そうすれば、絶対にもっとお金が貰えるのに……それに、もしかしたら、通りすがりの偉い人に「スカウト」なんて、されちゃうかもしれないよ!」


ジェームズはサミーの目を覗き込みながらそう言う。

結構、本気のようだった。けれど、サミーは「なんだそんなこと」といった感じで、全く取り合う素振りも見せない。


「おいおい…そんなに簡単に、人生ってのはうまくいかないものさ。それに、もしそんなにすぐに評判になるんだったら、おじさんは今、ここで暮らしてなんかいないさぁ」


「ちぇっ…でもさ、それにしたって、ここで歌ってたら本当にいつまで経っても普通のお家じゃ暮らせないよ? 昨日もその前も、その前の前の日も、結局そのギターケースにお金を入れてあげたのは僕だけじゃないか」


ジェームズは頬杖をつき呆れ顔で言うが、それをサミーは、なおも笑い飛ばす。


「ははは、それはちょっと違うなぁ、ジェームズ。実は一昨日は君の他にもう一人、チップをくれた人がいたからね」


と。

それを聞いてジェームズはまた大きなため息をついた。


「……それってきっと、隣の高架下のお爺さんでしょ?」


「正解! ホームレス仲間のゴーコリ爺さんさ! すごいぞぉ? なんと、2ポンドもくれたんだぞ?」


「はぁ…もうやめた。サミーにアドバイスするなんて。そんなに楽しそうに言われたら、真剣に考えてる僕がバカみたいだもの」


ジェームズはひとまずそう言って、サミーを説得するのを諦めた。


そして、その代わりに「今日も一曲聴かせて」と、リクエストをする。


それにサミーはにんまり笑い、「お安い御用で」と、ギターを奏で始める。


しかし、やがて聴こえてきたのは、とても悲しい響きの曲だった。

サミーはおしゃべりするといつも明るい話しかしないのに、歌うのは全て悲しい歌なのだ。


ジェームズはその美しいギターのアルペジオとサミーの歌声に、目を瞑り、耳を澄ませる。


「ねぇ…サミー?」


「ん?」


「表通りで歌わないんだったらさ、せめてもっと明るい歌もレパートリーに入れたら? そうすれば…きっと今よりは、お客さんが増えるかもよ?」


「ふふっ、そうだなぁ……ま、考えてみるよ。ありがとう」


    ◇


英国全土を揺るがせた『ネリド内務大臣暗殺事件』から、その日で丸一年が経とうとしていた。


その為、警察署の目の前には多くの報道陣やテレビリポーターが集まっている。


そんな様子を泥水のようなコーヒーを啜りながらリック警視は、実に苦々しい気持ちで窓から見下ろしていた。


それもそのはず。彼は本件の実質的な「現場責任者」だったのだ。


「はぁ…やれやれ。こりゃ、今日のテレビニュースと明日の新聞は見ない方が身のためだな。俺のガラスのハートが粉々に砕けちまいそうだ」


リックはそう言うとおもむろに窓から離れた。

けどそれを、彼の部下であるジョン警部補が聞き、ふふっと笑いを漏らす。


「何が「ガラスのハート」ですか。もし私が警視のお立場だったら、とっくに胃に穴が空いてますよ」


ジョンはそう言う。


それにはもちろん訳があった。

なにせ本件は、英国でも近年稀に見る重大事件なのだ。

しかも、そんな大事件にも関わらず、捜査は暗礁に乗り上げてしまって久しい……。


結果、前任の捜査部長は辞任。上の責任者達は雲隠れ。警察のメンツは丸潰れで、政府からの信頼も失った。


それでも批判の矢面に立たされたのは、ひと月前に責任者に据えられたばかりのリック警視なのだ。


もし、これが自分であったならば、恨み言のひとつどころか、黒魔術のひとつでも実行に移しそうだ。


けれどリックは顔色一つ変えず

「何言ってやがる。俺の体なんてとうにボロボロよ。今だって、この不味いコーヒーで気分は最悪。さっきから、吐きそうだ」

と言っている。


いつもの冗談だ。だからジョンはちょっと笑ってから、話を元に戻す。捜査のことだ。


「ところで、警視。昨日私が上げた情報ですが…」


「ん? ああ…あれか…俺もちょっと精査してみたが…確かにあの情報には信憑性がある…しかし、奴がこのロンドンに潜伏している可能性が高いとな…」


「ええ。まさかですよ。我々は今まで、奴はこの地からはとっくに去ったものと考えていましたからね」


