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リディア―世界の中で―  作者: 知佳
第十章:動
76/159

「――っ!!」

 シエラは慌ててベッドから飛び起きた。額や背中には大量の汗を掻いている。目に映る景色が、ここは現実だと教えてくれる。シエラは掛け布団を引っぺがすと、そのまま部屋を飛び出しす。ラミーナとユファの声が聞こえた気がするが、今は構っていられない。

 ――コトノッ!!

 三段飛ばしで階段を駆け上がり、ありったけの力で扉を上に持ち上げた。眩しいほど光が差し込み、シエラは思わず目を両の手で覆う。空は相変わらず澄み切っており、そよ風が優しく吹き渡っている。

 穏やかな景色とは裏腹に、シエラはどうしようもない焦燥に駆られていた。シエラが覚束ない足取りで神殿に向かおうとすると、後ろから誰かに腕を引かれる。

「……シエラ、どうしたんだ」

「ユファ……」

 小首を傾げているユファに、シエラは肩で息をしながら口を開く。しかし、シエラは言葉をつむぐ事ができない。意味のない呻き声が、意図せず溢れ出す。

「……大丈夫、大丈夫だ」

 そんなシエラを、ユファはぎゅっと抱きしめてくれる。シエラはゆっくりとユファの背中に腕を回し、やがて幼子のようにしゃくり上げながら、彼女を抱き返す。

「大丈夫だ」

 優しい手つきでシエラをあやしながら、ユファは何度も何度も「大丈夫だ」と口にする。シエラが暫くして落ち着くと、ユファは優しく微笑んだ。

「落ち着いたか?」

 こくん、と首を縦に振れば、そうか、と頭を撫でられる。シエラはぐしょぐしょになった自分の顔をハンカチで懸命に拭いながら、小さく「ごめん」と呟いた。

「自分でも、分からないの。……哀しくもないのに、泣けてきちゃったの。止まらなくて、溢れちゃって、しょうがないの」

 夢の中で、どうやら感傷的になりすぎてしまったらしい。それにしても、あの夢は一体なんだったのだろうか。

 ――夢なのに、やたら現実的なんだよね。

 あんな大人数に囲まれて、コトノは無事なのだろうか。あの世界では生死さえも現実味を帯びている。先ほどの焦燥の原因は、きっとそれだ。今すぐコトノに会いに行きたい。会って、確かめたい。

 シエラがもう一度足を踏み出そうとすると、再びユファにとめられた。無言で視線を送ってみるものの、彼女は首を横に振る。

「何があったかは分からない。だが、シエラ一人では行かせられない。……それに、女の子がそんな格好のまま外に出るものじゃない」

 そう言われ、シエラははっと我に返った。自分の今の身なりは、誰が見ても寝起きだと分かる。髪の毛は寝癖でボサボサで、顔は泣いたから更にひどい事になっている。

「……一度、落ち着こう」

 シエラはユファの言葉に頷き、大人しく部屋の中へと戻っていった。

 それから各々身支度を整え朝食を済まし、シエラ達は再び神殿内を歩いている。もう一度コトノに話を聞くためだ。肝心の試練の事は結局聞けていない。正直、今のシエラはコトノの安否の方が気になる。まだ出会って一日しか経っていないというのに、コトノには不思議と心を許せる。恩人である事は勿論だが、それよりもっと直感的な、深い部分にすっぽりと“ハマる”のだ。

 シエラ達が奥の間にたどり着くと、そこには神の遣いの女性が佇んでいた。彼女は神妙な面持ちでシエラ達を見やると、ゆっくりと奥の間の扉を開ける。きりり、と胸の奥が痛みに打ち震える。視線を真っ直ぐに持ち上げてみれば、玉座にはコトノが座っていた。シエラが胸を撫で下ろすと、突然脳内に声が響き始める。

 ――無事、“こちら側”に戻れたのだな。

 コトノの声だ。驚いて声を上げそうになったが、寸でのところでそれを抑える。

 ――悪く思うなよ。他の者に知られれば事が大きくなる故な。

 コトノは不敵な笑みを浮かべている。瞳の色は青に戻っており、纏う雰囲気も穏やかなものだ。シエラ達はコトノの元まで歩み寄ると、彼女を見上げる。

「よう来たな。……さて、今日は何の話をしようかの」

「俺たちはあんたのお喋りを聞きに来たんじゃない」

 楽しそうに笑ったコトノを、クラウドは鋭い声音で窘める。

「教えてくれ。試練について。俺たちが、これから何をしたら良いのか」

 真っ直ぐなクラウドの視線に、コトノは口元を引き締めて「うむ」と小さく唸った。コトノは何かを探り当てるように、遠いところを見つめる。

「……正直、具体的な試練などは存在せんのだ。それにな、二千年前と今では、あまりにも状況が違いすぎるのだ」

「どういう事よ?」

「私も二千年前の全てを知っているわけではない。だが、これだけは言える。御主達の試練とは、簡単にいえば“この旅そのもの”なのだ」

 意味深な言葉に、シエラ達は全員が怪訝そうな顔になる。全員、神より試練を授かると思っていたこともあり、コトノの言葉はいまいち理解できない。

「試練とは、この旅で起こる全ての苦難の事だ。御主たちが苦難を共にし、喜びを分かち合い、絆を深める事こそが旅の目的であるならば、試練とは旅そのものに他ならない」

「つまり……僕たちは今まで通り旅をすれば良いというわけでしょうか?」

「そういう事だ」

 質問したウエーバー自身、あっさりと肯定されてしまい苦笑いを浮かべている。

「けど、ちょっと待ってよ。あたし達の旅の目標はまずこのルダロッタだったわ。その次が試練。……具体的な試練がないなら、当ても無く世界を流浪する事になるじゃない。そうなったら、封印がいつになるかも分からなくなるんじゃないかしら?」

