八
同室のラミーナとユファが眠りにつき、シエラもベッドに入って目を閉じた。
意識がゆっくりとなくなっていく。その時、闇の中で誰かの声を聞いた。深い、悲しみの声だ。
――すまない、と。こうするしか道がなかった、と。
後悔の念に包まれた悲痛な声が、シエラの意識を違う場所へと誘う。気がつけばシエラは真っ暗な空間の中に立っていた。足元には水面が広がっている。
――これって……。
コトノやアンの作り出した空間と全く同じものだ。シエラは辺りを見回しながら、コトノか、もしくはアンがいないか確認する。そこには、誰もいなかった。では、先ほどの悲しい声は誰のものなのだろうか。シエラはゆっくりと水面の上を移動しながら、胸の辺りを抑える。
――なんでだろう。胸の奥が、ぎゅって痛い……。
クラウドの横顔が、脳裏に浮かぶ。懐かしい、面影が重なる。大切なものがそこにあるような、かけがえのない思い出を紐解くような、そんな憂いがシエラを襲う。
「……あなたは、誰なの?」
身の内の魔力が、静かに燃え上がろうとしている。シエラの心の痛みに呼応して、魔力は更に増幅しようとしているようだ。
――こんなバカみたいな魔力、どうすればいいっていうの!!
いくら夢の中とはいえ、不吉だ。現実世界のシエラの魔力まで増幅してしまっていたら、同じ部屋で寝ているラミーナやユファに迷惑をかけてしまう。その時、ふいに誰かに腕を掴まれた。シエラは驚いて上を見る。
「……どうして、あなたが?」
信じられない。信じたくない。どうして。どうして、ここにいるの。
そんな気持ちがシエラの中を駆け巡る。
慌てるシエラに、彼は優しく微笑んだ。
「どうして――グレイが?」
シエラは抵抗もできずに、腕を掴まれたまま動けない。優しく微笑んだままの彼が、シエラは怖い。怖くて怖くて、たまらない。
「大丈夫だよ、シエラ」
ぐっと引き寄せられ、シエラはグレイに抱きしめられた。瞬間、シエラの脳内を何かが過ぎった。
知っている。
“私”は彼を、グレイ=ジェルドを知っている。
そんな奇妙な感覚に、シエラは知らず知らずのうちに涙を流していた。グレイは優しい眼差しでシエラのことを見つめている。頭を撫でられる手が心地よいと思ってしまうのは、何故だろう。
敵同士なのに。警戒すべき相手なのに。シエラは、動けない。
「……シエラ。君の魔力は、なんて真っ直ぐなんだろうね」
「……何を、言っているの?」
魔力に真っ直ぐもクソもあるものか。そう悪態をついてやりたいのに、言葉が出てこない。レイルのことも色々聞きたい気持ちはあるのに、喉がうまく声を出してくれないのだ。
「君の魔力は、優しい魔力だ。温かくて、濁りがなくて、どこまでも純粋で、膨大で、強力だ。君の魔力を以ってすれば、全てをゼロに還せるだろう」
この世界を、あるべき元の姿に。歪みを正し、欠落を補填し、全てをゼロに。
耳元で囁かれたその言葉に、シエラは嫌悪感と、悲しみと、そして何故か愛しさを感じた。
けれどグレイの言葉に耳を貸すわけにはいかない。シエラ達は、今あるものを守り抜かねばならない。それこそが適合者としての、シエラに与えられた役目だ。
――それに、今の言葉……。
聞き覚えがあった。痛烈に心に響く言葉として、シエラの中に刻まれている。そう、あれは、悪夢のような時間だった。カルタゴの丘で、違う道を辿ることになった姉妹のやり取りの中で、グレイの今の言葉と同じことを聞いた。
「……グレイ、あなたが」
ラミーナのお姉さんをそそのかしたんだね。
シエラがそう言えば、グレイは大きく目を見開いた。それからシエラを抱きしめる腕に力をいれ、爪を立ててきた。シエラの肌にギリギリと爪が食い込む。
「違う。そそのかしてなんていない。彼女は、ルミーナは、俺の目的の為に協力してくれていただけだ……!!」
グレイは声を荒げると、思い切りシエラを突き飛ばした。ばしゃり、と水がはねる。シエラは水面の上に倒れ込んだ。
「この世界はね、歪んでいるんだよ。聖玉なんてものがあるから、神なんて存在がいたから……!! だから、だから……!!」