ジョンは一昨日、とある情報屋から仕入れたネタを思い出しながら言う。


その情報屋によると、ミリー・マークレーは一度ロンドンを出たところをわざと見せておいて、すぐにその脚でこちらに引き返して来たと言うのだ。


「ふーっ、まぁ、以前から足取りを掴むのに苦労していたからな。それが本当なら、足取りを掴めなかったのも当然ってわけだ」


「ええ…そうですね。しかし…いったい奴はどうやって気づかれずにこちらに戻り、姿を隠しているのでしょうか?」


ジョンは顎に手を当てて考える。

それを見ながらリックはまた、美味くないコーヒーを啜った。


「まぁ、なんにせよ。俺の庭である、このロンドンに潜伏するたぁ、なかなか肝の据わった女だ…」


そして、虚空をじっと睨む。


そんなリックの様子をジョンは頼もしく思い「自分も…!」という気持ちがムクムクと湧いた。


だから、机の上の資料を引き出しに仕舞うと、


「はい。逮捕も時間ですよ。では、私はまた街中を駆けずり回って来ます!」


と言い、急ぎ足で捜査本部を後にした。

それを、リックは手を挙げて見送り、


「なかなか…熱心なやつだ」


と感心していた。


    ◇


いつものガード下に向けてジェームズは歩いている。


前を見ると、どこまでも赤煉瓦が続いていた。が、そこにいつもと違うものがペタペタと張られている。


それは指名手配のポスターだった。


全部同じポスターだ。その内の一枚をジェームズは立ち止まってまじまじと見てみた。


「ミリー・マークレー…あ、知ってる…へぇ…この人がそうなんだ…」


そこに印刷されていたのは、綺麗なブロンドのウェーブ髪をした女の人だった。

目鼻立ちがしっかりし、とっても美人なお姉さんといった感じで、まさかこの人が暗殺犯だとは、そう言われてもあまりピンと来ない。


「ふーん…」


ジェームズはそうとだけ感想を言って、また歩き出した。


そして、そこから十分程歩いたところでサミーの元に到着した。


サミーは相変わらず一人でギターを弾き、歌を口ずさんでいた。


「こんにちは。サミー」


「やぁ、こんにちは。ジェームズ」


「…ここにもポスターが貼ってある…」


「ん?」


ジェームズが壁を見てそう言うから、サミーは振り向く。


「ああ、これか。昨日の夜、警察の人が来て、ペタペタと貼っていったよ」


「へぇ…」


二人共、関心なさそうに言い合った。

けど、なぜかジェームズはちょっとだけ踏み込んで、


「ねぇ、サミーはこの女の人、美人だと思う?」


と聞いた。

それにサミーはきょとんとして


「どうしたんだい? 藪から棒に?」


と聞き返す。


「いいから! 教えてよ。どう思う? この女の人のこと」


そう強く言われて、サミーは改めて考えた。


「……うーん…おじさんにはよくわからないな。ちょっとキツそうだし」


「キツそうって?」


「怖そうって意味さ」


サミーがそう言うとジェームズは笑った。


「だよね? 僕もそう思う」


と。そして、それで納得したのか、いつものように地面に座ると、サミーに向かって学校の話や、テレビの話をし始める。


それをサミーは微笑ましい気持ちで聞き、時々ギターをポロポロと弾いた。それを見て、ジェームズは


「ねぇねぇ、今度さ。僕にもギターを教えてよ!」


と言う。

リクエスト曲を持って来ることはあったが、自ら演奏したいと言ってきたのは初めてだった。


「ああ、いいよ。でも、その前にちゃんと家でお勉強もしないとな」


「えー、いいじゃん。勉強なら、ちゃんと夜にしてるもの」


ジェームズはサミーにそう反論する。

それにサミーは


「おお、そうかそうか。じゃあ、今度学校のテストの結果を持って来てごらん?」


と返す。が、それにもジェームズは


「いいよ。別に持ってきても、恥ずかしい成績じゃないからね」


と自信有りげに答えた。


「ははは、わかった。じゃあ、その成績を見て、良ければすぐにでも教えよう」


「ほんと!? やったね! あ、でも、あんまり悲しい曲は嫌だよ? どうせなら明るい歌を教えてよね?」


「はいはい。わかりましたよ。ふふっ」


   ◇


ジョン警部補は、その知的な風貌からは想像できないほど「足で稼ぐ」刑事だった。


