ご褒美編 その五
書庫への道すがら、パパ上殿がニャルミに語りかける。
「ニャルミはマッグーロという魚を知っているかね?」
「マッグーロ?」
「ああ、海で取れる大きな赤身の魚だそうだ。
そのマッグーロの一番脂の乗ったところをオーオトローというらしい。
大豆で作ったセウーユとかいう調味料で食べるのが普通なのだそうだ。
さらに清流にのみ生えるというワッサビーという薬草がこれによく合うと聞く。
なんでも相当刺激的な味なのだそうだ。
それらを完璧な割合で混ぜ合わせるとたまらなく美味いと、物の本には記されている。
食べやすいように小さく切った一片を丸ごと頬張ると、ほんのりのした甘さとともに清々しい磯の香りが感じられる。
噛みしめるとそれはまるでクリームのように口の中でとろけ、思わず飲み込みたくなる衝動を止められない。
その喉越しはなめらかだが存在感にあふれていて、次の一口が待ちきれなくなるという。
……どうだ、一度食べてみたいだろう?」
「うん、お魚大好き!」
「それで、そのオーオトローというものがさっきの知恵の薬に必要でね。
冷凍マッグーロを一本まるまる取り寄せようかと思っているんだ。
だからたとえ薬の効果が芳しくなかったとしても、そのオーオトローを味わうことができるんだよ。
ちなみにそれは非常に高価なものでね、それ一本で家が建つとさえ言われているんだ」
パパ上殿の話から推測すると、それはおそらくマグロに似たお魚なのだろう。
本マグロの成魚は体重数百キロを超えたと記憶しているから、家が建つという話も頷ける。
それを一本取り寄せるなら、ドラゴン退治にご褒美として充分どころか大盤振る舞いかもしれない。
「分かったわ。オーオトローのこと楽しみにしてる。
せっかくだしみんなを呼んで盛大にいただきましょう」
「ニャルミならそう言ってくれると思ったよ。
良かろう、マッグーロパーティを開こう。
街のみんなを全員集めて、盛大にやるぞ!」
「うん、家一軒分みんなで食べましょう!」
ニャルミはとても満足したようだ。家一軒分という響きが気に入ったらしい。
インパクトがあるもんな。
家一軒分のお魚を食い尽くしたんだぜ、僕もそんな風にいつか誰かに言ってみたい。
パパ上殿はご機嫌なニャルミを見て、ウニャウニャと頷いている。
なるほど、この話を切り出してきた時パパ上殿がやけに熱心だった理由がようやく分かった。
おそらくパパ上殿としては、ここが話の落としどころだったのだろう。
娘のとんでもない要望に沿う形で、なおかつ社会的体面を立てることも忘れていない。
魔道書解読を習わせるというおまけまでつけた、一石三鳥の解決法だ。
実際にはパパ上殿の思惑以上に魔道書のことが嬉しいのだが、それは言う必要は無いよね。
そういうわけで大トロも楽しみだが、猫言語魔法の魔道書も早く読んでみたいのだ。
そしてよくよく考えてみれば、知恵の薬も素晴らしいものではないだろうか。
何故ならたとえそれがインチキでも、それを飲めば大手を振って賢い猫として振舞えるようになるからだ。
ついでだから薬のおかげで魔法が使えるようになったことにしてもいいだろう。
なんせ猫言語魔法という本に載っている薬なのだ。
猫が魔法を使えるようになったとしても、全く脈絡が無いとは言えまい。
ほどなく僕らは目的地に到着する。
パパ上殿は懐から出した鍵で扉を開けた。
「入ってもいいの?」
「ああ、今日は特別だ。だけど静かにゆっくりとな。
ニャスターは、うん、まあ今日だけはいいだろう。
その代わりちゃんと抱っこしていなさい」
「うん、大丈夫。ニャスターはとてもいい子だよ」
おそらくこの部屋にニャルミを入れたことがなかったのだろう。
ニャルミは僕をしっかりと抱きしめると、部屋の中にそっと足を踏み入れる。
「わー」とニャルミが嬉しそうな声を漏らす。
「すごいだろう、これが我が家に代々伝わる大切なコレクションだ」
壁一面に書架が据え付けられ、たくさんの本が並んでいる。
部屋の中央にはあまり実用的に見えない机と椅子が一脚ずつ。
おそらくそれらは内容を軽く確認するための物だろう。
ここはあくまでも書庫らしい。
「あ、これ『猫に鰹節物語』じゃない! ずっと読んでみたかったの!
