三
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誰かの、泣き声が聞こえた。
ふわふわとした感覚に包まれながら、シエラはゆっくりと目を開く。霞んだ視界にぼんやりと、小さな後姿が見えた。
――ウエーバー?
鮮やかな橙色の髪の毛の隙間からは、大粒の涙をこぼしている瞳が覗いている。幼い彼は、暗い闇の中にひとり佇み、泣いていた。
――……ウエーバー、泣かないで。
ひとりぼっちで泣いている後姿は、まるでかつての自分のようで。シエラはもどかしい気持ちになる。この手を差し伸べたい――そう思っても、体は動かない。
シエラはただじっと、ぼんやりとした視界で彼を見つめることしかできなかった。
すると、突然景色が変わった。
脳内に、記憶が流れ込んでくる。それは、幼い少年にはあまりにも残酷な、どうしようもない事件だった。
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「――ほら、ウエーバー。もうすぐナルダンに着くわよ。あの山が見える?」
「わぁ! お母さん、ぼく、とっても楽しみだよ」
「そうね。お母さんも楽しみよ」
馬車に揺られながら、六歳になったばかりのウエーバーは母と遠くの山々を眺めていた。
彼の両親は、ディアナの国家構成員として働いている。母は医療魔術の研究を行う研究員で、父は外交官だ。今回、ウエーバーは父と母に連れられて、異国のナルダンへと向かっていた。
父の仕事の関係で、三年ほどナルダンで住む事になったのだ。幼いウエーバーは、学校の友達との別れを惜しみつつも、見知らぬ土地に強い興味を持っていた。だから、不思議と別れも寂しくはない。
ロベルティーナの宿場町から馬車に揺られること、半日。ようやくウエーバーはナルダンの地へと足を踏み入れることができた。見るもの全てが新鮮で、市場に売られているものさえも、ディアナの首都フランズとは違う。それが嬉しくて、馬車での疲れも忘れたように、ウエーバーは街を駆け回った。
「ウエーバー、あまり遠く行ってはダメよ?」
「はーいっ」
新居の近くから始まり、広場、図書館や市場などを見て回る。まだまだ満足はしていないけれど、これから知っていけばいい。明日が楽しみだ――ナルダンへ来たばかりのウエーバーは、そう思っていた。
けれど、楽しいことばかりではなかった。
ナルダンは、魔物の国マヨクワードゥに近い。そのため、下級ではあるが、頻繁に魔物が出現するのだ。しかもウエーバーがやってきたのは、ナルダンの首都ルゾーより南東に数キロの、海沿いの町だった。魔物の出没率は高いが、騎士団により治安は維持されている。何よりも、医療魔術の研究員であるウエーバーの母は、この地域にある薬草の研究が任務だった。
危険ではあるが、自然も多い町でもある。越してきてから一ヶ月は何事もなく、ウエーバー達家族は穏やかな日々を過ごしていた。
そんなある日。
「魔物が海岸に現れた?」
「そうらしいの。騎士団が警備している区域だったから、何事もなく終わったらしいんだけどね」
夜、父と母が話しているのを、ウエーバーは扉越しに聞いていた。ウエーバーは静かに扉を開ける。
「あら、ウエーバーどうしたの?」
「ウエーバー、もう遅い時間だから早く寝なさい」
ウエーバーは父と母の顔を窺い、小さく笑いながら両手を出した。その手からは魔力が迸り、見る見るうちに氷の造花が形成されていく。
「まぁ、凄いわウエーバー!!」
「あのね、ぼく、いつかお母さんとお父さんみたいに、りっぱに“国”のために、おしごとがしたいんだ」
そう言って、幼いウエーバーは造花をテーブルに載せた。
「父さんと母さんみたいに働きたいのか? そうか、そうか……」
ウエーバーの父は目を細めて、自分の息子を膝に抱きかかえた。ウエーバーは誇らしげに笑顔をこぼす。
「だからね、みんなをこまらせる、魔物なんてわるいやつら、ぼくが全部たおすんだ!」
ウエーバーは、それが当然のことだと思っていた。そして父も母も、きっと喜んでくれると思っていた。けれど、そうではなかった。ウエーバーの言葉に、父も母も顔を曇らせる。
「……ウエーバー。よく聞いてね。あなたは、魔法の才能は誰よりもあると思う。けどね、使い方を間違ってはダメよ。魔物が悪いだなんて、そんなこと、誰かが決めれるようなことじゃないの」
「どうして?」
ウエーバーは、母の言葉が理解できなかった。ウエーバーが魔法を使えば、母は一番最初に喜んでくれる。両親は、それを誰よりも褒めてくれる。
「魔物も、私たち人間と同じように生きているの。だからヒトの国にやってきてしまうのは、食べ物や住む場所を求めているからよ。魔物も、ヒトと同じように生きていたい」