この日も当然のように、深夜0時を回っても聞き込みをしている。


そこは品の良いバーだった。

棚には高級そうなウイスキーが並び、BGMとして、年季の入った紳士がピアノの生演奏をしている。


そんな店のカウンターでジョンは、とある女性と会っていた。


彼女はミリー・マークレーの大学生時代の同級生で、一時期、共に行動をしていたという人物だった。


本来なら、重要参考人として署に引っ張っていってもよかったが、そういうわけにもいかない。ここに姿を見せてくれたのも、全てはジョンが慎重に裏でやり取りをした成果なのだ。


つまり、見逃してやる代わりに情報を売れと口説いたのである。

もちろん、それなりの報酬もポケットマネーから出してやった。


あまり褒められた方法ではないと自覚はしていたが、背に腹は変えられない。このことはリックも署には内密で了承していた。


「すいませんね。ご無理を言って」


しかし、それでもジョンは低姿勢を崩すことはしない。そういうところも抜かりはなかった。あとは情報を渡してもらうまで油断しないことが大切だ。


「いいのよ。それよりも、約束は守ってくれるのよね?」


「もちろんですよ。今日も私の他に、ここで会うのを知っている者はおりません。ご安心ください」


それを聞いても、女は猜疑的な目をする。しかし、それならそれで、早く用件を済ませた方がいいと思ったらしく、何枚かの写真を取り出す。

それをジョンは摘んで持ち上げ、眉を上げた。


「これは……?」


「大学時代の写真よ。演劇部に一時期いた時のね…」


女はそう言う。けれど、そこに写っていたのはいずれも別々の人物かと思われた。


その女は、ある写真では黒人のシンガー。ある写真では金髪の女医。また、ある写真では田舎者の大学生の姿をしていた。


「うまいもんでしょう? ミリーは本当に、メイクのプロか女優にでもなればよかったのよ…」


「まさか、これを…全部、自分で?」


ジョンは目を丸くした。

こんな情報は警察でも掴んでいなかった。なぜ今まで見過ごされてきたのだろう? その旨を呟くと、


「そりゃ、ミリーにとっては忘れたい過去だったからね。忘れられない男と過ごした、眩しい思い出さ…」


と教えてくれた。


それでジョンは合点した。

ミリーの動機……それは政府によって射殺された、運動家マックス・クラーク氏の復讐だとは言われていたが…彼は確か大学で演劇の脚本を書いていたのではなかったか。


そこが二人の接点だったわけだ。


そうとわかれば、まだまだ調べたい事が山ほど出てきた。


ジョンは居ても立ってもいられなくなり、一言二言彼女にお礼を言うと、二人分の勘定を済ませ、さっさと店を出た。


地上への階段を上がる。

すると、そこには自分と同じ課の同僚が二人立っていた。

きっと、リックの差金だろう。


ジョンはため息をついたが、あえて見て見ぬふりをした。

彼女には悪いが、仕方がない。


この件に関しては、こちらも本気なのだから。


    ◇


「なぁ、ジェームズ。いつも来てくれるのは嬉しいんだけど、偶には友達と遊ばなくてもいいのかい?」


その日も、空は珍しく晴れ上がっていた。

けれど、そんなロンドンには珍しい晴れ間にも、このガード下は無縁だ。そして、ここの住人にも。

せっかくの晴れ間を全く楽しもうとしない人間もこの街では、かなり珍しい。


「いいさ、別に。いつも学校で遊んでるし。それに、僕はおじさんと話してる方が楽しいんだ」


ジェームズはそう言う。それは、やはりサミーにとっては嬉しい言葉だった。


けれど、さすがに悪い気がした。

だからかどうなのか、サミーは今日は新しい曲を演奏してあげるつもりだった。


「ふふっ…それは光栄だなぁ。では、そんなジェームズに一曲、明るい歌をプレゼントしようかな?」


「えっ!? 本当に!? 聴かせて聴かせて!」


そう言われるとサミーはコホンとひとつ、咳払いをして、ギターを構える。

そして、すーっと息を吸い込むと、ギターをはじき、歌い始めた。


それはずっと昔に流行った曲だった。

しかし…確かにいつもの曲に比べれば明るい曲調だったかもしれないが、子供のジェームズにとってはそんなに違わなかった。今のポップソングの明るさとは比べるべくもないのである。