「え、ちょ、ラミーナ待って。私がその質問理解できないんだけど……」

「俺もだ! もっと簡潔に頼むぜー」

「あぁもう! つまり、いつも通り旅をするって言ったって、もう目的地がないのにどうすんのよっ! って聞いてるわけ」

「な、なるほどぉー」

 シエラとバイソンは二人揃って「おぉー」と感嘆の声を漏らしている。ラミーナはがっくりと肩を落としながら、気を取り直してコトノに向かい合う。

「……目的地なら、あるではないか」

 しかし、コトノが紡ぎだした言葉に、シエラ達は一瞬あっけに取られた。彼女は再び楽しそうに口元を歪めている。

「封印の地――ディクラルト」

「封印の地……?」

 シエラは心の奥がざわめくのを感じた。ラミーナ達も、先ほどよりも表情を引き締めている。 

「聖玉が眠る地。全ての始まりと終わりの場所。……そして、御主たちの最終目標だ」

 ディクラルト。そこが、旅の終わり。

 シエラは拳をきつく握り締める。聖玉の眠る場所があるなど初めて聞いた。けれど聖玉が封印されている限り、封印している場所があるのは当然の事だ。

 ルダロッタについてからは常識を覆されたり、常識に隠れていた根本的な事を知ったりと、シエラの脳内はそれらの処理に追われている。

「ディクラルトはロディーラの北東にある。このルダロッタが最西端ならば、ディクラルトは最東端といったところか」

「じゃぁ、俺たちは今度は世界を東に進めばいいってことかい?」

「そういう事になるな」

 珍しくサルバナが口を開き、シエラは内容よりも若干そちらの方が気になった。ルダロッタについてから、サルバナはあまり口を利いていないように思える。

「ちなみに、ディクラルトは正式な世界地図には載っておらぬ。一般人の侵入を懸念し、八大国がその昔から存在を隠蔽しておるからじゃ。それにな、あそこは深い霧に覆われ、陸地より遙か遠方に位置する孤島。容易くは入れまい」

「えっ!? それじゃぁ、どこにあるかちゃんと分からない上に、たどり着く事もできないじゃん!」

 シエラが抗議の言葉を発すると、コトノは落ち着けと言わんばかりの眼差しをシエラに向けている。

「案ずるな。御主達が適合者としての資格を満たし、絆が完全であれば、自ずと道は開かれる」

 またもや意味深な発言だ。資格を満たすとは具体的に何をだろう。完全な絆というのもどんな基準なのだろう。コトノは適合者の面々のそんな気持ちを察したのか、すぐにケラケラと笑い出す。

「資格と言っても、そんな大した事ではない。ただ、二千年前を、リディア達を知ればよい」

 そして、とコトノは立ち上がりシエラ達に手を翳した。その瞳が真紅に染まりあがり、シエラ達は心臓のあたりを締め付けられたような痛みを感じる。

 ――宝玉……ッ!?

 シエラが自分の中にある鼓動が大きく蠢いたのを感じ、そしてそれが体内から引き抜かれていくのが分かった。繋がりは保たれたまま、まるで糸で宝玉とつながっているような状態のまま、体内から出て行ってしまったのだ。

「宝玉、が……」

 ユファの言葉に、全員がコトノへと視線を向ける。コトノの頭上には、色とりどりの宝玉がふわふわと浮遊していた。コトノは宝玉を見上げながら「ふむ」と小さく唸る。翡翠、青、橙、赤、黄、紫、緑青色の七つが、それぞれ淡い光を発している。シエラ達は自分たちの豹変した宝玉を、ただ呆然と眺めていた。

「……いつの間に、宝玉に色がついたんでしょう?」

 ウエーバーが絞り出すように言った言葉に、シエラは首を縦に振る。最初に宝玉と共鳴した時は、真っ白なただの玉に過ぎなかった。シエラは二度目の宝玉との共鳴の時を思い出そうとするが、あの時はただ必死だったから色の事など覚えていない。

「宝玉は、絆が深まれば深まるほど、色づくものだ」

 コトノは宝玉を注視したままそう言うと、ゆっくりと目を閉じる。次の瞬間には宝玉は消えており、シエラ達の中に感覚が戻ってきた。

「今御主達の絆を確かめたがな。……やはりまだ、足りぬ」

「色づきが完全じゃないってことかしら?」

「察しが良いな。その通りじゃ。絆が十分であればもっと宝玉は輝きを放つ」

 シエラはそっと自分の胸に手を立てる。とくん、とくん、と優しい鼓動を刻む宝玉。それが適合者としての絆の証。けれど、よくよく考えてみれば“絆”とは一体なんだろう。人と人とのつながり。そう言ってしまえば話は終わるけれど、それは完全や十分といった言葉で表現できるものなのだろうか。

