二
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シエラはベッドに腰掛けながら、思い切り息を吐き出した。
「きゅーん?」
すっかり傷も癒えたイヴが、心配げな眼差しでシエラを見つめている。シエラはイヴの頭を撫でると、もう一度息を吐き出した。
ここはガイバー王国のとある町にある宿屋だ。あれからシエラ達は環境保護区を出て、街道を歩いていた人々に道を聞いて回った。そして一番近いこの町に辿り着いたのだ。王都への距離も長くなく、数日歩く程度だという。
――それにしても、あの男の人……。
シエラはあの保護区にいた男性を思い出した。奇妙な臭いがしたのも気になったが、何より気がかりなのはあの奇行。ラミーナの名前を聞いて魔女だ、などと言い出すあたり性質が悪い。
「はぁ……」
シエラはイヴを抱きしめながらベッドに寝転がる。
――コトノは大丈夫かな……。
一人であの刺客たちを相手取るなんて、あまりにも無謀だ。神は魔法ではない特別な力を使う生き物である。しかし、それでも多勢に無勢だ。
「どうした? そんな風に溜め息を吐いて」
すると、風呂から上がったらしいユファが、髪をタオルで拭いながらこちらにやってきた。
「……コトノ、大丈夫かなって」
「……そう、だな。しかし、最高神である彼女が、そう簡単に負けるとは思えない」
「うん。それはそうなんだけど……」
「……きゅーん」
イヴも哀しそうに鳴いている。イヴからしてみればコトノは主人になるだろうから、余計心配でもあるのだろう。
「イヴも心配なのだな。……今日は、色々あったから、もう休んだ方が良さそうだ」
ユファはイヴの頭を撫でながら、シエラに優しく微笑みかけた。シエラは目を閉じ、それから意を決したように身体を起こす。
「ねぇユファ。ユファは、昼間の人の事、どう思う?」
「……昼間の、というと。あの、男性の事か?」
シエラが首肯すると、ユファはどこか遠くの方を見つめながらゆっくりと口を開く。
「……あまり他人を詮索するのは好きではないが。そう、だな。……恐らく、彼は飲酒していた」
「あっ! あの臭いってお酒の臭いだったんだ!」
シエラはユファの言葉にはっとする。ユファは眉を上げて「それも、大量に飲んでいたらしい。……小屋の手前にも、酒瓶が転がっていたしな」と付け加えた。
「じゃぁ、ラミーナも気づいてたのかな?」
「可能性は高いな。きっと、家族がいるかどうか聞いたのも、彼女なりの優しさだろう」
「そっか。そう、だよね。私もお父さんが仕事中にお酒飲んで、揉め事みたいな事起こしてたら幻滅するし」
シエラは優しくイヴを抱きしめなおす。改めてラミーナは空気が読めるというか、配慮のできる人だな、と見直してしまう。たった三歳しか違わないのに。と、シエラは少しだけ卑屈な気持ちを抱く。ユファは俯いたシエラを見て、何かを勘違いしたらしい。慌てて「シ、シエラ。あまり自分に当てはめて考える必要はないのだぞっ!?」と口をパクパクさせている。その様子が普段の冷静な彼女からは想像しがたく、シエラは思わず噴出してしまった。しかし彼女の言葉は、的外れというわけでもない。
「あ、ありがとうユファ。大丈夫だよ、うん」
シエラがけらけらと笑いながらそう言えば、ユファはきょとんした顔になった。そして、突然頬を赤らめて「す、すまない。余計だったな」とモジモジし始める。
「……ううん。ありがとう」
シエラは緩々と頭を振る。ユファの言葉は、いつだってシエラの心に優しく染み渡る。彼女の優しさが心の芯まで伝わってくるような感覚に、シエラは少し気恥ずかしささえ感じた。
「今日は疲れたし、ユファの言う通りもう休むね」
「あ、あぁ。……また明日、ゆっくり考えよう。おやすみ、シエラ」
ユファはそう言って微笑んで、洗面所に消えて行った。シエラはイヴを撫でながら、ゆっくりと瞼を下ろしていく。
――また明日、ゆっくり……。
そこでぷつりと、シエラの意識は途切れた。
翌日、シエラ達は王都を目指して旅を再開した。
心の中には大きなしこりが残っており、シエラ達はどこか憂鬱な顔つきである。しかし、バイソンだけはいつも通りにこやかで穏やかな表情だ。そういや、あいつらってどうやってルダロッタまで来たんだろうな?」
「あいつら?」
「あの刺客達だよ。まさか俺たちと一緒の船にいたなんて事ねーよな?」
「まっさか~。だっていたら気づくはずじゃん」
だよな~。
シエラとバイソンは顔を見合わせて笑う。しかし、それはすぐに止む。有り得ないと思いつつもまさか、と悪い予感がするのだ。
「もう、今は考えたって仕方ないことでしょ。いいからさっさとお城につけるように、足を進めなさい!」
すると先頭を歩いていたラミーナがこちらを振り返り、二人に向かって溜め息を吐く。シエラとバイソンは子供のように「はーい」と返事をして足を動かす。
「きゅーん」
シエラの腕の中で大人しくしているイヴが、静かに鳴き始めた。
「イヴ、どうしたの?」
シエラがイヴを覗き込むと、イヴは小さく身じろぐ。大きくて愛らしい瞳はどこかを彷徨っている。シエラはその視線の先を探ろうと辺りを見回した。しかし、近くには人っ子一人いない。今歩いている街道はそれなりに整備されているが、今のところ人影はない。
「腹でも減ったんじゃねぇのか?」