だから、ジェームズは首を傾げて


「これが、新しいレパートリーなの?」


と言う。


「あれ? ダ、ダメかなぁ?」


「うーん……そうだね。これなら、まだ前までの曲の方が上手かも…」


ジェームズはそう言った。さすがに子供は容赦がなく、正直だ。

しかし、サミーは


「そっかぁ…まぁ、なんとなくそうじゃないかなぁとは、思ったんだけどね」


と、全然めげない。

その様子を見ていたジェームズは


「あ、そうだ!」


と言い、「はい、これ」と、テストの成績カードを出してきた。


「お、約束通り持ってきたな? どれどれ……?」


その札を受け取り、サミーは点数を斜め読みする。

すると、その殆どが満点に近い数字なので、サミーはびっくりした。本当に彼の言う通り、何処に出しても恥ずかしくない成績だったのだ。


それを知ると、サミーはカードからガバッと目を上げる。


「す、すごいじゃないか、ジェームズ!」


「へへへ、やめてよ。なんかお母さんの反応みたいだ」


手放しで褒めるサミーに、ジェームズは恥ずかしそうに鼻を擦る。けど、満更でもない感じだ。


「うんうん。これなら心配する必要なかったな……」


「じゃ、じゃあ、ギター、教えてくれる!?」


「ああ、もちろんだとも。ほら」


そう言うとサミーは愛用のアコースティックギターを、ジェームズに手渡した。

本当はギターが二つあれば教えやすいのだが、あいにくここには一つしかない。だから、ジェームズがギターを持ち、サミーがそれを前から見て指導する。


「じゃあ、まずはローコードからだな」


「ねぇ、ねぇ、それもいいんだけどさ。まずはあれを教えて欲しいな!」


「ん? あれ?」


はしゃいで言うジェームズに、サミーは首を傾げる。

それをいかにもじれったそうに見てジェームズは「もうー」と膨れる。


「あれだよ、あれ。いつもさ、ここで一人で弾いてるでしょ? あの哀しそうなイントロの…古い曲!」


「ああー、あの曲か」


それでサミーもようやくわかった。確かに、あれは誰しも一度は弾いてみたくなる曲なのだ。


「ああ……でも、あの曲はジェームズにはまだ難しいかもしれないよ?」


「ううん。いいの。一度やってみて、それでダメなら。でも、やってみなきゃさ!」


その熱意に押され、サミーは


「わかったよ。じゃあ、試しにやってみるか」


と渋々、その曲の指導を引き受けた。


    ◇


「はぁ……」


ジョン警部補は、徒労に終わった聞き込みの疲れを引きずったまま捜査本部の扉を開いた。


外はまだ明るい。だが、昨日ジョンは帰宅していなかった。ずっと寝ずに捜査を続けていたのである。


部屋の中はガランとしていた。

皆、まだ捜査をしているのだ。しかし、それでもジョンが一番捜査に熱心に取り組んでいるのは、ここの刑事ならば誰もが知るところだった。


もちろん、唯一人この捜査本部に残っていたリック警視もだ。


「よお、ジョン。早いお帰りだな。その様子だと、また徹夜したんだろう?」


「あ、警視……」


そう言われて初めて、リックがそこにいることにジョンは気がついた。

そんな様子のジョンにリックは益々呆れる。


「まったく……いつも言ってるだろ、体調管理は捜査の基本だとな。いくら頑張ったって、そんなにフラフラじゃあ、いざという時に頭が働かんぞ?」


「は、はぁ……」


ジョンはリックの言葉に「もっともです」と頷きたかった。が、そう言うリックの目の下にも宿命のようにクマができている。

これでは説得力がないではないか。


ジョンが思わず笑いかけると、


「ん? 何が可笑しいんだ?」


とリックに言われる。


「あ、いえ。なんでもありません」


「…ふーっ、そうか。なら、いいんだ。まぁ、とにかくお前は一度家にでも帰ってゆっくり休むといい。そうして、また明日から仕切り直しだ」


ジョンはリックにそう言われ少し迷ったが、お言葉に甘えて今日は大人しく自宅に帰ることにした。


思えば、この捜査に加わって以来、夜中以外の時間に帰ったことなど数える程しかなかったからだ。

偶には、家でゆっくりと夕飯を食べるのもいいかもしれない。


「はい、ではお言葉に甘えて、今日はここで失礼します」



    ◇


「違う違う。そこは指を離して……こうだ。はい、そう。ほら、もっと手首の力を抜いて…じゃないと、他の指が弦に当たって音が出なくなるぞ」


サミーはジェームズにああでもない、こうでもないと指示を出す。


「そ、そんなこと言われても……」


しかし、初めてギターを触るジェームズにはちんぷんかんぷんなことばかりだった。手にも必要以上に力が入り、だんだんと痛くなってくる。


それでもサミーは親切丁寧に教えてくれているのだが、そろそろジェームズの方が限界だった。もう、頭がパンクしそうだ。


「もうー、全然指が思い通りに動かない! これ本当に僕の指なの!?」


「ははは、その気持ちよくわかるよ。俺も昔はそう思ったもんだ」


「え? そうなの? あんなに上手なのに?」


「誰にでも最初はあるものさ。だからジェームズも、根気よく頑張れば上手くなるさ」


そう言われるとなんとなくそうなのかなと、ジェームズは思った。

けど、ジェームズはまだ子供だ。そんなには待っていられない。今弾きたい気持ちは、今満たしたいのだ。


「うーん…じゃあさ。今日のところは、ギターが上手くなった人の気持ちになりたいな!」


そして、ジェームズはそう言った。けど、サミーは


「上手くなった人の気持ち?」


と、全く要領を得ない。いったいどういうことなのだろうか?