ヒステリックにグレイは叫ぶと、自分の胸倉を思い切り掴んだ。痛みに耐えるように、グレイは背中を丸くする。
「いいかいシエラ。聖玉はね、人間の有益になるだけのものじゃないんだ。それに考えてもみなよ。世界を制御しうるものが、何の犠牲もなしで成り立っていると思うかい!?」
シエラはゆっくりと上体を起こす。グレイの瞳には、深い悲しみや怒りがあった。彼がどうしようもない憤りを感じていることは、その表情からもよく分かる。
「……あなたは、何を知っているの?」
淡々と、シエラは尋ねた。彼がどこまで知っているのか。どこまでが本当で、どこからが嘘なのか。今のシエラにはそれを推し量る材料が無い。ただ、ない混ぜになった感情が胸を締め付けるばかりだ。
「俺は……」
グレイは、言葉を濁す。瞳が頼りなく揺れている。
「俺は、知っているよ。リディアの事も、聖玉の事も、宝玉の事も。――そして、君の事も」
「え……?」
ぞわり、とシエラの肌が粟立つ。正直、このしんみりとした空気でなければ「ストーカー?」と言っていたところだ。けれど、グレイの言葉を冷静に受け止めてみれば、シエラの出来の悪い脳みそでも、それなりに最悪の現実というものを理解できる。
「……どうして、リディアの事を知っているの?」
もう一歩、突っ込んで聞いてみる。
案の定グレイは、逡巡した。
シエラも、質問したはいいものの、もう引き返すことができないこの状況に、冷や汗が止まらない。
グレイは空ろな瞳でシエラを見つめながら、ゆっくりと、口を動かす。その真実に、シエラは、一瞬何も理解できなかった。思考が停止し、目の前の男を疑い、その言葉を認めようとはしなかった。
それなのに、グレイは悲しげに笑う。笑って、「これは、本当だ。覆らない、真実だ」と言った。
あぁ、なんてこの世界は不思議な縁で繋がっているんだろう。
シエラがそう思ったとき、すでにシエラの意識は途絶えていた。
目が覚めて、シエラはびっしょりと汗を掻いていることに気づく。朝日が窓の隙間から差し込み、鳥のさえずりが聞こえてくる。清々しい、いつも通りの朝だ。それなのに、シエラの心は違和感とわだかまりが拭いきれずにいる。
――あれが……真実なら。グレイの言葉が、本当なら……。
余計に、シエラは分からなくなる。グレイという男が、レイルという思念体が、リディアという存在が。
二千年前の出来事全てが、今までの常識全てが、シエラを苦しめる。
夢が、ただの夢ならばいいのに。そう願う一方で、あれがただの夢ではないとシエラは実感してしまっている。
――だって、あの真っ暗な水面の空間は……コトノ達とも出会った場所だから。だから、夢なはずがないんだ。
前にコトノは、あの空間は創造主の意のままに操れるものだと言っていた。つまり、シエラか、あるいはグレイのどちらかが作り出したもの、という事になる。
――私にそんな力があるとは思えないし、あの男なら、ありえる話だよね……。
それに、まさか自分の魔力をあんな風に褒められるとは思わなかった。もちろん、グレイの言葉に耳を貸すつもりはないが。
――そういえば……最初に聞こえた声は誰のだったんだろう。
すまない、と。こうするしか道がなかった、と、誰かに詫びる、深い悲しい声。あれに導かれて、シエラはあの空間に来た。結局、あの声が誰のものかは分からなかったけれど。
――でも、なんでだろう。あの声、すっごく懐かしいような……大切な人だったような、そんな気がする。
自分の記憶には無いはずなのに、シエラは知っていると思ってしまうのだ。クラウドの横顔も、グレイの事も、あの声の事も、全て、知っているような気がする。
「きゅーん?」
その時、シエラのベッドの片隅がもそもそと動き出す。小さなふくらみから、ひょっこりとイヴが顔を覗かせた。
「……おはよう、イヴ。今日も早起きだね」
「きゅーん!」
小さな声で、イヴは元気よく鳴く。
「……私も、元気出さなくちゃだね」