それなのに、今は違う。
ウエーバーが魔物に対して魔法を使わないように、幼い彼に分かるように説明している。ウエーバーはそんな両親の意図がなんとなく分かって、唇を尖らせた。
「でも、魔物は町をあらすんでしょう? だったら、わるいやつらじゃないの?」
「……少し、ウエーバーには難しい話になるかもしれないけど。魔物だって、本当はヒトと喧嘩したくないと思うの。でも、ヒトが魔物とは一緒に生活したくないって、昔、私たちのご先祖様がそういう風に言って、魔物と喧嘩しちゃったの。だから、魔物もヒトのことを嫌いになっちゃったのよ」
「魔物はぼくたちのことが嫌いだから、町であばれるっていうこと?」
「そうよ。ウエーバーは物分りがいいわね。お母さんはね、ウエーバーがそんな風に魔物と喧嘩しちゃうの、とっても悲しいの。だから、魔物のこと、そうやって悪いなんて決めちゃダメ」
そう言って、母はウエーバーの頭を撫でる。ウエーバーは、母の言っている言葉は理解できた。けれど、その本当の意味はまだ、分かっていない。魔物が町を荒らすなら、悪い奴という事には変わり無い。けれど父と母が魔物を倒すことを良しとしない。
両親のことは大好きだ。悲しむことはしたくない。それでも、人を困らせる魔物も許せそうにない。
幼いウエーバーの中で、これは大きな葛藤だった。テーブルに載せた氷の造花は、静かに溶け始めている。
「……さ、ウエーバー。今日はもう寝ましょうね」
「……はい」
ウエーバーは母に手を引かれて、大人しくベッドに向かった。なんだかその夜は、なかなか寝付けなかった。
翌日、ウエーバーは暗い気持ちで学校にいた。
普通学校の授業は、どれも生活に欠かせないものばかりで、ウエーバーにとってとても楽しい時間だ。
それなのに、気持ちは浮上してこない。昨晩の父と母の言葉が、頭から離れない。幼い彼には、まだ本当の意味など分からないけれど。とにかく、魔物と争うことは、父と母が悲しむことなのだと、漠然と理解した。
「ウエーバー、どうしたの?」
友達に話しかけられても、うまく言葉が出てこない。適当な相槌を打つばかりだ。どんよりと空が曇り始めたのを見つめながら、ウエーバーは不思議な気持ちに包まれていた。
もうすぐ午後の授業が始まる。ウエーバーは授業の準備をしながら、先生がくるのを大人しく待っていた。待ちくたびれて、席から離れて遊び始めるクラスメイトも沢山いる。
けれど、いつになっても先生はやってこない。さすがにウエーバーもおかしいな、と思う。
外は、いつの間にか雨が降っていた。遠くで雷鳴が轟く。遊んでいたクラスメイトも、いつの間にか不安げな顔で寄り添いあっていた。
――どうしたんだろう……。
ウエーバーは、教室から飛び出したい気持ちを抑えて、なんとか椅子に座り続けた。すると、顔面蒼白の女性の先生が、教室に勢いよく入ってきた。あまりの形相に、ウエーバーを含め生徒全員が凍りつく。先生は深緑の髪の毛を振り乱しながら、覚束ない足取りで教壇にあがった。
「み、皆さん。いいですか。これから言う事をよく聞いて下さい」
先生の震える声に、ウエーバーら生徒たちの緊張も高まっていく。
「つい先ほど、街に魔物が現れました」
生徒たちがどよめく。
ウエーバーは嫌な予感を感じながらも、ただ呆然と話を聞くことしか出来ない。
「皆さん静かに! いいですか。今から学校の講堂に移動します。騎士団が魔物を追い払うまで、そこで皆さんは待機です」
追い払う。その言葉が、やけにウエーバーの耳に留まった。昨日の父と母の言葉と先生の言葉。食い違う二つの教えに、ウエーバーは体が裂けそうな気持ちになる。
「では皆さん、移動しますよ」
生徒たちは席を立ち、先生の後ろを歩き始める。ウエーバーはその流れの中で立ち止まり、そして、流れに逆らった。
――行かないと。家に、行かないと。
そんな予感にも似た衝動が、彼を駆り立てる。何故かは分からない。それでもウエーバーは、今自分が家に戻らなければならないような気がするのだ。
「ウエーバーくん、どこに行くの!? 待ちなさい!」
先生の声にさえ耳を塞ぎ、生徒たちの流れに逆らってウエーバーはひた走る。階段を駆け下り、学校の正面口である大門を飛び出した。
後ろから誰か男の先生が追いかけてきているが、ウエーバーは更に足を動かした。この時、ウエーバーは、無意識に魔法を使っていた。本能、ともいうべきだろう。
本能的に、魔力は足に集中し、普段走る速度をいとも簡単に凌駕したのだ。幼いウエーバーに、そんな知識はない。だからこれは本能なのだ。ただ前に前にと、速く速くと望む少年に、生物としての本能が働いた。その速さたるや、成人男性でさえも容易く置いていくほどだ。
――お父さん、お母さん……!!