「もうー、つまりさ。サミーがギター弾いてるのを、こっち側からじゃなくて、そっち側から見たいってことだよ」


「あー。なんだ。そんなことかぁ…」


それを聞いてサミーは笑った。

そんなことをしてギターを弾く人の気持ちになれるかなんてわからなかったが、子供の気持ちとしては理解できた。


「わかったよ。じゃあ、こっちにおいで」


サミーはジェームズを手招きし、膝の上に来るように言う。


それにジェームズは


「へへっ」


と、嬉しそうだが、ちょっと照れ臭そうに応じる。


サミーはギターを受け取ると、ジェームズを抱えるようにして構えた。


「いいかい? ちゃんと指の動きを見ておくんだぞ?」


「うん!」


ジェームズは大きく頷く。

すると、サミーはそんなジェームズに微笑み返し、ギターを弾き始めた。


独特の哀しい雰囲気を持ったアルペジオ。


その振動までもが、ジェームズのお腹に伝わる。

そして、サミーの指使いを覗き込み


「すごく簡単そうに弾いてるのになぁ…」


と呟く。


そうしていると、やがてイントロが終わり、サミーが歌を口ずさみ始める。


それを聴きながらジェームズは目を瞑った。


眠くなってしまったのだ。


無意識の内に、サミーの腕に寄りかかる。


サミーの服や体は汚れているはずなのに、全然嫌な臭いがしなかった。


そして、だんだんと意識が遠のくと、ジェームズはサミーの体にもたれかかる。


すると、ジェームズの背中に、何か柔らかいものが当たった気がした。


それにジェームズは薄れる意識の中、


「あれ…?」


と思う。


「おかしいな……サミーは男の人なのに…」


と。

しかし、そんな疑問も、眠さですぐに霞んでしまった……。


    ◇


ジェームズが家に帰ると、もう夕方の6時を回っていた。


つい、サミーの所で居眠りしてしまったから、すっかり遅くなってしまったのだ。


しかし、その帰りの道すがら、ジェームズの頭の中にあったのは「門限ギリギリで怒られる」ということよりも、あの先ほどの背中の感触のことだった。


「あれって…たぶん……僕の勘違いなんかじゃないよね?」


と。


「ただいまー」


そんな思いが消えぬまま、ジェームズが玄関のドアを開けると、奥の方から母親の


「おかえりなさい。ジェームズ」

という声が聞こえてきた。


よかった。ママ、怒ってないみたいだ。


その思わぬ機嫌の良さにひと安心し、ジェームズはリビングへと急ぐ。そして、


「ねぇ、今日さ……」


と言いながらリビングへ入ると、なんとそこに珍しく父親の姿があった。


それを見て、ジェームズは


「パパ!」


と言う。それにジェームズの父、ジョン・フォルフは


「おかえり。ジェームズ」


と笑顔で応えた。


「今日はもう捜査のお仕事はいいの?」


「ああ…よくは…ないんだけどね。ちょっと疲れたから、偶にはね」


親子はソファの隣同士に座り、久しぶりの会話を交わす。

父、ジョンはここのところ、あのポスターの犯人を追うのに掛り切りで、深夜にしか帰宅することがなかったのだ。


「そっかぁ。まぁ、そうだよね。あんなにポスターが貼ってあったし…」


「ははは。そうなんだ。まぁ、でもあと少しの辛抱だ。お父さんが必ず捕まえてやるからな」


ジョンは笑って言う。そして、ジェームズに


「ところで、今日はどこに行ってたんだ?」


と、先ほど言いかけて、そのままになっていたことを聞き直した。

それにジェームズは


「あ、そっか」


と思い出し、普段は母親にしか話していないサミーのことを、ジョンに向かって話し始めた。


「へぇ……ジェームズはそんなところに行っていたのか……」


「うん。そうなんだ。でね? 今日からついに、ギターを習い始めたんだ!」


「ほう。ギターか…。それはいいな」


ジョンは妻が淹れてくれた紅茶を飲みながら相槌を打つ。

しかし、ちょっと思うところがあったので


「でもな、ジェームズ。お父さんは、そういう人と関わるなとまでは言うつもりはないけれど、子供が大人にお金をあげるのはどうかと思うぞ? そういうことはな、ちゃんと自分で稼げる大人になってからすればいいんだ」