 ――この旅を続けて……その先には、何が待っているんだろう。

 シエラの脳裏に一抹の不安がよぎる。しかし、シエラはすぐに頭を振った。こんな事を考えているのがクラウドに知れたら、また叱られるに違いない。

「さて、話を戻そうか。先ほど私はリディア達を知れば良いと言ったな。そのために、御主たちには一つやって貰わねばならぬ事がある」

「やるべき事?」

「あぁ。なに、そんな構えずとも良い。旅の途中でこなせるものじゃ」

 コトノはケラケラと笑いながら、何処からとも無く一冊の古ぼけた本を取り出した。

「これは“ミコト”という、二千年前の最高神が残したものじゃ。日記、とでも考えてくれて構わん。そして、この日記には二千年前の事が書かれている」

 コトノは日記をぺらぺらと捲ってみせてくれるが、不思議な事にページは全て白紙だ。

「それ、何も書かれてねぇーのは何でだ?」

 バイソンが日記を指差すと、コトノは「そこが問題なのだ」と真剣な顔つきになる。

「この日記にはある作業が必要でな。鍵を集めねば、中身を知ることができぬ。そして、その鍵を御主達には集めてもらいたい」

「なんだよ、そんな楽な事でいいのか?」

 バイソンは意表を突かれたようで、きょとんとして日記を見ている。しかしコトノはにやりと不敵に笑みを浮かべた。

「鍵は八大国の王城にそれぞれ八つある」

「えっ!?」

 シエラ達は思わず声を上げる。ラミーナとウエーバーは戸惑ったように顔を見合わせている。

「……七大国ではなく、何故八大国なんだ?」

 ユファは冷静な表情で淡々と尋ねる。シエラは王城という言葉に驚いたのだが、どうやら彼女たちは違うらしい。

「そうよ。宝玉を保有しているのは七大国。それなのに、ブラドワールまで鍵を持っているなんて――」

「おかしいか?」

 コトノの少し人をバカにするような言い方に、ラミーナは口をつぐんだ。

「私は別段おかしいとは思わぬがな。……よく思い出してみよ。そもそも宝玉とは誰が持っていた? 二千年前、ロベルティーナの宝玉の、真の所有者は誰であった?」

 コトノの問いかけに、ラミーナは「あっ」と小さく声を上げた。ウエーバーやユファも目を丸くしている。

「――ブラド、ワール」

「うむ。私も詳細は知らぬが、当時起きた戦争の代償として、ブラドワールの宝玉がロベルティーナに譲渡されたようじゃ」

「つまり、ブラドワール王城に鍵があっても、なんら不思議というわけではないのですね」

「でも宝玉はないのに鍵はあるって、そういうのアリなわけ?」

「なぁ、ちょっと待ってくれよ。でも何でそのミコトの日記の鍵が、城の中にあるんだ?」

「その前に鍵がどんな形のものか、知らなければ。……探しようがないぞ」

「っていうか鍵を集めたら、私たちってまたルダロッタにこないといけないの?」

「それにしても、結局なんだかんだでやる事は山積みなんだね」

「だぁぁあ!! お前ら黙れ一斉に喋るな!!」

 クラウドの叫びに、その場がシーンと静まり返る。クラウドは肩を上下に揺らしながら荒く息をしている。指摘されて我に返った面々はシエラの「ごっめーん」を筆頭に次々と――サルバナを除き――謝っていく。

 すると突然、コトノが腹を抱えて笑い出した。

「あっははっはははは!! 中々に面白いではないか! あはははははは!! ナルダンの適合者よ、御主、苦労人の性がその身から滲んでおるぞ!」

 今度はそのコトノの言葉に、シエラ達が笑い声を上げる。

「……余計なお世話だ」

 クラウド本人だけは引きつった表情で眉間に皺を寄せた。シエラ、ウエーバー、ラミーナ、バイソンは未だに笑が収まらないのか、ひぃひぃ言いながら身悶えている。

「おっ、お腹よじれ、るっ! あはっはははははは!! ていうかコトノ、めっちゃ当たってるよー! あははは、クラウド苦労人だよねほんとー」

 特にシエラは一番笑っている。クラウドは「主にお前のせいだろうが!」と毒を吐くがシエラは聞く耳を持っていない。シエラ達が笑い終わる頃には完全にクラウドは諦めモードに入っており、不機嫌そうな表情で佇んでいる。

「……いやぁ、笑った笑った。あ、クラウドごめんねー」

「お前謝る気ないだろ」

「バレたー?」

「もうお前らなんか知るか」

「クラウドさん拗ねないで下さいよー」

「そうだぜクラウド、拗ねんなよ」

「悪かったってばー。あたしも謝るわ」

「……あれは仲が良い証拠、なのか?」

「うん、まぁそういう解釈で問題ないと思うよ」

 シエラ達が下らないやり取りをしていると、コトノが咳払いをした。シエラ達はまた我に返り、今度こそはきちんと謝罪した。コトノは「うむ。なんだか疎外感を感じたが許してやろう」とイジけたような言葉と共に横柄な態度で頷いている。

「それで、先ほど言っていた鍵の形だったな。鍵と言ってもな、ただの鍵ではないのだ。この日記と同じものを、城の中で探せばよい」

「日記と同じもの?」

「うむ。どこかに必ずあるハズじゃ。このルダロッタには、最高神の日記。そして」

「ロベルティーナにはリディアの、ナルダンにはナルダンの。……ってことね?」

「御主は本当に察しが良いな。手間が省けて助かる」

 続きを言ったラミーナにコトノは嬉しそうに何度も何度も頷いている。

「日記を探し、それを手に入れる事。見つけた日記が八つ全て揃えば、最後のこれも読めるようになる」

 真っ白な日記。そこに真実が隠されているのかと思うと、シエラは気になって仕方ない。

 ――でも、リディア達の日記も手に入れるって事は、ちょっとずつ謎が分かるって事だよね。

 シエラはよし、と気合を入れなおす。試練はないとコトノは言ったけれど、シエラ達からしてみればこれは立派な試練だ。まず他の王城は良いとして、ブラドワールにどうやって行くかが問題になってくる。あまり世の中の動きを知らないシエラでも、七大国とブラドワールの仲が悪いことは知っている。そこにシエラ達が行く事は、気持ちの問題としても物凄く重い。

「まぁ、御主達の立場もあるゆえな。私からも八大国に交渉はしておくつもりじゃ。あとは……御主たちの問題になってくるぞ」

 少し棘のある言い方だったけれど、神であるコトノが動いてくれるというなら状況は少し違ってくるだろう。コトノの人物像と、人間が抱いている神へのイメージは大きく異なる。それが上手く作用してくれれば、きっと上手くいく。そんな気がする。

「……ん?」

 すると、突然コトノが視線を彷徨わせ始めた。そして何かを探るように眉間に人差し指を当てている。 

「まずいな。早くここから逃げ――」

 コトノの言葉は、轟音によって飲み込まれた。神殿が大きく揺れ足元がふらつく。

「一体何よ!?」

 ラミーナが叫ぶと、神の遣いの女性が素早く外の様子を見に駆け出していた。とても嫌な予感がするのは、シエラの気のせいだろうか。コトノは舌打ちすると何かを念じるように目を閉じる。しかし、どうやらその思いは届かなかったらしい。すぐにその眉間には深い皺が刻まれた。