「バイソンも知ってるでしょ。イヴが何も食べないってこと」
「はは、そうだったな! でも不思議だよなー。なんで何も食わないでも生きてられるんだ? イヴ、お前本当に腹減らねぇのか?」
「きゅーん!」
するとバイソンの言葉に合わせてイヴが元気よく鳴く。すっかり傷も癒えたイヴは、シエラの腕に抱かれながらご機嫌だ。シエラはイヴの温もりを感じながら、改めて先ほどのバイソンの言った疑問を実感する。確かに、生物として活動しているにも関わらず、イヴは一度として食事を取った事がない。シエラが何を与えても、絶対に食べないのだ。もしかしたら、いつの間にかいなくなっている隙に、本当は何か食べているのかもしれないが。
――よく考えてみれば、あんまりイヴの事、ちゃんと知らないんだなぁ……。
シエラは白銀の美しい毛並みを持つイヴを、改めてじっと見つめる。コトノといいイヴといい、神に関係するものは本当に不思議なことが多い。それと気になる事は、アンのこともだ。一体、あの時彼女の身に何が起きたというのだろう。
コトノは術によって精神に抑制がかけられている、と言っていた。シエラの言葉が引き金、だとも。そして今コトノは、アン達はどうしているのだろうか。コトノはどこか命を軽く見ているような言葉を発していた。だからもしかしたら、という事もありえる。
――でも、アン達がそう簡単にやられるだなんて思えないし……。
シエラは真っ青な空を見上げて、小さく息を吐き出す。八大国にある日記を見つけ、二千年前の事を知る。それが、今シエラ達に課せられた試練。
――私が、今すべき事って何なんだろう。
このままではいけない気がする。けれど、どうしたらいいのかなんて、シエラには分からない。分からない事が多すぎて、シエラは考える事をやめた。どうせ今考えても、答えなんて見つけられない。
――それに、また考えこんでるとクラウドが怒るし。
シエラは少し前を歩いているクラウドの背中を見やる。シエラよりも頭二つほど背の高い彼の背中は、年の差が一つしかない事など感じさせぬほど、落ち着き払っている。
――まぁ、大人びてるっていうか子供らしくないっていうか……。とりあえず性格が老けてるんだよなぁ。
シエラは内心で悪態を吐きながら、大きくて遠い背中がもどかしくなる。自分もあれぐらい強かったらどれぐらい幸せだろうか。何度も思って、その度に彼と自分の差を突きつけられる。
クラウドの強さが、今までの日々の鍛錬によって裏づけされている事など知っている。諦めて努力してこなかった自分の事も、シエラは良く知っている。だから、シエラは彼のその“強さ”に惹かれて止まないのだ。
「シエラ、どうしたんだよ? さっきから難しい顔してんな?」
その時、隣を歩いていたバイソンが不思議そうな顔でシエラの横顔を覗き込んできた。
「……べっつにー。いっそのこと、私も男に生まれればよかったなって思ってただけだよ」
冗談ぽく、不貞腐れたようにシエラがそう言えば、バイソンはおかしそうにケラケラと笑い出す。
「シエラって、やっぱおもしれーな! はは、確かにシエラが男だったら相当な有名人になりそうだ!」
「ちょ、バイソンそれどういう意味!?」
バイソンの事だから悪気は無いのは分かっているが、何だか馬鹿にされた気分だ。するとバイソンは拗ねたシエラの頭に優しく手を乗せてきた。
「わりぃ、わりぃ。つい、な。いや、有名人って別に悪い意味じゃねーぞ? そりゃーもう、世界中に名前が知られるような豪傑って意味だ」
「えー、別にそんなのにはなりたくないなぁ。名前も別に知られなくてもいいし」
シエラがそう言ってそっぽを向くと、バイソンは笑いながら「シエラらしい答えだな」と頭を撫でてくれる。
自分らしい答えって何だろう、とシエラは思ったけれど、これもきっと考えたって結論は出ないだろう。ただここにいるシエラを受け入れてくれる人たちがいる。それだけで、今のシエラは満たされるから。シエラは何だかそれが嬉しくて、緩んだ口元を見られないように顔を俯かせた。
「……あれは、一体なんでしょうか?」
その時、ふいにウエーバーが強張った声を上げた。シエラはその弾みで顔を上げて、よく目を凝らして前の景色に意識を集中する。微かに鼻につく煙の臭い。遠くからは人々の足音が聞こえてくる。音が聞こえてくる事かして、それも相当な大人数だろう。
「行ってみましょう!」
「あぁ」
先頭を歩いていたラミーナが走り出す。それを追いかけるようにユファやクラウドも走り出し、シエラ達も後を追った。数十メートル走ると、街道は大きく開けたところに繋がっていた。枝分かれしている右側の道に視線を向ければ、奥のほうからは煙がもくもくと立ち昇っている。
「あれは、俺たちが行こうとしていた町か?」
「恐らくは。……火事でもあったのでしょうか」
ウエーバーが一歩を踏み出した瞬間、町の方から人影が現れた。しかも一人や二人ではなく、十数人。全員顔や服に黒いすすがついており、必死の形相でこちらに走ってくる。顔には玉の様な汗が浮かび上がっていた。
「どうしたんですか!?」
走り寄ってきた人々にウエーバーが声をあけると、彼らは恐怖からか涙を流して、ウエーバーに縋り付く。
「ま、魔物が……! 魔物が町をめちゃくちゃに!!」
その瞬間、ウエーバーの顔つきが一変した。ラミーナは逃げてきた人々の波に逆らって走り出す。