とだけ注意しておいた。


「あ……はい。ごめんなさい」


「うむ。まぁ…謝ることでもないんだがな」


ジョンはジェームズに素直に謝られると、なんだか恥ずかしくなってしまった。

結局のところ、本当はジェームズのことを心配しているのが、バレてしまっているのではないかと思ったからだ。


「でもでも、もっとサミーのお話はしてもいいでしょ?」


「ん? ああ。それは是非、聴かせて欲しいな」


「うん。でね? 今日、ギターを教わったって言ったでしょ? で、その時、僕、サミーの変なところに気がついちゃったんだ」


「変なところ?」


ジョンは目を輝かせて話すジェームズの言葉に真剣に向き合う。なんだかジェームズと話していると、普段は凝り固まっている頭がほぐれていく気がした。


「うん。それがね? サミーって、ヒゲもじゃのおじさんなんだけどね? ……なんだか、胸があるみたいなんだ…」


「胸? …胸って、おっぱいって意味か?」


ジョンはよくわからなかったので、そう聞き返す。

それにジェームズは照れくさそうに


「そう」


と頷く。


「ママとおんなじなんだ。だからね、もしかしたら…サミーは本当は女の人だったんじゃないかなと思って」


「……へぇ。本当は女の人…か。でも、今は?」


「ヒゲもじゃのおじさん」


ジェームズはなぜか自信ありげに言った。

それにジョンは


「はははは」


と、堪らず大笑いする。

そんなわけない。そのおじさんに胸があったっていうのは、ジェームズ、お前の勘違いじゃないか? と。


それはいつものジョンらしからぬ言い方だった。

いつもならもっとジェームズの言い分をフォローするはずなのに、今日はその意見を笑い飛ばしたからだ。


それでジェームズはちょっと膨れて、この話は流れてしまった。


その後、家族三人は一緒に夕食をとり、ジェームズはジョンとお風呂に入って、11時前には就寝した。


だからジェームズは、ジョンが夜中にこっそりとスーツに着替え、家を出て行ったことには気が付かなかった。


    ◇


その時、サミーはギターに服を巻きつけ、それを枕代わりにして寝っ転がっていた。


いつも夜はなかなか寝つけないのだ。


こうやってホームレス生活をするのには、すっかり慣れたのだが、別の緊張がいつも体と心を重く縛り付ける。


けど、最近はジェームズのことを考えると、その嫌な緊張感も少し忘れられた。


「ジェームズ……次に来るときは、ちゃんとコードから教えてあげないとな……」


そんなことを思いながら、冷たい地面に体を横たえる。


すると、しばらく経った頃、ヒタヒタと遠くの方から、一人の足音が近づいて来るのがわかった。


こんな時間に、こんな所を通るなんて珍しい。

いや、そんな人間は、同じホームレス仲間くらいしかいないと思われた。


でも、その足音は違うのだ。


それは普通の人の歩き方ではない……訓練されたものだ。


そのことに気がつくと、サミーはピタッと呼吸を止め、改めて緊張を体中に張り巡らせた。


「……警察…それとも公安……? またポスター貼りならいいが……」


サミーはそんなことを考える。すると、その内に一人の人影が見えてきた。

街灯も極端に少ない、こんな場所ではよくわからないが、それはスーツを着た、黒い髪の男のようだった。


男は足を迷わせつつも、着実にこちらに向かっている。


サミーはいよいよ覚悟を決めた。


「あの……すいません…」


男がサミーに話しかけてきた。


「…お休み中のところ、大変申し訳ないのですが……道をお尋ねしたいのです」


男は言う。

しかし、それをサミーは寝たふりをして無視した。


暫しの沈黙。


が、その静寂は突然に破られた。


男が唾を飲み込み、そっと懐に手を入れた瞬間……。