「私たち神にとっては、最悪の状況というべきか」

 瞬間、扉が乱雑に開け放たれた。足で蹴破ったであろう張本人は、シエラ達の顔を見やるいなや「ラッキー」と口角を吊り上げる。

「また、てめぇらか」

 吐き捨てるように言ったクラウドの言葉は、シエラ達全員の気持ちだ。

「――ジル=セイスタン」

「久しぶりだなぁ、クソ剣士」

 ジルは狂気的な笑みを浮かべながら、ゆっくりとシエラ達に近づいてくる。彼の後ろからはぞろぞろと、アンを筆頭に刺客の面々が姿を現した。

「あ、それとこれ返す」

 ジルは右手で持っていた何かをシエラ達に向かって放り投げた。シエラがそれをキャッチした瞬間、クラウドも含め顔つきが豹変する。

「イヴ!」

 紛れも無く、投げ渡されたのはイヴだった。全身傷だらけで血まみれだ。息はしているようだが、ぐったりとしたまま動かない。

「ちょっと!! イヴに何したの!?」

 シエラが怒声を飛ばすと、ジルは興味なさそうな顔で「なにって、切ったんだよ。俺が」とにべも無く言い放つ。その瞬間、シエラの中で何かが切れる音がした。思わずジルに殴りかかろうしたが、それはすぐにクラウドやウエーバー、ラミーナに制される。

「やめなさい。無闇に突っ込んで勝てる相手じゃないわ」

 真剣な眼差しでジルやアン達を見据えるラミーナの横顔に、シエラはぐっと怒りを堪えた。後ろにいたコトノがシエラの隣までやってくると、そっとイヴに手を当て、何かを唱えた。するとその右手からは仄かに光があふれ出し、見る見るうちにイヴの傷は塞がっていく。

「え……?」

 シエラが驚いているのも束の間、それを見たアンが鼻で笑う。

「それが最高神とやらの力か?」

「小娘風情がバカにするでない。……御主達が、適合者を狙う刺客とやらか」

「ならばどうした?」

 コトノはシエラ達の前に出ると、アン達と対峙する。その視線には何の感情も宿っていない。

「どうもせぬ。……それにしても、御主は妙な匂いを纏っておるな。私達と似て非なるような……」

「似て非なる? ……違うな。同じだ。私はアールフィルト、原初の神だ」

 アンがいつも通りの無表情で言うと、コトノは「御主、正気か?」と怪訝そうな顔つきで返す。すると、突然後方から光の矢が飛び出してきた。矢はコトノの目の前で霧散し、消滅する。

「アン様を愚弄するなら、容赦しなくてよ?」

 エリーザだ。コトノは腹を抱える仕草を見せると、喉の奥でクツクツと笑い出す。その瞳は真紅に染まっている。

「愚弄だと? バカも休み休み言うが良い」

 空間がざわつきはじめる。得体の知れない深い闇に引きずり込むような、そんな不気味さと邪悪さを孕んだ力がコトノから流れ出ていた。

「人間がアールフィルトの名をかた)るとは、身の程を弁えよ!」

 一陣の風が吹くと、アンの右頬からは血が滴り落ちていた。しかし彼女は表情を崩さない。それどころか何故かコトノの左頬からも血が滴り落ちている。

「ほう、名を騙るだけはあるようだな」

 コトノは右手で左頬を拭う。その瞬間には、もう傷は癒えていた。コトノが更に前に出ようとすると、今度はクラウドがそれを制した。コトノは邪魔をするなという風にクラウドを睨みつけたが、彼は動かない。

「これは俺たち人間の問題だ。神のあんたが戦う必要もないだろ」

「小童が一丁前に言うてくれるではないか。……まぁ、理に適っているがな」

 コトノはふっと笑みを浮かべて、クラウドの後ろに半歩ほど下がった。クラウドは剣を引き抜くと、切っ先をアン達へと向ける。

「こんな所までやってくるって事は、それなりの覚悟は持ってるんだろ?」

「あったりまえじゃなーい! ていうかあんた邪魔! バイソンちゃんと被ってる!」

「ビルダてめぇうるせーんだよ! 俺が何のために先陣切ってるのか分かってんのか!」

 ビルダはジルに怒られて、仕方なさそうに口をつぐむ。一方、邪魔と言われたクラウドは眉間に深々と皺が刻まれている。

「……あーあー、折角格好つけたのにねぇ」

 後ろではサルバナがニヤニヤしながら肩を竦めている。クラウドは苛立ちを隠そうともせず、今度は切っ先をサルバナに向けた。

「切るぞお前ら」

「恐いなぁー。ほらほら、敵が目の前にいるのに背中を見せたら駄目じゃないか」

「……チッ。後で覚えてろ」

 クラウドは青筋を浮かべながらジルに向き直る。ジルは袖から刃を覗かせると、嬉々とした表情でゆらりと動く。

 来る。

 シエラがそう思った時にはもう、金属がぶつかり合う音が耳朶に届いていた。

「久々だ。楽しもうじゃねーの!」

「うざけ、るな……!」

 クラウドは言葉尻に合わせて力を入れてジルの刃をは弾き返す。ジルは左腕を高く振り上げ、上段からクラウドに刃をぶつける。逼迫した空気が濃密になり、ジルとクラウドは互いに対峙したまま部屋の外へと駆け出して行った。