「ラミーナさん!! ……魔物がいるというのは本当ですか?」
「あ、あぁ! 私が見たのは四体だ! 恐ろしく強い! 我々じゃとても歯が立たなかった」
それほど強い魔物が、町にいる。シエラ達に緊張が走った。クラウドとバイソンもラミーナの後を追うように、人の波に逆らっていく。
「……町には、まだ人がいるのか?」
ユファが尋ねると男性は激しく首を上下に振った。
「に、逃げ遅れた女子供が、まだ沢山いる」
「なるほど。分かりました。皆さんはなるべく隠れていてください! 僕達が様子を見てきます」
ウエーバーが逃げ惑う人々に語りかけるが、皆パニックに陥っていて、ウエーバーの声が聞こえたかすら危うい。シエラ達は人の流れに逆らって街道をひた走る。
「でも、こんな白昼堂々と魔物が暴れるなんてスマートじゃないな」
「……とにかく、行ってみない事には始まりません」
数十メートル真っ直ぐ街道を進むと、町の門が見えてきた。すでにそこにも、火の手は上がっていた。子供の泣き声も聞こえてくる。恐らく町の中は悲惨な状況になっているだろう。
「急ぎましょう……!!」
ウエーバーは更に足に力を込めて、強く地面を蹴った。門に着くと、凄まじい熱気と煙に息苦しさが増す。口元と手で覆い、ウエーバーがシエラ、ユファ、サルバナを魔法で出現させた水の膜で包み込む。町の中に突入すると、何処もかしこも火の海だった。
「……ひどいな」
シエラ達は逃げ遅れた人々を探しながら、町の奥へと進んでいく。その時、一際大きな爆発音が轟いた。
シエラ達は顔を見合わせると、その音の発生地へと駆けていく。今にも崩れ落ちそうな家の群れに、渦巻く炎で塞がれた道。そんな中を何とか走りぬけ、シエラ達は広場であっただろう開けた場所へとたどり着く。
そして、そこにいたのはラミーナ、クラウド、バイソン、四体の魔物だった。彼らは火の海の中で激しい戦いを繰り広げている。勿論、シエラ達と同じく水の膜を身に纏って。
「ラミーナ! クラウド、バイソン!」
シエラが叫ぶが、三人は戦いに集中しているのか無反応だ。正直、この水の膜を纏っていても凄まじい熱気は伝わってくる。
肌を焦がすようなその熱さを感じながら戦うのは、ある意味無謀だ。しかも相手の魔物は分厚い甲羅のようなもので身体が守られており、熱さなど微塵も感じていないような動きをしている。
「まずい、ですね……」
そうは言うウエーバーも、隙が見つからないのか彼らに割って入れない。サルバナは「こうなったら、少しでも戦闘条件を良くしてあげようじゃないか」と右手を翳した。
「なるほど。水の魔法で火を食い止めるのだな」
ユファも数珠を構え、ウエーバーも首肯すると両手を翳して神経を集中する。
「わ、私だって手伝うよ!」
シエラも慌てて魔力を練り始め、強い水のイメージを浮かべた。
「万里の波濤、水雲と烈風、断ち切りしその楔と御名においてここに呼ぶ――アクア・ウェーブ!」
ウエーバーとユファが声を重ね合わせながら詠唱し、次の瞬間地面から水が吹き出た。それは波となって町中に溢れ出す。サルバナは広場の真ん中にある噴水に手を向ける。そしてすっと目を細め詠唱すると、噴水の水が泡となって勢いよく溢れ出した。
弾けた泡は緩やかに家々の屋根を濡らし、地面を伝いながら進んでいく泡はシエラ達の足元へと。シエラは魔力を練ったはいいものの、アクアウェーブのような上級魔法は使えない為、魔法を発動できずにいた。知っている知識を引っ張りだしたが、こんな時に使えるような便利なものは生憎脳みそに入っていなかった。
「あぁぁもう!! 弾けろ! アクア・ボム!」
やけくそになったシエラは辺り一体に水の玉を出現させる。風船のように上空にまで出現したそれは、次の瞬間、勢いよく破裂した。飛沫が降り注ぎ、雨が降っているかのような感覚を覚えさせる。
「いやぁ、やっぱりシエラは凄いね。一度にこれだけの数を出せるなんて」
感心したように、サルバナが未だ上空に浮かんでいる、夥しい数のアクアボムを見上げている。シエラはがっくりと肩を落として「よーするに制御できてないってことだよ」と溜め息をついた。
「きゅーん!」
励ますようにイヴが鳴く。シエラは頭を優しく撫でながら、戦っているラミーナ達に視線を向けた。体感温度は先ほどより大分低くなっただろう。ラミーナが一瞬こちらに目配せをし、口の動きだけで「ありがとう」と言ってきた。
シエラはそれを見て、少しでも役に立てたのだと、嬉しくなる。すると、何処からか子供の泣く声が聞こえてきた。
「……おっと、逃げ遅れた人がまだいたんだっけ」
サルバナはそう言うと、ひらりとコートの裾をなびかせながら歩き出す。
「俺が行ってくるから、君たちも他の方面、宜しく」
片手をひらひらと振りながらサルバナはそう言うと、燃える家々の影に消えてしまった。シエラ達は顔を見合わせると、それぞれ散り散りに残っている人たちの捜索に再び走り出す。
「誰かー! いないのー!? いたら叫んでー!」
「きゅーん! きゅーん!!」
シエラは走りながら声を出すけれど、返ってくる言葉はない。これだけの炎の中で、煙も凄まじい。息をするのが苦しくなってきた。
「きゅーん?」
「大丈夫。このぐらい、何ともないよ」
シエラは小さく堰をしながらイヴにそう言うと、できるだけ煙を吸わないように身体を低くして走る。
――でも、どうしてこんな所に魔物が……?