サミーが素早く起き上がり、サイレンサー付きの銃を放ったのだ。


「……ぐぅ…!」


その弾丸は男の胸を撃ち抜き、一瞬の呻き声しか許さず、その尊い命を奪った。


辺りには、白い硝煙が立ち昇り、あっという間に血溜まりができあがる。


そんな凄惨な光景を、サミーは長い前髪の奥から鋭い眼光で見下ろしていた。


倒れた男の手には拳銃が握られている。

その銃の型から男が、刑事であることがわかった。


「……くそっ、なんでここがわかったんだ?」


サミーはそう思う。

しかし、のんびりなどはしていられない。すぐに応援が駆けつけることも考えられたし、この死体が見つかるのも時間の問題だ。


「でも……私はまだ捕まるわけにはいかないんだ」


サミーは高まる心臓の鼓動を抑えつつ、男の懐を探った。

この男の素性を知っておかなければ対策が取りにくいからだ。


見つかったのは、やはり警察手帳だった。


それをサミーは何の関心も抱かずに、冷たい目で開く。


が……。


そんなサミーの表情は、その手帳の中身を見た瞬間……みるみるうちに青ざめていった。


「そ……そんな…な、なんで!」


サミーの手は知らず知らずのうちにガタガタと大きく震えた。

そして、何度も何度も何度も、そこに書かれていた名前が見間違いではないかと確かめる。

けれど、それは見間違いなどではなかった。


『ジョン・フォルフ』


そして何よりも、彼女を動揺させたのは、その手帳に挟まれていた一枚の写真だった。


なぜならそこには、彼女のよく知る、あのジェームズと、この目の前の男とその妻であろう女性が、三人で仲睦まじそうに写っていたからである。


「ジェ、ジェームズ……」


彼女はとうとう膝から崩れ落ちた。


こんなにも深い絶望は初めてだった。


それは、三年前、恋人を射殺された時にも、ついぞ味わわなかった感覚だった。


この今の絶望に比べたら……あんなものは……あんなものは…。


目の前が真っ暗になる。もう何も考えたくない。何も知りたくない。


今すぐにでも死んでしまいたかった。


「……でも……私はまだ捕まるわけには…でも…私はまだ捕まるわけには……?」


彼女はうわ言のように繰り返す。


しかし、それ以上思考が前に進むためには、まだまだ、かなりの時間が掛かりそうだった……。


    ◇


『ザー……ザ、ザ、ザ…えー、突然ですが、ここで緊急ニュースです……』


都会の排気ガスで汚れた赤煉瓦造りのガード下に、今日も誰かが付けっぱなしにしているラジオの音声が響く。


『先日、発生から一年が経過した『内務大臣暗殺事件』。その犯人と目されていた、ミリー・マークレー容疑者ですが、なんと今朝、突然、警察に出頭してきたとのことで、現在取り調べが行われているということです。出頭してきた理由に関しましては、捜査本部のリック・ドルトン警視が会見で……』



テーマソング


レッド・ツェッペリン「天国への階段」


お読みいただき、ありがとうございました!


引き続き、他のチーム殺し屋の作品もお楽しみください!


よろしくお願いします。


降瀬さとる

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― 新着の感想 ―
[良い点] やはり、本来なら殺し屋とは接点の無い少年に焦点を合わせた描写ですね。 これがあったからこそ、もう1つの警察サイドのストーリーとの間で絶妙な緩急が生まれて物語全体を面白くしていたように感じま…
[良い点] これまで色々な作品を拝見してきて、降瀬さんはわりと何でも器用に書けてしまうタイプだろうと思っていたのですが、その中でもやっぱり群像劇を書かせたら右に出る人はいないなぁと改めてそう思いました…
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