「クラウド!」

 シエラが叫ぶと、彼は一瞥しただけで、そのまま応戦しつつ奥の間から姿を消した。

「ふむ。これは予想外だな」

 コトノは顎に手を当てながら、アン達残りの六人をじっと見つめている。そしてゆっくりと顎から手を離すと、もう一度アンに問うた。

「御主、本気で自分がアールフィルトだと思っておるのか?」

「……何が言いたい。私はこの身の内に、確かに彼の者の力を宿している」

「それは、一体何を以ってそうだと確信しておるのだ? 誰かに言われただけではないのか?」

 その一言に、アンは言葉を詰まらせた。何か思い当たる節でもあるのだろうか。コトノは尋問するようにアンの目を見据えている。疑いの眼差しというよりも、何かを危惧しているような。

「……まぁ、良い。御主達が何者なのかは、いずれ分かる事であろう」

 余裕の笑みを浮かべながら、コトノはゆっくりと双眸を掌で覆う。高慢で高圧的な態度を取っているが、彼女がわざとそうしている事は明白だった。

 アンは気に食わないという風に奥歯で歯軋りする。その顔は屈辱で歪んでいた。珍しく表情を示した彼女に、従者のエリーザでさえ驚いている。

「……つーか、御託は良いんだよ」

「そう、ですね。今は目的を達成する事が最優先事項ですから」

 ショコラとグラベボはそう言いながら前に出ると、それぞれラミーナとウエーバーに視線を向ける。ラミーナとウエーバーは殺伐とした雰囲気に、顔を引き締めた。

「本当は、戦いたくはありませんが……」

「そうね。なるべくなら、このまま何事もなく旅を進めたかったわ」

 二人が一歩前に出ると、ショコラやグラベボも戦闘体制に入る。腰を落とし、ラミーナとウエーバーも構えた。

「……行くわよ」

「いつでも来いよ、クソアマ」

 ショコラが吐き捨てた瞬間、ラミーナは魔法を発動させていた。閃光が駆け巡る。ついで爆発。爆煙で視界が狭まる。シエラはイヴを抱えたまま、ぎゅっと目を瞑る。

 前方からけたたましく聞こえ始めた戦いの音に、思わず耳を塞ぎたくなる。隣にいるユファとサルバナは、ただ冷静に目の前の出来事を見つめている。

「……これ、俺たちも戦わないといけない雰囲気?」

「そのようだな」

「いやだなぁ。俺、こういう無粋な喧嘩みたいなの嫌いなんだよね」

 サルバナは自分の長い金髪を弄びながらブツブツと文句を言っている。唇を尖らせている姿はまるで少女のようで、シエラはツッコみたい衝動を必死で抑えた。ユファは横目でサルバナの顔を見やるが、何も言わない。言ってどうにかなる相手ではないと分かっているのだ。それはシエラも同じだ。サルバナは無反応な二人に更に唇を尖らせる。

「……サルバナ、可愛くない」

「えー? 俺、紳士だから可愛さは必要ないかなぁ」

 シエラは冷めた目でサルバナを見る。本当にこの男はどうしてくれようか。サルバナはニヤつきながらシエラとユファを見比べて「うーん、仕方ないなぁ」と独りごちる。それからラミーナとウエーバーがそれぞれ部屋の外へと飛び出して行ったのを見送ると、残っているアン達に視線を向けた。

「……アン様、如何致しましょう?」

「エリーザ、フォーワード。存分に、戦え」

「仰せの通りに」

 エリーザとフォーワードはアンの前に立ちはだかる。ユファとサルバナも一歩前に出ると、シエラに笑ってみせる。

「……イヴの事、頼んだぞ」

「何かあったらすぐ呼んで。俺、紳士だから駆けつけちゃうよ?」

「うん、分かった」

 シエラはユファにだけ頷いてみせる。サルバナが何か言っていたが気にしない。エリーザはにこりと優雅に微笑みながら「結局外に出るのでしょう? なら、行きましょうか」と部屋の外を指差す。ユファとサルバナが一つ頷くと、エリーザはフォーワードを連れて部屋の外へと歩いていった。残されたシエラはアンと向かい合う形になり、その真ん中にはコトノが佇んでいる。

「……貴様は戦わないのか?」

 アンは落ち着いた声をシエラに投げかける。シエラはイヴを優しく抱きしめながら首肯した。

「私は、あなたと戦いたくないから」

 きっぱりとした口調で言えば、案の定アンは目を丸くした。

「馬鹿馬鹿しい。寝言は寝て言うものだ。貴様は命を、宝玉を狙われているのだぞ」

「寝言を言ってるのはあなたじゃない。大体、あなたたちが宝玉を勝手に狙ってるだけで、私達は悪くない!」

 シエラは呆れ顔のアンに向かって、誇らしげに言ってみせる。正論を言っているつもりだ。何せ原因はそちら側にあるのだから。すると傍観していたコトノがまたお腹を抱えて笑い出した。

「中々言うではないか! あははは! まさしくその通りじゃ。愉快なほど直球だな御主は!」

「ちょ、今は話がこじれるから! ちょっと待っててよコトノ」

「ついついな。すまぬ、すまぬ」

 コトノは何とか笑いを収める。シエラはアンに視線を戻す。この少女は一体何を思い行動しているのか。何が目的で宝玉を狙っているのか。真意はどこにあるのか。それが知りたい。聞いて教えてくれるような相手ではないが、それでも尋ねずにはいられない。気づけばシエラは今思った事を口走っていた。アンは今度は表情を変える事なく、凍りついたような表情で口を開く。

「私の真意を知って、どうするというのだ。貴様らに何が出来る。何も知らぬ貴様らに、何も背負うものなどない貴様らに、何が分かる」

 諦めるように吐き捨てたアンに、シエラは怒りが湧き上がる。分かるはずもないだろう。話されてもいない事を、感じる事もできない事を、察しろという事がおかしいのだ。

 その時、シエラははっとした。

 もしかしら、クラウドも同じなのかもしれない。人の考える事なんて、やっぱりその本人にしか、時には本人ですら分からないから。だからシエラが自棄になったあのとき、クラウドも今のシエラのような気持ちだったのかもしれない。なら。とシエラは拳を握り締める。