ここはガイバー国内のほぼ真ん中に位置する町だ。そんな深い部分まで魔物が入ってこれる確率など、殆ど無に等しい。
――ディアナで襲ってきた魔物も、結局どうやってやってきたかは分からないままだったし。
シエラは、何か悪い予感がしてならなかった。とてつもなく深い闇に染まった悪い事が、今にもシエラ達に降りかかりそうな。しかし、シエラは気づかなかった。自分の真後ろに、巨大な爪をチラつかせた魔物がいた事に。
「きゅーん!!」
「え――?」
イヴの叫びに後ろを振り返ったシエラだったが、もう遅かった。爪に切り裂かれる。そう思った瞬間、シエラは強く目を瞑った。
「駄目じゃない。その子に手を出したら」
しかし、痛みはやってこない。代わりに、穏やかで柔らかなソプラノの声が聞こえた。シエラは恐る恐る目を開く。そこには、薄桃色のウェーブした髪を靡かせた、妖艶の美女がいた。黒のドレスに身を包み、首からは金色の十字架を提げている。
「ラミー……ナ?」
思わず、シエラは名前を呟いていた。あまりのも、その女性とラミーナはそっくりだった。目鼻立ち、唇、服装。違うのは、纏っている雰囲気ぐらいなものだろう。しかし、目の前の女性は緩々と首を横に振った。
「残念だけど、私とあの子は違うわ」
女性はそれだけ言うと、魔物を従えて踵を返して行ってしまった。暫く呆気に取られてその場を動けなかったシエラだが、慌てて立ち上がると、ラミーナの元へと急いだ。今の女性が一体何者なのか。ラミーナとどんな関係にあるのかはさておき。彼女が魔物を引き連れていていたという事は、この大火事の関係者という事だ。
――それに、あの人……何か、嫌な匂いがした。
暗く深い、シエラが魔法学校にいた時に嫌というほど感じていた匂いに、とてもよく似ていた。
――ラミーナが、危ない!
直感的に、シエラはそれを感じ取っていた。もつれる足を強引に回転させる。何度もむせ返りそうになるが、シエラは息を止めて耐え抜く。
意識が朦朧としてきたとき、ようやく広場にたどり着いた。魔物たちは既に倒されており、傷ついたクラウド達が荒く息を繰り返している。ラミーナもよろめきながら噴水に腰を下ろし、肩を上下に動かしていた。
「ラミーナ……!!」
シエラは叫ぶと、彼女の元まで全速力で駆け出す。ラミーナは飛び込んできたシエラを抱きとめると、首を傾げて「どうしたの?」と微かに笑みを浮かべた。シエラは喉が詰まって上手く声が出せなかった。早く伝えなければ。早く、早く、早く――。どうしようもない焦燥に駆られつつも、言葉は空を彷徨って吐息に変わる。
「シエラ? しっかりしなさい、シエラ!」
ラミーナに肩を揺すられ、シエラは思い切り息を吐き出す。駄目だ、伝えられない。シエラがそう思った時、ラミーナが何かを感じたのか後ろを振り返った。いつの間にか炎が広場を分断するように広がっており、その向こう側に、彼女はいた。
「久しぶりね――ラミーナ」
優しく微笑んだ美女に、ラミーナが一瞬にして固まるのが分かった。ラミーナは驚愕に目を見開き、震える唇を動かす。
「なんで……あんたがいるのよ」
まるで恐れていたように、触れたくないかのように、ラミーナは目を見開いている。女性はラミーナのその言葉に、肩を竦めてみせた。
「あら、随分な言い草ね。四年ぶりに会ったっていうのに」
「……うるさい」
「私の事忘れちゃったのかしら?」
「うるさい」
「あぁ、忘れられるわけないわよね。あなたは私を殺す使命があるんだもの」
「うるさい!」
「私を……実の姉を殺すっていう、たぁいせつな勅命」
「うるさい!!」
金切り声でラミーナが叫ぶ。その目は行き場のない憤りと悲しみで溢れかえっていた。女性はラミーナを見て、哀しげに眉毛を下げる。
「あなたは何も変わらないのね」
シエラは二人のやりとりを聞きながら、胸の奥が鋭く痛むのを感じていた。あの女性が、ラミーナの実の姉。ラミーナがそれを否定しないところを見ると、本当なのだろう。その時、シエラの中でフランズの図書館で読んだガイバーの法律がフラッシュバックした。
『身内から国賊が出た場合、その家族及び親戚の誰かの手によりその者を捕縛しなければならない。
捕縛が叶わない場合はその場で対象人物を殺める事。また十年以内に捕縛及び実刑を完了しなかった場合、その親族は全ておとり潰しとなる』
もしかして、とシエラの中で最悪の予想が浮かび上がる。止めろそんな事を考えるな。自分にそう言い聞かせても先ほどから感じている悪い予感は消えてくれない。
「……ラミーナ」
シエラはラミーナの腕をしっかりと掴む。このまま、彼女がどこかに行ってしまいそうで、恐いのだ。ラミーナは女性を睨みつけながら、ゆっくりと息を吐き出した。
「……この町も、あんたの仕業ってわけ?」
「えぇ、そうね。実行したのはこの子たちだけれど」