それにこっちは『猫耳流星群奇譚』だわ! すごい、ここは宝の山ね!」
どうやら全てが魔道書というわけではないようだ。
それにしてもどんな本なのだろうか。タイトルからは話が全然想像できない。
だいたい鰹節がこの世界にあるのかよ!
マグロがいるんだからあっても不思議ではないが、納得のいかないものがある……。
「んー、まだニャルミが読むにはちょっと早いかもしれないな。
まあいいか、一冊だけならおまけで貸してあげよう」
「えー、読みたい本がいっぱいあるのに。
うーん、どれにしよか迷っちゃう……」
ニャルミは散々迷っていたが、最初にとった『猫に鰹節物語』にしたようだ。
そんなに面白そうな本なら、僕にも後で読ませておくれよ。
「ニャルミが魔道書を解き明かすことができたら、またこの部屋に入れてあげよう。
その時はご褒美にまた一冊ニャルミが読みたい本を貸し出すよ。
だから頑張って解読してみなさい」
「分かったわ! うん! 頑張る!」
パパ上殿はニャルミにやる気を出させようとあの手この手で頑張っている。
ただそんな努力をしてもらわなくても、既に僕らは夢中なんだけどね。
なんせあの『猫言語魔法』なのだから。
「さてニャルミ、本題に入ろうか。こちらに来なさい」
パパ上殿は先程の小さな机にニャルミを呼び寄せる。
机の上には何かのメモ書きと二冊の本が置いてあった。
パパ上殿はメモを懐に入れると、二冊の本を手に取った。
そのメモはおそらく薬のレシピだろう。
次いで本を一冊ずつニャルミに示す。
「それが例の魔道書だよ。
それからこっちが魔道書解読の教本だ。
これらを渡す前にニャルミに少し説明しておきたいことがある。
注意してパパの話を聞きなさい」
魔道書はとても高価なものらしく、その取り扱いに細心の注意を払うよう言い渡された。
価格はピンキリらしいが、安いものでもマッグーロと同じく家一軒分くらいの価値があるそうだ。
「魔道書を解読するだけでなく、その扱い方も一緒に学ぶんだよ。
出しっぱなしにせず、きちんと鍵のかかるところに保存すること。
他の人が部屋に入る時は、面倒でも毎回しまうこと。
その人がたとえメイドさんやパパだったとしてもね。
もちろん読みながら居眠りなんてとんでもない。
それが魔道書の取り扱いの基本なんだけど、ニャルミなら守ってくれるとパパは信じてるよ。
ニャルミがそれらを順守して解読できたなら、次のステップに進もう」
三冊の本が重そうだ。その上ニャルミは僕も抱えている。
パパ上殿は部屋まで本を運ぶのを手伝ってくれた。
「戦いの疲れがまだあるだろうから、今日の訓練はお休みとする。
その代わりママにお弁当を届けてくれないか。一緒にお昼を食べてくるといい。
お寝坊さんのリハビリにはちょうどいい運動になるだろう。
ついでに様子を見てきて欲しい」
「たった一日寝てたからってそんなこと言わないでよ、もう」
「ハハハ、それだけ元気があれば明日から練習を再開しても大丈夫だな。では頼んだよ」
パパ上殿はそう言って仕事に戻っていった。
負傷者の治療にあたっているママ殿は、いまだに屋敷には戻って来れないらしい。
そういえば昨日も見かけなかったな。
これはひょっとしたら、ママに会えなくてさびしそうな娘へのパパの気配りなのかもしれない。
長いので二話に分けます