「分かるわけ無いじゃん! 人の気持ちなんて、考えなんて、教えて貰わなきゃ分からないよ! ……自分の事だって分からなくなったりするのに、他人の心なんてもっと分からない!」

 私の胸のうちも伝えよう。シエラが凛とした眼差しでアンを見つめれば、彼女は僅かにたじろいだ。戸惑うように、怯えたように指先を微かに震わせている。唇は言葉を紡ごうとして息を漏らし、視線は空を彷徨っている。

 明らかに様子がおかしい。コトノもそれに気が付いたのか、壁にもたれ掛かるのを止めてこちらに近づいてきた。

「あ、ぁあ、あぁああぁぁ……!! や、めろ。暴れるなッ! 騒ぐな喚くな私を乱すな……!!」

 アンは漆黒の髪を振り乱しながら頭を抱えている。額に刻まれている紋章は明滅を繰り返してる。コトノがシエラを庇うように立ちはだかり、じっとアンの様子を窺っている。アンは呻きながらその場に蹲った。頭痛がするのかしきりに頭を押さえている。

「……これは」

 コトノは何かに気づいたのか顔を顰めている。

「シエラ。御主、小娘達とは何度接触した?」

「えーと、アンとはこれで三回目、かな? 多分」

「……恐らくだが、引き金は先ほどの御主の言葉だ。勿論原因はそれだけに有らず。……ただ、今この小娘の身の内では恐ろしい事が起きておる」

 真剣なコトノの横顔にシエラは固唾を呑む。一体アンの身に何が起きているのだろうか。

「ここからは私の推測に過ぎない事をゆめゆめ忘れるでないぞ? ……恐らくだが、この娘は何らかの術をかけられておる」

「術?」

「あぁ。それも恐らく、私の同族によってな。術によって心、あるいは精神に何らかの抑制を受けておるようじゃ。そして、先ほどの御主の言葉がなんらかの作用をもたらした」

 コトノの言葉にシエラは慌てて口を手で覆う。今更ながら、本当に口は災いの元らしい。それにしても、何故アンには術がかけられていたのだろう。誰が何の目的で。そして一番不可解なのは、先ほどの言葉が引き金という点だ。

「……アン」

「今は娘よりも自分の事を心配するのじゃ。シエラよ、今から御主の仲間たちの所へ行くぞ」

「えっ!?」

「あの娘は危険じゃ。非常に、な」

 見ればコトノの額には薄っすらと汗が滲んでいた。シエラはイヴを抱きなおし、コトノに続いて走り出す。

 しかし――。

「行かせぬ……ッ!!」

 呻きながらもアンが右手を翳した。その瞬間、突然空間全てが真っ黒に染まりあがった。足場は突如として水面に変わる。

「ここは……」

「チィッ。面倒な事を……!!」

 コトノと夢で出会った空間そのものだ。コトノは荒っぽく舌打しシエラの腕を掴んだ。

「私から離れるなよ。……まさか、この空間まで作れるとは予想外じゃった」

 アンは肩で荒く息をしながらゆっくりと立ち上がる。その瞬間、シエラは思い出した。旅の最初でアンと出会って間もなくの時、夢で彼女とであったことを。その時も確かこの空間だった。

 夕べコトノとここであったときの既視感はそれだったのだ。シエラがそんな事を思っていると、突然地の底から湧き上がるような不気味な音が聞こえはじめる。

「な、なに!?」

「……空間の崩壊が始まったようじゃな」

「えぇ!? 崩壊ってどういう事!?」

 シエラが素っ頓狂な声を上げると、コトノは眉と口角を吊り上げた。

「この空間は創造主の意のままに操れるもの。しかし、小娘の精神は今乱れに乱れておる。……つまり、この空間の崩壊は娘の精神の崩壊ということじゃ」

 コトノはそう言いながら思い切り片足を水面に突っ込む。足首まで浸かったところで、それ以上は進まなくなってしまった。

「出る事もままならぬ、か。やはりアールフィルトの名を騙るだけはある。この力は、些か強力ぞ」

 シエラも同じように足を水に突っ込んでみるが、確かに足首より上は水に入る事ができない。アンは再び呻きながらしゃがみこんでいる。

「あぁぁ、あぁぁあああぁぁ……!!!!」

 アンのものとは思えないような咆哮が木霊する。すると、今まで穏やかだった水面に小波が立ち始めた。それは次第に大きなうねりとなり、いつの間にか巨大な波へと変化していた。コトノが瞳を真紅に染め上げると、波は中心に巨大な穴が開き、水飛沫となって弾け散った。シエラは呆然とその様子を眺めるばかり。

「……殺すか」

 ぽつりと漏れたコトノの呟き、シエラは慌てて彼女の腕を掴んだ。

「駄目! 待って、殺さないで!」

「なんだ、御主もしやあの娘に情が沸いたのか?」

 冷え切ったコトノの瞳は、燃え盛る業火よりも恐ろしく、心を蝕んでいく。バイソンも瞳は赤いけれど、コトノのものはと大きく違う。色や光加減ではなく、そこに宿る意志が、恐ろしい。

「……アンの命は、アンのものだから」

 だから奪わないで。シエラのやっとの思いで出した声はひどく掠れたものだった。コトノは哀れむようにシエラの頬を優しく撫でる。

「御主は、反吐が出るほどに甘いのだな。先ほどの小娘ではないが、私も御主に言うぞ? ……馬鹿馬鹿しい」

 ぞわり、とシエラの背筋に悪寒が駆け抜けた。

「私はな、興味がないのじゃ。命など、そんなものどうでも良いではないか。あってもなくても、何も変わらぬ。所詮は誰かの代わりなのだから」

「な、にを言っているの……?」

 自嘲気味に笑うコトノに、シエラは目を見開く。まるで別人のようだ。先ほどまでのコトノとは違う。冷たく、恐ろしい少女が目の前にいるだけだ。シエラは指先の震えを無理やり抑えると、目の前の少女の頬を思い切り引っ叩いた。