女性はそう言って手を広げてみせる。すると後ろから、先ほどラミーナ達が戦っていた魔物が三体と、シエラを襲った魔物が四体現れた。
「あんたは、四年前もそうやって……」
「そうよ。全ては彼の為、私の為。そして、この世界の為なのよ」
「うるさい……ッ!! そんな事どうだっていいわ。結論じゃないのよ。あんたがやった事は反逆罪以外の何物でもないわ! あんたは多くの人の命を奪った、ただそれだけよ!」
ラミーナは怒りをぶつけるようにそう叫ぶと、シエラの手を振り払って女性目掛けて走り出す。
「ラミーナ!」
「ちょ、おいラミーナ!」
シエラとバイソンの声に耳を傾けることなく、ラミーナが炎を突っ切って女性に掴みかかろうとした瞬間。
ゴゥッ。炎が一際強く燃え盛り、天高く火柱が立ち上がる。
「ッ!!」
間一髪でそれを避けたラミーナは、上空で体勢を崩し、背中から地面に落ちていく。
「あ、っぶねぇ!」
それをバイソンがキャッチする。シエラは炎の向こうを睨むが、そこにはもう誰もいなかった。まるで今までいた彼女たちが幻影だったかのような錯覚さえ起こさせる。ラミーナは悔しそうに歯切りし、炎のあちら側に向かって叫ぶ。
「あたしは、あんたを許さない!! あたしを、国を裏切ったあんたを!!」
悲痛な叫びが、空しく炎の中に木霊した。
それから数時間後。結局、町は大半を焼失してしまった。合流したサルバナ達は暗い顔をしており、それを見てシエラ達も口を閉ざした。
火は既に町人が呼んだ消防隊によって消し止められており、今は消防隊と警察隊による作業が進められている。シエラ達も参考人として事情聴取を受けた。しかし、ラミーナは彼女の姉の事は一言も話さなかった。焼け残った噴水の傍でシエラ達が休んでいると、「随分と疲れきった顔をしているな」と黒ずくめの男性がこちらに歩み寄ってきた。真っ黒な仮面をした、いかにも怪しい男。しかし、誰よりも先に反応したのはラミーナだった。
「うっさいのよ。茶化しにきたんなら帰んなさい」
「随分な言い草だな。俺はお前を迎えにきただけだぞ」
「はぁ?」
そこでやっと、ラミーナにいつも通りの生気のある表情が戻る。男性は仮面の奥で笑うと、シエラ達に恭しく一礼してみせた。
「俺はガイバー王国王族直属諜報部員のハロルドだ。気軽にハルって呼んでくれ」
ハロルドと名乗った男性はそう言うと、改めてラミーナの傍に歩み寄る。ラミーナは不機嫌そうに眉間に皺を寄せており、ハロルドの顔をきつく睨んだ。
「なんであんたがここに?」
ラミーナが問いただそうとすると、ハロルドは呆れたように肩を竦める。
「さっきも言ったろ。お前を迎えに着たんだ」
益々ラミーナの眉間に皺が寄る。しかしハロルドは声のトーンを変えることなく言葉を続けた。
「正式にルダロッタから要請がきた。ガイバーに到着次第、適合者を王城に護送せよ、ってな」
それはつまり、コトノが動いてくれたという事。そして、彼女が無事だと知るには十分だった。シエラ達は顔を見合わせ、小さく口角を上げる。
「護送なんて、物々しいわね。……しかも、あんたが来るなんておかしな話じゃない」
ラミーナが皮肉るように言えば、ハロルドはおかしそうに「お前、今の自分の立場を分かっていないようだな」と肩を震わせる。その様子にラミーナは剣呑な視線を向けた。
「いや、ここで言うのも風情がないな。……とりあえず、適合者殿は全員、俺についてきて欲しい」
ハロルドが、仮面の奥で目を細めた。シエラ達は警戒心を保ちつつも、ラミーナの知り合いという事もあってハロルドに続いて歩き出す。ラミーナは歯を食いしばりながら、浮かない顔で最後尾を歩き出した。ハロルドは焼け落ちた町から少し離れた林道に向かうと、そこにいた複数名の男たちに合図を出す。彼らは皆、模様は違うものの、同じ真っ黒の仮面をつけていた。ハロルドの合図を確認すると、彼らは大きな円になるようにそれぞれ場所を移動する。
ハロルドはシエラ達を開けた場所に誘導すると、地面に手を当てて詠唱を始めた。周りに立っている男性たちも詠唱を始め、シエラ達が戸惑っていると、ラミーナが「大丈夫よ。空間魔法を使っているだけだから」と囁いてくれた。
足元に複雑な魔法陣が浮かび上がり、それは淡い光を放ちながら回転を始める。段々と速度を上げていき、魔方陣が残像しか見えないほど超高速回転へとなっていく。シエラ達はその様子を黙ってじっと見つめている。そしてハロルドが思い切り魔力を込めた瞬間、眩く魔方陣が光を放った。
「ッ!!」
思わず目を覆うシエラ達。次いで視界が思い切りブレる。強い力で引っ張られるような感覚に、思わず吐き気を催した。しかしそれも一瞬のことで、気が付いたときには真っ暗な部屋の中に立っていた。
「ここ、は……?」
シエラが呟くと、ハロルドが蝋燭に火を点す。
「ガイバー王城の地下室だ」