シエラはそう意気込んで、ベッドから起き上がった。
「――じゃぁ、そろそろ出発するけど準備はいいかしら?」
荷物を担ぎなおしたラミーナが、シエラ達の顔を見回す。バイソンはニッと笑って「あぁ、大丈夫だぜ!」と拳を突き出した。
「私も、もう力は回復したしのぉ。いつでも大丈夫じゃ」
コトノは準備体操をしながら、一晩を過ごした宿を振り返る。その目には、やはり好奇心が満ち溢れていた。
「……次は、ダリアミですね」
ウエーバーの言葉に、ユファが頷く。
次の目的地ダリアミ王国は、ユファの出身国だ。遺跡が数多く残っている国としても有名で、別名歴史の国と呼ばれるほどだ。二千年前の情報を得られるという意味でも、とても有力な場所であろう。
シエラが胸を躍らせていると、ぽん、と優しく肩を叩かれた。視線を持ち上げれば、サルバナが微笑んでいる。
「シエラ、今日も髪の毛は下ろしたままなのかい?」
「あ、うん。ゴムはせっかくだから、新しいものをどこか大きな街で買おうかなって」
「そうかい。なら、俺の故郷ナールで買うってのはどうだい? いい店を知っているんだ」
「へぇ、さすがサルバナね。そういうものもチェックしてるってわけ?」
話を聞いていたのか、ラミーナが茶化すように笑った。すると、サルバナは爽やかな笑みで「まぁ、このぐらいは紳士として当然だよ」と言った。シエラはクラウドの額に青筋が浮かんだのが見えたが、あえて気づかないふりをしておく。
「それにこう見えても俺には姉がいてね。結構、彼女の買い物に付き合わされたりもしたから、女性ものの店にも詳しいんだ」
「え!?」
シエラとラミーナは声を揃えて驚く。
「サルバナって……お姉さんいたんだ」
シエラが目を丸くして呟けば、サルバナは首肯した。
「初耳ねぇ。言われてみれば確かに、どことなくそんな雰囲気もあるような……」
ラミーナはサルバナをくまなく見つめる。サルバナは笑いながら「そんなに見つめられたら穴が開いちゃうなぁ」と軽口を言っている。
「それと俺から一つ提案なんだけどさ。……せっかくだから、皆ナールで装束を新調したらどうかな?」
不敵な笑みを浮かべて、サルバナはシエラ達を見回した。確かに、もう旅も中盤に差し掛かっている。そろそろ今までお世話になってきた装束も、ボロボロだ。
「これから、きっと戦いは益々激しくなるだろう? その時に、自分の身を守るっていう意味では、装備が重要なんじゃないかなって思うんだけど」
「……そうね。一理あるわ。これから先は、何があるか余計に分からないもの」
「言われてみりゃ、俺たちって結構軽装だよな!」
ラミーナとバイソンはサルバナに賛成のようだ。シエラももちろん、賛成だ。着る物が変わればその分気分も変わってくる。せっかく髪ゴムを変えるのなら、他も新調したっていいかもしれない。
「……他の皆は、どうかな?」
サルバナはユファ達に視線を投げかける。ユファは少し戸惑っているようだったが、すぐに首を立てに振った。
「お前の提案にしちゃ、まぁ、まともな方だったな」
「僕も、いいと思いますよ。せっかく流行の国ナールに行くんですからね」
クラウドとウエーバーも賛成し、ダリアミの後に行くナールで、シエラ達は装備を一旦整えることにした。話し合いが終わると、シエラ達は人気のない場所へと移動する。
コトノの能力は他人に見られては後々厄介なことになりそうなので、こうして人目につかない場所へと向かうのだ。街から少し離れた林の中、シエラ達は円陣を作る。コトノを中心として、青白い光が発生する。
「それでは、心の準備は良いな?」
コトノが口角を上げて、シエラ達に尋ねた。
「もっちろんよ!」
「はい、大丈夫です」
「おう! いつでも来いよ!」
「……私も、問題ない」
「俺もだ」
「ふふ、俺は構わないよ」
「……コトノ、お願い」
シエラ達の言葉を聞き、コトノは満足そうに頷く。
瞬間、光が弾ける。シエラの視界が大きく揺れた。光がシエラ達を飲み込み、木々がざわめく。
そこにはもう、シエラ達の姿はなかった。