「コトノはコトノでしょ!! あなたはコトノなんでしょ!?」

「……シエラ?」

 叩かれた本人は何が起きたのか理解できていないらしい。正直シエラ自身も何故自分がこんな熱くなっているのか分からない。けれど、押し寄せる感情の波には抗いがたく。口からは次々と言葉が溢れてくる。

「笑いのツボが変で、殿様口調で、心と身体と年齢が、私達からしたらチグハグで!! ちょっと嫌味っぽく指摘するのが、それがコトノでしょ!」

 最後の方は何だか悪口というか皮肉になってしまったが。シエラは真っ直ぐにコトノを見つめる。なんで自分はアンの為にこんなに熱くなっているのだろうか、と首を傾げたくなる。けれど、ここで引き下がったら自分が自分じゃなくなりそうだった。人間として譲ってはいけない何かを失ってしまいそうだった。

「……ここがどんな空間だって構わない。崩壊なんてさせない!」

 シエラは決意のように叫ぶと、未だに苦しげに悶えているアンを見据える。もしかしたら、どことなくこの少女と自分は似ているのかもしれない。コトノが言った“情が沸いている”というのはあながち間違ってはいないだろう。

 ――……宝玉。お願い、私に力を貸して。

 身のうちに語りかければ、温かな感覚が身体を包み込む。コトノは光に包まれるシエラを、目をこれでもかというほど見開いて凝視している。

「何を望む?」

 ――この空間から、私達を出してほしい。

「そなたの思うままに」

 その声と共に、シエラの身体からは眩い光が溢れ出す。空間全てを覆いつくし、暗闇は消え去っていく。気が付けばそこは神殿内ではなく、外だった。神殿の出入り口にシエラ、コトノ、アンは立っている。眼下には未だに戦っている仲間たちの姿が見える。

「……シエラ、御主」

 コトノは何かを言いかけて、顔を俯かせた。その頬は僅かに赤みがかっている。代わりに瞳の色は澄んだ碧眼に戻っていた。

「そ、それよりも……。随分と、醜いものを見せてしまったな。すまぬ」

「ううん。私も、ごめん。痛かったでしょ」

 シエラはそっと労わる様にコトノの頬に触れる。こんな風に他人の頬に触れるのは初めてで、正直シエラは内心ドキドキしていた。その手を振り払われてしまわないかと心配したが、どうやら杞憂で終わったらしい。コトノは申し訳なさそうにシエラの手に自分の手を重ねてきた。

 シエラは目を細めると、ゆっくりと彼女の頬から手を離す。視線を足元に落とせば、戦いでボロボロになった仲間たちの姿が見えた。アンは蹲って自分を抱きしめるように肩に手を回している。乱れた黒髪から覗く、彼女の顔からは何も感じられない。無表情とは違う、何か抜け殻のような顔つき。シエラはゆっくりと息を吸い込む。コトノはシエラの顔つきの変化を見て、薄く笑った。

「……行くか」

「うん」

 コトノはシエラの手を取ると、トンッと軽い足取りで飛び降りた。シエラは情けない叫び声を無理やりかみ殺し、コトノの手をしっかりと握り締める。シエラ達がこちらに来たのが分かったクラウド達は、戦いながらも徐々に階段下に集まってきた。ジル達はシエラ達を囲むように立ちふさがる。

「……どうする?」

 サルバナがシエラを見やりながら顎をしゃくる。前方にはジル達がいる。逃げられない。しかし、コトノは余裕の微笑みを浮かべて、ジル達の前に仁王立ちした。

「全く、随分と荒らしてくれたようじゃな。……ここからは、私が御主達に仕置きをしてやろう」

「コトノ!?」

 シエラが声を上げれば、コトノはちらりとシエラを振り返って「安心せい」と笑う。

「……邪魔だ。退けよ。神だか何だか知らねぇけどよ、俺はそこの剣士と殺り合いてぇーんだ」

 ジルは切っ先をコトノに向けて彼女を睨みつける。しかしコトノは微動だにしない。刺客達の顔を見回し、それから右手で目を覆う。

「小童が、粋がるでない」

 シエラ達の足元から光が溢れ出す。青い光は地面に紋章を映し出すと、勢いよく回転し始めた。ジル達は発光と共に吹いた向かい風に僅かに数歩後ずさった。

「阿呆がっ! 奴ら空間移動するつもりだ! 早くその女を――!!」

 その瞬間、上からアンの声が飛んでくる。彼女は階段から身を乗り出しこちらに叫んでいる。エリーザが彼女の言葉にいち早く反応し、コトノに魔法を放つ。しかし、コトノにそれは当たらない。

「ほう、あの小娘は自我を保っていられたか。……シエラ! そこから動くでないぞ!」

 コトノは両手を前に突き出す。すると突然巨大な蔓植物が、ジル達の足元の地面から突き出てきた。

「チィッ! 小賢しいマネしやがって!」

 ジルは蔓を切り裂きながら、シエラ達にどうにかして近づこうとする。しかし、蔓は切っても切っても次々と地面から現れてくる。コトノはシエラ達に背を向けたまま、ゆっくりとこちらに近づいてくる。紋章のすぐ傍までやってくると、彼女はシエラの名を呼んだ。