そう言って彼は勝手知ったるように部屋の扉を開けた。扉を開けると、薄暗い通路が広がっていた。シエラ達はハロルドの後ろを歩きながら、きょろきょろと辺りの様子を眺めている。灰色の壁にはぽつりぽつりと蝋燭が取り付けられており、暫し歩いていると鉄格子なんてものが見えてきた。
「ここは元々、罪人を収容しておく地下牢だったのよ。……今はもう、使われていないけどね」
驚いているシエラにラミーナが覇気のない声で教えてくれる。シエラはちらりと彼女の顔を盗み見た。心ここに在らず、といった感じだ。
「……ラミーナ、大丈夫かな」
シエラが隣にいるユファに小声で言うと、ユファも眉根を寄せてマフラーを口元に引き寄せる。
「今は、そっとしておいてやるのが、いいのかもしれないな」
ユファの言葉に、シエラは気を取り直して前を向く。あの炎で見たラミーナの複雑な表情が、脳裏に焼きついて離れない。姉だといった女性の顔も、忘れがたい。
気になる気持ちを抑えつつ、シエラは今は黙ってハロルドの後ろを歩いた。階段を上り地下から出ると、そこは立派に聳え立つ城のちょうど真裏にある庭園の隅だった。緑をベースに色んな花が鮮やかに咲いている。アーチを抜けて庭園の外に出ると、城の入り口まで回りこむ。
しかしハロルドはその手前で立ち止まり、右手に曲がって中庭の方へと行ってしまった。衛兵に軽く会釈しがらズンズンと奥に進んでいく。アーチ状になっている柱に囲まれた外廊下に上がると、左手にあった大扉に手をかける。
「さて、と。お前たちは国王陛下に謁見するわけだが……その前に、やるべき事がある」
「?」
日記の鍵のことだろうか。シエラ達がそう思っていると、ハロルドは真っ直ぐにラミーナを見据えていた。
「……なによ」
ラミーナが唇を尖らせると、ハロルドは少し厳しい声音で「話さなきゃならない時だってのは、分かってんだろ」と言った。
シエラ達は互いに顔を見合わせ、それからハロルドを見やる。彼とラミーナが深い縁を持っている事は分かった。明確な関係性は分からないものの、二人が重い何かを抱えている事はよく伝わってくる。
ハロルドは扉を開くと、廊下の左手にある小部屋に招き入れた。シエラ達はこじんまりとした埃っぽい部屋に、眉を顰める。
「悪いが、まだ適合者がいる事を他の連中に知られたくないもんでな。暫くここにいてくれ。夜までには、違う部屋を用意しておく」
ハロルドはそう言うと部屋の扉を閉め、どこかへと消えてしまった。シエラ達の視線を自然とラミーナに集中し、彼女は気まずそうにしている。ラミーナは観念したように、一つ息を吐き出す。
「……正直、これから話すことはとてもややこしいわ。それに、身内の恥を曝すも同然なの。あたしにとって、何の得にもならない、不毛な話よ」
それでも、聞きたい?
自嘲気味に笑うラミーナ。すると、クラウドが顔を上げて、真っ直ぐに彼女を見据えた。
「俺は、構わない。寧ろ、聞く義務が俺たちにはあるんじゃないのか? ……あんたと、あんたの姉君に、一体何が起きたのか」
シエラも、バイソンも頷く。あの現場にいなかったウエーバー、ユファ、サルバナを眉間に皺を寄せて疑問符を浮かべている。ラミーナは決心したように、つと顔を上げた。
「ウエーバー達は、現場に居合わせなかったわよね。……さっき起きた火事ね、恐らく、あたしの姉が犯人よ」
「な……ッ!?」
ウエーバーとユファが驚きのあまり声を発した。サルバナだけは硬い表情を崩さずに、ラミーナの話に耳を傾けている。
「これから話すことは、あたしの姉について。何故あの女が町に火を放ったのか。……そこに至るまでの経緯を、あたしが知っている限りで話すわ」
そう言って、ラミーナの話は始まった。
「あたしの姉は、名をルミーナというの。年は九つ違うわ。姉は十五の頃から姫様の側仕えとして城で働きはじめ、あたしも姉と共に側仕えとして働いていたの。そして姉は、二十一の時には魔女部隊の隊長に昇格していたわ。……あたしにとって、彼女は目標であり尊敬に値する存在だった。彼女の妹である事があたしの誇りだったわ。でも、彼女は国を裏切った。今から四年前よ。あの女は魔物を連れて王都に火を放ったの。……王都は火の海。人々は逃げ惑い、唯一火の手が上がっていなかったのはこの城だけだった」
ラミーナは、言葉の合間合間で哀しく笑っている。
ウエーバーやクラウドは、この事件が一体どういう意味を持っているのか分かっているらしい。悲痛な面持ちで、ラミーナの話を聞いている。
「民衆は怒り狂ったわ。しかも陛下は地方に行っていて不在という状況。大火事は王の仕業と思い込んだ人々は、鎮火とほぼ同時に暴動を起こした。なんとか暴動を鎮圧したものの、このままでは王の威厳は地に落ち、いずれ王位は奪われてしまう。そうお考えになった陛下は、国を挙げて犯人を捜そうとしたわ。まぁ、勿論犯人はすぐに分かったけれど。姉は鎮火作業中に自分の上官、部下数名を殺害。暴動の翌日には姿を消していた。しかも、目撃者も複数名いるのよ。あの女は炎に包まれた町を見ても、何もしなかった……!! あまつさえ、長年お仕えした姫様にまで手をかけようとしたわ!!」