学校から自宅へは歩いて20分ほど。今のウエーバーの速さならば、10分もかからないだろう。どんよりと重く垂れ込めた雲からは、雨が降りはじめた。次第に強く降りはじめた雨に打たれながら、ウエーバーは閑静な住宅地を走る。
「はぁ、はぁ……」
雨に打たれたせいで、服が重い。体温は奪われていくのに、体の芯だけは異様に熱かった。角を曲がれば、すぐそこに自宅がある。
「はぁ、はぁ……!!」
隣家がないのは、幸いだったかもしれない。ウエーバーは、破壊された玄関と、めちゃくちゃに荒らされた庭を見て息が止まった。中からは、破壊の音が聞こえる。
“いる”のだと、ウエーバーは確信した。
覚束ない足取りで、ゆっくりと家の中に入る。息を潜めて、足音を立てないように。壊れた玄関から一歩家の中に踏み込めば、そこはウエーバーの知っている自宅ではなかった。家具は全て壊されており、ガラスの破片が飛び散っている。
普段この時間は仕事に出ている父はともかくとして、母は一体どこだろうか。確か今日は仕事が休みだったはずだ。たまたま外出していてくれる事を願いながら、ウエーバーは更に家の奥に進む。
恐怖と好奇心と、行かなければならないという使命感と、衝動。それらがない交ぜになりながらも、ウエーバーは進む。
家の中が真っ暗なため、奥はあまり良く見えない。雨のせいで外からの光も、あまり役には立っていない。
ウエーバーは、壁伝いに、ゆっくりと、奥に、奥に、奥に――。
「うわぁぁああぁぁあああ!!!!」
父が、母が、倒れていた。血だらけで、居間の真ん中で、静かに、横たわっていた。
初めてウエーバーの中に、恐怖が生まれた。まだ彼の心は、脳は、この状況を正しく把握していない。理解していない。けれど、彼のあまりにも優れた本能が、この危険と異常さを、彼に訴えかけている。
ウエーバーは腰を抜かしながら、倒れている父と母の元へと近づく。焦点の合っていない大きな瞳が、暗がりの中で父と母を眺めている。
――なんで、なんで、なんで、なんで、なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんで!!!?
幼いウエーバーには、あまりにも理解しがたく、受け入れがたく。
けれど次の瞬間、彼は背後に向けて魔法を発動していた。炎が迸る。炎の一閃は、ウエーバーを守るようにして放たれた。背後からは、獰猛な苦悶の叫びが木霊した。
「……おまえが、お父さんと、お母さんを」
ウエーバーは、母の手を握りながら、ゆっくりと振り返った。そこには、鋭い爪と牙を持つ、二足歩行している異形な生物がいた。緑色の毛に覆われた尻尾と、その四肢に、ウエーバーは激しい嫌悪感と憎悪を感じた。
「人間、殺ス」
低く呻いた魔物に、ウエーバーは咄嗟に左手から再び炎を出していた。魔物は口から水を出し、それを相殺する。
「人間、殺ス」
魔物がそう言った瞬間、鋭い爪が、目の前に迫っていた。
「さ、せないわ……!!」
光の盾が現れた。ウエーバーは腕を引かれ、優しい温もりに包まれる。
「グワァァアアアァァアアァァ!!!!」
魔物は光に包まれ、痛みに呻いている。
「おかあ、さん……?」
ウエーバーは、自分を抱きしめてくれている母の温もりを感じながら、ぎゅっとその服を握った。
「……怖かった、でしょう? 大丈夫よ、ウエーバー」
そう言う母の息は途切れ途切れだ。ウエーバーは色んな気持ちを抑えこんで「うん、ぼくは、だいじょうぶだよ」と笑った。ウエーバーの母は、彼をぎゅっと抱きしめる。ウエーバーも、強く強く母の体を抱きしめ返す。
「ウエーバー、あなたはいい子ね。……だから、お母さんのお願い、聞いてくれる?」
ウエーバーは、静かに頷いた。母は目に涙を溜めながら、唇を震わせる。
「ここから、逃げなさい。逃げて……生きて」
「ガァァアァァアアァァア!!!!」
光をぶち破って、魔物が再び二人に襲い掛かってきた。母はウエーバーを突き飛ばす。
「逃げなさい、早く!!」
「お母さん!!」
家が炎に包まれる。炎が、ウエーバーと母を隔てる。魔物は母に向かって、爪を、牙を、その脅威の全てを振りかざした。
「うわぁぁああぁぁぁあああぁぁあ!!!!」
涙で、全てが霞む。絶叫とともにウエーバーは全身から魔力を爆発させた。魔物を業火が取り囲む。制御できない力が、ウエーバーの心に反応して次々に暴れだす。
――お母さん、お父さん……!!
二人の笑顔が、温もりが、ウエーバーを包み込む。燃え盛る景色を眺めながら、ウエーバーは気を失った。