「……今から御主達をガイバーに空間移動させる。そこで、一つ目の鍵を見つけよ。もし必要とあらば、私を呼ぶがよい」

「えっ、コトノを……?」

 シエラがどうやって、と聞く前に、蔓を掻い潜ったジルがコトノの前に飛び出してきた。コトノはジルの剣をかわしながら、横目でシエラ達を見やる。



「武運を祈るぞ!」


 瞬間、紋章が一際光を放った。

 シエラ達の視界が真っ黒に塗り潰される。次いで大きく視界がブレはじめ、意識が遠のく。

 何かを考える暇もなく、気づけばシエラ達は草原にいた。桃色の花が美しく咲き乱れ、風は穏やかに流れていく。空は美しく澄み渡り、小鳥のさえずりが聞こえてくる。

「ここ、は……?」

 シエラが呟くと、どこから人の足音が聞こえてくる。

「貴様ら、そこで一体何をしておる!」

 突然怒鳴られたシエラは驚きで身体を縮ませた。振り返ると、小さな柵を挟んだ形で、眉を吊り上げた恰幅の良い男性がこちらを睨んでいる。

「ここは環境保護区だ! 一般人が勝手に入っちゃイカン!!」

 シエラ達は男性に頭を下げながら、植物に気をつけながらゆっくりと草原から出る。ふと見れば、軍服に身を包んだ男性の手には警棒が握られていた。

「貴様ら、一体誰の許可を得てここに入った。事によっては厳重注意では済まさんぞ! そもそも、ここが何処だか分かっているのか!?」

 分からないです! 

 と、ここで元気よく言えるだけの度胸はシエラにはない。クラウド達も今は黙って男性の言葉を聞いている。しかし、ラミーナは違った。

「知らないわよ。あたし達、勝手に空間移動術で飛ばされてきたんだから」

 腰に手を当て男性をねめつけている。苛立っているのか眉は釣りあがっていた。

「貴様、一体に誰に口を利いていると思っているんだ!」

「知らないわよ。大体ここどこ? あんた誰? あと一番近くの町の名前は?」

 ラミーナは男性の顔を見ようともせず、回りの景色を見回している。シエラは内心で冷や汗を流していた。こういう高慢で横柄なタイプの人間とは、あまり言葉を交わさない事が一番楽なのだ。気に食わない事にはすぐに激昂するし、かといってこちらの話をきちんと聞くわけでもない。

 ――あーあ、面倒臭い人に捕まっちゃったなぁ。

 シエラは小さく溜め息を吐く。視線を上げれば、男性は怒りで顔を真っ赤にしており、警棒を持つ手は小刻みに震えている。今にもラミーナの事を殴りかねない。

「小娘が、口の利き方を弁えんか……ッ!!」

 男は警棒で地面を殴りつけた。力任せで乱暴なその行為に、隣にいるユファとバイソンがあからさまに顔を顰めている。ラミーナは冷めた目で男性を見ると、呆れたように肩を竦めてシエラ達に視線を戻した。

「時間の無駄ね。行きましょ」

 ラミーナはそう言ってさっさと歩き出す。シエラ達もそれに続こうと足を踏み出した、瞬間。

「貴様ら!! いい加減にせんか!」

 男性が警棒を思い切り振りかざした。ラミーナに当たる、そう思った。しかし、警棒はラミーナには当たらなかった。

「……あんたは、女に暴力を振るうために、その警棒を持ってるのか?」

 クラウドが男性とラミーナの間に割って入り、男性の手首を捻り上げている。警棒の先端はラミーナの目の前で静止していた。

「事情が事情とはいえ、保護区に無断で入った事は申し訳なかった。謝罪する。……けどな」

 クラウドはそう言って男性の手首を更に捻り上げる。男性は痛みで情けない声を漏らした。

「今の行為は、男としてどうかと思うぞ」

「いだだだ!! わ、分かった! 分かったから離してくれ、手がもげちまう……ッ!!」

 クラウドは男性の手を離す。彼は手首を押さえて蹲っている。クラウドを見上げる目には、どことなく殺気のようなものが混じっていた。

「覚えてろよ! ……おい、そこの小娘! 名を名乗れ!」

 男性はラミーナに向かって叫ぶが、ラミーナは言葉を発しようとしない。それどころかまた出口に向かって歩き出している。男性はそれが頭にきたのか、今度は素早い動きでシエラの手首を掴んできた。

「ちょっと!!」

「うるさいッ!」

 ひんやりとした感覚が、シエラの首元にあたる。恐る恐る視線を動かせば、男の手には鋭利な刃物が。この男は正気なのか。しかしシエラは、不思議と恐くは無かった。それより、何だかこの男性からは変な臭いがする。

「名前を名乗れ! この小娘がどうなってもいいのか!? 今すぐ警察隊だって呼ぶぞ!?」

 彼からしてみれば脅しているつもりかもしれないが、シエラ達には何の効果もない。ラミーナは心底呆れたような溜め息を吐いて「あんた、家族は?」と質問を投げかけた。

「む、娘がいる。そ、それがどうした……!!」

 動揺しながらも男性は律儀に質問に答えた。ラミーナはそれを聞くと、眉間に手を当てながら口を開く。

「……ラミーナよ」

「ファミリーネームもだ!」

 男性が叫ぶと、ラミーナは戸惑ったように暫し沈黙する。しかし観念したように小さな声でドロウッド、と言った。その瞬間、男性の顔が一気に青ざめた。シエラの首元に当てていた刃物は地面に落下する。それからシエラを突き飛ばすように解放すると、思い切り尻餅をついて後退した。男性の豹変ぶりに、シエラ達は首を傾げる。

「ド、ドロウッドって、あのドロウッドか……!?」

「あのもそのも無いわよ」

 ラミーナはぴしゃりと言い放ち、今度こそ踵を返して歩いて行ってしまった。シエラ達も慌ててその後を追う。数メートル歩いたところで、後ろから男性の狂ったような笑いが聞こえてきた。

「魔女が、魔女がきたぞー!! あははは! 国の裏切り者の血を引いた魔女が!」

 頭がおかしくなったとしか思えない男性の形相に、シエラは眉を寄せる。不可解で不愉快だ。いきなり突っかかってきて刃物まで持ち出して。

 ラミーナの名前を聞いた途端、笑い出す。しかしラミーナは何も言わない。ただ黙って出口を目指して闊歩している。シエラ達が門に辿りついても未だ、不気味な笑い声が、晴天の下で木霊していた。



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