どんどん、ラミーナの声に怒りが篭っていく。
「消息を絶った姉を、今でも国は捜しているわ。このガイバーにはね、身内から国賊が出たらその家族が始末をつけるっていう法律があるの。姉は立派な国賊よ。反逆者よ。国を混乱に陥れた張本人なの。だから、あたしが……」
「お姉さんを……捕まえないといけないんだね」
シエラの言葉に、ラミーナは小さく首肯した。胸の奥が鋭利な刃物で切られるような、そんな感覚に苛まれる。ラミーナは必死で抑えようとしているが、その悲しみや苦しみや葛藤は十分伝わってきた。
「姉が大火事の犯人であるという事は、国内では有名よ。指名手配にもなっているし、他国の上層部には超危険人物として知られている」
「……四年前の大火事といえば、もしや“死霊の大火”か?」
ユファの問いかけに、ラミーナは「そうよ」と苦笑を浮かべる。ユファは申し訳なさそうに眉を八の字に垂れ下げる。
「すまない。だが、あの事件には、そんな真相があったというのか……」
「えぇ。そして今日の火事。恐らく、あの女はまたこの国を混乱に陥れるつもりよ」
ラミーナは凛とした眼差しで虚空を見つめている。その目には、過去の悲しみを乗り越えようとしている、彼女なりの答えがゆらゆらと揺らめいていた。
「……こんな事、あんた達に言うべき事じゃなかったの。ごめんなさい。多分この事件が終わるまで、あたしは適合者である以前に、ただの復讐者になる」
「そんな事言うなよ! ラミーナが悪いわけじゃねぇんだから!」
「そうですよ。そんな哀しい事、言わないで下さい」
「ラミーナ……」
胸の奥がつっかえる。尊敬の念はきっと、今でもラミーナを苦しませているのだろう。家族としての情か、自分の役目か。どれほどの葛藤が、ラミーナの中で渦巻いているのか、シエラには知る由も無く。
ただ漠然と、その悲しみが空気を通して伝わってくる。シエラ達が黙り込んでいると、部屋の扉が控えめに開かれた。姿を現したのはハロルドだった。黒い仮面は相変わらずだったけれど、真っ黒なマントはもう着ていない。きちんとした軍服に身を包んでいる。
「陛下への謁見の準備が整った。……これから奥の間に案内する。ついて来い」
シエラ達はハロルドに言われるままに案内され、人目につかないように城の中を移動した。奥の間に着く前に窓の外を見たが、もう日は沈んでいてあたりはどっぷりと闇に浸っていた。
「……ここだ」
ハロルドは静かに衛兵に指示を出し、扉を開けさせる。豪奢な観音開きの扉がゆっくりと、中の様子をシエラ達に教えてくれる。シエラ達は部屋に入り、玉座の前で跪く。すると、どこからが ラミーナと同じ桃色の髪をした、威厳に満ち溢れた老人が現れる。彼は玉座に腰掛けると、シエラ達に面を上げるように言ってきた。
「陛下。このものたちが、各国の適合者にございます」
「うむ。ハロルドよ。ご苦労であったな」
ハロルドに視線を向け、ガイバー国王は低く響く声で一つ頷いた。ガイバー国王はシエラ達を一通り見やると、ラミーナに向けて笑いかける。
「ラミーナよ。そなたの地獄のような四年間が、ようやっと終わりを迎えようとしておるぞ」
その言葉に、シエラは背筋が凍った。ラミーナは跪いたまま「……はい。陛下の為にも、任を全うするのみです」と、冷え冷えとした言葉を発する。ガイバー国王は満足そうに顎に手を当てた。
「さて。ではここからは適合者としての話じゃ。ルダロッタから正式な要請が入る事など異例中の異例。……そなたらが、神に見初められたという事だろうな」
愉快そうに笑っているガイバー国王に、シエラは先ほどから寒気が止まらない。
王とは、シエラ達を支配している人間とは本来こういうものだ。そう何度も自分に言い聞かせているが、一向に気分が良くなることは無い。
「日記の在り処としては、恐らくこの城の地下神殿であろうな。あそこだけはこの城で唯一、二千年間変わっていない場所だ」
ガイバー国王は「そなたら適合者が、このガイバーの深淵へと立ち入る事、ここに許可しよう」そう高慢に言うと、話は終わりだと言わんばかりに席を立つ。シエラ達は再び頭を下げて、彼が退室するのを待つ。
しかし、ガイバー国王は何を思ったのかこちらに近づいてきた。ラミーナの前で立ち止まると、彼は一つ息を吐き出した。
「……誓いを、違えるでないぞ。ラミーナ」
「はい」
ラミーナの決意に溢れた声を聞くと、今度こそガイバー国王は部屋を出て行った。
シエラ達は安堵の溜め息をつく。それからハロルドに案内され、城の奥深い、人気のあまりない部屋へと通される。場内とは思えないほど質素で簡素な部屋だ。どうやら、元々は使用人の部屋だったらしい。
「食事も用意しておいた。暫くは、ここで休んでいろ」
ハロルドがそう言うと、後ろにいたメイドがカートを押しながら部屋に入ってきた。大量の肉や魚やパンが、目の前に現れる。
「……それじゃ、また来る」
ハロルドはそう言い残して、メイドと共にいなくなった。シエラは緊張の糸が切れたようにへなへなと床に座り込む。
「もう、何がなんだか分からないよ……」
嵐のように一度に多くの事がありすぎて、シエラはもうこの状況についていく事ができない。その時、勢いよく腹の虫が大きく鳴いた。
「……温かいうちに、食べましょうか」
ラミーナが優しく微笑みながら、皿にシエラの分をよそってくれる。シエラはそれを受け取り、全員に皿が行き渡ったのを確認して、パンにかじりつく。
「それにしても、嵐のような一日だったな」
ユファの言葉に、全員が深く頷いた。
「ラミーナお前、大丈夫か?」
バイソンが心配げな目線を彼女に向けるが、ラミーナは眉一つ動かさない。ゆっくりとパンを口に運ぶ手を止めて、バイソンを見やった。
「……多分、一人だったら気が狂ってたわ」
真顔で答えたラミーナに、バイソンは「辛かったら、吐き出していいんだぜ」と優しく笑いかける。しかし、ラミーナは曖昧に微笑を返す。
「ありがと。……でもね、痛いのに、なんでだか心が上手く動かないの。おかしいわよね。身内を、大切な家族を、自分の手でどうにかしなきゃいけないっていうのに。あたし、あたし……」
その瞬間、ラミーナの双眸からぽろぽろと、堤防が決壊したかのように大量の涙が溢れ出してきた。
「ごめんなさい、ごめんなさい。あんた達を巻き込みたくなかった! こんな真っ黒で汚い自分なんて、知られたくなかった!」
それは初めて、ラミーナが見せてくれた弱さだった。シエラは泣いているラミーナの隣に座ると、ゆっくりと背中を擦った。自分が幼い頃、よく母がしてくれた事だった。バイソンもその大きな手でラミーナの頭を撫でている。
「……大丈夫だ。大丈夫だから、な?」
幼子をあやすような手つきで、バイソンは優しく騙りかける。シエラもぎこちない手つきではあるけれど、言葉を紡がないかわりに必死に手を動かす。
「あたし、本当は今でも姉さんが犯人だなんて思えないの。ううん、思いたくないの。……炎の中、姉さんはただひたすらに穏やかだったわ。だから、あれは悪い夢なんじゃないかって……!!」
ぽろぽろと、零れていく。床に染みで広がり、その度にシエラの心も一緒に哀しくなっていく。
「何度も何度も思ったわ!! 炎が見せたまやかしだって。姉さんは無実だって! 心のどこかで思っていた、のに……」
ラミーナはきっと今まで、泣くに泣けない状況だったのだろう。そんな彼女が、やっと初めて、シエラ達に一番深い部分をさらけ出している。
「ラミーナ、いいんだよ。いいんだよ。誰が悪いでもないんだよ。ラミーナ、いいんだよ」
シエラは、どこか祈るような気持ちでそう呟いていた。こんなに、身を切られるような悲しみを感じたのは、いつ以来だろう。ラミーナはこんな思いを、もう四年も一人で抱え込んでいたのだと思うと、シエラは哀しくて仕方が無かった。
「……一つ、いいか」
その時、今までずっと黙っていたクラウドが声を発した。どこか思案する表情にキレがないのは、きっと気のせいではないだろう。
「あんたにとって、酷な事だとは分かってる。……ただ、あんたの姉君から本当の事を聞くべきなんじゃないのか?」
「クラウド?」
「……本当に犯人なのか。本当に一体何をしたのか。何を目的として行動したのか。あんたには、これを聞く権利と義務があるんじゃないのか?」
酷い事を、言っている。その自覚はクラウドにもあるのだと分かっている。しかし、シエラは彼がそれを言える冷徹さを持ち合わせている事が、どこか恐い。何かが、大きく音を立てて変わってしまったような、そんな錯覚さえ起こさせる。今まで回っていた歯車は、ほんの些細な流動に過ぎなかったのではないか。そんな風に、じわじわとシエラの心を急き立てていく。
ラミーナは涙で濡れた瞳をクラウドに向け、真っ直ぐに彼を見据えた。
「……あんたらしいわね」
ふっと、彼女の口元に笑みが広がる。シエラとバイソンは、そんなラミーナを目を丸くしながら見つめる。
「分かってるわよ。向き合うわ。ちゃんと、自分の目で、耳で……見極めてみせる」
その瞬間、シエラの中に鋭い電流が迸った。衝撃はシエラの芯を強く揺さぶり、見えなかった何かが明瞭になっていく感覚を覚える。
「よし! そんじゃ、俺も一肌脱ぐかな!」
「……私も、出来ることがあるならば協力しよう」
「俺も。レディーの泣き顔なんて、もう見たくないからね」
「ラミーナさん、僕達がついてますから」
口々に言葉を投げかけてくる仲間たちに、ラミーナははにかむ。
「ありがと」
淡く、柔らかな笑みだった。




